第九幕


 第九幕



 邸宅のバスルームの片隅に置かれた、今時珍しい古ぼけたアナログ式の体重計。その体重計の上に恐る恐る乗った俺は、最大百㎏までの体重が計測可能な目盛り版が指し示す自身の体重を確認した。

「また……減ってる……」

 具体的な数字は敢えて伏せさせてもらうが、先週測った時よりも二㎏ばかりも体重が落ちており、これで俺はこの一ヶ月余りで都合十㎏以上も痩せ細ってしまった事になる。

「どうでしたか、サイト?」

 バスルームからリビングへと重い足取りで帰還した俺に、革張りソファに腰を下ろしたアイシェがひどく心配そうに尋ねた。

「また体重が減ってた。それも、先週から二㎏も」

「まあ……」

 項垂れながら返答した俺の姿を眼にしたアイシェは言葉を失い、絶句する。

「やっぱりそれ、何かしらの病気なんじゃないかしの? ねえサイト、あなた、昨日は病院に行って調べてもらったんでしょう? お医者様は何だって?」

「身体の方は、何度検査しても至って健康だとさ。体重が平均値を下回っている事以外には、どこにも異常は無いって診断されたよ」

 アイシェと同じく革張りソファに腰を下ろしたヤセミーンの問いに、俺は深い溜息を漏らしながら答えた。そして二人に挟まれる格好でもってソファに腰を下ろすと、俺は天を仰ぐ。

「身体に異常が無いとなると、精神的な病気なのか? なあサイト、お前、何か悩んでいるんじゃないだろうな? 悩みがあるのなら、どんな些細な事でもいいからあたしやアイシェお姉様に相談しろよ? 力になってやるからな?」

 ソファに座る俺の頭を背後から抱き締めたクロエもまた、俺に憂慮と激励の言葉を掛けた。バジェオウル氏の宮殿で初めて出会った頃の敵対的かつ暴力的な態度が嘘の様に、彼女もこの半年間で随分と性格や態度が丸くなったものである。

 そう、俺がこのトルコ共和国に足を踏み入れたあの日から、既に半年が経過していた。そしてこの半年の間に俺はまずアイシェと結婚し、続いてヤセミーンとクロエの二人とも結婚すると、それら三人の妻達から厚い寵愛を受けながら充足した日々を送っている。いやむしろ寵愛され過ぎているし、充足し過ぎていると言っても過言ではない。

「やっぱりクロエの言う通り、精神的な不調が原因なのですかねえ……」

 アイシェもまた俺に身を寄せながらそう言うと、やはりひどく心配そうに深い溜息を漏らした。彼女が心配するのも、無理は無い事である。と言うのもアイシェも含めた三人の妻達が憂慮するように、今からおよそ一ヶ月ほど以前から、彼女らの夫である俺は原因不明の体調不良に悩まされているのだ。

「精神的な不調ねえ……。だったらたまには気分転換も兼ねて、外にお酒でも飲みに行ったらどうかしら?」

「酒だったら、うちでもたまに飲んでるじゃないか。それでも体調不良は治らないぞ」

 ヤセミーンの提案に対してクロエが疑義を呈したが、ヤセミーンはこれを否定する。

「そうじゃなくって、たまには普段とは違う場所で普段とは違う相手とお酒を飲んだらって言ってるの。そうね、例えばあたしの実家のヤウズ兄さんがたまにはあなたと一緒に食事でもしたいって言ってたから、彼と二人でぱーっと夜の街に飲みに行ったらどうかしら、サイト? そうすれば男同士で腹を割って、うちではとても口に出来ないような妻への不満や愚痴だって吐き出せるじゃないの。ね?」

「サイトは、あたしに対して口に出来ないような不満や愚痴があるんですか?」

 ヤセミーンの比喩を本気にしたアイシェが、その美しい顔に不安げな表情を浮かべながら俺に問うた。するとそんな彼女の反応を面白がってか、ヤセミーンが悪戯っぽくくすくすと笑う。

