第十五幕


 第十五幕



 何か生暖かくて湿った物体が顔面をべろべろと撫で回す感触に、少し前にも似たような事があったなと思いながら、俺は閉じていた眼を開けた。するとよく見知った一匹の獣の顔が視界一杯に広がっていたが、これももう二度目の事なので、今回はあまり驚かない。

「チポ!」

 俺の顔面を湿った舌でもってべろべろと舐め回していたのは、かつて俺の実家で飼われていた雑種の中型犬であるチポであり、俺はそんなチポの頭や背中やお腹を優しく撫でてやる。

「死んだ筈のお前が姿を現したって事は、ここはまた夢の中なのか」

 俺はチポを優しく撫で回しながら、そう独り言ちた。どうやら今回もまた、夢の中でこれが夢である事を認識している『明晰夢』と言う奴らしいが、今回は前回に比べて甚だ状況が違う。

 前回とは状況が違う点は、大きく二つに分類された。まず一点目は、前回の明晰夢の際の俺は未だチポや両親と一緒に借家に住んでいた頃の幼少期の姿であったが、今回の俺は現実世界と同じ二十三歳の大人の姿だと言う点である。そして二点目は、俺とチポの一人と一匹が寛いでいるこの場所が前回と同じような日本の借家ではなく、イスタンブール郊外の俺と三人の妻達の邸宅の寝室の壁際に設置された、キングサイズのベッドの上だと言う点であった。ちなみに寝室の照明は落とされていて室内は薄暗かったが、サイドボードの上に置かれた、カパル・チャルシュのバザールで俺が厳選して買ったモザイクガラス製のトルコランプだけは煌々と灯されていて、俺とチポが寝転んだベッドとその周囲を明るく照らし出す。

「アイシェ、ヤセミーン、それにクロエは……居る訳が無いか」

 たとえ夢の中の寝室とは言え、既に俺が縁を切ると宣言してしまったかつての妻達の姿がここに無いのは仕方の無い事ではあるが、やはり少しだけ寂しい。もし仮に、俺が三人もの美しい妻達から厚い寵愛を受け続けても心を病む事の無い気骨溢れる豪傑であったならば、果たして今とは違った幸せな未来も存在していたのだろうか。そんな薔薇色の、そして訪れる事の無かった仮定の上にしか成り立たない幸せな未来の自分達の姿を夢想しながら、俺は傍らに寄り添ってくれている雑種犬のチポの頭や背中を優しく撫でてやり続ける。

「チポは優しいなあ。お前だけだよ、等身大の俺に過度な期待もせず、かと言って失望もせず、何の見返りも求めずにずっと傍に居てくれるのは」

 そう言って撫で続けてやれば、チポは俺の頬や手をぺろぺろと舐めながら千切れんばかりに尻尾を左右に振って、飼い主である俺に愛される喜びを露にする事に余念が無い。そして俺はこのままずっとこの夢が覚める事無く、こうして寝室のベッドの上で最愛の家族たるチポと一緒に戯れ続けたいなと本気で考え始めていた。

 だがそんな幸せな時間は、そう長くは続かない。不意に俺の腕の中に抱かれていたチポがベッドの上ですっくと身を起こすと、トルコランプの明かりが届かない寝室の奥の暗闇をジッと見つめながら立ち尽くす。そして最後に一声、俺の顔を見上げながら悲しげにくうんと鳴いたチポはベッドから床へと降り立ち、そのまま暗闇の中へと姿を消して行ってしまった。

「チポ?」

 俺は姿を消したかつての愛犬の名を呼んだが、返事は無い。そこで俺もまたベッドから這い出て寝室の床へと降り立つと、チポの後を追って暗闇の中へと歩き出す。

「チポ? どこ行った、チポ?」

 トルコランプの灯りが全く届かない暗闇の中を手探りでもってゆっくりと歩き続けるが、どこまで進んでもチポの気配は無い。しかも行けども行けども暗闇の中には何も無い空間が続くばかりで、とっくの昔に辿り着いている筈の寝室の壁すらも存在しないのだ。更に背後を振り返ってみればさっきまで俺とチポとが横たわっていた筈のキングサイズのベッドもまた姿を消しており、自分がたった一人で完全な虚無の世界の中を彷徨っている事にも気付く。

