第八幕


 第八幕



 それは第二夫人のヤセミーンと第三夫人のクロエを新居に迎えてから早一ヶ月が経過し、俺の折れた右腕もかなり治癒して来たある日の朝の事だった。

「いかがですか、サイト? 今日はこれから、カパル・チャルシュのバザールに一緒に買い物に行きませんか?」

 朝食の席でアイシェが俺を買い物に誘い、その誘いにヤセミーンとクロエが同意する。

「あら、良いじゃないの。ちょうどそろそろ新しいスカーフでも買おうかと思っていたところですし、行きましょうよ、サイト」

「アイシェお姉様が行くのなら、あたしも行くぞ」

 どうやら今日は皆で揃って、アイシェが言うところのカパル・チャルシュのバザールとやらに買い物に出掛ける事に決まったようだ。

「いいね、俺も行くよ」

 勿論彼女の誘いを断る理由は、俺には無い。

「それじゃあスレイマン、出発するまでに、表に車を回しておいてくれるかしら?」

「かしこまりました、アイシェ様。すぐにご用意いたします」

 食堂で給仕を兼ねていた使用人のスレイマンがアイシェの要請を承諾すると、ちょうど朝食を食べ終えた俺達は四者四様に席を立ち、それぞれがそれぞれの個室でもって外出の準備を整え始める。まあ準備とは言っても、がさつな若い男でしかなく、しかも着飾る事にさしたる興味の無い俺は適当な外出着に着替えて髪と髭を整える程度で済んでしまった。しかし三人の女性陣は化粧だの服や宝飾品選びだの何だかんだで、準備が整うまでに最低でも三十分程度は掛かるだろう。

 そこで俺は一足先に邸宅を出ると、庭をぶらぶらと散策して時間を潰す事にする。

「あら、サイト様」

「やあ、エスラ」

 邸宅の庭に出てみれば、使用人のエスラが花壇に植えられた色とりどりの草花や木々の手入れをしている最中であった。

「精が出るね、お疲れ様。一人でこれだけ広い庭の手入れをするとなると、大変じゃないかい?」

「大丈夫ですよ、サイト様。スレイマンさんやアイシェ様も時々手伝ってくれますから、それほど大変ではありません。それにあたし、元から家事や庭仕事が好きなんです。だからバジェオウル様のお屋敷に勤めていた時も率先して庭仕事に励んでいましたし、それにあの頃に比べたら、こちらのお庭はずっと小さくて手入れも簡単ですから」

「ふうん」

 確かにバジェオウル氏の宮殿の広大な庭園に比べたら、この邸宅の庭くらいはたいした広さではないのかもしれない。だがそれでも、女の細腕一つだけで手入れをするには幾分広過ぎる。

「しかしエスラ、キミはこの屋敷に住み込みで働いて家事の殆どを一人で切り盛りするだなんて、ちょっと忙し過ぎないかい? うちで働いている様子を見る限りじゃ、自分だけのプライベートな時間も殆ど無いんだろう? キミだって年頃の女の子なんだから、いくら好きだからと言っても家事や庭仕事で他人の世話ばかりしていないで、恋人の一人や二人くらい作らなくっちゃ。そうでないとアイシェみたいに、嫁に行き遅れる事になっちゃうぞ?」

 最後の一言は余計だったかもしれないが、俺はエスラの身の上を心配して忠告した。すると彼女は微笑みながら、くすくすと可愛らしく笑う。

「ああ、そうだ。今言った事は、アイシェには内緒にしておいてくれよ? 彼女、嫁に行き遅れていた点を指摘されるとひどく落ち込むからさ」

「はい、心配しなくても大丈夫ですよ、サイト様。アイシェ様に告げ口したりなんかしませんから、ご安心ください。それに、あたしの心配も無用です。今は未だ仕事優先で、結婚は考えていませんから」

「そうか。でもさすがに一人では忙し過ぎるだろうから、今度フェルハト爺さんに会ったらこの屋敷の使用人をもう一人増やしてもらえないかお願いしてみるよ。そうすれば交代制でキミも休めるし、そのくらいのお節介は焼いても構わないだろう?」

 少しばかり出しゃばった真似をしてしまったかなと思いながらも、俺は提案した。するとエスラは嬉しそうに微笑みながら、意外な事を提案し返す。

「お優しいんですね、サイト様は。でしたら、もしあたしが嫁に行き遅れた時には四人目の妻としてあたしをめとってくださいませんか? そうすれば使用人ではなく一人の妻として、サイト様やアイシェ様の身の回りのお世話を焼く事が出来ますから」

「え? いや、それはちょっと……どうだろう」

 エスラの提案に困惑した俺は、言葉を濁した。仮にここで彼女との結婚を否定したとしても、既に三人もの妻を成り行きでめとってしまった俺の言葉の持つ説得力など、知れたものでしかない。するとエスラは尚もくすくすと可愛らしく笑いながら、弁明する。

「冗談ですよ、サイト様。サイト様があまりにもお優しいから、ついつい悪戯したくなってしまったんです。申し訳ございません。お許しください」

「なんだ、冗談か。良かった」

 俺はホッと安堵し、胸を撫で下ろした。いくらムスリムの男性は最大四人までの女性を妻としてめとれるとは言え、別に俺は、オスマン帝国時代のハレムを現代のトルコ共和国に再現したい訳ではない。今現在の三人の妻達だけでも持て余していると言うのに、これ以上妻が増えても、正直言って困る。

「サイト、どこですか?」

「サイトー」

 すると不意に、背後から俺の名を呼ぶ声が耳に届いた。

「アイシェ、ヤセミーン、俺ならここだよ」

 俺の名を呼んだのは妻のアイシェとヤセミーンであり、どうやら女性陣の外出の準備が整ったらしい。

「ああ、サイト、そこに居ましたか。準備が出来ましたので、そろそろ出掛けましょう」

 そう言ったアイシェに促され、俺は後部座席に三人の妻達が、そして運転席には使用人のスレイマンが腰を下ろしたリムジンに乗り込む。アイシェとの結婚祝いにバジェオウル氏が新居とセットでプレゼントしてくれたリムジンはやたらと前後に細長い高級仕様車なので、後部座席に大人が四人乗ってもまだまだ充分な余裕があり、窮屈に感じる事は無い。

