第十四幕


 第十四幕



 これで何度目になるのか、パシャッと言うデジタル合成されたシャッター音と共に、またしてもスマホのカメラでもって無断で写真を隠し撮りされてしまった。きっと今撮られた写真も、ほんの数分後にはツイッターやフェイスブックやインスタグラムと言った写真を共有出来るSNS上にコメント付きでアップされてしまうのかと思うと、顔から火が出そうなほどにまで恥ずかしくて居ても立ってもいられない。しかも俺の隣に座った、写真を隠し撮りされる原因そのものである筈の蛍外交官補自身はまるで涼しい顔をしているのだから、俺が無用にやきもきしてしまうのもまた当然の帰結と言えよう。

「どうかしましたか、加屋さん?」

 俺が隣に座る蛍外交官補を見遣れば、彼女はそう言って不思議そうに問い返した。やはりこの女忍者、つまりくのいちは、自分の格好が衆目を集めていると言う自覚が無いらしい。

 解説するのが遅くなったが、今現在の俺と蛍外交官補の二人が椅子に腰掛けているここはどこかと言えば、イスタンブールの南西部に位置するアタテュルク国際空港内の出国ロビーの一角。その出国ロビーの一角で、俺達二人は日本に帰国するために搭乗する予定の政府専用機の離陸の順番が回って来るのを、二人並んで椅子に腰掛けながらジッと辛抱強く待っている次第である。

「えっと……あの、蛍さん?」

「はい、何でしょうか、加屋さん?」

「蛍さんは、その、くのいち……つまり忍者なんですよね?」

 俺は積年の、と言ってもほんの一時間程度だが、それでも体感的には積年の疑問と言ってもいい程の疑問について尋ねた。すると尋ねられた蛍外交官補は、やはり涼しい顔のまま答える。

「はい。国家公安委員会直属のくのいちですが、それが何か?」

 涼しい顔の蛍外交官補の返答に、俺は頭を抱えた。どうやら彼女は正真正銘の、本物の忍者らしい。

「あの、その、忍者って言うのは現代にも実在しているモンなんですか? いや、そりゃ俺だって、戦国時代や江戸時代にはある種の忍者が実在していた事くらいは知っていますよ? でもその、今のこの時代にも未だ忍者が存在するなんて話は聞いた事が無いんですけど……」

「ええ、民間には公表していませんから、加屋さんが知らないのも無理はありません。どうか、お気になさらずに」

「いや、気にしているとかそう言うんじゃなくってですね……」

 何だか俺と彼女とで微妙に論点と言うか、価値観がずれている。

「えっと、それじゃあとりあえず、現代にも忍者やくのいちが実在するって事まではいいとしましょう。それで、どうしてそのくのいちである蛍さんが、トルコの日本国総領事館に勤めているんですか?」

「それはですね、加屋さん。これも民間には公表されていませんが、基本的には現代の公的に認められた忍者は全員が全員、国家公安委員会直属の極秘諜報機関に所属しております。そしてその機関に所属した上で、世界中の全ての日本国大使館や総領事館には若干名ずつの忍者が出向し、表向きは外交官補として勤めながら裏では工作員エージェントとして活動していると言う訳なのですよ。……あ、ちなみにこの事実は安全保障上の機密事項ですので、無闇に口外しないようにお願いします」

 蛍外交官補はそう言いながら右手の人差し指を唇の前で立てて「しーっ」っと言い、ジェスチャーでもって黙っているようにとの意思を俺に伝えたが、そんな事よりも今現在の彼女が漆塗りのド派手な忍者装束姿で堂々と人前に立っている事の方が気になって仕方が無い。

「えっと、忍者の存在自体が機密事項だとしたら、どうして蛍さんはそんな忍者の格好のままなんですか? さっきからずっと、道行く観光客からスマホでパシャパシャ写真撮られまくっちゃってますけど? これはいいんですか?」

 ようやく俺は、事の核心に触れた。つまり、さっきから俺と蛍外交官補の二人は空港の出国ロビーを行き交う観光客達から物珍しげな眼で見られながら写真を撮られまくってしまっているので、もはや彼女が言うところの安全保障上の機密事項も糞も無い。事実、つい今しがたもヨーロッパからの観光客と思しき白人の団体が「Oh! Ninja!」などと嬉しそうに歓声を上げながら、自撮り棒を使って俺達二人が映り込んだ自撮り写真を無断で撮って行ったばかりである。