「チポ?」

 その時、真っ暗な闇の中で俺の手が何かに触れた。サッカーボールよりもちょっと小さいくらいの大きさで少し湿っていて暖かくて、表面は柔らかな毛に覆われたその何かを、俺はチポの頭だと直感する。

「ああ、チポ。こんな所に居たのか」

 ホッと安堵しながら、俺はそう呟いた。するとそんな俺の手の中で、その何かがゆっくりと顔を上げる。つまりそれは雑種の中型犬であるチポの頭ではなく、この世のものならざるほどの恨めしげな表情をその顔に浮かべた、俺のかつての妻であるアイシェの頭部だったのだ。そしてそのアイシェの頭部は、何も見えない筈の暗闇の中でも何故かその細かな表情の機微までもがはっきりと見て取れ、憤怒の視線でもって俺を呪い殺さんばかりに睨み付けて来る。

「うわ!」

 俺は思わず、悲鳴と共に手の中のアイシェの頭部を暗闇の向こうに放り投げた。漆黒の闇の中に姿を消す、アイシェの頭部。すると放り投げた先の何も無い虚無の空間から、彼女の声だけが聞こえて来る。

「絶対に、殺してやるんだから」


   ●


 俺はハッと眼を覚まし、政府専用機の随行員室の窓際の座席に腰を下ろしたままびくっと身体を痙攣させた。動悸は激しく全身にびっしょりと冷や汗を掻いていて、呼吸はぜえぜえと荒い。

「ああ、そうか、夢か」

 自分に言い聞かせるために敢えて声に出して確認してみたが、それでも未だに夢だとは信じられないくらいに現実味に満ちていて、実にリアルでグロテスクな夢だった。夢から覚めた今も未だ、アイシェの頭部に生えた髪の毛の感触が手に残っている。

「それにしても、何て気色の悪い夢を見やがるんだ、畜生……」

 俺は悪態を吐きながら、ぶるぶるとかぶりを振った。いくらアイシェに恨まれたままトルコ共和国から逃げ出して来た事が心残りだからと言っても、かつての愛する妻をこんな化け物扱いするかのような夢を見るだなんて、あまりにも不謹慎に過ぎる。

「えっと……え? もうこんな時間? だとすると、今、どの辺を飛んでるんだ?」

 ようやく動悸と息切れが治まって来たので現在の時刻を確認すると、俺が乗った日本国政府専用機がイスタンブールのアタテュルク国際空港を発ってから、既に八時間余りが経過していた。そこで窓からの景色を眺望すると、眼下には水平線まで続く真っ青な大海原が広がっているのが見て取れる。フライトの経過時間と海の上と言う景観から察するに、そろそろ台湾島上空と言ったところだろうか。まあ何にせよ、俺を亡き者にせんと目論むアイシェが悔悟の念を噛み締めているであろうトルコ共和国は遥か地平線のそのまた向こうであるから、あんな不穏な夢を見たからと言って心配する必要は無い。

「?」

 するとその時、突然がくんと機体が揺れたかと思うと、機首を下げながらゆっくりと機体が下降を開始する。最初はもう空港に到着したのかとも思ったが、窓からの景観を確認する限り眼下には大海原が広がるばかりで、陸地が見えて来る気配はまるで無い。

 そこで俺は随行員室の座席から立ち上がると、機首の方角へと向かって揺れる機内を移動し始めた。まずは今居る随行員室から一つ手前の、複数の椅子と机が並んだ事務室へと移動し、そこから更に前方の会議室へと移動する。会議室は中央に大きく長細いテーブルが一脚と、それを取り囲むようにして十二脚ばかりの革張りの椅子が並んで設置されており、随行員室や事務室よりも広い。そして更にその先の秘書官室、総理夫人や皇后陛下のための夫人室、総理大臣や天皇陛下のための貴賓室を通過した俺は、ようやく政府専用機のコクピットへと辿り着いた。

「どうした? 何があったんだ?」

 コクピット内の操縦席に座る機長に尋ねると、彼は機体正面のキャノピーの向こうを指差しながら答える。

「あの戦闘機が前方に割り込んで来て、進路を塞いでいるんだ! だから衝突を避けるために、高度を下げざるを得ない!」

 そう言った機長の指差す先を見遣れば、こちらに軽く覆い被さるかのような格好でもって、一機の戦闘機が亜音速で飛行しながら俺達が乗った政府専用機の進路を塞いでいた。こうなってしまっては確かに機長の言う通り、戦闘機との衝突を避けるためにはこちらが機首を下げて下降せざるを得ない。ちなみに操縦席の高度計を確認したところ、既に政府専用機は高度5000m程にまで下降してしまっており、通常の飛行高度の約半分の高さを飛んでいると言う事になる。