「それじゃあスレイマン、車を出してちょうだい」

「かしこまりました、アイシェ様」

 アイシェの合図でもって、スレイマンが運転するリムジンは、本日の目的地であるカパル・チャルシュのバザール目指して走り始めた。


   ●


 トルコ語の『カパル・チャルシュ』とは『屋根付きの市場』と言う意味で、十五世紀から十六世紀にかけてのオスマン帝国時代に建造された世界有数の規模と歴史を誇る屋内バザール、つまり日本で言うところのアーケード商店街である。そしてそのバザールを縦横無尽に散策しながら、俺と三人の妻達は買い物を楽しむ事に余念が無い。

「ちょっと、買い過ぎちゃったかしら?」

 バザールの露天で買った商品が詰まった紙袋を両手に抱えて歩きながら、ヤセミーンが呟いた。彼女が購入した商品の内訳は、スカーフや靴や上着と言った服飾品が中心である。

「まあ、いいんじゃないのかい? 久々のバザールでの買い物だし、ちょっとくらい買い過ぎてもさ」

 ヤセミーンの呟きに俺はそう言って応えたが、アイシェとクロエの二人は彼女と眼も合わさずにこれを完全に無視し、相手にしない。

「アイシェももう、買い物は済んだのかい?」

「ええ、あらかた欲しい物は買い終わりました。これでもう暫くは、買い物をせずに済みそうですね、サイト」

 しかし俺が尋ねれば、たった今しがたまでヤセミーンを無視していたとは思えない愛想の良さでもって、嬉しそうにアイシェは答えた。俺とヤセミーンとクロエとの二度目の結婚式が執り行われてから一ヶ月が経過した今、どうやらアイシェはヤセミーンとの心の距離の置き方を習得し、可能な限り互いに関わり合いにならないと言う人間関係を構築しつつあるらしい。勿論こんな人間関係は、曲がりなりにも一つ屋根の下で暮らす家族の在り様として褒められたものではないが、今はこれで満足するとしよう。焦ったところで、事態が好転する事など無いのだ。だからいつかきっと何かのきっかけで、アイシェとクロエ、そしてヤセミーンとの心の距離が縮まってくれる事を祈るしかない。

「それで、クロエは何を買ったんだい?」

「あたしが何を買ったかなんて、お前には関係無いだろう、サイト。だから教える必要も無いし、教える気も無い」

 興味本位で質問した俺を、クロエは鮸膠にべも無くあしらった。彼女は先月バジェオウル氏の宮殿で結婚式を執り行ってからこっち、いくら合法的な夫婦関係ではないとは言え、一応は内縁の夫である筈の俺に対してもずっとこの調子である。

「つれないなあ、クロエは」

「うるさい、黙れ、喋るな。お前なんかを相手にしていると、口が腐る。この■■■■野郎が」

 随分と酷い言われようだが、クロエにとっての俺は敬愛する従姉妹のアイシェを彼女から奪ったにっくき恋敵なのだから、まるで親のかたき同然に嫌われてしまっているのも致し方無い。

「こら、クロエ! サイトに向かってそんな口の利き方をしてはなりません!」

 そう言ってアイシェがたしなめるものの、クロエに反省する様子はまるで見られず、俺に向かって平気で中指を立てて挑発して来るばかりだ。もう十八歳になる立派な大人だと言うのにこんなに反抗的で下品で子供っぽいとは、本当にこのクロエと言う少女は困った少女であると同時に、困った我が妻でもある。

「ふう」

 やがて買い物を終えた俺達はバザールの出口の一つからカパル・チャルシュの外に出ると電話でスレイマンを呼び出し、彼が運転するリムジンのトランクの中へと荷物を詰め込んでから、ようやく人心地付いた。ちなみにヤセミーンが購入した商品が服飾品であるのと同じように、アイシェは主にピアスや髪飾りなどの宝飾品を、またクロエはお菓子やドライフルーツなどの食料品を購入していたらしい。

「ところで、サイトは何を買われたのですか?」

「ん? 俺? 俺が買ったこれは、ランプだよ」

 アイシェの問いに、俺は折れていない左手でもって抱えていた箱を開けて、その中身を彼女に見せる。緩衝材と共に箱に詰まっていたのは精巧な幾何学模様のモザイクガラスによって組み上げられたトルコランプであり、ランプ屋の店頭に並ぶ数多の商品の中から吟味に吟味を重ねて選んだだけあって、その美しさは格別であった。

「あら、綺麗じゃないの。どこに飾るつもりなのかしら?」

「寝室のサイドボードの上の、テレビの隣にでも置こうかと思ってね。どうだい? 良い色だろう?」

 アイシェだけではなくヤセミーンもまたランプの詰まった箱を覗き込んで来たので、俺はそう言いながら買ったばかりのランプをくるくると回し、俺の審美眼が確かである事を褒めてもらおうとする。

「何だそれは、随分とケバケバしい色の下品なランプだな。そんな下品なランプを選ぶ奴の気が知れんぞ。きっと選んだ奴は、余程の■■■■野郎に違いない」

 しかしクロエばかりは、放送禁止用語も交えながら俺の審美眼を真っ向から否定した。

「こら、クロエ! またそんな口の利き方をして! サイトに謝りなさい!」

 従姉妹であるアイシェが再びクロエをたしなめるが、クロエはぷいと顔を逸らして聞こえていないふりをするばかりで、俺に謝罪する様子はまるで無い。

「まあまあアイシェ、いいじゃないか。きっと彼女の趣味には合わなかったんだよ。俺がもっとよく選んで、彼女好みのランプを買えば良かったんだ」

 自分を罵倒したクロエを俺自身が必死に擁護すると言う皮肉な状況に苦笑いを浮かべながら、俺はランプを箱の中に詰め直した。そしてリムジンに乗り込もうとしたところでふと思い立ち、同じくリムジンに乗り込み掛けていた三人の妻達に提案する。