「アイシェ、ヤセミーンの言う事をいちいち本気にするなって。それとヤセミーンも、アイシェをからかうなよ」

「あら、気に障ったかしら? だとしたら、ごめんなさいね? でもこの世間知らずのお嬢様ったら本当に予想通りの子供っぽい反応を示してくれるから、面白くってついついからかっちゃうの」

 何とも悪趣味な事を言いながらヤセミーンは尚もくすくすと笑うし、アイシェは唇を尖らせながらぷりぷりと怒っているしで、この二人は知り合ってから半年が経過しても一向に仲良くならない。しかもそんな二人に、リビングの革張りソファの上で物理的にも精神的にも挟まれる格好になった俺は、ひたすらに気が滅入るばかりだ。

「それで、どうなのサイト? 冗談は抜きにしても、うちのヤウズ兄さんと二人で飲みに行くって言うのは良いアイデアなんじゃないかしら?」

「そうだな、たまにはそう言った方法で気分転換するのも、確かに良いアイデアなのかもしれないな」

「でしょう? それじゃあ、それで決まりね。ヤウズ兄さんにはあたしの方から連絡して、次の週末のスケジュールを空けておいてもらうから、サイトもそのつもりで楽しみにしてなさいよ」

 ヤセミーンにそう言われた俺は、再び天を仰ぎながら呟く。

「次の週末か……」

 久し振りにヤウズに会うのも楽しみだし、何にせよ、この原因不明の体調不良が治るのならば是非も無い。


   ●


 トルコ共和国最大の都市イスタンブール有数の繁華街である、イスティクラル通り。そのイスティクラル通りの起点となるタクシム広場の中央に建つ独立記念碑の前で、俺はヤウズを待っていた。天気の良い週末の午後と言う事もあって、広場は国の内外から訪れた多くの地元民や観光客でもってそこそこに混み合っている。

 このタクシム広場はバスや地下鉄と言ったイスタンブールの交通インフラの要所ではあるのだが、トルコ共和国建国の父と言われるムスタファ・ケマル・アタテュルクを称える高さ十二mの立派な独立記念碑が中央に建てられている以外には、特にこれと言って見るべき点は無い。むしろこの広場そのものではなく、広場の周囲に点在するタクシム公園やドルマバフチェ宮殿や前述のイスティクラル通りと言った多くの名所旧跡こそが、ここを訪れる人々の本当のお目当てなのだそうだ。

「サイト! こっちだ、こっち!」

 俺の名を呼ぶ声に振り向けば、カジュアルなポロシャツ姿のヤウズが人波を掻き分けながらこちらへと駆け寄って来るのが眼に留まる。

「よお、ヤウズ!」

 そう言った俺とヤウズは互いにハグし合い、再会を喜び合った。

「久し振りだな、サイト。見たところ折れてた右腕はもう完治したようだが、元気だったか? ヤセミーンから聞いたが、最近体調が悪いんだって? うーん、確かに言われてみれば、以前会った時に比べたら随分と痩せたようにも見えるな」

「そう言うあんたは相変わらず元気そうだな、ヤウズ」

「そうか? まあ、俺は身体の頑丈さだけが取り柄だからな」

 そう言ったヤウズは彼のトレードマークであるやけに毛深い大柄な身体を揺らしながらげらげらと笑い、体調不良に悩む俺とは違って、いかにも健康そのものと言った風体である。

「それで、今日はどこに案内してくれるんだい?」

「そこのイスティクラル通りの奥に、俺の馴染みの店があるんだ。だから今日はその店でゆっくりと、男二人だけで気兼ね無く夜まで飲もうじゃないか」

「ああ、そうしよう」

 ヤウズお勧めの店に案内してくれるのであれば、俺が彼の誘いを断る理由は無い。そこで先導するヤウズと俺は買い物客でごった返すイスティクラル通りを暫く歩いた末に、大通りから分岐した細い路地の一角で営業している、比較的小規模なレストランに足を踏み入れた。ぱっと見た限り古風な石造りの、オスマン帝国時代から営業していると言う触れ込みの老舗のレストランである。そしてぐるりと店内を見渡してみれば百席前後の座席はほぼ満席で、結構な人気店である事がうかがえた。