「あれは、F-15? ……いや、F-16か?」

 どうやら進路を塞いでいるのは米ロッキード・マーティン社製のF-16多用途戦闘機、通称『ファイティング・ファルコン』らしい。しかも垂直尾翼には赤字に月と星をかたどったトルコ国旗が描かれている事から、眼前のファイティング・ファルコンがトルコ空軍に所属する機体である事もまた確認出来た。

「トルコ空軍?」

 一度は別れを告げた筈のトルコ共和国の国名が再び鎌首をもたげた事によって、俺は不吉な予感に襲われるのと同時に背筋にゾッと悪寒を走らせる。まさか、あの戦闘機に搭載されたミサイルか何かでもってこの政府専用機を撃墜する気なのだろうかと危惧し始めると、俺も機長も気が気ではない。するとそんな事を危惧する俺達の視線の先で、不意に戦闘機のコクピットのキャノピーが弾け飛んだかと思えば、そのキャノピーの残骸が後方を飛ぶこちらに向かって飛んで来る。

「危ない!」

 幸いにもキャノピーの残骸は政府専用機と接触する事無く機体後方の空の彼方へと消え去ったが、果たして戦闘機のパイロットは何の考えがあって、接触事故の危険を冒してまで飛行中の戦闘機のキャノピーを廃棄したのだろうか。当然の事として俺はそんな疑問を抱くが、図らずもその疑問はすぐに氷解する。と言うのも、キャノピーを失った戦闘機の複座型のコクピットのコ・パイロットシートに座っていたやけに背の高い人物が立ち上がると、ヘルメットを脱ぎ捨てながらこちらを振り向いたからだ。そのやけに背の高い人物とはトレンチコートを着た黒人の大女、つまりアイシェに雇われた裏稼業の女こと始末屋であり、彼女は両手に一振りずつの手斧を携えたままこちらをジッと見据えている。

「おい、そんな、まさか……おいおいおいおい、嘘だろ?」

 困惑する俺達を余所よそに、始末屋はこちらを見据えながら身構えると、何やらタイミングをうかがっているように見受けられた。そして戦闘機のコ・パイロットシートから飛び出した彼女はそのまま機体の上を駆け抜けると後方を飛ぶこちらに向かって跳躍し、宙をふわりと舞ったかと思えば、俺が乗る政府専用機に飛び掛かる。

「マジかよ!」

 何らかの補助器具どころか命綱の一本すらも無しに、高度数千mを亜音速で飛翔する戦闘機から政府専用機へと身体一つで飛び掛かってみせた始末屋。彼女は両手に握った手斧の先端を、まるで岸壁にピッケルを突き立てて登攀するロッククライマーの様にして突き立て、政府専用機の機体にしがみ付いた。そして機内に居る俺からは音と振動を頼りにして推測するしか始末屋の動向を知る術が無いが、どうやら彼女は政府専用機の機体表面を這い進みながら、秘書官室と事務室とに挟まれた箇所に開口された搭乗ハッチを目指しているらしい。つまりそれは、始末屋が政府専用機の機内に侵入しようと目論んでいると言う証拠である。

「おいおいおいおい、ふざけんなよ?」

 俺は狼狽しながらも機体後部へと後退するが、時既に遅かった。秘書官室と事務室との間に設けられた搭乗ハッチの外側には既に始末屋が張り付いているらしく、ゴンゴンと言う破砕音と共に、見る間にハッチがひしゃげて行く。

「うわあ」

 そして遂に、政府専用機の機体側面に設けられた搭乗ハッチが内側に向かってじ開けられたかと思えば、ハッチが吹き飛んだ開口部から始末屋が機内へと侵入して来た。すると気圧差によって機内の空気が機体の外に向かって吸い出されるものの、それは思っていたほどの勢いではない。どうやら政府専用機の飛行高度は既に3000mを切っているらしく、それならば機体の内外での気圧差がこの程度で済んでいるのも道理と言える。

