第十二幕


 第十二幕



 俺は自分の名を連呼する声に、ゆっくりと眼を覚ました。そして一旦呼吸を止めて耳を澄まし、その声の主を確認する。

「加屋さん? 加屋さん、どこですか? 加屋さん?」

「ここです、ここ」

 声の主が小林書記官である事を確認した俺はそう言いながら、応接室のソファと壁とに挟まれた隙間からのそのそと這い出した。どうやらこの暗くて狭い隙間で床に横になって身を隠している内に、いつの間にやら眠りに落ちてしまっていたらしい。

「ああ、そこでしたか」

 俺が無事である事を確認し、ホッと安堵した小林書記官。彼の眼前で、俺は応接室の冷たい床に寝転がっていたせいで着ているスウェットに絡み付いたゴミや埃を払い落とす。

「それで、えっと、状況は? その前に、今の時刻は? 未だ期限の正午じゃないですよね?」

「それがその、少しばかり交渉に手間取ってしまって、既にもう正午まで時間が無い状況です。今すぐにでも移動を開始しなければ、間に合いません」

 俺の問いに、小林書記官が申し訳無さそうに答えた。どうやら思っていた以上に切迫した状況らしい。

「移動? どこに?」

 俺が問うと、いつの間にか応接室の中に足を踏み入れていた女性職員の蛍を指差しながら小林書記官が答える。

「詳しくは、移動しながら彼女に聞いてください。とにかく、今は地下の駐車場に急ぎましょう」

 そう言った小林書記官に先導されて、俺は女性職員の蛍と一緒にテクフェンタワーの十階の総領事館の廊下を急ぐが、その途中でふと思い立って足を止めた。

「そうだ、今、ヤウズはどうしているのか……」

 俺はそう呟きながら廊下の窓に近付くと、眼下の状況を確認する。すると総領事館がテナントとして入居しているテクフェンタワーの正面玄関前には未だに装甲車のオトカコブラが停車しており、状況は全く変化していないように思われた。少なくとも、見た目上は何の変化も無いように見受けられる。しかし俺が思っていた以上に事態は切迫していたらしく、程無くしてオトカコブラ上のヤウズが再び拡声器の電源を入れた。

「サイト! 時間だ! これより突入を開始する! 覚悟しろ!」

 ヤウズの警告に、俺の隣に立つ小林書記官が自身の腕時計でもって時刻を確認する。

「もうそんな時間か」

 どうやらたった今しがた、期限である正午を迎えたらしい。つまり今この瞬間から、ヤウズとその部下達が俺を捕縛するために総領事館の中に突入して来ると言う事だ。するとヤウズ達に先立って、人気の無いテクフェンタワー正面の広場に停められたオトカコブラの脇からやけに背の高い一人の女性がどこからともなく姿を現したかと思うと、真っ直ぐこちらへと歩み寄って来る。

「あれは、始末屋?」

 小林書記官の隣に立って俺達と一緒に窓の外の様子をうかがっていた女性職員の蛍が、聞き慣れない言葉を口にした。

「始末屋?」

 俺が問い返すと、蛍は解説してくれる。

「ええ、そうです。破壊、殺害、回収を生業なりわいとする裏稼業の女で、通称『始末屋』。金さえ貰えればどんな依頼でも確実にこなす、凡俗的で安っぽい言い方をしてしまえば、世界を股に掛けて暗躍するある種の殺し屋の様なものです」

「殺し屋? 何でそんな物騒な女が、ここに?」

「分かりません。しかし彼女がこの場所に姿を現したのが偶然でないとしたら、たぶん加屋さん、あなたの三人の奥様の内のどなたかがあの始末屋を雇って、あなたを殺害もしくは拉致するつもりなのでしょう。どちらにせよ、あの女が我々の味方である事は考えられません。しかしまさか、あの始末屋がトルコに居たなんて……」

 蛍の解説を聞き終えた俺は、再び窓の向こうの、始末屋と呼ばれたやけに背の高い女性を見遣った。その女性はぱっと見た限りでも優に二mに達する長身でスタイルが良く、肌は浅黒くて唇が厚い事から推測するに、おそらくは黒人種ニグロイドの血が濃い人種か民族なのだろう。そして黒い三つ揃えのスーツと赤いネクタイに身を包み、そのスーツの上から冬でもないのに駱駝色のトレンチコートを纏っているその姿は、一見するとやり手の女性ビジネスマンに見えなくもない。しかしこのトレンチコートの黒人の大女、つまり始末屋が決して堅気かたぎの職業の一般市民ではない事は、鋭利な刃をぎらりと光らせる手斧が彼女の両手に一本ずつ握られている事からうかがい知れた。

「何だありゃ? 斧?」

「接近戦を得意とする始末屋の得物は、手斧です。これまでにも世界各地で数多くの政府要人や財界人、また反社会的組織の幹部や構成員などが、彼女の手斧によって無残にほふられて来ました」

 蛍の更なる解説に、まさにその手斧でもってほふられかねない状況に立たされた俺は絶句する。そしてテクフェンタワーの正面玄関の回転扉の前に辿り着いた始末屋は、何故か普通に扉を潜ってタワーに進入せず、その回転扉を強烈な前蹴りでもって強引に蹴破った。人間離れした怪力で蹴破られたガラス張りの回転扉はばらばらに砕け散り、そのガラスの破砕音と金属製の扉の枠が地面を転がる轟音と震動がタワーの十階に入居する総領事館にまで届いて、俺を震え上がらせる。しかも始末屋に続いて、オトカコブラから降りて来た六人ばかりの完全武装のトルコ陸軍兵士もまたテクフェンタワーに突入して来たのだから、尚更だ。

「時間がありません! とにかく急いで地下の駐車場へ!」

 小林書記官が叫んで、窓辺に立っていた俺を急かす。

「危ない!」

 だが次の瞬間、そう叫んだ蛍が俺に飛び掛かり、半ば力ずくでもって強引に床に伏せさせた。かと思えば間髪を容れずに、つい今しがたまで俺が立っていた箇所から最も近い窓ガラスにビシッと蜘蛛の巣状の亀裂と破砕音が走る。

