第十三幕
第十三幕
トルコ最大の都市イスタンブールの南西部を横断する、イスタンブール・ベルト・ウェイと呼ばれる高速道路の一角。横転した大型トラックと、その大型トラックが押し潰したリムジンベンツが上り車線を塞いだ事によって渋滞が発生している路面上で、三人の戦う女達が三竦みの状態で対峙していた。つまりくのいちである蛍外交官補、笑う女殺し屋ことバーバラ・ザ・ブッチャー、破壊、殺害、回収を
「!」
まず最初に動いたのは、人間離れした頑丈な肉体を誇る始末屋であった。彼女はトレードマークである駱駝色のトレンチコートの裾を
「糞! やはり小口径では駄目か!」
愛銃であるベレッタM1934から射出された.380ACP弾が、頑丈な始末屋に対してまるで通用しない事を蛍外交官補が口惜しがると、それを嘲笑うかのような口調でもってバーバラが言う。
「そうとも、こいつには拳銃弾なんて効かねえ! やっぱライフル弾じゃなきゃなぁ!」
言うが早いか、バーバラが始末屋に照準を合わせたOA98、つまり強力な5.56㎜ライフル弾が射出出来るマシンピストルの引き金を引き絞った。すると始末屋は両手に握った二振りの手斧の刀身で自身の急所を
「うおっとぉ! 危ねえ!」
そして距離を詰めた始末屋は横薙ぎの大振りでもって左右の手斧を振るうが、そこはそれ、バーバラとても素人ではない。彼女は始末屋の一撃を咄嗟に身を翻し、あと数㎝で首が飛ぶと言うギリギリの間合いでもってこれを回避してみせた。
「隙あり!」
すると一瞬の隙を突いて、蛍外交官補が始末屋とバーバラの二人との距離を一気に詰め、構えていた
だが蛍外交官補が振るった
「ならば!」
ここで蛍外交官補は、標的を一旦、防御に徹する始末屋からバーバラに切り替えた。そしてバーバラに向けて
「させるかよ! このニンジャめ!」
しかし突撃の気配を逸早く感じ取ったバーバラは笑いながらそう叫ぶと、手にしたイングラムMAC10とOA98の照準をそれぞれ蛍外交官補と始末屋に合わせてから引き金を引き、二挺のマシンピストルを一斉に乱射した。フルオートで射出された大量の9㎜パラベラム拳銃弾と5.56㎜ライフル弾が空を切り裂く鉛の
「ちいっ!」
バーバラの銃撃に、蛍外交官補は舌打ち混じりに突撃の体勢を解くと、迫り来るイングラムMAC10の銃弾を
「危ねえじゃねえか、始末屋ぁ! てめえみてえなノッポの黒んぼゴリラは大人しく蜂の巣になって、無様に道端でゲロ吐いて死んでろやコラァ!」
やたらと口数が多く、しかも口が悪い上に怒りながら笑うと言う器用な芸当をやってのけたバーバラが、体勢を整え直しながら叫んだ。一方で手斧の一振りを投擲した始末屋は無言のまま、トレンチコートの懐から新たな手斧を取り出して、まるで動じた様子は無い。そして気付けば女三人は再び距離を取って互いの間合いを読み合い、また同時に攻撃のタイミングを見計らって睨み合いながら、三竦みの状態でもって対峙する。ここで迂闊に単独で飛び込めば、残りの二人によって返り討ちにされ、愚かしくも挟撃の憂き目に遭う事は火を見るよりも明らかだ。だからこそ今は互いの出方をうかがい合って、じりじりと前進と後退を繰り返しつつも三竦みの力関係が崩れる一瞬の好機を待ち続ける事のみしか、この激戦において勝利を手にする方法は無い。
女三人が睨み合いを続ける一方で、リムジンベンツの車体の陰に身を隠した俺もまた、この状況を打破するための妙案を模索していた。とにかく俺の身を守って戦ってくれている蛍外交官補が残りの二人に勝利するにせよ敗北するにせよ、この場から退散して空港を目指すための『足』が必要である事は間違いないだろう。つまり、破壊されてしまったリムジンベンツに代わる何らかの車輌なり航空機なりの、新たな移動手段を早急に調達しなければならないのだ。
「あれだ!」
周囲を見渡した俺は独り言つように呟くと、俺の命を狙う始末屋やバーバラに見つからないように身を隠しつつ、移動を開始する。目指す先は、始末屋がリムジンベンツを巻き込みながら大型トラックを横転させた事によって発生している渋滞の先頭に位置する、数台の車輌だ。