「その点なら、問題ありません。ご覧の通り私は顔を隠していますので、たとえ写真を撮られたとしても、その素性や経歴がつまびらかになる心配は無用でしょう」

 そう言った蛍外交官補の顔は、確かに彼女が身に纏っている忍者装束の一部である面頬めんほお、もしくは頬当てと呼ばれる防具によって隠されてはいるのだが、問題はそこではない。そもそもやたらと目立つ忍者装束のまま、多くの人間が世界中から集まる国際空港までやって来た事が問題なのだ。

「いや、でももう戦闘は終わったんですから……スーツに着替え直したりはしないんですか?」

 俺が問うと、蛍外交官補は少しきょとんとした表情で答える。

「スーツ? 私が着ていたビジネススーツの事ですか? あれは脱ぎ捨ててしまいましたからもう手元にはありませんし、回収も難しいでしょう。少し勿体無い事をしてしまいましたが……まあ、仕方が無いですね」

「はあ……」

 どうやら未だ当分、俺はこの忍者装束のくのいちと共に、アタテュルク国際空港の出国ロビーの一角で衆目に晒され続けなければならないらしい。そしてそんな事を考えている間にも、多くの観光客達が俺達二人に好機の視線を浴びせ掛けながらSNSに投稿するための写真をパシャパシャと無断撮影して行くので、俺は気が滅入るやら恥ずかしいやらで頭を抱えるばかりだ。

 するとその時、出国ロビーの各所に設置されたスピーカーから、待ちに待った内容の場内放送がようやくアナウンスされる。

「日本国政府専用機の離陸準備が整いました。搭乗されるご予定の方は、二番ゲートにお集まりください」

 日本国政府専用機、つまりそれは、俺と蛍外交官補がこれから搭乗して日本に帰国する予定の航空機だ。そして出国ロビーの窓から滑走路の方角を見遣れば、確かにアナウンスされた通り、二番ゲートから続く搭乗口の向こうには機体側面に『日本国JAPAN』と塗装されたボーイング747-400が待機しているのが確認出来る。

「やっと日本に帰れるんだ……」

 滑走路上に待機する日本国政府専用機を出国ロビーの窓越しに眺めながら、俺は感慨深げにそう独り言ちた。だが次の瞬間、まるで至近距離に雷が落ちたかのような壮絶な破砕音が耳をつんざき、空港のターミナルビルが衝撃波によって地震の様にぐらぐらと揺れたので、俺は身を竦ませる。そして耳を澄ませば、いや、澄まさなくても聞こえるほどの大音量の新たな破砕音と振動が衝撃波の波となって、空港のターミナルビルの正面玄関の方角から真っ直ぐこちらへと向かって近付いて来る気配が感じ取れた。そして破砕音と共に、人々の悲鳴や絶叫もまた耳に届く。

 一体何事が起きているのだろうかと空港の二階の出国ロビーから階下の入国ロビーを見遣れば、破砕音と振動の正体はすぐに判明した。その正体とは、よほどの大規模工事か鉱山の掘削現場でもなければ見掛けないほどの、やたらと馬鹿でかい日本のコマツ社製の大型ダンプカーHD605。その大型ダンプカーが一輌、進路上に存在する全ての壁や柱やテナントとして空港内に入居している各種店舗を強引かつ豪快に薙ぎ倒しながら、俺が立っている出国ロビーへと続くエスカレーター目指して突っ込んで来ているのが眼に留まる。そして当然ながら、大型ダンプカーの突然の闖入によって空港内を行き来していた観光客達や出迎えに訪れていた一般市民達は悲鳴を上げて逃げ惑い、アタテュルク国際空港の入国ロビー及び出国ロビー内は完全なパニック状態に陥っていた。

