第10話 朝食(中)
シチューを口に含むたび、俺の脳裏には、ある場所の風景が浮かび上がる。
地中海……?
「ちなみに少佐殿、このシチューのレシピは? ひょっとしてイカスミか?」
十中八九、この黒い謎のエキスの見当はついているが、あくまでさりげなく、俺は少佐殿に尋ねる。
「あったり~! そうよね~世界を
ひょっとして今までの拷問料理は、ただ単に俺を驚かせる為に作ったのか?
あと、特殊情報部にイカスミがたくさんある理由は、生きていたらそのうち話そう。
「あ、そういえば!」
少佐殿の言葉に一瞬、俺は固まる。
「な、なにかな少佐殿?」
「あ、いや”たいしたことない”んだけど、野菜室にあったにんじん”とか”が芽や根が出ていたの。もったいないから適当にぶった切って入れただけよ。後は安いバラ肉ね。牛は高いからもちろん豚だけど」
問題ない!
N国はバッタや蜂の幼虫を食べると聞いたことがある。
食べられるならこいつらをぶち込んでもらってもかまわないんぜ!
”ピー!””ピー!””ピー!”
電子レンジの音が鳴り響く。
レンジの扉を開け、少佐殿が手に持つのは、今日の午前三時が消費期限の、半額シールの貼られたスーパーのベントウだった。
当然、消費期限は数時間であるが、とっくに過ぎている。
「今日”は”、
「うん、昨日の夜、スーパーへ買い物行った時、安かったから朝の分まで買っちゃった」
ビニールのラップとふたを取り、
「いただきます」
N国の食事前の祈りを捧げて、
何杯もお代わりして、腹のふくれから気が緩んだか、ふと俺の心の中に哀愁のそよ風が吹く。
前にも話したが、こいつは花嫁姿で式場から逃げだした女だ。
女が結婚前に逃げる理由は主に二つある。
一つ目は、マリッジブルー。
二つ目は、政略結婚。
この少佐殿はもちろん後者だ。
美女が政略結婚させられる相手の男は、たいてい金持ちか地位のある人間のボンボンだ。
さえないボンボンならまだましな方、キザで、自意識過剰で、女をとっかえひっかえアクセサリーのように扱っているボンボンの場合もある。
だが、そこには愛はないが金はある。
ふと思う。もし俺がこいつを助けなかったら……と。
面倒ごとはごめんだと、黒服共にこいつを突きつけていたら……と。
だが、もしその
しかし、少なくとも尋問室という名の拷問室で、ゴキブリ以下のスパイの男と額を付き合わせて、安っぽい机の上で半額シールの貼られたベントウを食べることは永遠に訪れないだろう。
例え形だけでも結婚すれば、この弁当の半額ではなく定価の、それこそ十倍以上の価値のある朝食を毎日食べることだって出来る。
こんな辛気くさい建物に半分軟禁されることなく、心置きなくスイーツを食べ、バーゲンではなくオーダーメイドの服を好きなだけ買うことも出来ただろう。
……もしかして、こいつを”盗んだ”事が、俺のスパイとしての年貢の納め時なのかもな。
”チャリーン!”
力の抜けた俺の手からスプーンが床に落ちる。
現実に戻される俺。
顔を上げる少佐殿。
「はっは! 失礼、まだ天の眼の電気ショックが残っていたみたいだ」
「あら、大丈夫? スプーン替えようか?」
「いやいい、食事を続けてくれ」
にやけた笑みを浮かべ、俺は椅子を引き、机の下に手を伸ばす。
少佐殿の椅子が”ズリッ!”っと動く音がする。
別に手伝う必要も、スプーンを取り替える必要もないのだが。
しかしかがむ前に一瞬、少佐殿の顔が魔女のように妖しく笑みを浮かべていたのは気のせい……ではなかった。
俺も男だ。今の俺の脳みそが体中の器官に命令することは二つある。
一つは机の下に潜り込み、スプーンを拾うこと。
そしてもう一つは、さりげなく目の前に座っている美女の太もも、さらに、その根本を脳裏に焼き付けることだ。
ん? あれほど少佐殿が攻めているのに、なぜ堂々と覗かないのかって?
オッケー、ガキ共。軽くレクチャーしようか。
スパイの仕事はターゲットの機密を手に入れることだ。
たとえばだな、あくまで一般人として機関や組織に潜入してすぐさま、”さあ盗むぞ!”とぶっちゃける馬鹿がどこにいる?
あくまで興味のない振り、いや、視界にすら納めない、しかし、ターゲットが気を緩めた瞬間! 全肉体、シナプスを総動員して機密を盗む! これがスパイの醍醐味だ。
中には狡猾に罠や策略を張り巡らすヤツがいるが、そんな手間暇掛けて、さらに証拠を残すようなヤツはしょせん二流だ。
一流はあくまで相手が隙を見せた瞬間を狙って盗む、これは国家機密も女のスカートの中も一緒さ。
なに? 痴漢と変わらないって? ああそうさ。開き直る訳じゃないが、スパイも痴漢もゴキブリ以下の社会のダニさ。
もっとも、痴漢は捕まれば豚箱ですむが、スパイはよくて銃殺だ。
狂ってるさ! イッちまってるさ!
次の瞬間に体の中をビームや鉛玉が貫こうが、対戦車ミサイルで車ごと吹き飛ばされようが、盗んだ時の快感、悦楽、愉悦に比べたら蚊に刺された程度さ。
だから俺は覗く。
次の瞬間、少佐殿のビームガンで貫かれようが……んが?
『
これが、目の前の光景を見た俺のシナプスが導き出した第一声だ。
潜入する国の歴史から文化、サブカルチャーまで頭に入れるのはスパイのたしなみ。
目の前の情景はまさに力士、
意味がわからない? ほ、ほら、横綱力士が”
そう、わかりやすく言うとだな、少佐殿は横綱力士のように大股開き、まさに椅子に座って四股を踏んでいたんだよ。
しかもご丁寧に椅子を少し引いてな。
惜しげもなく俺の目に写る薄黒いストッキング、漆黒のガーターベルト、そして股間を包み込む漆黒の下着。
一瞬俺は思ったね。ここは爺からガキにまで眼に入る、スーパーの下着売り場かと。
俺はゆっくりを起き上がり、囚人服でスプーンを拭くと、最後のシチューを平らげる作業へと向かう。
「ちょっとぉ、何か言うことあるでしょう?」
「んあ? あぁ、シチューうまいぜ。ありがとな」
「あらそう……って! 違うわよ! あんた、私のスカートの中を覗いたでしょ!」
スカートの”中”? すでにてめぇの下着はスカートからはみ出していたんだが……。
しかし、ああもあからさまに全開しておいて見ていないと言えば、さらにややこしくなりそうだ。
「ああ、少佐殿のぱんつが”眼に入った”ね。どうした? 暑いのか?」
「!」
へっ! なにも言えねぇでやんの。
こちとら伊達にスパイやっちゃいねぇ。
”ガタッ!”と少佐殿は立ち上がると、俺からスプーンを奪う。
「お、おい?」
「取り替えるの。食中毒になったら私の責任だから」
ちょと待て、今までの飯は全部食中毒”未満”ってことかい?
しかし少佐殿は新しいスプーンを持ったまま椅子に座ると、今度は全開じゃなく、四十五度ぐらい足を開いて
……スカートの上にスプーンを置いたんだ!
「さぁ坊や、いい子だからスプーンが欲しければ、机の下に潜ってここから持っていきなさい」
『なんじゃそりゅあぁぁぁーーー!』
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