「狙撃されている! 伏せて!」

 蛍に指示された俺は彼女と一緒に床に伏せ、そのまま匍匐前進でもって総領事館の廊下を這い進むと、頑丈なコンクリート製の柱の陰に身を隠した。しかしその間も窓ガラスには次々と銃弾が撃ち込まれ、気付けば透明だったガラスが亀裂だらけになって窓からの視界を遮り、タワーの外の様子をうかがう事は出来ない。

「総領事館のガラスは全て防弾です! この程度の銃撃で貫通される事はありません! ですから今の内にエレベーターに乗ってください!」

 そう言った小林書記官に先導され、また同時に女性職員の蛍に殿しんがりを務めてもらいながら、俺達三人はエレベーターホールを目指して総領事館の廊下を走る。勿論その間も窓ガラスには次々と銃弾が撃ち込まれ続けるが、幸いにも狙撃に使われているのが総領事館が要人の身を守るために用意した防弾ガラスを貫通出来るだけの大口径のライフル銃ではないらしく、俺は無傷の状態を維持出来た。そして辿り着いたエレベーターホールで、俺と小林書記官は別れの時を迎える。

「それでは加屋さん、ここでお別れです。私はこの後、エレベーターと階段からここに突入して来るであろう始末屋と兵士を可能な限り足止めしますから、その間に蛍くんと一緒に逃げてください。……蛍くん、頼んだぞ」

「かしこまりました」

 小林書記官の命令を承諾した蛍は待機していたエレベーターに俺と一緒に乗り込むと、間髪を容れずに操作盤の「閉」ボタンを押した。俺が別れの言葉を告げる間も無く、扉が機械的に閉じる。そして俺と女性職員の蛍の二人だけを乗せたエレベーターは、テクフェンタワー内のエレベーターシャフトを地下の駐車場目指して下降し始めた。

「そう言えば加屋さん、自己紹介が未だでしたね」

 下降するエレベーターの中で、不意に蛍が自己紹介を始める。

「小林輝芳一等書記官の下、在イスタンブール日本国総領事館で外交官補を務めております、蛍です。この名前は本名ではなく暗号名コードネームですので、せいでもめいでもありません。ですので気兼ね無く、蛍とお呼びください」

「はあ」

 一介の外交官補に過ぎない総領事館の女性職員が暗号名コードネームを名乗っているのは何故なのだろうかと、俺は訝しんだ。しかし蛍外交官補は疑問を差し挟む暇も与えず、何かを握り締めた手をこちらへと差し出す。

「それと加屋さん、これをお持ちください。万が一の時のための護身用です」

 そう言った彼女が手渡してくれたのは、一挺の小型の回転式拳銃リボルバーピストルであった。勿論エアソフトガンやモデルガンの様な玩具おもちゃではない、鋼鉄製のシリンダーと鉛の実弾がズシリと重い正真正銘の実銃である。

「チーフスペシャル?」

 ミリタリーオタクの端くれである俺は、すぐにその拳銃ピストルの種類を看破した。

「そうです。使い方は分かりますか?」

「ええ、まあ、これと同じ銃のモデルガンを持っていましたから」

「そうですか。でしたら日本に戻るまで、持っていてください」

 蛍外交官補にそう言われた俺は、手渡された米S&W社製のM36回転式拳銃リボルバーピストル、通称『チーフスペシャル』をスウェットのポケットに捻じ込む。するとちょうど拳銃ピストルをポケットに捻じ込み終えたタイミングでポーンと言う電子音が鳴り、俺達が乗ったエレベーターがテクフェンタワーの地下駐車場に辿り着いた事を告げた。

「この車に乗ってください。これからアタテュルク国際空港に向かいます」

「空港?」

 地下駐車場の一角に停められていた、総領事館の公用車である真っ黒なリムジンベンツに乗り込みながら俺が問うと、蛍外交官補は運転席でエンジンを始動させながら答えてくれる。

「当初我々日本国総領事館はトルコ陸軍の上層部と交渉し、ヤウズ・バヤル中佐の蛮行を内々に制止、もしくは抑止した上で彼と彼の部下達の身柄を拘束してもらおうと考えました。しかし軍のMP《ミリタリーポリス》には既にバヤル中佐が手を回していたらしく、残念ながら、この交渉は失敗に終わりました。少なくともトルコ陸軍のMP《ミリタリーポリス》は、今日の午後までは事態を静観する構えのようです」

「それで?」

 俺が再び問うのと同時に蛍外交官補が運転するリムジンベンツがテクフェンタワーの裏手の地下駐車場の出口から発進し、地上の公道へと躍り出た。そしてその間も、蛍外交官補の解説は続く。

「そこで我々は仕方無く、加屋さん、あなたをとりあえず日本まで避難させる事を決定いたしました。幸いにも政府専用機が公用でドイツまで来ていましたので、これを急ぎトルコまで回してもらい、今はアタテュルク国際空港で待機させています。ですのでこれに乗るために、今は一分一秒でも早く空港に向かいましょう」

「なるほど」

 得心した俺を乗せたリムジンベンツはアタテュルク国際空港を目指し、公道を走り始めた。しかし次の瞬間、俺は眼を見張る。テクフェンタワーのすぐ裏手の別のビルの地下駐車場から一輌の装甲車、つまりトルコ陸軍正式採用のオトカコブラが、リムジンベンツの行く手を遮るようにして姿を現したのだ。勿論地下駐車場から姿を現したオトカコブラは、今もタワーの正面玄関前に陣取っている、ヤウズを乗せたオトカコブラとはまた別の車輌である。

「もう一台居たのか!」

 舌打ち混じりにそう叫んだ蛍外交官補がリムジンベンツのハンドルを目一杯に切りながら、アクセルをベタ踏みで踏み込んだ。そして行く手を遮ろうとするオトカコブラの脇を、大きく歩道にまで車体をはみ出させながらギリギリですり抜けるたかと思えば、そのまま全速力でもって公道を駆け抜ける。蛍外交官補の運転技術ドライビングテクニックも、女性ながらになかなか大したものだ。