「天気も良いし、ちょっと足を延ばして海沿いを散歩でもしないか? それでついでに、どこか良い店があったら少し遅めの昼食にしよう」

「いいですね、サイト。そうしましょう」

「賛成。あたし、シーフードかパスタが食べたいな」

「ふん、まあ、いいだろう」

 俺の提案をアイシェとヤセミーンの二人は快諾してくれたし、クロエもまた特に不服は無いようだ。そこで俺達四人はカパル・チャルシュでの買い物で増えた分の荷物を積み込んだリムジンをその場に残したまま、現在地から見て北側の海沿いの方角を目指して歩き始める。リムジンを運転するスレイマンには手間を掛けさせるが、出先のどこかで昼食を食べ終えた後に、その店まで彼に再び迎えに来てもらえば問題は無い。

「ああ、風が気持ち良い」

 やがて海沿いの、俺達と同じように散歩目的で訪れた地元民や観光客で賑わうガラタ橋の付近の波止場まで辿り着くと、隣を歩くヤセミーンが嬉しそうに微笑みながら言った。確かに彼女の言う通り、波も穏やかな海の方角から吹いて来るちょっとだけ磯臭い潮風が買い物疲れで汗ばんだ肌に心地良く、爽快な気分にさせてくれる。

「?」

 すると不意に潮風に乗って、ぷんとどこからともなく、郷愁の念を誘う懐かしい匂いが俺の鼻に届いた。

「あれ? これ、何の匂いだっけ……」

 匂いに誘われるがままに波止場をふらふらと歩き続ければ、その発生源は多くの船が並ぶフェリー乗り場の傍に係留された数隻の大型ボートであった。そしてそれらのボートには煌びやかな極彩色の電飾に彩られた派手な看板が掲げられ、そこにはトルコ語でもって『バリック・エクメック《Balik Ekmek》』と書かれている。

「どうしました、サイト? バリック・エクメックが食べたいんですか?」

「バリック・エクメック?」

 問い掛けて来るアイシェに、俺は問い返した。すると彼女は看板に書かれた謎のトルコ語の意味を、丁寧に解説してくれる。

「トルコ語で『バリック』は『魚』を、『エクメック』は『パン』を意味します。西洋風に言えば、要は魚を挟んだサンドイッチですね。特にこの辺りでは、焼いたサバを硬めのバゲットに挟んで食べるのが一般的だと聞いています」

「なるほど、鯖サンドか」

 アイシェの解説に、俺は得心した。つまり大型ボートを中心とした波止場一帯に漂っている俺にとっての懐かしい匂いとは、日本に居た頃に実家の台所や定食屋の厨房でよく嗅いだ、鯖の切り身が焼ける匂いだったのである。

「どうします? ここでバリック・エクメックを食べて行きますか、サイト?」

「そうだな、アイシェ。俺も久し振りに鯖が食べたいし、昼食はここの鯖サンドで軽く済ませる事にしようか。二人も、それで構わないかい?」

 アイシェの問いに、俺は少し遅れて俺達に追いついた背後の二人、つまりヤセミーンとクロエに尋ねた。

「そうね。本当はパスタが食べたかったんだけれど、サイトが食べたいって言うのなら、あたしも一緒に鯖サンドを食べようかしら」

「……あたしも、アイシェお姉様が食べるなら……それで……構わない」

 二人の承諾を得たものの、快諾したヤセミーンに比べるとクロエの返答は少しばかり歯切れが悪い。しかし俺はその事実をさほど気に留める事も無く、鯖が焼ける匂いを発する大型ボートに近付くと、そのボートの手前の波止場に据えられた小さなカウンターの中に立つ店員に注文する。

「鯖サンドを四つ、頼む」

 俺がそう注文すると、カウンターの中に立っていた若い店員が代金を受け取ってから、波に揺れるボートの中の厨房で鯖を焼いている調理人に「鯖サンド四つ!」と威勢良く注文した。どうやらこの若い店員は、客からの注文の受注と伝達、それに会計専門の店員だと思われる。すると厨房の中のコンロでじゅうじゅうと心地良い音を立てながら焼かれた鯖の切り身と付け合わせの野菜を調理人がバゲットに挟み、それを波止場に立つ別の店員にボート越しに手渡すと、その店員が受け取ったバゲットと鯖の切り身にレモン汁とソースを塗って鯖サンドをこしらえた。そしてその行為が俺が注文した鯖サンドの数だけ、つまり都合四回繰り返される。

「はい、鯖サンド四つね」

「ありがとう」

 俺は店員に礼を言いながら包み紙に包まれた鯖サンド四つを受け取ると、その内の一つは自分の分として手元に残し、他の三つをアイシェとヤセミーンとクロエのそれぞれに手渡した。手にした鯖サンドのバゲットには香ばしい匂いを周囲に漂わせる焼き鯖の切り身と、スライスされた生のレタスとトマトと玉葱が挟み込まれ、白いヨーグルトソースとレモンの絞り汁がたっぷりと塗られている。ちなみに鯖サンドを実際にこしらえる現場を一通り確認してみたが、何故わざわざ陸の上ではなく揺れるボートの上で鯖を調理しているのか、その理由は最後まで分からなかった。まあきっと、ボートの上で調理した方が観光客にウケるとか、そんなパフォーマンスの一環に違いない。