まず手始めに、最も手前に停められていたトヨタ社製のSUV車に近付くと、俺は車内の様子をうかがう。するとどうやら蛍外交官補ら三人による三つ巴の戦闘、特にバーバラによる銃撃の流れ弾を恐れて乗員は退避した後なのか、車内に人の気配は無い。そこで俺はドアに手を掛けたが、当然ながら退避する際にこのSUV車の所有者は鍵を掛けて行ったらしく、ドアは開かなかった。
「まあ、そりゃそうか。そうでなきゃ簡単に盗まれるもんな」
本来であれば、こう言った事故や事件で車輌を置いて退避する際には警察や消防が車輌を移動させ易いように鍵は掛けないままにしておくのがルールなのだが、自分の所有物を盗まれたくないと言う本能的な欲求に従えばそうも行くまい。そこで仕方無く、俺は次の車輌を探す。そして探し始めてから四輌目でようやくドアに鍵が掛けられていない車輌を発見したのだが、それは図らずも、アタテュルク国際空港へと向かう途中のツアー用の大型バスであった。
「バスか……。この際背に腹は代えられないし、仕方無い」
俺はそう独り言ちてから、ドアが開けっ放しになったまま高速道路上に放置されていた大型バスに乗り込むと、一通り車内を見渡す。するとやはり乗客も乗員も退避した後らしく、車内に残っている者は一人も居ない。そこで無人の運転席に座ってみれば、幸いな事に、エンジンを始動させるためのイグニッションキーもキーシリンダーに挿しっ放しであった。つまり、今すぐにでも発車出来る状態だと言う事である。
「よし、行ける」
そう呟くと、大型バスの運転席に座ってハンドルを握った俺はクラッチを踏み込んだまま、イグニッションキーを時計回りに回した。するとギュルギュルと言うモーターが回転する音に続いて、エンジンが始動した際のドルルンと言う重い音と振動が全身に伝わって来る。そして半クラッチを経由しながらゆっくりとアクセルを踏み込むと、俺が運転する大型バスは高速道路の上り車線を走り始めた。ギアを一速から二速に入れ、徐々に加速させる。
「蛍さん! 乗って!」
開け放たれた運転席側の窓から顔を出した俺は大声で叫び、大型バスの行く手を遮るかのような位置関係で三つ巴の死闘を繰り広げている蛍外交官補に要請した。そして横転した大型トラックとリムジンベンツの残骸をギリギリで迂回しつつ、睨み合う女三人のちょうどど真ん中を強引に突っ切るような格好でもって、可能な限りの速度で大型バスを走らせる。
「にんっ!」
俺の要請を聞きつけた蛍外交官補が独特の掛け声と共に大型バスに駆け寄ると、いかにもくのいち、つまり忍者らしい人間離れした身のこなしでもって、やはり開け放たれたままになっていた車輌前部のドアから車内へと転がり込んだ。そして彼女が乗り込んだ事を確認した俺はギアを三速に入れ、更に速度を上げながら、目的地である空港を目指してその場から退避する。
「危ねえなコラァ! それにてめえら、あたしの許可無く逃げてんじゃねえぞ! ぶっ殺してやるからな!」
俺が運転する大型バスに轢かれそうになりながらも
「加屋さん、無茶をしないでください! あなたに万一の事があったら、私の任務に支障をきたします!」
大型バスに乗り込むなり開口一番、俺を叱責する蛍外交官補。てっきり彼女に礼の一つも言ってもらえるかと思っていた俺は、何とも寄る辺無い。
「いや、でも、一応はあの場から逃走出来たんだから、危機は脱しただろう?」
「やり方が危険過ぎます! あなたの身の安全を確保する事が私の最重要任務なのですから、邪魔しないでください! それに総領事館の関係者が民間のバスを盗んだりなんかしたら、それこそ外交問題にも発展しかねないんですからね!」
繰り返し、俺は叱責されてしまった。こんな事なら出しゃばった真似をしなければ良かったと少しばかり後悔し、また同時に自分の軽率な行為を深く反省する。
「まあ、済んだ事をぐちぐち言っていても仕方ありません。とにかく今は、一刻も早く空港に向かいましょう」
忍者装束に身を包んだ蛍外交官補が溜息混じりにそう言った、次の瞬間。運転席に座る俺とその隣に立つ彼女の二人しか乗っていない筈の大型バスのリアガラスが唐突に割れたかと思えば、甲高い破砕音と共に粉々に砕け散った。大型バスの床一面に、割れたガラスの破片が散乱する。そしてリアガラスが無くなった事によってぽっかりと口を開けた車体最後部の窓枠の隙間から、両手に手斧を持ったトレンチコートの黒人の大女、つまりこの俺の命を狙う裏稼業の女こと始末屋が姿を現した。どうやら彼女は大型バスとすれ違いざまにこれに飛びつくと、そのまま登山の際に使うピッケルの要領でもって手斧を振るいながら、ステンレス製の車体を強引に