 だが勿論、オトカコブラも諦めない。リムジンベンツの足止めに失敗した事を悟るとすぐさま車道をUターンし、やはり全速力でもってこちらを追って来る。俺を乗せたリムジンベンツとそれを追うオトカコブラ、どちらも時速百㎞ほどの速度で走っているに違いない。

「追われてる! 振り切って逃げろ!」

 焦った俺は運転席でハンドルを握る蛍外交官補に向かって、思わず命令口調で叫んでしまった。しかし自分が乗っている車のすぐ背後を、大口径の機関銃を搭載した重装甲の装甲車が追って来ている状況ともなれば、思わず無礼な口調になってしまったとしても殊更に責められるいわれは無い。しかもカーチェイスを繰り広げるこちらのリムジンベンツとオトカコブラとの車間距離が徐々に詰められているのだから、尚更だ。

「もっとスピードは出ないのか?」

「無理です! このベンツは見掛け上は只のベンツですが、搭乗者の身の安全を確保するために装甲車並みにモノコックフレームや車体各所のパネルを分厚くしているので、その分だけ重いんです! これ以上の速度は出せません!」

 俺の問い掛けに蛍外交官補が答えている間も、空港目指して公道を走り続けるリムジンベンツとオトカコブラとの車間距離は詰められて行く。そしてそんなオトカコブラの車内からトップルーフ上に、この場にはあまり似つかわしくない皺だらけの一人の小柄な老婆が、上半身を乗り出すようにして姿を現した。そしてその老婆はオトカコブラに搭載された拡声器でもって、前を走るリムジンベンツに乗った俺に警告する。

「サイト! 逃がしゃしないよ、この人でなしの糞野郎が! よくもあたしの可愛い曾孫のヤセミーンを傷物にしてくれたね! 地獄の底までだって必ず追い詰めてぶち殺してやるから、覚悟おし!」

 淑女らしからぬ罵詈雑言でもって俺を恫喝した小柄な老婆は、以前一度だけ結婚式の会場で顔を合わせた事がある、ヤセミーンの曾祖母のナディデ婆さんだった。しかしあの時は曾孫の一世一代の晴れ姿に感極まって涙ながらに俺を祝福していた老婆の優しげな表情も、今はその曾孫が離婚の憂き目に遭っているためか、怒髪天を衝くばかりの勢いの憤怒の表情である。

「死んで地獄に落ちな!」

 拡声器越しにそう叫んだナディデ婆さんが、公道上に違法駐車された乗用車やトラックを強引に押し退けながらリムジンベンツを追って来るオトカコブラの上で、何か筒状の物体を肩に担いだ。そしてミリタリーオタクの端くれである俺は即座にその筒状の物体の正体を看破すると、運転席の蛍外交官補に伝える。

「RPG《対戦車ロケット砲》だ!」

 俺がそう言うが早いか、ナディデ婆さんが肩に担いだRPG《対戦車ロケット砲》が火を噴いた。そして発射筒から射出された弾頭がロケット噴射による噴煙を背後に従わせながら、俺と蛍外交官補が乗るリムジンベンツへと迫り来る。

「ちいっ!」

 再びの舌打ちと共に、蛍外交官補が大きくハンドルを切った。するとリムジンベンツは矢庭に車体を傾け、それによって右側の車輪が車道と歩道の境に設置されていたゴミ箱に乗り上げた事により、一時的にではあるが片輪走行の状態を維持する。そしてナディデ婆さんが発射したRPG《対戦車ロケット砲》の弾頭はリムジンベンツに直撃はせずに、片輪走行によって浮き上がった車体の下を通過していった。

「マジかよ!」

 思わずそう叫んだ俺は、ついさっき蛍外交官補の運転技術ドライビングテクニックを「女性ながらになかなか大したものだ」程度に評価した事を反省し、訂正する。彼女はかつて俺が出会った中でも、最高の運転技術ドライビングテクニックの持ち主に相違無い。すると俺がそんな事を考えている間にも車体の下を通過して行ったRPG《対戦車ロケット砲》の弾頭はリムジンベンツの数十m先の公道の路面に命中し、ドカンと言う轟音と共に爆発した。そして噴き上がる爆炎と飛び散る破片の雨の中を、俺達を乗せたリムジンベンツは駆け抜けて行く。

 だがこれで、追っ手が諦めた訳ではない。見れば追って来るオトカコブラに乗ったナディデ婆さんは、手にしたRPG《対戦車ロケット砲》の発射筒に二発目の弾頭を装填すると、それを肩に担いで再びこちらを狙う。

「逃がさないよ!」

 ナディデ婆さんが、RPG《対戦車ロケット砲》の発射筒の引き金に指を掛けながら叫んだ。しかしちょうどこの時、高速道路へと続く立体交差道路に差し掛かったリムジンベンツは一切スピードを落とさないまま強引に急カーブを曲がって、これに進入する。すると当然ながら急カーブを高速で曲がった事によって強烈な遠心力が発生し、リムジンベンツは大きく車体を傾け、後部座席に座る俺はカーブの外側のドアに身体を押し付けられて身動きが取れない。

 とは言え、それでもリムジンベンツは立体交差道路の急カーブを曲がり切った。だがしかし、やはりこちらと同じく一切スピードを落とさないまま急カーブに差し掛かったオトカコブラは事情が違う。何故なら装甲車であるオトカコブラはリムジンベンツよりも遥かに重いし、しかも視界を維持するために車高が高いのだ。つまりそれだけ重心が高い位置にあるので、遠心力の影響をもろに受けざるを得ない。そして急カーブを曲がり切れなかったオトカコブラは高速道路の防音壁に激突すると、そのまま防音壁を突き破って文字通り道を外れ、遂にはバランスを崩して横転した。もうこれ以上、あのオトカコブラが俺を追って来る事は無いだろう。

「やった!」

 とりあえず直近の危機が去った事を祝して俺は歓喜の声を上げたが、そうそう安易には喜べない。と言うのも、いくら俺の殺害を目論んでRPG《対戦車ロケット砲》まで持ち出した危険な老婆とは言え、それでも一応はいたわって然るべき高齢者のナディデ婆さんが無事かどうかに気を揉んでいたからだ。