「いただきます」

 そう言った俺と三人の妻達は、波止場に立ったまま各自の鯖サンドを頬張り始める。焼き鯖の切り身を挟んだサンドイッチなどと言うと日本では馴染みが無いだろうが、考えてみればコンビニで売っているツナサンドのシーチキンの原料も鯖と同じ魚の一種の鮪や鰹だし、マクドナルドに行けば白身魚のフライを挟んだフィレオフィッシュが人気商品として売られているではないか。だから焼き鯖がサンドイッチの具材になっていても、何も不思議な事は無い。

「うん、美味い美味い」

 生まれて初めて食べるイスタンブールの鯖サンドは、存外に美味かった。レモンの絞り汁とヨーグルトソースによる酸味の効いた味付けは確かにトルコ風だが、一口噛む毎に滲み出て来る魚の脂の旨味や食感はやはりツナサンドやフィレオフィッシュにも似ていて、意外にも故郷の日本の味を思い出させる。鯖サンド、これはもしかしたら、チェーン店を出店すれば日本でも流行るかもしれない。

「あら、どうしたの、クロエ? もしかしてあなた、未だ魚が苦手なの?」

 不意にそう言ったアイシェの言葉に振り返れば、未だ口をつけていない真新しい鯖サンドを前にして、クロエがぶるぶると震えていた。

「ん? どうした?」

「ああ、ごめんなさい、サイト。実はクロエは未だ小さな子供の頃から、魚介類全般が苦手で食べられなかったんです。でもてっきり、大人になってからはそう言った好き嫌いも克服したと思っていたんですが……」

 そう言ったアイシェの言葉通り、どうやら魚嫌いのクロエは手にした鯖サンドを食べたものかどうか、口に入れる寸前で躊躇しているらしい。

「なんだ、それだったら無理して食べなくたっていいよ。ほら、俺が残りを食べてやるから、鯖サンドをこっちに寄越しなって」

 俺はクロエに手を差し出すが、彼女はそれに反抗する。

「う、うるさいぞサイト! 近寄るな、この■■■■野郎が! あたしだってもう子供じゃないんだから、魚くらい食べてみせる!」

 強がってそう叫んだクロエは差し出された俺の手を振り払うと、後退った。どうやら敬愛する従姉妹を奪った恋敵である俺に優しくされた、もしくは同情されたと言う事実が、むしろ彼女のプライドを傷付けたらしい。

「いいから、鯖サンドをこっちに寄越しなって。ほら、あっちの屋台ではドネルケバブも売っているし、クロエはそっちを買って来て食べなよ」

「だから、魚くらい食べてみせるって言ってるだろ! あたしを子供扱いするな!」

「子供扱いなんかしてないって。誰だって、苦手な食べ物くらいあるさ。ほら、早く」

 そう言った俺がクロエの手から半ば強引に鯖サンドを奪い取ろうとすると、クロエはそんな俺の手を振り払い、更に後退る。そして気付けば波止場の片隅で、鯖サンドを無理してでも食べると言う彼女と食べなくてもいいと言う俺との押し問答になってしまい、それはちょっとした小競り合いでもあった。周囲を歩く地元民や観光客達も足を止め、野次馬となって俺とクロエとの小競り合いを遠巻きに見物し、彼らに取り囲まれた俺は少しばかり恥ずかしい。

「魚が食べられないからって、あたしを馬鹿にするな! この■■■■野郎!」

 やがて押し問答の末に、クロエが悪態交じりに叫びながら、彼女の手から鯖サンドを奪い取ろうとする俺を振り払うべく力任せに拳を振り回す。するとその拳がたまたま俺の顔面の中央を結構な勢いでもって正確に捉え、図らずもクロエが拳骨で俺の鼻っ柱をがつんとしたたかに殴打する格好になってしまった。

「あ……」

 偶然とは言え自身が暴力を振るってしまった事に困惑し、言葉を失うクロエ。そんなクロエの眼前で、彼女に殴打された俺の鼻の穴からは真っ赤な鮮血が顎を伝いながらぼたぼたと地面に滴り落ちる。

「痛っつー……」

 俺の喉から、苦痛を訴える小さな呻き声が漏れた。出血量の割には大した怪我ではなかったのだが、それでも痛いものは痛いので、仕方あるまい。

「サイト! 大丈夫ですか? 血が出てますよ?」

「サイト、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよアイシェ、ヤセミーン。このくらい、大した怪我じゃないさ」

 心配するアイシェとヤセミーンをなだめてから、怪我の具合を確認した俺はクロエに向き直る。すると只でさえ色白の顔から更に血の気を引かせた顔面蒼白の彼女は、明らかに冷静さを失っていた。

「あ、あたしは悪くないぞ! 近寄るなって言ったのに近寄って来たお前が悪いんだからな! 自業自得だ! あたしのせいじゃない!」

 自身の振るった暴力が流血沙汰に発展してしまった事に困惑の度合いを深め、おろおろと狼狽しながら早口で捲くし立てると、クロエは俺から距離を取ろうと更に後退る。

「うん、分かってるって。クロエ、キミは悪くないよ。だからほら、いい加減にその鯖サンドをこっちに寄越しなって」

「う、うるさい! うるさい! 黙れ! 近寄るな! 近寄るなったら!」

 語気を荒げながらそう叫んだクロエは尚も後退り続け、やがて波止場と海を隔てる柵ギリギリの所にまで達していた。そしてどうやら流血する俺の姿を眼にして完全にパニック状態に陥ったらしい彼女は、自分が後一歩で海に転落する位置にまで後退ってしまっている事に気付いていない。

「クロエ、後ろをよく見ろ。そのままだと海に落ちるぞ」

 注意を促そうと思った俺は鼻血まみれの顔を手で押さえながら、更に一歩クロエに近付いた。すると彼女はこちらを見据えたまま、俺から逃げるために背後に向かって駆け出そうとする。