「二名で予約していたバヤルだ。席は空いてるな?」

「お待ちしておりました、中佐殿。こちらへどうぞ」

 給仕によって案内された俺達は陽当たりの良いテラス席に腰を落ち着けると、さっそくヤウズがお勧めだと言う料理の数々と酒を注文し、それら注文の品の到着を待つ。

「それじゃあ再会を祝して、乾杯」

「乾杯」

 ヤウズの音頭でもって、俺達二人は運ばれて来たラクのグラスを傾けた。アルコール度数の高い蒸留酒であるラクがカッと喉を焼き、ツーンと来る鮮烈な香りが鼻を抜ける。

「この店には水タバコもあるが、お前さんも吸うか?」

 レストランのカウンターの奥を指差しながら、ヤウズが俺に尋ねた。見ればそこには、トルコ語で『ナルギレ』と呼ばれる水タバコを吸うためのパイプやホースなどが山と積まれている。

「いや、やめておくよ。たとえ水タバコでも、俺はタバコは吸わない主義なんだ」

「そうか、残念。それじゃあ済まないが、俺だけで吸わせてもらうよ。この店に来るのは、これが楽しみでね」

 そう言ったヤウズは給仕に準備してもらったパイプを咥えて、ぷかぷかと水タバコを吹かし始めた。イスラム圏で広く普及している水タバコはニコチンやタールと言った有害物質の含有量が少なく、一般的な紙巻きタバコに比べると喫煙による煙害もまた少ないとされている。しかしその反面、紙巻きタバコにおける主流煙と副流煙の両方を肺に取り込むので健康被害を二重に被るとの説もあり、一概に安全とも言えないらしい。まあどちらにせよ、本気で健康面に留意するならば、タバコと名のつく物は一切吸わないに越した事は無いのではなかろうか。

「それで、えっと、医者には健康だと言われたのに体調が悪いんだって? ヤセミーンがひどく心配していたぞ?」

 日本では厚岸草あっけしそうもしくはシーアスパラガスと呼ばれ、トルコ語ではデニズ・ビョルルジェと呼ばれるアカザ科の野菜の一種をオリーブオイルとニンニクで和えた前菜をつまみながらヤウズが尋ねたので、俺は答える。

「ああ、ここ一ヶ月ばかり、どうにも眠れない日が続いていてね。めっきり食欲も減退しちまったし、体重も十㎏ほど落ちちまった。それで今は、アイシェやヤセミーンからは精神面での疾病を心配される始末でさ。まあ、思い当たる節も無くはないんだが、やっぱり心療内科で診察してもらった方が良いのかなあ?」

「ふうん、で、その思い当たる節ってのは?」

 デニズ・ビョルルジェの前菜に続いてテーブルの上に運ばれて来た『チロズ』、つまり簡単に言ってしまえば頭と内臓を除いて酢漬けにしたカタクチイワシをむしゃむしゃと食みながら、ヤウズが尋ねた。

「実は二つばかり悩みがあるんだが、まず一つ目は、どうやら俺はホームシックとか言う奴らしい」

「ホームシック?」

「ああ、さっき、眠れない日が続いているって言ったろう? それでもどうにかこうにか眠れると、今度は日本に住んでいた頃の事ばっかり夢に見るんだ。しかもそれで眼が覚めると、自分でも気付かない内に泣いているんだよ。こんな事は、バックパッカーとして世界中を放浪していた時にも経験した事が無くってさ。これってやっぱり、日本が懐かしいとか恋しいって事なのかな……」

「ふうん」

 ラクを飲みながら相槌を打ち、ヤウズは俺の話に耳を傾け続ける。

「そして二つ目は、何故だか分からないが、その、最近は妻と顔を合わせるとひどい動悸と眩暈がするんだ」

「妻? 妻って言うと、三人の妻の内の、どの妻だ?」

「全員。アイシェともヤセミーンともクロエとも、三人の妻の内の誰と顔を合わせてもひどい動悸と眩暈と息切れがして、冷や汗が止まらなくなってさ。勿論こんな事を三人の妻達に面と向かって相談する訳にも行かないから、表面上は平気なフリをしているんだが、それもいつかはバレるんじゃないかと思うと気が気じゃない。それで作り笑顔でもって三人に応対していると、益々動悸が激しくなって……。とにかく、ここ一ヶ月ばかりはそんな悪循環の毎日なんだ。やっぱりこれは、何か精神的な病気なんだろうな、多分」