「ふさけんな! 本当にふざけんなって!」

 だがどちらにせよ、政府専用機内の会議室でもって俺と始末屋の二人が対峙している事に変わりはない。そこで俺は逃げ出そうと足掻きはするものの、狭い政府専用機内には身を隠すような隙間や物陰すらも存在しないため、どこかに逃げようにもこんな空の上では逃げようが無かった。

「探したぞ、サイト・カヤ。我が依頼主たるアイシェ・バジェオウルの命によって、貴様を殺す」

 機外から政府専用機の機体を這い登り、亜音速で飛行する航空機の気圧と風圧、それに気化熱による低体温にも耐え抜きながらここまで辿り着いてみせた始末屋。そんな彼女は冷静に、まるで淡々と仕事をこなす職人の様な無表情でもってこちらを見据えながらそう言ってのけると、両手に握った手斧を振りかざして俺を睨み据える。

「ひ、ひいいいぃぃ……」

 そんな始末屋に睨み据えられた俺は恐怖と絶望のあまり身を竦めてしまい、声も出ない。しかも孤立無援で救援も支援も望めない政府専用機内のこの場には、アタテュルク国際空港までは俺の身を守ってくれたくのいちの蛍外交官補の姿も無いのだから、尚更だ。

「ふ、ふざけんな! 失せろ! 失せろ! どっか行っちまえ!」

 会議室の中央に設置された大きく細長いテーブルとそれを囲んだ十二脚の椅子を挟んで俺と始末屋は睨み合い、対峙する。そして始末屋が時計回りにテーブルを迂回しよう来ようとすれば俺もまた時計回りに彼女から逃げ、逆に始末屋が反時計回りに迂回して来ればこちらもまた反時計回りに逃げる事によって距離と時間を稼ごうとするが、当然ながらそんな事を繰り返していても状況は改善しない。

「ふん!」

 やがてテーブルの周囲をぐるぐると回るだけの無意味な追いかけっこに痺れを切らした始末屋が、こちらに向かって手斧を投擲して来た。

「ひっ!」

 俺は悲鳴と共に身を竦め、飛んで来た手斧を咄嗟に回避する。するとつい今しがたまで俺の頭が存在していた空間を、文字通り空を切り裂きながら飛んで行った手斧は背後の壁にドスンと突き刺さり、間一髪で命を取り留めた俺はゾッと肝を冷やした。始末屋の常人離れした膂力でもって投擲された手斧が頭部に直撃しては、俺の様な特に頑丈でもない普通の人間などあっと言う間に脳天をかち割られて、一溜まりもあるまい。

「あぶ、危ね、危ねえじゃねえか、このデカ女!」

 俺は悪態を吐きながら、さほど広くもない会議室の中を尚も逃げ惑う。すると逃げ惑っている間にも恐怖によって心臓は早鐘を打ち、呼吸は荒く、血の気の引いた顔にはぷつぷつと冷や汗が浮かぶが、そんな冷や汗を拭っている暇も無い。何せ少しでも立ち止まろうものなら、背後から迫り来る始末屋が振り回したり投擲して来たりする手斧によって、脳天から真っ二つにされかねないからだ。

「逃げるな。大人しく死ね」

「やなこった!」

 やはり淡々と仕事をこなす熟練の職人の様な無表情のまま、始末屋は冷淡にも俺に死ねと言い放ちながら手斧を振るうが、当然ながらそう簡単に死んでやる訳には行かない。俺は必至に抵抗、と言っても只ひたすらにテーブルの周りをぐるぐると逃げ惑い続けるだけだが、とにかく何かしらの打開策に思い至るなり誰かしらが助けに来てくれるなりするまで一分一秒でも長く足掻き続ける。

 そうこうしている内に、またしても俺の首を切断せんと、始末屋が手にした手斧を横薙ぎに振るった。俺はその手斧の鋭利な切っ先を、ボクシングで言うところのスウェーの要領でもって状態を反らす事により、間一髪のタイミングで回避してみせる。すると標的である俺の首を捉え損なった手斧の刀身が勢い余って振り抜かれ、そのまま会議室の壁面に埋め込まれるように設置されていたモニターに突き刺さった。

 耳をつんざくガラスの破砕音を轟かせつつ、粉々に砕け散るモニターとそこに突き刺さった手斧。するとモニターのすぐ背後を走っていた電子回路だか電源の供給装置だかがショートしたらしく、眩い火花を散らしながら、肉眼でも確認出来る程の青白い放電現象とバチバチと言う放電音と共に手斧の刀身に高圧電流が流れる。

