第十幕
第十幕
俺の正面のソファに腰掛けた小林一等書記官は、ひどく不機嫌であった。
「加屋さん。ある程度予想していた事ではありますが、あなた、随分と面倒な事をしてくれましたね」
そう言った小林書記官は、頭を抱えながら深く嘆息する。そしてそんな彼を眼の前にして、全ての事の原因である俺は恐縮する事しきりだ。
今現在の俺と小林書記官の二人がソファに腰掛けているここは、昨夜遅くに俺が駆け込んだテクフェンタワーの十階の在イスタンブール日本国総領事館の、応接室か何かだと思われる一室。昨夜はここで夜を明かし、朝になってから服と靴を借りた俺は、出勤して来た小林書記官とこうして面談しているのである。
「それで、俺は日本に帰れるんですか?」
保護を求めてここ在イスタンブール日本国総領事館に駆け込んだ俺は、小林書記官に尋ねた。すると彼は頭を抱えながらも、現在の状況について解説してくれる。
「いいですか、加屋さん。日本国籍を有する者を保護するのは総領事館の義務なので我々はあなたを
「はあ」
総領事館の職員から借りたスウェットとサンダル姿の俺は、気の無い返事を返した。そして再度、小林書記官に尋ねる。
「えっと、それでつまり、どうすれば俺は日本に帰れるんですか?」
「忘れて来た財布やパスポートを自宅まで取りに戻る気が無いのであれば、まず第一に、パスポートの再発行が必要です。そうすれば後は銀行のキャッシュカードなりクレジットカードなりも再発行してもらって旅費を賄えれば、最低限度の日本に帰るための準備は整うでしょう。ですがあなたの場合、問題はむしろ身辺整理の方です。何せ加屋さん、あなたは事実婚とは言え三人の女性と結婚していますし、しかもその内の二人はバジェオウル財閥の家長の孫娘ですから、果たして穏便に離婚出来るかどうか……。それらを踏まえた上でもう一度お聞きしますが、本当に三人の奥様とは離婚して、一人で日本に帰るおつもりなんですね?」
「はい、そのつもりです」
「そうですか……」
そう言った小林書記官は困り果てたかのように
「
すると蛍と呼ばれたビジネススーツ姿の若い女性は「かしこまりました」と言ってから一旦応接室を出ると、その数分後に、今度は三人の女性を連れて戻って来た。勿論言うまでもなく、それら三人の女性とは俺の三人の妻達、つまりアイシェ、ヤセミーン、クロエの三人である。
「サイト!」
総領事館の応接室に足を踏み入れた三人の妻達は口々に俺の名を呼びながらこちらへと駆け寄って来ると、俺が座るソファをぐるりと取り囲んだ。そして「一体、何があったんですか?」「あんな夜中に、どうして家から飛び出して行っちゃったの?」「早く家に帰ろうよ、な?」等々、三人掛かりでもってわあわあと矢継ぎ早に質問を投げ掛けて来る。しかしそんな彼女らに取り囲まれた俺は激しい動悸と眩暈に襲われ、冷や汗まみれの顔面からは血の気が引き、ぜえぜえと呼吸を荒げながら今にも卒倒しそうな有様だ。いや、このままだと比喩や仮定ではなく、本当に卒倒してしまう。
「まあまあ皆さん、ここは一旦落ち着いて、とりあえず話し合いましょう。どうぞ、こちらにお座りください」
見兼ねた小林書記官が三人の妻達に自制を促しながら間に割って入り、俺の向かいのソファに腰を下ろすように勧めると、彼女らは渋々ながらそれに従った。そして俺と三人の妻達との、離婚するか否かを議題とした交渉が始まる。
「サイト、こちらのコバヤシさんから聞きましたが、あなたがあたし達と離婚して日本に帰りたがっていると言うのは本当なんですか? そんなの嘘ですよね? あたしの事を愛しているとあんなにもはっきりと言ってくれたあなたが、そんな事を望む筈はありませんよね? お願いですサイト、嘘だと言ってください! サイト!」