「まさかあれは……いや、そんな……」

 俺と並んで階下の惨事を俯瞰しながら、忍者装束を身に纏って腰に太刀たちを帯刀した蛍外交官補が呟き、口篭る。するとそんな俺達の視線の先で、多くの観光客や一般市民で賑わった空港内を傍若無人かつ縦横無尽に蹂躙しまくった大型ダンプカーが、ようやくその動きを止めた。どうやら大型ダンプカーはエスカレーターを強引によじ上って俺達の居る出国ロビーまで闖入するつもりだったようだが、さすがにそれは物理的に無理だと悟って、エスカレーターの寸前で渋々ながらに停車したらしい。

 そして停車した大型ダンプカーの運転席のドアが内側から強引に蹴破られたかと思えば、車内からぬっと、両手に一振りずつの手斧を携えたやけに背の高い女性が姿を現して周囲を見渡す。それはトレンチコートを着た黒人の大女、つまりは今から小一時間ほど前に大型バスと一緒に川底に沈んだ筈の始末屋であった。

「生きていたか! 始末屋!」

 敵の正体を看破してそう叫んだ蛍外交官補と、階下の大型ダンプカーの上の始末屋との視線が絡み合う。しかし腰の太刀たちに手を掛けて敵愾心を露にする蛍外交官補とは違って、始末屋は相変わらず無言のままであり、また同時に淡々と仕事をこなす職人の様な冷淡かつ冷酷な無表情のままだ。

 しかし無言で無表情のままとは言え、さすがの始末屋も決して無傷ではない。川底に沈んだ大型バスから脱出するのに手間取ったのか全身ずぶ濡れだし、蛍外交官補によって柱に結び付けられたネクタイも喉元のノットから下が強引に引き千切られており、バーバラとの銃撃戦と蛍外交官補との剣戟によって負った幾箇所かの傷からは僅かながらも出血が確認出来る。どうやら人間離れした頑丈さを誇る始末屋も、決して不死身と言う訳ではないらしい。

 アタテュルク国際空港のターミナルビルの一階と二階、つまり入国ロビーと出国ロビーとを隔てるエスカレーターを挟んで対峙し、互いに視線を逸らさず睨み合いを続ける蛍外交官補と始末屋。すると両者の睨み合いが最高潮に達したその時、不意に一輌の新たな車輌が空港のターミナルビル内に姿を現したかと思うとこちらへと接近して来て、大型ダンプカーのすぐ背後で停車した。

「あれはスレイマンの……」

 その車輌は俺にとってはとても馴染み深い、よく見慣れた黒塗りのリムジン。つまり俺の新居付きの使用人であるスレイマンが運転する、バジェオウル氏が新居とセットで俺とアイシェの新婚夫婦にプレゼントしてくれたリムジンであったが、アイシェとの離婚を決意した今となってはその所有者は俺ではない。そして今まさに、現在の所有者であるアイシェ本人が使用人のスレイマンにエスコートされながら、俺の視線の先に停車したリムジンの後部座席から空港のフロアへと降り立った。

「アイシェ……」

 図らずも三行半みくだりはんを突きつける格好となってしまったかつての妻との再会に、俺は言葉を失う。しかしそんな俺とは対照的に、リムジンから降りたアイシェはかつて見た事が無いほどにまで温和で穏やかな表情を浮かべ、まるで我が子を愛でる母の様な慈しみに溢れた笑顔をこちらに向けていた。

「サイト」

 その美しい顔に満面の笑みを浮かべたアイシェが、俺に優しく語り掛ける。

「いかがですか、サイト? 前回お会いしてから丸一日が経過いたしましたが、そろそろ心を入れ替えて悔い改め、改心してくださいましたか? もし改心してくださったのであれば、もうそれ以上、あたしがあなたの罪を咎める事はありません。ですから、さあ、一緒にあたし達の家に帰りましょう。そして、幸せな家庭を築きましょう。きっとあなたの罪を、アッラーもまた許してくださいます」

 柔和な口調でそう言ったアイシェはかつての夫である俺の眼を見つめながら、にこりと優しく微笑んだ。しかしそんな彼女の眼の焦点が、どうにも微妙に合っていない。そして俺はこの段になってようやく事の真相に気付き、愕然とする。つまりアイシェは焦点の合わない眼でもって、等身大の不完全な人間としての俺自身の姿など、最初から見てはいなかったのだ。彼女が見ていたのは加屋彩人と言う名の一人の人間そのものではなく、俺と言う存在を介して自分の中に作り上げた幻の理想の夫像であり、それはまたある種の神か天使か聖人君子の様な超越的で完璧な存在だと言う事を看破した俺は、背筋にゾッと悪寒を走らせる。アイシェが二十八歳まで純潔を維持した初心うぶ未通女おぼこであり、財閥一家のご令嬢として大事に育てられて来た事はよくよく承知してはいたものの、まさかここまでの夢見る少女だとは思ってもみなかった。