「くっ!」

 手斧の刀身と柄を伝って流れて来る高圧電流によって感電した事により、さすがの始末屋も怯みながら、手斧から手を放して体勢を崩した。つまり今の始末屋は、得物を手にしていない徒手空拳の状態である。この千載一遇のチャンスをあやまたず、俺は始末屋が投擲したまま会議室の壁面に突き刺さっていた手斧の一振りを引っこ抜くと、その手斧でもって始末屋に襲い掛かった。

「死ね! 死ね! 死んじまえ!」

 俺は興奮状態で叫びながら、始末屋に向かって何度も何度も手斧を振り下ろす。振り下ろされた手斧の切っ先が、やはりボクシングで言うところのブロッキングの要領でもって頭部をガードした始末屋の腕を滅多打ちにし、攻勢にあった彼女の動きを封じる事に成功した。端的に言ってしまえば俺と始末屋の立場が攻守反転、もしくは形勢逆転に持ち込んだと言っても良い。

「?」

 しかし手斧を振り下ろす毎に、俺は不思議な事に気付く。いくら攻撃しても、始末屋の身体に傷一つ付けられないのだ。

「このっ! このっ! なんだよ! なんでだよ! なんで死なないんだよ!」

 最初は俺が振り下ろしている手斧が刃が潰されている、つまり土産物屋で売っている模造刀の様に刃引きされた観賞用の手斧なのかとも思ったが、こちらの攻撃をガードする始末屋が着ているスーツやトレンチコートや革手袋はズタズタに切り裂かれている事から鑑みるに、そのような事実はあり得ない。となれば、考えられる可能性は只一つ。つまり始末屋の生身の肉体が、鋭利な筈の手斧の刃が通らない程にまで頑丈なのだ。生身の人間が鋼鉄製の斧よりも頑丈だなどと言う事は常識的に考えればあり得ない事だが、それ以外の可能性は考えられない。

「そんな馬鹿な! 本当にこいつ、人間か?」

 俺は手斧を振り下ろし続けた事による疲労感と、その手斧を幾ら振るっても始末屋にダメージを与える事は出来ないと言う虚脱感に苛まれ、ぜえぜえと肩で息をしながら一瞬だけ手を止めてしまった。するとこの一瞬の隙を始末屋は見逃さず、防御の構えを解いた彼女は俺が手にした手斧の柄を素早く掴み上げたかと思えば、そのまま強引かつ力任せに俺の手から手斧を奪い取る。そして奪い取った手斧の柄を握り直すと、始末屋はそれを大上段に構えた。

「死ね」

 始末屋が構えた手斧の切っ先は標的である俺の脳天に照準を合わせており、まさに今度こそ、絶体絶命のピンチと言う他無い。

「糞! 糞! 糞!」

 こちらへと迫り来る始末屋によって追い詰められた俺はじりじりと後退りながら、再びの形勢逆転へと持ち込める武器か何かが無いかと周囲を見渡し、自らの身体をまさぐる。するとそんな俺の手が、自身が着ているスウェットのポケットの中に捻じ込まれていた硬い物体に触れた。

「!」

 それはイスタンブールの日本国総領事館を脱出する際に蛍外交官補が護身用にと持たせてくれた、小型の回転式拳銃リボルバーピストルである米S&W社製のM36、通称『チーフスペシャル』。総領事館の地下駐車場で手渡された際にポケットに捻じ込んだまますっかりその存在を忘れていたチーフスペシャルを手にした俺は、素早く安全装置を解除すると始末屋の顔面に照準を合わせ、銃身を突き出すようにして構える。

「これでも喰らえ! この化け物女!」

 俺は啖呵を切るようにしてそう言い放ちながら、構えたチーフスペシャルの引き金を引いた。するとパンと言う乾いた銃声と共に射出された.38スペシャル弾が、偶然にも始末屋の右の眼球に真正面から直撃する。

「つうっ!」

 始末屋が、苦悶の声を漏らした。たとえ口径が小さく威力に乏しい.38スペシャル弾とは言え、無防備な眼球に至近距離から銃弾の直撃を喰らってしまっては、常人離れした頑丈な肉体を誇る始末屋とても只では済まなかったらしい。その証拠に、これまでずっと無表情を貫いて来た彼女もその顔を苦痛に歪ませ、痛めた右眼を押さえながらふらふらと踏鞴たたらを踏む。