アイシェが涙ながらに懇願するが、俺は堅く口を噤んで俯いたまま言葉も無い。
「なあサイト、あたし達の何が悪かったんだ? お前に向かって暴言を吐いたり暴力を振るったりしていたあたしやヤセミーンだけなら未だ分かるが、よりにもよってアイシェお姉様と離婚しようだなんて、全く意味も意図も理解出来ないじゃないか! アイシェお姉様は、こんなにまでもお前の事を愛しているんだぞ? それをどうして、離婚しようだなんて言い出したんだ? なあ? 何とか言ってくれよ!」
クロエもまた声を荒げながら懇願し、俺の真意を知りたがった。そこで俺は熟考を重ねた末に、ゆっくりと口を開く。
「……重過ぎるんだ」
「は?」
俺の言葉に、三人の妻達は怪訝そうに問い返した。
「アイシェ、ヤセミーン、クロエ。キミ達三人の愛が、責任が、俺一人が背負うにはあまりにも重過ぎるんだ。仮に結婚相手がキミ達の内の誰か一人だけだったならともかく、同時に三人もの女性から四六時中愛され続け、また同時に愛し返し続けなければならないと言う責任の重さが、想像していた以上のストレスとなって俺の双肩に圧し掛かって来るんだよ。歴史上の豪傑や英雄ならともかく、俺程度の凡人では、とてもじゃないがその愛と責任の重さに耐えられない。このままこんな生活を続けていれば、遠くない未来に俺は心を病んで、再起不能になってしまうだろう。だから、お願いだ! 俺と離婚して、日本に帰してくれ! 頼む!」
至極みっともなくて甲斐性無しな弱音を吐いている事は、その弱音を吐いている俺自身が一番理解しているし、重々承知もしている。しかしこれが、偽らざる俺の本音なのだ。三人ものうら若き女性達から同時に愛され続け、また彼女らの期待と責任に応え続けなければならないと言う事実は常人には耐え難い重圧となって、ほんの半年前までは無計画に放浪を続けるニートのバックパッカーに過ぎなかった俺の心を押し潰しかねない。いや、事実、今この瞬間も押し潰しかけている。だから何としても、手遅れになる前に事態を打開しなければならないのだ。
「そんな……そんな……」
惨めったらしい俺の弁解と懇願を耳にしたアイシェは言葉を詰まらせながら、悲嘆に暮れてぼろぼろと涙を零し続ける。
「だったらサイト、離婚はせずに一旦お前だけが日本に帰国して、心の病気の療養の専念するって事は出来ないのか? それで体調が回復したらまたトルコに戻って来るか、もしくはあたしやアイシェお姉様もお前と一緒に日本に移住すればいい。そうだろう?」
クロエが代替案を提案するが、俺はそれに同意しない。
「駄目だよクロエ、それじゃあ、根本的な解決にはならない。今はとにかく、キミ達三人から愛され過ぎていると言うこの状況から脱する事が必要なんだ。だから俺一人だけが日本に帰ったとしても、キミ達三人と離婚して人間関係を一旦リセットしなければ、状況は変わらないんだよ」
「そんな……」
クロエもまたアイシェと同様に、悲嘆に暮れて天を仰いだ。そして俺は深々と頭を下げながら、尚も懇願する。
「だから、頼む! アイシェ、ヤセミーン、クロエ! 三人とも、俺との離婚に同意してくれ!」
懇願する俺を前にしたアイシェはぼろぼろと涙を零しながら悲嘆に暮れて泣き続けるばかりであり、彼女の隣に座るクロエは焦点の合わない眼で天を仰ぎながら、ぽかんと口を開けたまま茫然自失とするばかりであった。勿論、愛する夫から予期せぬ
すると唐突に、今の今まで沈黙を貫いていたヤセミーンがすっくと立ち上がったかと思えば、俺が座るソファと彼女らが座るソファとの間に置かれたローテーブルを乗り越えた。そして次の瞬間、右手を大きく振りかぶると、そのまま俺の左頬に強烈な平手打ちを叩き込む。