「一旦バックで逆走して、来た道を戻ります。揺れますから、しっかり掴まっていてください」

 運転席の蛍外交官補がそう言うのと同時にギアをR《リバース》に入れ、彼女の言った通り、リムジンベンツは高速道路上をバックで逆走し始める。そして逆走するリムジンベンツが横転したオトカコブラの真横に差し掛かった際に、俺は中指を立てながらこちらを挑発する苦々しげな表情のナディデ婆さんの無事な姿を確認して、ホッと安堵した。とりあえずあの小柄な老婆が運悪く、オトカコブラが横転した際に車体と地面との間に挟まれて無残に圧死するなどと言う最悪の事態だけは回避出来たらしい。

「このまま高速道路を真っ直ぐ直進すれば、アタテュルク国際空港は眼の前です」

 そう言った蛍外交官補は再びギアを一速から二速、三速へと順次入れ直し、ハンドルを右に切ってイスタンブール・ベルト・ウェイと呼ばれる高速道路に再度進入すると、目的地であるアタテュルク国際空港を目指してリムジンベンツを走らせ続ける。後はこのまま高速道路を西南西の方角に20㎞ばかりも直進すれば、空港は眼と鼻の先だ。俺はこのまま何事も無く、無事に辿り着ける事を祈る。

「!」

 だがしかし、好事魔多しとでも言えばいいのか、物事が順調に推移している時ほどそうは問屋が卸さない。俺は高速道路上を走るリムジンベンツのバックミラーに映る、ぐんぐんこちらへと近付いて来る一輌の装甲車の存在に気付いてしまった。そしてその装甲車のトップルーフ上には、俺の二番目の妻のヤセミーンの実兄である、ヤウズ・バヤル陸軍中佐の姿が確認出来る。つまり在イスタンブール日本国総領事館がテナントとして入居するテクフェンタワーの正面玄関前に陣取っていたもう一輌のオトカコブラが、俺を追ってここまで来たのだ。

「サイト、逃がさんぞ! 妹の敵であるお前は、兄であるこの俺が討つ! ここで大人しく、蜂の巣になりやがれ!」

 イスタンブールの公道に続いて高速道路上でカーチェイスを繰り広げながら、オトカコブラに乗ったヤウズは拡声器越しにそう叫ぶと、俺が乗るリムジンベンツに向かってトップルーフ上の銃座に固定された重機関銃を乱射する。するとダダダダダと言う耳をつんざくような銃声と眩いマズルフラッシュと共に射出された数多の銃弾が、まるで雨霰あめあられの様に降り注いで、リムジンベンツの車体やリアガラスに次々と着弾した。

「うわあああっ!」

 当然ながら銃撃されているリムジンベンツの車内で身を竦ませながら俺は悲鳴を上げるが、運転する蛍外交官補は余裕の表情である。

「大丈夫です! この程度の攻撃であれば、このベンツはそうそう簡単に破壊されたりはしません!」

 蛍外交官補の言う通り、確かにリムジンベンツの防弾処理された車体やリアガラスは、オトカコブラに搭載された重機関銃から射出される大口径の銃弾を防ぎ切っていた。しかしよく見ればそれは最初に被弾した一発目のみで、同じ箇所に二発も三発も重ねて被弾すれば、いつかは貫通されてしまいそうな勢いである。

「駄目だ、向こうは50口径の重機関銃だ! このままだと、車体が持ち堪えられない!」

「ちいっ!」

 これで何度目になるのか、俺の報告を受けた蛍外交官補は舌打ちを漏らした。どうやら予想していた以上に、オトカコブラの攻撃によってこちらが被る損耗が激しいらしい。そこで運転席側の窓を開けた彼女はどこからともなく取り出した数個のM67破片手榴弾の安全ピンを抜いて安全レバーを取り外すと、正確にタイミングを見計らってから、リムジンベンツの窓から後方へとそれらを放り投げた。すると安全レバーが取り外されてから五秒後、後方から迫り来るオトカコブラの車体のちょうど真下に転がり込んだ瞬間に、それら数個の破片手榴弾は一斉にドカンと爆発してオトカコブラの重い車体を持ち上げる。

「やった!」

 再びの歓喜の声を上げる俺の視線の先で、破片手榴弾の爆風によって車体を持ち上げられたオトカコブラは空中でくるりと半回転した後に、まるで宙返りに失敗した体操選手の様にひっくり返った状態のまま高速道路の路面に落下した。そしてひっくり返ったオトカコブラは天を向いた四つのタイヤをからからと空転させるばかりで、もうそれ以上動く事は無い。

「ヤウズは死んでなきゃいいんだが……」

 俺はかつては義理の兄同然に慕っていたヤウズの身を案ずるが、無駄に頑丈で豪胆な性格の彼の事だから、きっとこの程度の事で死にはしないだろう。とにかく今は彼の身の安全よりも、この俺自身が無事に日本まで帰れるか否かこそが、何よりも優先されるべき最重要事項なのだ。

「これで追っ手は全て撃退しました。急ぎ、空港に向かいます」

 冷静な口調でそう言いながら、手榴弾を放り投げるために開けた運転席側の窓を閉め直す蛍外交官補。彼女がリムジンベンツの運転だけでなく手榴弾による戦闘までをもこなしてみせた事に俺は驚きを隠せないし、本当にこの総領事館の女性職員が一介の外交官補に過ぎないのだろうかと訝しむ。それとも最近の公務員は、何か特殊な訓練でも受けているのだろうか。

「?」

 しかし眼の前の外交官補の素性や正体を訝しんでいる暇は、今の俺には無い。何故ならば、オトカコブラの銃撃によって蜘蛛の巣状の亀裂だらけになってしまったリムジンベンツのリアガラス越しに、高速道路の遥か彼方から猛烈な速度でもってこちらへと接近して来る一輌のバイクの存在に気付いてしまったからである。

「何だ、あれは?」

 それはカウルが緑と黒のツートンカラーでペイントされた、俗にレーサーレプリカ、もしくはスーパースポーツと呼ばれる種類の高速走行に特化したバイクであった。また同時に、残念ながら俺はバイクにはあまり詳しくないのでその車種までは特定出来なかったものの、カウルに『Kawasaki』のロゴがプリントされている事から日本のカワサキモータース製のバイクである事までは特定出来る。