「加屋さん、あなたはそのまま運転を続けていてください! この女は、私が相手をします!」
そう言った蛍外交官補が、車体最後部から大型バスの車内へと乗り込んで来た始末屋を睨み据えながら
「始末屋! 貴様、誰に雇われた!」
手にした二尺五寸の
「アイシェ・バジェオウル。それが依頼者の名だ」
始末屋の口から語られたのは、俺にとっての第一夫人であると同時に法律上の正妻でもあるアイシェの名だった。そしてその言葉に、ある程度覚悟していた事とは言え、アイシェを心から愛していた夫である俺はひどく落胆する。
「アイシェ……」
しかし今は、そんな事で落ち込んでいる場合ではない。とにかく今は一分一秒でも早く空港に辿り着き、トルコ共和国を脱出して日本に帰らなければ、俺は命を狙われ続けてやがては亡き者にされてしまうのだ。だからこそ俺は前を向いて大型バスのハンドルを握り続け、また同時にアクセルを踏み込み続ける。
「にんっ!」
一方、俺の背後では
「おいコラてめえらぁ! あたしを置いて勝手に逃げてんじゃねえぞコラァ! 全員ぶっ殺してやるから、覚悟しろやコラァ!」
不意にそんな口汚い怒声が耳に届いたので、俺は大型バスのサイドミラーを見遣る。すると大方の予想通り、カウルが緑と黒のツートンカラーでペイントされたカワサキのバイクに
「加屋さん! もっとスピードを上げてください!」
バーバラの接近を察した蛍外交官補の指示に従い、俺は大型バスのギアを最大の五速に入れると、アクセルをベタ踏みする。しかし高速走行の分野においては車体が重くて不安定な大型バスよりも、軽くて空気抵抗の少ないレーサー仕様のバイクの方に分がある事は言うまでも無い。そして当然ながら、俺が運転する大型バスはあっと言う間にバーバラの乗ったバイクに追いつかれてしまった。
「ひゃっはーっ! 死ね! 死ね! 死ね! 全員死んじまえ!」
そう叫んだバーバラが、やはりげらげらと笑いながら大型バスの車体全体を撫で回すかのような軌跡でもって、手にしたマシンピストルOA98を乱射する。乱射と同時に高速道路上にばら撒かれる、真鍮製の空薬莢。すると貫通力の高い5.56㎜ライフル弾の雨を浴びるだけ浴びた大型バスの車体、つまりフレームやパネルやガラスは総領事館のリムジンベンツとは違って防弾処理が施されてはいないので、まるで針で
「ひいっ!」
ライフル弾の雨に襲われた俺は身を竦ませながら、思わず頓狂な声を漏らしてしまった。しかしそれも、致し方の無い事だろう。何せ飛び交う銃弾が俺のすぐ脇のサイドガラスや眼の前のフロントガラスを粉々に砕き、大型バスの車体に次々と指先大の穴を穿ってはそこら中を跳ね返って破片を撒き散らかすのだから、それら銃弾の内の一発がいつ自分に当たるのかと思うと生きた心地がしないのだ。
「加屋さん! 大丈夫ですか?」
乱射された銃弾を回避するために身を屈めた蛍外交官補がこちらの様子をうかがいながら尋ねたので、俺もまた姿勢を低くしながら答える。
「まだ大丈夫だけれど、そう長くは持ちそうにない! このままだと、そう遠くない内に
そう答えた俺とこちらを向いた蛍外交官補の視線の先、つまり大型トラックの進行方向上に、きらりと光を反射する何かが垣間見えた。そしてすぐに俺達二人は、それが高速道路に架かった橋の下を流れる川の
その橋は黒海とマルマラ海とを繋ぐボスポラス海峡の支流に架かった、ゴールデン・ホーン・ブリッジ。その橋の姿を確認した蛍外交官補は、俺に新たな指示を下す。
「加屋さん! 何とかあの橋までは、このバスの進路を維持してください!」
「分かった!」
何が何だか分からないまま、俺は蛍外交官補の指示を了承した。そして眼の前のゴールデン・ホーン・ブリッジを目指して大型バスを走らせ続けるも、その間もバスと併走するバイクに乗ったバーバラはこちらに向けてマシンピストルを乱射し続けるので、生きた心地がしない事には変わりが無い。
「ふざけんなよ、こん畜生!」