「そこが弱点か!」

 死中に活を求めた結果とでも言えばいいのか、とにかく眼球への攻撃に勝機を見出した俺は体勢を崩して踏鞴たたらを踏む始末屋に飛び掛かると、今度は彼女の左眼に銃口を押し付けながらチーフスペシャルの引き金を引いた。再びのパンと言う乾いた銃声と共に、今度は始末屋の左の眼球が.38スペシャル弾の直撃を受ける。

「くっ……あ……」

 両眼を潰される格好になった始末屋は手斧を取り落とし、視力を失った左右の眼球を瞼の上から押さえながら苦悶の声を上げると、ふらふらと覚束無い足取りでもって政府専用機の会議室の中を後退り始めた。どうやら視力が回復するまでは一時的に俺から距離を取ろうと言う魂胆らしく、眼球への至近距離からの銃撃が、彼女に相当の深手を負わせた事が見て取れる。だがそれは同時に、にわかには信じ難い事だが、始末屋の眼球が完全に潰れて失明した訳ではない事もまた意味していた。つまりこのまま無為に時間が経過する事を許せば、遠からず彼女の視力は回復してしまう。だからとにかくその前に、より致命的なダメージを与える決定打でもって、確実に決着を付け切らねばならない。

「うおおおおぉぉぉぉっ!」

 俺は雄叫びを上げながら、始末屋に向かってアメフト選手さながらのタックルを敢行した。視力を失っているために避ける事も出来ず、俺のタックルを正面からまともに喰らう始末屋。俺はそのまま勢いに任せて、自分よりもはるかに大柄な彼女を政府専用機の進行方向向かって左側の会議室の壁沿いまで押し出し、突き飛ばす。目指す先はその壁沿いにぽっかりと口を開けている、始末屋がこの政府専用機に乗り込んで来る際にハッチがじ開けられた搭乗口だ。

「これでどうだぁっ!」

 搭乗口の眼の前まで始末屋を押し出した俺は気合一閃、再びの雄叫びと共に渾身の力でもって、搭乗口の向こうへと彼女を蹴り飛ばす。当然ながらハッチを失った搭乗口の向こうは、高度数千mの空の彼方だ。そして搭乗口から蹴り出されて虚空へと消える始末屋の姿を確認した俺は、勝利を確信する。

「やった! やったぞ!」

 俺は小さなガッツポーズと共に、勝ち鬨と言うには少し大袈裟だが、控え目ながらも勝利の雄叫びを上げた。そして最後の仕上げとして、始末屋が姿を消した搭乗口の向こうの状況を確認する。

「!」

 会議室の壁面にぽっかりと口を開けた搭乗口から外の様子を確認した俺は、驚きを隠せない。と言うのも、搭乗口のすぐ背後の政府専用機の主翼の縁に、空の彼方に姿を消したと思われていた始末屋がしがみついていたのだ。言うまでも無い事だが、亜音速で飛行を続ける政府専用機の機外は凄まじい風圧によって、まともな姿勢を維持する事はほぼ不可能な状態である。しかし始末屋はその状況下においても尚、視力を失った状態でありながら、政府専用機の主翼にしがみつき続けているのだ。しかも彼女はしがみついた主翼の縁を、再び搭乗口から機内へと帰還する事を目論んでか、じりじりとこちらに向かって這い登りつつある。

「しつこいんだよ! いい加減にしろ!」

 俺は怒り半分呆れ半分、そして少しばかりの恐怖が入り混じった声色と表情でもってそう叫ぶと、手にしたチーフスペシャルを構えた。そして政府専用機の主翼を這い進んで来る始末屋に照準を合わせると引き金を引き絞り、回転式弾倉シリンダーに残っていた残り三発の銃弾を続けざまに発射する。

「これで最後だ!」

 パンと言う乾いた銃声と共に射出された一発目の銃弾は始末屋の上体を支える左手の甲に、二発目の銃弾は姿勢を維持するために政府専用機の主翼の縁に引っ掛けていた彼女の右脚の膝に命中した。そして更に三発目の最後の銃弾は顔面の中央、つまり始末屋の眉間のど真ん中に命中した事によって、エアソフトガンで鍛えられたミリタリーオタクの端くれである俺の射撃能力の高さが証明されたと言ってもいいだろう。