 そしてそのカワサキ製のバイクはあっと言う間にこちらに接近して来ると、俺と蛍外交官補が乗るリムジンベンツの真横につけて、一定の間隔を保ったままぴったりと併走し始めた。またバイクに乗っているのは眼鏡を掛けた髪の長い女性であり、顔立ちの整った白人種コーカソイドの、結構な美人にも見える。

「!」

 すると唐突に、バイクに乗った髪の長い女性が眼鏡越しにこちらを見ながらにやりとほくそ笑んだかと思えば、どこからともなく一挺の小型の銃を取り出した。その銃はコンパクトでありながら大量の拳銃弾を高レートで速射する、米MAC社製のイングラムMAC10サブマシンガン。しかも正規品ではないツインドラムマガジンを装着する事によって装弾数を数倍に増加させた、ある種の改造銃である。

「死にな!」

 バイクに乗った髪の長い女性はそう叫ぶと、何故か歯を剥いてにたにたと笑いながら、リムジンベンツの後部座席に乗った俺の眉間に照準を合わせてイングラムMAC10を掃射し始めた。あまりにも連射速度が速過ぎるために一続きの連続音として聞こえるほどの高レートの銃声と共に、膨大な量の9㎜パラベラム拳銃弾がマズルフラッシュを輝かせながら、リムジンベンツの後部座席のサイドガラスに次々と着弾する。

「うわああああぁぁぁっ!」

 ツインドラムマガジン内の拳銃弾を全弾掃射された俺は堅く眼を瞑って身を竦めながら思わず悲鳴を上げるが、幸いにも防弾処理されたリムジンベンツのサイドガラスが全ての銃弾を受け止めてくれたので、毛ほどの怪我も無い。しかし今の掃射だけでも、俺の身を守ってくれたサイドガラスは一面びっしりと亀裂だらけになってしまった。要するに、こちらも決して無傷と言う訳ではない。

「ひゃっはーっ! やっぱり特殊車輌の防弾ガラスは硬いねえ! でももう二、三マガジン分も銃弾をぶち込んだら、ガラス自体がボロボロになって窓枠から外れちまうんじゃねえの?」

 何がおかしいのか、バイクに乗った髪の長い女性は真っ白な歯を剥いてげらげらと笑いながらそう言うと、手にしたイングラムMAC10の弾倉マガジンを交換してからボルトを引いて初弾を再装填した。しかも再装填されたのもまた、装弾数を増加させたツインドラムマガジンである。

「加屋さん! 助手席まで移動して来てください!」

 状況が切迫していると踏んだらしい蛍外交官補が背後の後部座席に座る俺に向かって叫び、命令した。彼女が何をする気なのかは分からないが、助手席に移動しろとはなかなか無茶な要求である。

「早く! 急いで!」

「は、はい!」

 蛍外交官補の気迫に気圧された俺は仕方無く、助手席のヘッドレストを取り外して通路を確保すると、天井と座席との間の隙間を潜り抜けてリムジンベンツの後部座席から助手席へと強引に移動した。そして助手席で腰を落ち着ける暇も無く、蛍外交官補は次の命令を下す。

「今度はそこから運転席に移動して、私と運転を代わってください!」

「えぇ?」

 高速道路上を、それこそ文字通りの意味での高速で移動している最中の車の運転を代われと言うのだから、俺は驚きを隠せない。だがそんな俺にはお構いなしに、蛍外交官補はギアをニュートラルに入れるとハンドルから手を離した。

「おっとっと」

 俺は慌てながら、蛍外交官補が手を離してしまったハンドルを握る。すると彼女は時速百㎞ほどで走行中のリムジンベンツの運転席側のドアを開けるとスーツの懐から一挺の自動拳銃オートピストルを取り出し、その自動拳銃オートピストルでもってバイクに乗った髪の長い女に応戦し始めた。蛍外交官補が手にした自動拳銃オートピストルは、伊ベレッタ社製のM1934。比較的小型で手の小さい女性でも取り扱い易いこの自動拳銃オートピストルがパンパンと言う軽い銃声と共に火を噴くが、応戦された髪の長い女は乗っているバイクを一旦後退させ、リムジンベンツの背後に回り込んで身を隠す。

「このまま高速道路を直進すれば空港ですから、そこまでの運転は任せました!」

 にわかには信じられない事だが、そう言った蛍外交官補は高速走行中の車輌の外に素早く踊り出ると、華麗な身のこなしでもってリムジンベンツの屋根の上に飛び乗った。そして振り落とされないようにバランスを取りながら、バイクに乗った髪の長い女の正体を看破する。

「カワサキのバイクにドラムマガジンのイングラム! そしてその下品な笑い声! 貴様の正体、笑う女殺し屋こと『バーバラ・ザ・ブッチャー』とお見受けした! いざ尋常に、勝負!」

 妙に時代掛かった口調でもってそう言った蛍外交官補は、何故か高速走行するリムジンベンツの屋根の上で、まるで歌舞伎役者の様な見得を切ってみせた。その切れの良さに、どこからかバタバタバタと言う附け打ちの音が聞こえて来そうですらある。

「ひゃはははははっ! その通りだ、日本人のお譲ちゃん! このあたしこそ笑う女殺し屋バーバラ! バーバラ・ザ・ブッチャーだ! だがそう言うあんたも、堅気かたぎじゃないんだろう?」

「私の事はどうでもいい! それよりも貴様、誰に雇われた!」

「あたしの雇い主はフェルハト・バジェオウルと、その孫娘のクロエ・バジェオウル! 二人の命により、サイト・カヤを亡き者にしてくれる!」

「なるほど、バジェオウル家に雇われたか!」

「そうとも! サイト・カヤ殺害の邪魔をするなら、日本人のお譲ちゃん、あんたも殺すまでだ! 死ね!」

 バイクに乗った髪の長い女性、つまりバーバラ・ザ・ブッチャーと呼ばれた女殺し屋は歯を剥いてげらげらと笑いながらそう言うと、手にしたイングラムMAC10の銃口をリムジンベンツの上の蛍外交官補に向けた。すると銃口を向けられた蛍外交官補もまた、手にしたベレッタM1934の銃口をバーバラに向ける。こうして蛍外交官補とバーバラとのカーチェイスを交えながらの死闘が幕を開けたが、それを傍観しているような暇も余裕も、今の俺には無い。何故なら蛍外交官補からリムジンベンツの運転を委譲された今の俺には、慣れないマニュアル車であるこの車輌に乗った自分自身を、無事に空港まで送り届けると言う使命が託されているからだ。