「近寄るなって言ってるだろ! この■■■■野郎!」

 その言葉と共に駆け出したクロエの小柄な身体が、勢いよく波止場の柵に衝突した。そして体勢を崩すと同時に柵を乗り越え、そのまま彼女は「きゃあっ!」と言う小さな悲鳴と共に海に転落する。

「クロエ!」

 どぼんと言うクロエが海に落ちる音を聞いた俺とアイシェとヤセミーンの三人が、同時に叫んだ。するとそんな俺達の眼前で、クロエの手を離れた彼女の鯖サンドだけがぼとりと地面に落下する。

「クロエ! ああ、クロエ!」

 実の妹の様に可愛がっていた従姉妹が海に転落する姿を眼にしたアイシェが、クロエに続いてパニック状態に陥ってしまった。だが今は、彼女に構っている暇は無い。そこで俺は急いで波止場の柵まで駆け寄ると身を乗り出して下を覗き込み、海に転落した筈のクロエの姿を探す。

「クロエ! どこだ!」

 柵から身を乗り出しながら覗き込んでみれば、波止場の縁から二mばかり下に見える暗く冷たい海面上を、クロエの小柄な身体が浮いたり沈んだりしていた。そして彼女はごぼごぼと海水と呼気をあぶく交じりに吐き出しながら、海中でばたばたと暴れ、もがき苦しんでいる。

「たっ……助け……助け……て……」

 海面上に浮かび上がる度に必死で助けを求めるクロエの様子から察するに、どうやら彼女はまるで泳げないらしい。つまりこのまま手をこまねいているばかりでは、クロエは溺れ死んでしまうと言う事だ。すると最後にごぼっと一際大きなあぶくを吐き出したのを最後に、俺の視線の先で彼女の身体が海中に沈んで行く。

「糞!」

 次の瞬間、悪態を吐いた俺は半ば無意識のまま波止場の柵を乗り越えると、反射的に海へと飛び込んでいた。そして大きな水飛沫を上げながら着水するとそのまま海中に潜り、付近の海底へと沈んで行った筈のクロエを探すが、水の透明度が低いためになかなか彼女の姿は見つからない。

「!」

 しかし濁った海水の向こうに、俺はとうとう沈み行くクロエの手を目視で確認した。彼女の手はまるで必死で俺に助けを求めるかのような格好で、もしくは酸素も求めて少しでも海面に近付こうと、より呼吸が出来る地上に近いこちらへと向かって延ばされている。そこで俺は折れていない左手でもってクロエの手を掴み、更に海中で彼女の小柄な身体を抱き寄せたが、問題はここからだ。俺とクロエの二人分の身体を海中から海面まで上昇させようと思ったら、とてもじゃないが足で水を掻くだけでは推進力が足りない。だがご存知の通り、俺の右腕は未だ骨折が完治しておらず、骨が折れたままである。

「糞! 糞! 糞!」

 俺は声が出せない海中で、心の中で繰り返し悪態を吐きながら覚悟を決めた。そして医療用の固定器具であるアームホルダーを外すと、折れた右腕でもって水を掻き始める。

「!」

 当然ながら右手で水を掻く度に骨の折れている箇所に激痛が走るが、そんな事を気にしている余裕など今の俺には無い。とにかく一秒でも早く海面から顔を出して呼吸しなければ、俺もクロエもこのまま揃って溺死してしまうのだ。

「ぶはっ!」

 やがて死に物狂いで水を掻き続けた末に、俺はクロエを抱きかかえたまま海面上に顔を出す事に成功すると大きく息を吸い込んで、既に殆ど空になっていた肺の中に酸素を取り込む。

「サイト! クロエ! 大丈夫ですか?」

「サイト! もうちょっとで助けが来るから、それまで頑張って!」

 頭上の波止場から、俺とクロエの身を案じたアイシェとヤセミーンの声が耳に届いた。

「クロエ! おい、クロエ! クロエ!」

 俺もまた抱きかかえたクロエの身を案じて彼女に声を掛けるが、どうやら意識を失ってしまっているらしいクロエからの返答は無く、ぐったりと脱力し切ったその身体からはまるで生気が感じられない。

「■■■■! ■■■■! ダイジョウブカ?」

 すると今度は俺には理解出来ないトルコ語とカタコトの英語による呼び声が耳に届いたので振り返ってみれば、この波止場で働く港湾労働者らしき二人の男達が操舵するボートが眼に留まり、それが波飛沫を上げながらこちらへと接近して来る。そして俺とクロエは二人の港湾労働者達によってすぐさまそのボートの甲板上へと引き上げられ、文字通りの意味で一命を取り留めた。

「クロエ! おい! しっかりしろ、クロエ!」

 俺はボートの甲板上で、同じく甲板上に寝かされたクロエに大声で呼び掛けながら彼女の頬を数発叩くが、反応は無い。どうやら海中に沈む際に、大量の海水を飲んでしまっているようにも見受けられる。しかもクロエは単に意識を失っているだけではなく、完全に呼吸が止まっていた。

「クロエ! 糞!」

 俺は悪態を吐きながら、未だ日本に居た頃に自動車運転免許の教習所で習った救急救命措置の講習の内容を必死で思い出す。そしてクロエの脈を測って心臓が動いている事を確認すると、仰向けに寝かせた彼女の顎を上げて気道を確保して鼻をつまみ、それから互いの唇を重ねて講習で習った人工呼吸を開始した。

「ぷー……」

 重ねた唇からクロエの肺に向かって酸素を直接吹き込み、一旦唇を離して様子を見てから、更にもう一度唇を重ねて彼女の肺に酸素を吹き込む。それを何度も繰り返している内に、遂にクロエが息を吹き返した。