「ふむ」

 小さな声でそう言ったヤウズは、再び相槌を打った。そして腕組みをしたまま暫し考え込んでから、俺に助言する。

「過去に、同じような症状で悩んでいると言って俺に相談して来た部下が居る。まあ、その部下の場合は動悸が止まらなくなる相手は妻ではなく、馬の合わない直属の上官だったがな。何でもその上官と一緒に居ると、サイト、お前と同じように動悸や眩暈や息切れでもって苦しくて仕方が無くなるそうだ。それにやっぱり、故郷で過ごした子供の頃の事ばかりを夢に見て、涙が止まらなくなるんだとよ」

「なるほど」

 ヤウズの話に相槌を打った俺もまたラクのグラスを傾けながら、羊の挽肉と野菜を混ぜてオーブンで焼いた料理の『ムサカ』を咀嚼した。

「それでまあ、その部下は心療内科で診察してもらった結果、重度の鬱病だと診断されてな。半年ばかりの休暇を与えて療養させてから、配置転換でもって、その馬の合わない上官からは遠ざけてやったよ。それでなんとか、症状は沈静化した。だから、まあ、お前もそう言った療養と環境の改善が必要なのかもしれないな、サイト」

「そうか、やっぱり鬱病か……」

 そう呟いた俺は深く嘆息し、天を仰いで頭を抱える。ある程度予想はしていたが、自分が鬱病であるとはあまり認めたくないものだ。だがそれでも、この状況を打破する方法があると言うのであれば、それは喜ぶべき事に違いない。

「まあ何にせよ、まずは病院に行って心療内科で受診する事だな。今は効能の高い向精神薬も揃っているらしいし、薬物で治療するにせよ療養するにせよ、早めに手を打っておくに越した事は無いだろう」

「ああ、確かにそうだな。ありがとうヤウズ、今日は相談に乗ってくれて」

 俺が礼を言うと、ヤウズはウインクと共に微笑みながら言う。

「なあに、俺とお前は義理の兄弟みたいなもんだからな。弟の悩みを解決してやるのは、兄の務めみたいなもんさ」

 そう言ったヤウズと俺は笑い合いながら、次々と運ばれて来る郷土料理をつまみにラクのグラスを傾け合った。たまにはこうして気兼ね無く、気の知れた同性のみで語らい合う時間もまた人生には必要なのだろう。


   ●


 やがてとっぷりと陽も暮れた頃、俺は迎えに来てくれたスレイマンの運転するリムジンでもって邸宅へと帰還した。

「ただいま」

 帰宅を告げれば、今日も今日とて三人の妻達が出迎えてくれる。

「お帰りなさい、サイト。遅かったですね。心配していましたよ」

「ヤウズ兄さんの様子はどうだった、サイト? あたしが言った通り、兄さんと会って良かったでしょう?」

「お帰り、サイト。どうした? 足元がふらついているが、酔っているのか?」

「ああ、調子に乗って、ちょっとばかり飲み過ぎたらしい。ぐでんぐでんになるまで飲んでいたヤウズほどじゃないが、俺も結構酔っ払っちゃったよ」

 千鳥足の俺はそう言って、酔っているのかと言うクロエの問いに答えた。

「それでしたら、すぐにエスラにシャワーの準備をさせましょう。それでシャワーを浴びましたら歯を磨いて、今夜はもう床に就けばよろしいかと思います」

「そうだなアイシェ、そうしよう」

 俺はアイシェの提案に同意し、邸宅の廊下を渡ってバスルームへと向かう。そして手早くシャワーを浴びると使用人のエスラが用意してくれた寝間着に着替え、洗面台の鏡の前で歯を磨いてから寝室へと足を向けた。すると寝室では既に各自の寝間着に着替え終えた三人の妻達が、キングサイズのベッドの上に横たわりながら出迎えてくれる。