「えっと、えっと、えっと」

 リムジンベンツの運転席に移動した俺は狼狽しつつも開け放されていたドアを閉めると、とりあえずはクラッチを踏み込みながらニュートラルに入れられていたギアを三速に入れ直し、半クラッチを経由してアクセルを踏み込む。後はアクセルをベタ踏みにしたまま目的地であるアタテュルク国際空港を目指せばいいだけだが、当然ながら高速道路上には俺達三人が乗るリムジンベンツとカワサキのバイク以外にも多くの車輌が走行しており、それらを華麗な運転技術ドライビングテクニックでもって回避しつつ走り続けなければならないのだ。大学在学中に普通自動車運転免許証を取得済みとは言え、教習所を卒業した後は殆ど車を運転した事が無いペーパードライバーに過ぎない俺にこれだけのミッションをこなせと言うのは、はっきり言って酷である。

「うわ、うわ、うわ」

 泡を食って変な声を漏らし、ハンドル操作を誤って蛇行運転を繰り返しながらも、俺はどうにかこうにかリムジンベンツを走らせ続けた。するとその間も、俺が運転するリムジンベンツの屋根の上やボンネット上をアクロバティックに飛び回る蛍外交官補とバイクに乗ったバーバラとは、両者が手にしたイングラムMAC10とベレッタM1934でもって銃撃戦を繰り広げ続ける。しかしどうやら両者の実力は拮抗していると言うか、もしくは両者共に決め手や決定打に欠けているとでも言えばいいのか、なかなか決着が着かない。

「!」

 その時、俺は気付いた。俺達が乗るリムジンベンツとカワサキのバイクの後方から、周囲の一般車輌を強引に押し退け、もしくは車体の重さを利用して無理矢理弾き飛ばしながら、一輌の大型トラックが猛烈な速度でもってこちらへと接近しつつある。そしてその大型トラックを運転しているのは誰あろう、冬でもないのにトレンチコートを着た黒人の大女であった。つまりテクフェンタワーに単身乗り込んで来たあの始末屋が、どこから調達して来たのか俺が運転するリムジンベンツよりも遥かに大きい大型トラックに乗って、高速道路を追って来たのである。

「加屋さん、避けて!」

 接近して来る大型トラックに気付いた蛍外交官補が、リムジンベンツの屋根の上から俺に忠告した。しかし高速走行中に大きくハンドルを切ってしまっては車体が不安定になって横転してしまいかねないので、背後から迫り来る大型トラックをそうそう簡単に避ける事は出来ない。するとそんな事を危惧している暇も無く、見る間に接近して来ていた始末屋が運転する大型トラックは、リムジンベンツはリアバンパーに背後から追突する。

「おうっ!」

 追突された際のドンと言う衝撃でリムジンベンツの車体が大きく揺れ、俺の喉からは変な声が漏れた。屋根の上では蛍外交官補も体勢を崩すまいと踏ん張り、身動きが取れない。すると反撃されないのをいい事に、始末屋が運転する大型トラックは二度三度と繰り返しリムジンベンツに追突して来る。

「おいコラ始末屋ぁ! てめえ後から割り込んで来て、あたしの獲物を横取りしてんじゃねえよコラァ! 邪魔だからむこう行ってろや、このデカブツがぁ!」

 大型トラックを運転する始末屋に向かって大声で怒声を浴びせ掛けたのは、カワサキのバイクでもってトラックと併走するバーバラ。どうやら始末屋の乱入によって蛍外交官補との銃撃戦に水を差されたのが癪に障ったのか、ひどくご立腹らしい。しかし怒声を浴びせ掛けられた始末屋はそんなバーバラを完全に無視して一瞥もくれず、尚も大型トラックでもって俺が運転するリムジンベンツに幾度も追突して来るばかりだ。

「てめえ無視してんじゃねえぞ始末屋ぁ! だったらてめえもそこの日本人どもと一緒に死ねやコラァ!」

 無視された事がよほど腹に据えかねたのか、どうやら怒り心頭に発したらしいバーバラ。彼女は手にしたイングラムMAC10の銃口を併走する大型トラックの運転席に向けると躊躇無く引き金を引き、ツインドラムマガジンに装填された大量の9㎜パラベラム弾を始末屋目掛けてフルオートで撃ち込む。

「ひゃっはーっ!」

 フルオート射撃によるパパパパパと言う連続した一続きの銃声と共に、あっと言う間に大型トラックのフロントガラスやサイドガラスは粉々に砕かれ、運転席に座る始末屋は蜂の巣になった。俺が運転しているリムジンベンツとは違って大型トラックの車体やガラスには防弾処理が施されていないので、こんな至近距離から銃撃されては一溜まりもあるまい。

「?」

 しかし次の瞬間、俺も蛍外交官補も、そして銃撃した当の本人であるバーバラもまた眼を見張って驚愕する。何故なら銃弾の雨を全身に浴びた筈の始末屋はまるで涼しい顔、もしくは淡々と仕事をこなす職人の様な無表情のまま大型トラックのハンドルを握り続けており、まるでダメージを負った様子が無いからだ。しかしよく見れば始末屋が着ている駱駝色のトレンチコートや黒い三つ揃えのスーツは銃弾が貫通した穴だらけになっているので、決して銃弾が空砲であったとか、ましてやこの至近距離で一発も被弾しなかったなどと言う事はありえない。