「げほっ! げほっ! げぽっ!」

 激しく咳き込みながらもクロエが息を吹き返したので、彼女の顔を覗き込みながら、俺は何度も声を掛ける。

「クロエ! おい、クロエ! 大丈夫か? しっかりしろ!」

「サイト……この■■■■野郎め……」

「ああ、良かった……」

 自力で立ち上がるだけの気力は無いものの、俺の事を放送禁止用語でもって罵倒するだけの元気があれば、きっともう大丈夫だ。

「クロエ? 大丈夫ですか、クロエ?」

「大丈夫、クロエ?」

 波止場の上からはアイシェとヤセミーンの二人も声を掛け、クロエの無事を確認する。そしてそれ以外の周囲に集まった地元民や観光客による野次馬達もまた海に落ちた俺やクロエに声を掛けて無事を確認するが、そう言った第三者による雑音とも言うべき意味の無い言葉は、ここでは割愛させていただきたい。とにかく今は、俺とクロエの二人が助かったと言う事実だけが重要なのだ。

「ふう」

 俺は安堵の溜息を漏らし、天を仰ぐ。するとそんな俺の耳に、こちらへと接近しつつある救急車のサイレンの音が届いた。専門家である救急救命士が到着したとなれば、もう何も心配する事は無い。

「ああ、クロエ! 本当に助かって良かった! ありがとうございます、サイト……サイト! どうしたんですか、その腕は!」

「え?」

 まだ自力では立ち上がれないクロエに寄り添うアイシェに指摘された俺は、自分の腕を見遣る。すると俺の右腕は骨が折れていた箇所から不自然な「く」の字に折れ曲がり、内出血でどす黒い紫色に変色している上に、炎症によってぱんぱんに腫れ上がっていた。

「痛っ! 痛たたた……」

 たった今しがたまでは痛くも何ともなかったのに、折れていると気付いた途端に痛みがぶり返して来る。

「サイト、その腕、大丈夫?」

「大丈夫じゃ……ないなこりゃ。完全に折れちまってる」

 ヤセミーンもまた俺の腕の怪我の具合を心配してくれるが、どう考えても大丈夫ではないし、溺れたクロエよりもそれを助けた俺の方がより重症かもしれない。そしてそんな事を考えていると、やがて群がる野次馬達の喧騒を掻き分けながら、ようやく救急車が波止場に到着した。

「あーあ、参ったなあ……」

 どうやらクロエと一緒に病院に搬送される事になったらしい俺は愚痴を漏らすと、深く深く嘆息する。


   ●


 海で溺れたクロエを俺が救助した日の、夜も深まった頃。病院での治療をようやく終えて、三度みたび折れてしまった右腕をギプスとアームホルダーで固定し直した俺は付き添いのヤセミーンと共に、使用人のスレイマンが運転するリムジンでもって新居である邸宅へと帰還した。

「ただいま」

 気落ちした俺が沈んだ声で帰宅を告げると、一緒に帰宅したヤセミーンがぽんぽんと俺の背中を優しく叩きながら励ましてくれる。

「そんなに落ち込まないでよ、サイト。良かったじゃない、入院しなくても済んだんだからさ。それにクロエも無事だったんだし、少しは喜びなさいよ」

「そうは言うけどさ、二度も折った末にようやく治り掛けていた腕の骨がまた折れちまったんだから、落ち込みたくもなるよ。これでまた二ヶ月は、飯を食うのだってキミやアイシェの手を借りなきゃならないし。……まあ確かに、クロエが無事だった事だけは不幸中の幸いだけどさ」

 俺はそう言いながら、悲嘆と安堵が入り混じった複雑な溜息を漏らした。するとそんな俺を、廊下の向こうから小走りで駆け寄って来たアイシェが優しく出迎えてくれる。

「お帰りなさい、サイト。それで、腕の怪我の具合はどうでしたか? 腕以外に、怪我はありませんでしたか?」

「ああ、大丈夫だよアイシェ。ご覧の通り右腕はまた折れちまったけれど、それ以外はびしょ濡れになっただけで掠り傷も無く、至って健康だとさ。……それで、俺の事なんかよりもクロエの容態は? 電話では特に怪我は無いって聞いたけれど、彼女は今、どこでどうしているんだい?」

 オレはアイシェに、一番の懸念事項を尋ねた。海で溺れた後に救急病院へと搬送された俺達四人は二手に分かれて別個に行動する事を選択し、より重症だった俺と付き添いのヤセミーンを残して、アイシェを付き添い人としたクロエは先に帰宅している筈である。

「クロエでしたら既にあたしと一緒に帰宅して、今はそちらに」

 そう言ってアイシェは、玄関ロビーの一角に立つ石造りの柱を指差した。するとその柱の陰に身を隠しながらジッとこちらを覗き見ている、小柄なクロエの姿が眼に留まる。

「ああ、そこに居たのかい、クロエ。病院でもずっと心配していたんだけれど、そうやって一人で歩き回れるって事は、どうやら電話で聞いていた通りにキミは無事だったみたいだね。良かった」

 俺がホッと安堵しながらそう言うと、こちらの様子をうかがっていたクロエが気不味そうにぷいと視線を逸らした。

「クロエ、いつまでもそんな所にこそこそと隠れていないで、こちらに出て来てちゃんとサイトにお礼を言いなさい」

 実の姉同然に敬愛する従姉妹のアイシェにそう言われたクロエは柱の陰からその身を晒すと、ゆっくりとこちらに歩み寄って来る。そして俺の眼前まで歩み寄って来た彼女はこちらから視線を逸らしたまま、やはり気不味そうと言うか肩身が狭そうと言うか、とにかくばつが悪そうにもじもじとしていた。