「……嫌だ」

「え? 何ですって、サイト?」

 問い返すアイシェに、俺は抗弁する。

「嫌だ! 俺はもうあの家には帰らないし、アイシェ、キミとも離婚してすっぱりと縁を切る! 勿論イスラームからも改宗し直して仏教と神道の信者に戻るし、何だったら無神論者にだってなってやろうじゃないか! そうだ、俺は自由だ! アイシェ、キミの人形やペットなんかじゃない、一人の自由な人間なんだ! そして日本に帰って醤油味の飯を食って柴犬を抱いて、人生をやり直すんだ!」

 俺は声を荒げながら、捲くし立てるようにして声高に言い放った。すると暫しの静寂の後に、こちらを見つめるアイシェの顔色と表情が見る間に激変する。

「だったら、とっとと死ね」

 日本の伝統芸能の一つである能楽で使われる般若の面は嫉妬や怨恨で怒り狂った女性の憤怒の形相がモデルであるとされているが、まさにその般若の面を髣髴とさせる憤怒の形相をその顔に浮かべたアイシェが俺の死を宣告した。するとその死の宣告を依頼者からの命令と判断した始末屋が、コマツ社製の大型ダンプカーの上から跳躍する。そして空港の一階のフロアにひらりと着地した彼女は、俺と蛍外交官補の二人が立つ二階の出国ロビーを目指してエスカレーターを駆け上がりながら、両手に握った左右一振りずつの手斧を俺目掛けて投擲した。空を切って回転しながらこちらへと飛翔して来る、二振りの手斧。その手斧の鋭利な刃は、正確に俺の喉元を狙っている。

「危ない!」

 蛍外交官補が素早く俺に飛び掛かり、身を挺して守ってくれるような格好でもって強引に床に伏せさせてくれたおかげで、俺は首ちょんぱにされる寸前で飛んで来る手斧をギリギリ回避出来た。そしてたった今しがたまで俺が立っていた空間を回転しながら横切って行った手斧は出国ロビーの天井にドスンと突き刺さり、ようやくその動きを止める。

 とは言え、飛んで来た手斧とは違って、それを投擲した本人である始末屋の動きは止まらない。彼女はトレンチコートの懐から新たな二振りの手斧を取り出しながらエスカレーターを駆け上がり切るとこちらに飛び掛かり、その手斧を出国ロビーの床に伏せた俺に向かって振り下ろした。

「させるか!」

 だが始末屋が振り下ろした手斧が、まるで唐竹割りの如く俺を脳天から真っ二つにする寸前で、またしても蛍外交官補が俺を助けてくれる。彼女は居合い抜きの要領で素早く鞘から抜いた太刀たちの刀身でもって手斧を打ち払い、始末屋の必殺の一撃の軌道を逸らしてみせた。狙いをたがえ、出国ロビーのリノリウム敷きの床に深々と突き刺さる二振りの手斧。それらの手斧が床から抜かれるよりも早く、その場で身体を一回転させる事によって太刀たちの切っ先に慣性の力と遠心力を乗せた蛍外交官補が始末屋に切り掛かる。

 しかし始末屋もまた、切り掛かって来る太刀たちの軌跡をまるで馬鹿か白痴の様にぼんやりと傍観したまま突っ立っているほど愚かではない。床に突き刺さった手斧の回収が間に合わないと判断した彼女はそれらの得物を諦めると手を放し、その場に手斧を残したまま、身を翻して一旦後退した。そして後退して距離を取った始末屋がトレンチコートの懐に手を差し入れると、そこから新たな二振りの手斧が姿を現し、彼女は蛍外交官補に向かってそれらを構える。果たして始末屋は何振りの手斧を、あの巨体の上から着込んだトレンチコートの下に隠し持っているのだろうか。