「ひゃははははっ! やっぱり噂に聞いていた通り、やたらと頑丈じゃねえか、始末屋よお! てめえをぶっ殺すには、9パラ程度じゃ威力が足りないってか?」

 激怒しながら笑うと言う複雑怪奇な感情を発露させつつ言い放ったバーバラの言葉によれば、どうやら始末屋は9㎜パラベラム弾の直撃を喰らっても死なない、やたらと頑丈な人間だと言う事が推測される。だが果たして、そんな頑丈な人間がこの世に存在するのだろうか。何はともあれ、実際にイングラムMAC10の銃弾をフルオートで喰らっても平気な顔をしている始末屋の姿を生で見ていなければ、到底信じられない事実である。

「だったら、こいつにも耐えられるか?」

 笑いながらそう言ったバーバラはイングラムMAC10を仕舞うと、どこからともなく新たな銃を取り出した。それは米オリンピックアームズ社製の、拳銃ピストルと銘打ちながらも拳銃弾よりも遥かに強力な5.56㎜ライフル弾が射撃可能な異形のマシンピストルこと『OA98』であり、しかもこれまたツインドラムマガジンが装填されているあたりが実に禍々しい。そしてこのOA98の照準を、バーバラは始末屋に合わせる。

 するとここで、さすがに貫通力が高いライフル弾が相手では分が悪いと踏んだのか、始末屋が動いた。彼女は運転する大型トラックを一旦左の追い越しレーンに移動させると速度を上げてリムジンベンツと併走し、更にはそのまま追い抜くかのような挙動をみせる。そしてまさにこれから追い抜こうかと言うタイミングでもって、始末屋は大型トラックのハンドルを大きく右に切った。当然ながら、ただでさえ車高が高くて重心が安定しない大型トラックのハンドルを高速走行中に急に切れば、車体はバランスを崩して横転してしまう事は自明の理である。そして御多分に洩れず、始末屋が運転する大型トラックもまた横転した。しかもすぐ右のレーンを走る、俺が運転するリムジンベンツを巻き込みながらである。

「危ねえ!」

 俺は叫ぶが、時既に遅し。ハンドルを切るなりブレーキを踏むなりの回避行動を採る間も無く、リムジンベンツを車体全体で押し潰すようにして、横転した大型トラックがこちらへと圧し掛かって来た。潰されたリムジンベンツは車体下部のドライブシャフトが折れたのか、タイヤが空転する。そして二台の車輌は互いに絡み合うようにして、高速道路の路面をがりがりと削って火花を散らしながら百mばかりも滑走した後に、ようやくその動きを止めた。

「痛ててて……」

 ハッと眼を覚ました俺は苦悶の声を漏らしながら顔を上げると、ぶるぶると首を左右に振ったり自分で自分の頬をぴしゃぴしゃと叩いたりして、意識の回復に努める。どうやら一瞬とは言え、大型トラックにリムジンベンツごと押し潰された衝撃で気を失ってしまっていたらしい。そして全身をくまなく触ってみて怪我の有無を確認するが、髪の生え際に小さな裂傷を負って出血している以外には、特にこれと言って負傷してはいないようだ。しかしもし仮に俺が乗っていたのが装甲車並みの防弾処理が施されたリムジンベンツではなかったとしたら、今頃は俺の身体は江ノ島名物の蛸煎餅の様にぺちゃんこに潰されており、むしろ気を失うだけで済んだのは不幸中の幸いと言える。

 とにかく、今の俺は大型トラックに押し潰されたリムジンベンツの中で身動きが取れない状況だ。そこでとりあえずはエンジンを始動させようとイグニッションキーを回してみるが、ブオオオォンと言う音と共にエンジンは回転するものの、やはりドライブシャフトが折れているのかタイヤに動力が伝わる様子は無い。

「やっぱり駄目か……」

 もうこれ以上この車輌を走行させる事は不可能と判断した俺は、今度は車内からの脱出を試みる。しかし運転席側も助手席側も大型トラックに押し潰された際にモノコック構造のフレームが曲がってしまったせいか、ドアが開かずに脱出出来ない。こんな時は頑丈で重く、人力では破壊出来ない防弾処理されたドアやガラスは、むしろ脱出の妨げになるばかりだ。

「加屋さん! 大丈夫ですか?」

 不意に、びっしりと亀裂だらけの助手席側の窓ガラスの向こうから蛍外交官補の声が聞こえて来たので、俺は応える。

「ああ、大丈夫だ! しかし、ドアが開かなくて出られない!」

「分かりました! それではドアを切断しますので、離れていてください!」

「切断?」

 装甲車並みの強度を誇るリムジンベンツの車体を一体どうやって切断するのだろうかと訝しみながらも、俺は言われた通りに助手席側のドアから可能な限り退避した。すると次の瞬間、何かぎらりと光る細くて薄い物体が助手席側のドアを貫通したかと思えば、それがドアとその周囲を貫通したまま撫で回すかのように縦横無尽に動き回る。そして一拍の間を置いた後に、その細くて薄い物体が動き回った軌跡に沿って頑丈な筈のドアはばらばらに切断され、数多の破片と化して高速道路の路面上を転がった。ドアを失った助手席の向こうのぽっかりと開いた空間から、蛍外交官補がこちらを覗き込む。

「加屋さん、大丈夫ですか? 早く外へ!」

「あ、ああ」

 蛍外交官補に促されるがままに、俺はリムジンベンツの車外へと急いで転がり出ると、ホッと安堵の溜息を漏らした。そして眼前の蛍外交官補の立ち姿を見遣れば、一体どこからそんな物を取り出したのかは判然としないが、彼女は一振りの黒漆塗りの鞘に収まった太刀たちを居合い抜きの要領でもって構えている。まさかとは思うが、たった今しがたリムジンベンツの防弾処理が施されたフレームやパネルやガラスを豆腐かバターの様に易々と切り裂いて見せたのがあの太刀たちではないかと想像するも、そんな事はあり得ないと俺の理性と教養が想像を否定した。しかし目下もっかのところそれ以外の選択肢が考えられないので、俺は困惑するばかりである。

「揃いも揃って生き残ってやがったか、この黄色い猿の日本人どもめ! 二人揃ってぶっ殺してやるから覚悟しな!」

 大型トラックとリムジンベンツの横転事故によって砂埃が舞い散る高速道路上でそう叫んだのは、イングラムMAC10とOA98を二挺拳銃の要領でもって左右それぞれの手に構えたバーバラ・ザ・ブッチャーであった。そして俺と蛍外交官補の二人から50mばかりも離れた地点で乗っていたカワサキのバイクから降りた彼女は、真っ白な歯を剥いてげらげらと笑いながらこちらへと歩み寄りつつ、手にした二挺のマシンピストルをセミオートで正射する。