ヤセミーンによる渾身の平手打ちが俺の頬を引っ叩くと同時に、パアンと言う風船が破裂したかのような甲高い衝撃音が、総領事館の応接室の壁や床に反響した。
「この意気地無し! 一人前の男だったら女を泣かせてないで、もっと強がってみせなさいよ!」
憤怒の色に染まりつつ、それでいて少し悲しそうな表情を浮かべながら俺に向かってそう言い放ったヤセミーンは、その場でくるりと踵を返す。そしてそのまま真っ直ぐ脇目も振らずに、すたすたと部屋を縦断したかと思えば、一度もこちらを振り返らずに応接室から出て行ってしまった。後に残された俺は引っ叩かれた頬を押さえたまま、只々ぽかんと呆けるばかりである。
「……許さない」
「え?」
不意に聞こえて来た声に、ヤセミーンに引っ叩かれた事によって呆けていた俺は視線を向けた。すると俺の一人目の妻であり、法的には唯一の正妻であるアイシェが自らの手の親指の爪の先をがりがりと齧りつつ、その美しい顔に激情的な怒りと嗜虐的な笑みが混在したかのような不気味な表情を浮かべながらぶつぶつと呟いている。
「許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、絶対に許さない! このあたしを捨てるだなんて、絶対に許さない! 捨てられるぐらいなら、サイト、あなたを殺してあたしも死ぬ! 死んでやる! 祟ってやる! 末代まで祟ってやる! 七代祟って許すまじ!」
「あ、アイシェ?」
どうにも、アイシェの様子がおかしい。見れば彼女が齧っている彼女自身の親指の爪の先はぼろぼろになり、やがて指先の皮膚や肉までをも齧り始め、そこから滲み出た真っ赤な鮮血が指先を伝って床に滴り落ちていた。上手く言葉では表現出来ないが、とにかく今の彼女は常軌を逸した鬼気迫る様子である。
「殺してやる! 絶対に、絶対に殺してやる!」
まるで狂ったかのように、いや、実際にもう狂ってしまったのかもしれないが、どちらにせよ病的な金切り声でもってそう叫んだアイシェは唐突に立ち上がると、そのまま総領事館の応接室から脱兎の如く走り去って行ってしまった。
「サイト! 覚えてろよ! アイシェお姉様をこんな眼に遭わせたお前を、あたしは絶対に許さない! 許さないんだからな!」
クロエもまたそんな捨て台詞を残すと、敬愛する従姉妹であるアイシェの後を追って応接室から走り去る。そして気付けば俺の三人の妻達は三者三様に応接室を出て行ってしまい、後には俺と小林書記官と、蛍と呼ばれた小林書記官の部下の女性の三人だけが残された。
「加屋さん、あなた、本当に面倒な事をしてくれましたね」
小林書記官がそう言って、頭を抱える。
「出来る事ならばあなたが奥様方を上手く丸め込んで、穏便に離婚に同意してもらった上であなたのパスポートや財布を取り戻せればと考えていたのですが……。それがこうも険悪な雰囲気で交渉が決裂してしまっては、我々の目論みは失敗したとしか表現のしようがありません。こうなってしまっては長期戦に持ち込んで、粘り強く交渉を重ねるしか離婚に同意してもらう方法は無いでしょう。しかしまさか、あの温厚なアイシェさんが「絶対に殺してやる」とまで言い出すとは想像もしていなかったので、それだけが気掛かりですね……」
「ええ、でもまあ、きっと大丈夫でしょう。アイシェもちょっと気が動転していただけだと思いますから、すぐにいつもの優しい彼女に戻りますよ」
事態の推移を憂慮する小林書記官に向かってそう言った俺は、少なくともアイシェの不穏な発言に対しては至って楽観的であった。しかしそんな自分が楽観的過ぎた事を、程無くして俺は思い知る事になる。
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