「お疲れ様、サイト。今夜は疲れたでしょうから、ゆっくりとお休みなさいませ」

 ベッドの中央からやや右寄りの定位置に横たわった、清楚なネグリジェ姿のアイシェ。彼女はそう言うと、俺が寝るべき彼女の隣のシーツの上をぽんぽんと叩いた。

「そうね、今夜は夜のお楽しみは自粛して、もう寝ましょうか」

 アイシェとは反対側のベッドの左寄りで、扇情的なベビードール姿のヤセミーンもまたシーツを叩いて俺を迎える。

「それじゃあ寝るか、サイト。ほら、早くこっちに来い」

 当然のようにアイシェの隣に横たわったクロエがそう言って、俺を急かした。ちなみに彼女はアイシェやヤセミーンとは違って、未だ十代の少女らしいパジャマ姿である。

「ああ、そうだな。もう寝よう」

 俺はそう言って、アイシェとクロエの二人に挟まれる格好でもってベッドの中央に横たわると、静かに眼を閉じて就寝の体勢を取った。そしてゆっくりと、夢の世界へと旅立って行く。


   ●


 何か生暖かくて湿った物体が顔面をべろべろと撫で回す感触に、俺は閉じていた眼を開けた。するとよく見知った一匹の獣の顔が視界一杯に広がっていたので、少し驚く。

「チポ!」

 俺が名を呼ぶと、その獣、つまりかつて俺の実家で飼われていた雑種の中型犬であるチポはわんと鳴いた。そして嬉しそうに尻尾を千切れんばかりに振りつつ、地面に寝転んだ俺の周りをぐるぐると駆け回る。ちなみに先程まで俺の顔面を撫で回していた生暖かくて湿った物体とは、言うまでもなくチポの舌であった。なんともまあ、人の顔を舐め回すのが好きな犬である。

「ここは……」

 立ち上がった俺は自分の背がやけに低い事と半ズボンを履いている事、そして履いている靴が、子供の頃に大好きだった『百獣戦隊ガオレンジャー』のイラストがプリントされた子供用の靴である事に気付いた。また同時に、今の自分が立っている場所が小学三年生の頃まで俺と俺の家族が住んでいた自宅であり、父が勤める会社が社員に貸し出していた借家の庭である事にも気付く。

「あれ?」

 庭に面した借家のリビングの窓ガラスに映り込んだ自分の姿に、俺は驚いて頓狂な声を上げた。現実世界の俺は本来ならばもうすぐ二十四歳になる筈なのに、そこに映り込んでいた自分はどう見てもまだまだ小学校低学年の、チン毛が生え揃うどころか皮も剥けていないような小さな子供の頃の姿である。

「ああ、これは夢だ」

 不意に俺は、ここが夢の世界の中である事をはっきりと自覚した。なんでもこう言うのを、専門用語では『明晰夢』とか呼ぶらしい。

「そうだよな、チポ。だってお前は、本当だったらとっくの昔に死んでいる筈だもんな」

 子供の姿の俺は、未だ声変わりしていない声でそう言うと、現実の世界では俺が中学一年生の時に腎臓の病気で死んだ筈のチポの頭や背中を優しく撫でてやった。するとチポは嬉しそうにごろりと地面に寝転がり、真っ白な毛に覆われた無防備な腹を見せながら、もっともっと撫でてくれと俺にねだる。

「よしよし、そうだったな。お前は腹を撫でられるのが大好きだったもんな」

 そう言った俺がチポの腹をわしゃわしゃと撫でてやれば、チポは恍惚の表情で悶えながらくうんくうんと鳴いた。気持ち良くなると何故か少し悲しげな声でもって鳴き始めるのがこの雑種犬の癖であった事を久し振りに思い出し、俺は懐かしさで目頭が熱くなる。