俺がそう悪態を吐いた、次の瞬間。バーバラが乱射したライフル弾の内の数発が車体を貫通したかと思えば大型バスの車内の始末屋に直撃し、頑丈な肉体を誇る筈の彼女ががくりと膝から崩れ落ちる。
「隙あり!」
この一瞬の好機を逃さずに打って出たのは、誰あらぬ蛍外交官補だった。彼女は膝から崩れ落ちた始末屋に素早く接近すると、始末屋のトレードマークであるトレンチコートと黒い三つ揃えのスーツの隙間から垣間見える赤いネクタイを掴み取り、それを大型バスの車内の柱の一本に強引に結び付ける。そして更に蛍外交官補は懐から何本もの棒手裏剣を取り出したかと思えば、それらでもって始末屋が身に纏った服の端々を、まるで採集箱に虫ピンで固定された昆虫採集の虫の様に床や壁に縫い止めた。つまり始末屋は、さながら蜘蛛の巣に絡め採られた哀れな蝶々の様に大型バスの車内に身体のあちこちを固定された状況に陥り、身動きも取れない。
「今です、加屋さん! ハンドルを左に切って!」
ちょうど大型バスが橋に差し掛かったところで蛍外交官補が新たな指示を下したが、その内容に俺は困惑する。
「左だって? ここは橋の上だ! 左に道は無い!」
「いいから、左に切るんです!」
そう叫んだ蛍外交官補は、運転席に座る俺の元へと駆け寄った。そして俺の手から大型バスのハンドルを強引に奪うと、彼女自身が指示した通り、そのハンドルを大きく左に切る。すると大型バスは急旋回するような軌道でもって車体を大きく左に傾けるも、当然ながらここは脇道の無い一直線の橋の上なので、進行方向上に見えるのは背の低い欄干に隔てられた川の
「!」
そして急旋回した大型バスは、左側の追い越し車線を走りながらこちらに向かってマシンピストルを乱射していたバーバラを内輪差を利用してバイクごと巻き込むと、欄干を薙ぎ倒して宙を舞う。
「にんっ!」
このままでは橋の下を流れる川に大型バスごと落下してしまうと悟った俺はパニック状態に陥りかけたが、そんな俺を抱きかかえた蛍外交官補は気合一閃、割れたフロントガラスの向こうの橋の欄干に向かって先端に鉤爪のついたワイヤーロープを投擲した。当然ながらワイヤーロープの反対側の先端は、それを巻き取るための小型のウインチと共に彼女の腰に結び付けられている。すると鉤爪が欄干に絡まり、更に蛍外交官補が強烈な飛び蹴りでもって亀裂だらけのフロントガラスを蹴破ると、彼女は俺を抱きかかえたままぽっかりと開いた大型バスの車体前部の穴から車外へと跳躍した。
「うわ、うわ、うわ」
大型バスの車外へと跳躍した蛍外交官補と、彼女に抱きかかえられたまま喉から変な声を漏らしてしまった俺の二人は、細いワイヤーロープ一本で橋から宙吊りになる。俺達二人分の体重を支えるワイヤーロープの強度も大したものだが、比較的大柄な成人男性である俺を片腕一本で抱きかかえている蛍外交官補の膂力もまた大したものだ。
こうして俺と蛍外交官補の二人は橋の欄干からワイヤーロープによって吊られた状態で、まるで手首から射出された蜘蛛の糸でもってビルからぶら下がるスパイダーマンさながらに難を逃れたが、車内に始末屋を残したままの大型バスはバイクに乗ったバーバラを巻き込みながら川へと落下して行く。そしてゆっくりと落下して行った大型バスとバーバラと彼女のバイクは水柱を上げながら川の
「ぶはっ!」
すると暫しの間を置いてから浮上して来たバーバラが水面に顔を出し、溺れながら助けを求める。
「あ、あた、ごぼ、あたしは泳げない、泳げないんだ……ごぼ、助け、ごぼ、ごぼごぼ……」
最期にそう言って悪足掻きしながらも、それでも浮上し続ける事が出来ずに水中へと沈んで行ったバーバラは、さすがにもう笑ってはいなかった。
「加屋さん、怪我はありませんか?」
「あ、ああ」
橋の欄干から吊られた状態のまま、抱きかかえた俺の無事を確認した蛍外交官補。彼女は腰に装着された小型のウインチでもってワイヤーロープを巻き取り始め、俺達二人は橋の上へと帰還する。笑う女殺し屋とトレンチコートを着た黒人の大女を巻き込みながら大型バスとカワサキのバイクが沈んで行った川面は静かに凪いでおり、今となっては激闘の痕跡を確認する事は出来ない。
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