「本当に良かったよクロエ、キミが無事で」

 俺がそう言って微笑み掛けると、クロエはわなわなと肩を震わせ始める。

「なんでだよ……。なんでお前は、そんなにあたしに優しく出来るんだよ……」

「え?」

 一体彼女が何を言い出したのか理解出来ない俺の眼前で、クロエは肩を震わせながら泣いていた。

「あたしはなあ、お前の事が大嫌いなんだぞ! お前の事を散々罵って、何度も何度も■■■■野郎呼ばわりして来たんだぞ! なのにお前は、一度もあたしの事を怒らないし……へらへら笑ってばかりだし……あたしに殴られて鼻血を出しても、それでも優しくするし……。おまけに今度はあたしのせいで死に掛けて、腕の骨を折ったんだぞ? 少しは怒れよ! 罵れよ! そうでないと、まるであたしだけが悪者みたいじゃないか! あたしだけが惨めじゃないか!」

 そう叫んで胸の内を吐露したクロエはぼろぼろと大粒の涙を零しながら泣き続け、嗚咽を上げ続ける。そして俺は、ようやく理解した。きっとクロエは俺とアイシェとの関係を歯痒く思うのと同時に、敬愛するアイシェを俺によって奪われた事で疎外感に苛まれ、寂しくて仕方が無かったのだろう。だが恋敵である筈の俺はと言えば、自分を敵視する彼女に優しくするばかりだ。そしてそんな俺を罵倒し続ける事によって、クロエは心の奥底に、己の心をじわじわと蝕む罪悪感をまるで海底に溜まったヘドロか澱の様に蓄積させ続けたに違いない。だからきっと彼女にとっては、いっそ俺に口汚く罵られた方が、心の奥底に溜まった罪悪感が解消される分だけ気が楽だったのだろう。だが現実にはそうならず、俺の優しさが却って彼女を傷付け、罪悪感を蓄積させ続けていたのだ。

「えっと、その、クロエ……。なんかその、ごめん」

「なに謝ってんだよ! 謝るなよ! 謝られたりなんかしたら、あたしはもう……もう……」

 嗚咽を上げて泣きながら、消え入ってしまいそうな掠れ声でもってそう言ったクロエは涙を拭うと、くるりと踵を返す。そして居ても立っても居られなくなった彼女はダッと駆け出すと、そのまま邸宅の奥へと姿を消してしまった。

「クロエ……」

 後に残された俺はその場に立ち尽くし、言葉も無い。

「本当に、クロエには困ったものですね」

 するとアイシェがそう言いながら、俺に助言してくれる。

「気にしなくても大丈夫ですよ、サイト。今のクロエはちょっとだけ、自分が何をどうしたらいいのか分からなくなっているだけですから、己を見つめ直して自分の気持ちに正直になる事が出来たならばきっと彼女はまたあなたの前に姿を現します。ですからそれまでは辛抱強く、彼女を見守っていてあげましょうよ。ね?」

「あら? 世間知らずのお嬢様のくせに、知った風な口を利いちゃって」

 俺に助言してくれたアイシェを、ヤセミーンは世間知らずのお嬢様扱いしてからかった。するとアイシェは分かり易く唇を尖らせながら「ふん!」と言って不満を露にするが、それでもやはりヤセミーンと直接口を利く事は無いし、眼も合わせない。

「ねえサイト、そんな事よりも、お腹空かない? 今の今まで何も食べずに病院でずっと待たされていたから、もうあたし、お腹ぺこぺこで倒れちゃいそう」

 アイシェを無視し返したヤセミーンがそう言ったので、俺自身もまた、自分がひどく空腹である事を思い出す。

「ああ、そうだな。結局何だかんだで昼の鯖サンドも半分程度しか食べられなかったし、俺も空腹で倒れそうだ」

「でしたら、ちょうど良かった。あなたが帰って来ると聞いて、ちょうどエスラにご夕飯を用意させていたところですの。あたしもクロエも病院から帰宅してからこっち、サイトが帰って来るまでご飯を食べずにずっと待っていましたから、今にもお腹が鳴ってしまいそうです」

 わざとらしくヤセミーンを無視して、俺だけにそう言ったアイシェ。彼女に先導されて邸宅の食堂に赴けば、ちょうど使用人のエスラによって、遅い夕食が準備されたところであった。

「それでは、いただきましょう」

「ああ、いただきます」

 そう告げた俺は、食堂のテーブルの上に並べられた遅い夕食を食み始める。今日の夕食のメインディッシュは、ちょっとカジュアルと言うか庶民的に、牛肉と野菜とチーズのピデ。イタリア料理で有名なピッツァの原型になったとも言われている、古典的なトルコ料理の一つだ。

 しかしエスラがこしらえてくれた美味い筈のピデも、今の俺にとっては、どうにも今一つ味がしない。と言うのも、邸宅の食堂にはアイシェと共に夕飯を食べずに俺の帰りを待っていてくれたと言うクロエの姿が無いので、彼女が今どこでどうしているのかが気掛かりでならないのだ。今この時も、彼女がどこか邸宅の隅っこの暗い柱の陰で泣きながら空腹と罪悪感とに喘いでいるのかと考えれば、俺が気が気でないのも至極当然の帰結と言えるだろう。

「ごちそうさま」

 やがて俺は夕食を食べ終え、食堂の席を立った。

「あら? サイト、もういいの?」

「ああ、うん。今日は色んな事があってひどく疲れたせいか、何だか今はあまり食欲が無くってね。だからとっととシャワーを浴びて、今夜はもう寝るよ」

 ヤセミーンの問いにそう返答した俺は、シャワーを浴びようと思って邸宅のバスルームへと足を向ける。そして一人でシャワーを浴び、髪と身体を洗うと、脱衣所で寝間着に着替えながら手早く歯を磨いて就寝の準備を整えた。後はこのまま寝室に赴いて、寝るだけである。

「お先に。寝室で待ってるよ」

 途中、廊下ですれ違ったアイシェとヤセミーンにそう言ってから寝室に足を踏み入れた俺は、壁沿いに設置されたキングサイズのベッドの上にごろりと横になった。そして眠気が襲って来るまでの僅かな時間を、テレビの報道番組などを観るともなしに観ながらだらだらと潰していれば、やがて俺と同じく就寝の準備を整え終えたアイシェとヤセミーンの二人もまた寝室に姿を現す。