「さてと、それじゃあ夢の中とは言え久々に実家に帰ったついでに、父さんと母さんの顔も拝んで行くとするか」

 俺は借家の庭を抜けてからカーポートを横断し、玄関扉へと足を向けた。この頃は未だ実家には自家用車が無かったので、狭いカーポートには家族三人分の自転車だけが停められている。

「ただいま」

 鍵の掛かっていない玄関扉を開け、俺は雑種犬のチポと共に借家の中へと足を踏み入れた。玄関扉のノブがやけに高い位置にあり、上がり框がやけに高いなと感じたが、当然ながらそれは子供の姿になっている今の俺の背が低いのが原因である。

「父さん? 母さん?」

 俺は両親に呼び掛けたが、借家の中はしんと静まり返るばかりで返事は無い。

「父さん母さん、どこ?」

 暗い廊下を小さな子供の歩幅で渡りながら尚も呼び掛けてみるも返事は無く、やがて辿り着いたリビングは照明も落とされて暗く、無人であった。

「どこ? どこに居るの?」

 リビングから一続きになったダイニングへと足を踏み入れ、更にキッチン、バスルーム、仏間、遂にはトイレに至るまでくまなく探したが、やはり暗く冷たい借家の中に両親の姿は無い。

「二階?」

 借家の一階を探し終えた俺は、やはりしんと静まり返った二階へと続く階段を上る。そしてまずは両親の寝室、続いてその隣の俺の個室も探したが、当然ながら両親の姿は影も形も無かった。

「父さん? 母さん? どこ? どこに行ったの?」

 家捜しの最後に辿り着いた、小学校入学と同時に与えられた俺の個室の中央で両親に呼び掛けるも返事は無く、俺は急に孤独感と疎外感に苛まれ始める。こんな寄る辺無い気持ちに襲われたのは、生まれて初めての経験だ。そして寂しくて悲しくて堪らなくなった俺は雑種犬であり愛犬でもあるチポをギュッと抱き締めるが、そんな事をしたところで両親は姿を現さない。

「パパ? ママ? どこなの? ねえ、どこなの?」

 いつの間にか幼少時の呼称でもって両親に呼び掛けながら、俺はその場にへたり込んで号泣していた。そしてわあわあと赤ん坊の様に大声で泣き喚きながら、ぼろぼろと涙を零し続ける。すると抱き締めた雑種犬のチポが俺の涙をぺろぺろと優しく舐め取ってくれるものの、既に見掛けの年齢通りに幼児退行してしまった俺は、そんな事で泣き止みはしない。いやむしろ、チポが慰めてくれればくれるほど、寂しさと悲しさは募るばかりだ。

「パパーっ! ママーっ!」

 暗く静かな自室の中央で、子供の姿の俺はチポを胸に抱き締めたまま、いつまでも泣き喚き続ける。


   ●


 俺はハッと眼を覚まし、キングサイズのベッドの上でがばっと勢いよく半身を起こした。動悸は激しく全身にびっしょりと冷や汗を掻いていて、呼吸はぜえぜえと荒い。

「ああ、そうか、夢か」

 自分に言い聞かせるために敢えて声に出して確認してみたが、それでも未だに夢だとは信じられないくらいに現実味に満ちていて、実にリアルでグロテスクな夢だった。夢から覚めた今も未だ、柔らかなチポの体毛の感触が手に残っている。

「ああ、糞! 何なんだよ畜生! なんでこんな夢ばっかり見るんだよ!」

 悪態を吐きながら、俺はかぶりを振った。そして同時に、自分が大粒の涙を零しながら泣いている事にも気付く。

「サイト? どうしました?」

 俺の悪態で眼を覚ましたらしいアイシェが、未だ少し寝惚け眼ながらも、心配そうに声を掛けて来た。俺は彼女に泣き顔を見られたくなくて、ぷいと他所を向く。ヤウズにも相談した事だが、最近の俺は三人の妻達と顔を合わせるとひどい動悸と眩暈に襲われ、それは今この瞬間もまた例外ではない。