 もっとも、当然の事ながらチーフスペシャルに装填されていた.38スペシャル弾では威力が足りず、この程度の攻撃では常人離れして頑丈な肉体を誇る始末屋に致命傷を与える事は出来ない。だがそれでも、政府専用機の主翼にしがみついた彼女の不安定な体勢を崩すには充分な威力であった。つまり左手の甲と右膝と眉間の三点に銃撃を受けた始末屋は手と足を滑らせ、背後に仰け反るようにして体勢を崩すと、しがみついていた政府専用機の主翼の下に搭載された四基のジェットエンジンの内の一つの吸気口の中へと姿を消す。ボーイング747-400の巨体を揚力のみで浮かせるために膨大な量の空気を必要とする巨大なPW4056ジェットエンジンが、周囲一帯の空気ごと始末屋の巨体を吸い込んだのだ。

「やったか?」

 そう言って様子をうかがう俺の視線の先で、始末屋の巨体を手斧やトレントコートごと吸い込んだ巨大なジェットエンジンの中からぶしゃっと血飛沫が飛び散るのと同時に、ボンと言う爆発音と共にエンジン内のタービンと外装が四方八方に吹き飛ぶ。そして異物を吸い込んだ事によって故障してしまったジェットエンジンは機能を失い、ごうごうとオレンジ色の炎を後方に向かって尾を引くように噴き上げながら、ゆっくりとその動きを止めた。きっとエンジンの内部に吸い込まれた始末屋は高速回転するタービンによって切り刻まれ、今頃は見るも無残なミンチ肉へと変貌してしまったに違いない。敵ながら、哀れな最期である。

「やった……遂にやったぞ! 俺は勝ったんだ! ざまあみろ、始末屋め!」

 今度こそ勝利を確信した俺は大声で勝ち鬨を上げ、堂々とガッツポーズを決めると、政府専用機の会議室の床にごろんと大の字になって寝転がりながら天を仰いだ。これでもう誰一人として、俺の帰国を阻む者は存在しない。

「あの……大丈夫ですか?」

 不意にそんな言葉を投げ掛けられたので視線を巡らせてみれば、俺が寝転がっている会議室と隣の秘書官室とを隔てる柱の陰から一人の男性が、そっと顔だけを覗かせながらこちらの様子をうかがっているのが眼に留まる。俺がこの政府専用機に搭乗した際に随行員室の座席へと案内してくれた、男性乗務員だ。

「大丈夫だけど……何? ずっと見てたの?」

 俺が尋ねれば、男性乗務員はおどおどと怯えているような、また同時に少しばかり申し訳無さそうな表情をその顔に浮かべながらこくこくと頷く。どうやら彼は俺と始末屋とが会議室で死闘を繰り広げている間もずっと、殺されそうになっている俺に手を貸す事も無く、柱の陰に身を隠しながら事の成り行きを見守っていたらしい。

「なんだよ……。見てたんだったら、少しは助けてくれよな……」

 俺は寝転がったまま深く嘆息しつつ、傍観するばかりで少しも助けてくれなかった男性乗務員に対する愚痴を漏らした。するとその直後、ポーンと言うチャイムに続いて、機内放送でもって現在の状況がアナウンスされる。

「機長より、当機に搭乗中の乗客・乗員の皆様にお伝えいたします。当機はエンジントラブルのため、これより那覇空港に緊急着陸いたします。最寄りの座席に着席の上、シートベルトをお締めください」

「那覇空港か……」

 どうやら始末屋を吸い込んだせいで破損したジェットエンジンを修理なり交換なりするために、政府専用機は羽田空港や成田空港と言った大規模な国際空港ではなく、取り急ぎ那覇空港に緊急着陸する事にしたらしい。しかしたとえ那覇空港とは言え、その所在地は沖縄県、要は日本の領土内だ。つまりそこに着陸さえしてしまえば、俺はもう故郷たる日本に帰国した事になる。

「今度こそ、俺は日本に帰って来たんだなあ……」

 そう独り言ちた俺は寝転がっていた政府専用機の会議室の床から立ち上がると、事務室を経由して機内後方の随行員室へと移動し、そこに並んだ座席の内の手近な一つにどすんと腰を下ろした。そしてシートベルトを締めるとそっと眼を閉じ、もう何も心配する必要は無いのだと自分自身に言い聞かせながら、来たるべき着陸の瞬間を無事に迎えられる事を神に祈る。

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