「加屋さん! ここは私に任せて、あなたは二番ゲートに急いでください! そして政府専用機に乗ったら機長に命じて、私を置いてすぐに離陸するんです! さあ、早く! 急いで!」

 太刀たちを構えながら再び始末屋と対峙した蛍外交官補の指示を、俺は承諾する。

「分かった! 蛍さんも、どうかご無事で!」

「はい! 私の事は、お気になさらずに! 加屋さんの方こそ、どうか無事に日本に帰国してください!」

 そう言った蛍外交官補の身を案じながら、俺は政府専用機が待機している搭乗口へと繋がる出国ロビーの二番ゲートへと急いだ。そして辿り着いた二番ゲートの搭乗チケットを確認する改札機を無理矢理乗り越えて通路を走ると、そのまま待機していた日本国政府専用機、つまりボーイング747-400の機内に転がり込む。

「早く、扉を閉めて! それと機長に、すぐに離陸するように伝えてくれ!」

 俺は転がり込んだ機内で、何も知らされずに待機していた政府専用機の男性乗務員に向かって叫んだ。

「搭乗者は二名と聞いていますが……」

「もう一人は急用で、来れなくなった! だから、今すぐに離陸してくれ! そうでないと、あの大女が斧を振り回しながらここまで乗り込んで来かねないんだ! 早く! 急いで!」

 問い質す乗務員に対して改めてそう叫ぶと、彼は冷静に「分かりました」と承諾してから、無線でもって機長に離陸を指示する。すると暫しの間を置いた後に、搭乗口のハッチを閉めてターミナルビルから切り離された政府専用機が、アタテュルク国際空港の滑走路上をゆっくりと移動し始めた。

「管制塔の許可が下り次第、当機はすぐに離陸します。会議室と事務室の奥の随行員室まで移動し、空いている座席に腰掛けてから、しっかりとシートベルトを締めて待機していてください」

 冷静な乗務員の指示に従い、俺は何度か転びそうになりながらも急いで政府専用機内の随行員室に駆け込むと、手近な座席の一つに腰を下ろしてからシートベルトを締める。そして滑走路上を移動し始めた政府専用機は次第にその速度を上げ、やがて主翼の下に搭載された四基のジェットエンジンを唸らせながらガタガタと一際激しく振動したかと思えば、その巨体をふわりと宙に浮かせた。つまり、俺を乗せたボーイング747-400の機体が遂に離陸したのである。

「やった!」

 ガッツポーズと共に、俺は思わず歓喜の声を上げた。そして座席のシートベルトを外して窓辺へと駆け寄り、ガラス越しに眼下を眺望すれば、見る見る内に遠ざかって行くアタテュルク国際空港の滑走路とターミナルビルとが目視で確認出来る。惜しむらくはあのターミナルビルの中に、本来ならばこの政府専用機に同乗する筈だった蛍外交官補を残して来てしまった事が心残りだが、執拗に俺の命を付け狙う始末屋を足止めするためともなれば致し方あるまい。

 兎にも角にも、俺はトルコ共和国からの脱出に無事成功し、こうして空の上に逃げおおせて機上の人となったのだ。つまりもう誰であろうと、ここで今すぐに俺を殺す事は出来ない。ヤセミーンの親族であるヤウズもナディデも、アイシェやクロエに雇われたバーバラや始末屋も、まさか国境を越えて空の上まで追って来るような馬鹿な真似はしないだろう。そして俺は今から十時間ちょっとほどのフライトの後には晴れて日本に帰国し、故郷の土を踏む事が出来るのだ。そうなれば俺はもう自由の身であって、日本国憲法によって基本的人権が保障された俺の行く手を阻む者は、もはや何人なんぴとたりとも存在しないに違いない。

「さらばトルコよ、イスタンブールよ。色々あったが、まあ、総じて言えば良い国だったかな」

 眼下に遠ざかって行くトルコ共和国の姿を眺めつつ、少しばかり懐かしそうにそう呟きながら、深々と座席に腰を下ろした俺はゆっくりと眼を閉じた。そして緊張感の糸がふつりと切れてしまったのと、昨日からのどたばた続きによる疲労のせいで、静かに意識を混濁させながら眠りに就く。

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