「何でもないよ、アイシェ。本当に何でもないんだ、気にしないで寝ていてくれ」

「そんな訳には行きませんよ、サイト。どうしました? 泣いているんですか? 怖い夢でも見たんですか?」

 アイシェと言葉を交わす度に俺の動悸と眩暈はより激しくなり、ぜえぜえと呼吸も荒くなり始めた。

「何? サイトがどうかしたの?」

 アイシェとは反対側、つまりベッドの左隣で寝ていたヤセミーンもまた眼を覚まして声を掛け、俺を心配する。

「何だ? どうした?」

 遂には俺の三人目の妻であるクロエまでもが異様な雰囲気を察したらしく、眼を覚ましてしまった。そして三人の妻達はベッドの上で涙を零す俺の身を案じ、憂慮や慰安の言葉を口にしながら親身になって寄り添ってくれるが、彼女らに寄り添われれば寄り添われるほど俺の動悸と眩暈は激しくなるばかりで如何ともし難い。

「あああああああああっ!」

 やがてパニック状態に陥って頭の中が真っ白になった俺は有らん限りの声で絶叫すると、ベッドの上から文字通り飛び起きて床を転がり、そのまま這うようにして寝室から飛び出す。そして足をもつれさせながらも暗い廊下を駆け抜けて邸宅の玄関ホールに直行し、正面玄関の扉を開けて戸外に出ると敷地を囲む柵を強引に乗り越え、そのまま夜の住宅街へと全速力でもって駆け出して行ってしまった。

「糞! 糞! 糞! 糞! 何だってんだよこん畜生が! 俺は一体どうしちまったってんだよ! 糞!」

 尚も大声で悪態を吐きながら、俺は暗い夜道を走り続ける。途中ですれ違った幾人かの地元民や観光客らが好奇の眼差しでもってこちらを凝視する気配を感じるが、今の俺にはそんな些細な事象を気にしている余裕など無い。そしてたっぷり一㎞から二㎞ばかりも走り続けた末に、とうとう体力と持久力が底を突いた俺はゆっくりと足を止めると、ぜえぜえと喘ぎながらその場にへたり込んでしまった。

「畜生……」

 イスタンブールの街を縦断する大通りのど真ん中でへたり込んだまま、俺は頭を抱えて泣き続ける。するとそんな俺を道行く人々は怪訝そうに一瞥しながらひそひそと何事かを囁き合いはするものの、それ以上こちらに近付いて来るような事は無い。寝間着姿でへたり込んだまま泣いている得体の知れない男に声を掛けようなどと思う物好きは、どうやらこの辺りには存在しないようだ。

「……日本に帰ろう」

 唐突にそう思い立った俺は、すっくと立ち上がる。

「そうだ、日本に帰ろう。日本に帰れば、あれもこれも、全て解決じゃないか。そうとも、今すぐ日本に帰ろう」

 眼の焦点が合わない半ば気が動転した状態で、口角を吊り上げた気色の悪い薄ら笑いを浮かべながら独り言つようにそう呟いた俺は、はたと気付いた。

「そうだ、財布が無い!」

 薄絹の寝間着一枚だけを身に纏い、靴も履かずに裸足のまま邸宅を飛び出してしまった俺は、当然の事ながら財布も運転免許証も携帯してはいない。ましてやトルコ国外である日本に逃亡するためのパスポートともなれば、尚更だ。

「どうしよう……ああ……どうしよう……」

 俺は考えあぐねながら、ふらふらとイスタンブールの市街を放浪し続ける。財布やパスポートを取りに戻ろうにも、かつてはバジェオウル氏の別荘であったあの邸宅に帰還してアイシェやヤセミーンら三人の妻達に再会するのだけは、何としても避けたい。そんな事になれば、今度こそ俺の心は回復不可能なまでに壊れてしまうだろう。

「そうだ!」

 不意に思い立った俺は、再び夜の街を走り始めた。そして三十分ばかりも夜の街を走り続けた末に辿り着いたのは、在イスタンブール日本国総領事館がテナントとして入居している高層ビル、その名もテクフェンタワー。俺はそのテクフェンタワーの敷地内に、裸足のまま足を踏み入れる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る