「危ない!」

 すると言うが早いか蛍外交官補が腰の太刀たちを抜き、にわかには信じ難い事だが、音速とほぼ等しいかそれ以上の速度でもってこちらに飛んで来る銃弾を全て切り払ってみせた。いや、正確に言えば銃弾を切ってはいない。太刀たちの刀身で横からはたく事によって、全ての銃弾の軌道を逸らしてみせたのである。当然ながら軌道を逸らされた銃弾は的をたがえ、俺も蛍外交官補も無傷であった。

「はあ? 何だそりゃ? すげえ! こいつ今、剣で銃弾を弾きやがったぜ! そんな事が出来る人間なんて、初めて見た!」

 興奮気味に叫ぶバーバラとは対照的に、再び鞘に納めた太刀たちを腰に居合いの構えを取った蛍外交官補は冷静に指示を下す。

「加屋さん、背後のベンツの陰に身を隠してください」

「え?」

「早く! 今度はフルオートが来ます!」

 急かされた俺は身を翻すと、言われた通りにリムジンベンツの車体の陰へと慌てふためきながら身を隠した。

「逃がさないよ!」

 すると間髪を容れずに、バーバラがげらげらと笑いながら二挺のマシンピストルを両手に構え、今度はフルオートでもってこちらに一斉掃射する。

「ひぃっ!」

 悲鳴を上げながらもすんでの所で身を隠し終えたおかげで、俺は防弾処理が施されたリムジンベンツの車体を盾にする事によって難局を乗り切った。拳銃弾とライフル弾が入り混じった銃弾の雨がまさに雨霰あめあられの如く降り注ぎ、俺が身を隠したリムジンベンツの車体にがんがんと着弾すると同時に眩い火花と破片が宙を舞う。そして俺に身を隠すように指示を下した蛍外交官補自身は身を隠さずに、人間離れした跳躍力でもってその場から素早く飛び退くと、身を捻りながら空中で一回転して全ての銃弾を回避してみせた。先程の様に太刀たちの刀身ではたいて銃弾の軌道を逸らす事による回避を試みなかったのは、さすがの彼女もフルオートの二挺拳銃から射出される膨大な量の銃弾全てに対処するだけの余裕が無かったからだと思われる。

「にんっ!」

 華麗な跳躍によって銃弾を回避してみせた蛍外交官補が、着地と同時にポーズを決めながら気合一閃、着ていた濃紺のビジネススーツを一瞬で脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てられたビジネススーツが、まるで闘牛士マタドールが振り翳す赤布ムレータの様に宙を舞う。するとビジネススーツの下から黒漆と朱漆の二色で塗られた甲冑交じりの戦闘用の和装、有り体に言ってしまえば忍者装束に身を包んだ蛍外交官補が姿を現した。ちなみにビジネススーツを脱ぐ前よりも脱いだ後の方が何故か布面積や甲冑の分だけ装身具の体積が増えているのだが、一体どうやってスーツの下にそれらを隠して着ていたのか、その点を詮索するのは野暮と言うものだろう。

「我こそは在イスタンブール日本国総領事館所属の外交官補にして、国家公安委員会直属のくのいちが一人、蛍! 邦人保護の命を受け、ここに推参!」

 再びの見得を切りながら、蛍外交官補は自らをくのいち、つまり女忍者だとうそぶいてみせた。するとそんな蛍外交官補の姿を見たバーバラが、興奮気味に叫ぶ。

「うわ! すげえ、ニンジャだ! 本物のニンジャが現れやがったぜこん畜生!」

 どうやら本物のくのいちの登場に、バーバラはげらげらと笑いながら興奮冷めやらぬ様子らしい。勿論この俺自身もまた、蛍外交官補が一介の女性外交官補ではなかった事に驚きを隠せない者の一人だ。そして太刀たちを構えた蛍外交官補とマシンピストルを構えたバーバラが互いに間合いを計り合いながら対峙する背後で、今度は横転した大型トラックに異変が生じる。

「何だ?」

 異変を察知した俺の視線の先で、リムジンベンツを押し潰す格好で横転したまま微動だにしなかった大型トラックがぐらぐらと揺れた。なにやらトラックの内側からごんごんと車体を叩く様な音も聞こえて来る。そして不意に、バーバラの銃撃と横転した際の衝撃でもって弾痕と亀裂だらけになっていたフロントガラスが、まるで紙屑の様にくしゃくしゃにひしゃげながら車輌の外側に向かって弾け飛んだ。フロントガラスが無くなった大型トラックの車内からは、黒いスラックスと革靴を履いたやけに長い脚が覗いている。つまりトレンチコートを着た黒人の大女こと始末屋が、行く手を遮る邪魔なフロントガラスを強引に蹴破って大型トラックから脱出し、その姿を現したのだ。勿論始末屋の両手には左右それぞれ一振りずつ、鋭利な刃をぎらりと輝かせる手斧が握られている。

「やっぱり生きてやがったか、始末屋ぁ! てめえもそこのニンジャどもと一緒にぶっ殺してやるから、覚悟しな!」

 横転した大型トラックの車内から高速道路の路面上へと降り立った始末屋にOA98の銃口を向けて笑いながら、バーバラが挑発した。しかし始末屋はそんな挑発には乗らずに、やはり淡々と仕事をこなす職人の様な無表情のまま両手の手斧を構えると、対峙するバーバラと蛍外交官補にじりじりと歩み寄る。一方で蛍外交官補もまた無言でバーバラを睨み据えたまま、新たに戦列に加わった始末屋との距離を測って、手にした太刀たちを構え直した。

 そして一振りの太刀たちとベレッタM1934を構えた蛍外交官補、イングラムMAC10とOA98の二挺のマシンピストルを構えたバーバラ・ザ・ブッチャー、両手に鋭利な手斧を構えた始末屋の三人が三者三様に、三つ巴の決戦を繰り広げる。

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