「さあ、それじゃあ寝ましょうか、サイト」

 扇情的なベビードール姿のヤセミーンはそう言うと、キングサイズのベッドの中央に寝る俺の左隣に寝転んだ。また同時に、清楚なネグリジェ姿のアイシェは無言のまま、俺の右隣に静かに身を横たえる。ヤセミーンとクロエとの二度目の結婚式以降に試行錯誤を重ねた結果、最近では夫婦の営みが無い夜は、俺達三人はこうして川の字になって寝るのが慣習となっていた。つまりこうして就寝すれば、いがみ合っているアイシェとヤセミーンが直接隣り合わないで済むと言う寸法である。ちなみにクロエだけは未だに一人で客間で寝ていて、どうしても俺と一緒に寝る気は無いらしい。

「ああ、お休みヤセミーン、アイシェ」

 そう言った俺はリモコンを操作し、寝室の照明を落とした。そして眼を閉じて就寝の体勢に入ったところで、寝室の扉が開くきいと言う小さな音が耳に届く。

「?」

 こんな時間に一体誰が夫婦の寝室を尋ねて来たのかと思った俺は半身を起こし、開いた扉の方角を見遣れば、そこにはクロエが立っていた。てっきり客間のベッドの上で不貞寝を決め込んでいると思われた彼女がこんなにも早く俺の前に姿を現した事に、少し驚く。

「あら、クロエ? どうしたの? 眠れないの?」

 廊下から差し込んで来る照明の明かりによって逆光気味に照らし出されたクロエに、アイシェが尋ねた。するとクロエは少し思い詰めたかのような声色でもって、彼女らに要請する。

「アイシェお姉様、ヤセミーン、今夜はあたしとサイトを二人きりにしてくれないか?」

「クロエ、あなた何を言って……」

 疑問を呈しようとしたアイシェの肩をヤセミーンが掴んで、彼女を制した。

「アイシェ、あなたやっぱりお嬢様育ちなだけあって察しが悪いと言うか、時々ちょっと無粋なところがあるのよねえ。あのね、クロエはね、サイトと仲直りしたいの。そして仲直りするには、ここにあたし達が居たらお邪魔虫な訳。どう? 分かるでしょう? だからあたし達は、今は退散しましょうよ? ね?」

 そう言ったヤセミーンに両肩を掴まれ、強引に退室を促されたアイシェ。彼女は渋々ながらも仇敵である筈のヤセミーンと共に寝室を立ち去り、後には俺とクロエの二人だけが残される。

「サイト……」

「やあ、クロエ。未だ怒ってるのかい?」

 二人きりになった寝室で、俺は尋ねた。するとこちらへと歩み寄って来たクロエは俺が半身を起こして寝転がったベッドの上に乗ると、着ている服をおもむろに脱ぎ始める。

「クロエ?」

 驚く俺の眼前で淡々と繰り広げられる、まだ十八歳の少女に過ぎないクロエによる慮外のストリップショー。そして最後の一枚である下着を脱ぎ捨てれば、全体的に色素の薄い金髪碧眼の白人種コーカソイドであるクロエの、未だ幼さの残る一糸纏わぬ裸体が露になった。学生時代にアメリカ合衆国から来た留学生と交際していた時期があるが、白人種コーカソイドの生の裸体を至近距離で眼にするのはその時以来である。

「どうだ、サイト? あたしの身体、変じゃないか?」

 そう尋ねたクロエの肌はまるで粉雪の様に白く、頭髪と同じく恥丘に生えた陰毛もまた金髪で、乳房の膨らみ具合の割にはやや大きめの乳輪とその先端の乳首もまた色素の薄い淡いピンク色であった。

「変じゃない……と言うか、それ以前にこの状況が変だ」

 俺はそう言うが、クロエは意に介さない。

「サイト、あたしを抱いてくれ! えっと、その、それでもって、これまでのあたしの無礼な振る舞いや暴言を帳消しにしてくれないか? 勿論、あたしにばかり都合が良過ぎる事を言っているのは理解している。でも今はこれしか、お前に対して罪滅ぼしをする方法が思いつかないんだ。だから、頼む! あたしを抱いてくれ! あたしはお前の妻なんだから、そのくらいの事は要求したっていいだろう?」

「クロエ……」

 何とも子供っぽいと言うか短絡的と言うか、男の機嫌を取るために女の身体を差し出すと言うのも、随分と古典的な手法である。しかしそんな古典的な手法であっても、きっと今のクロエなりに一生懸命考え抜いた末に導き出された結論、つまりは俺との関係を再構築するための最善策であるに違いない。

「……分かったよ、クロエ。こっちにおいで」

 少しばかり逡巡した後に、俺はクロエの要求を呑む事にした。

「サイト……」

 俺の名を口にした彼女をギュッと抱き締め、唇を重ね合う。そして結婚式から一ヶ月ばかりが経過したこの夜、俺とクロエはようやく夫婦の契りを交わした。


   ●


 翌朝。時計のアラーム音で目覚めた俺はベッドの上で半身を起こすと盛大なあくびを漏らし、羽毛布団の中から這い出してから、キリムと呼ばれるオスマン帝国伝統の絨毯が敷かれた床へと降り立つ。昨夜肌を重ねた筈のクロエの姿は既に無く、俺一人だけがぽつんと寝室に取り残されていた。勿論昨夜は客間で寝た筈のアイシェとヤセミーンの姿もどこにも無く、静寂に包まれた寝室に届く物音と言えば戸外でさえずる小鳥の鳴き声と、最寄りのモスクから聞こえて来るアザーンの声のみである。

「礼拝……しなきゃな」

 ボソリと呟いた俺は寝室を出ると廊下を渡り、バスルームで顔を洗って歯を磨いてから部屋着に着替えると、朝の礼拝のために邸宅内に設けられたモスクへと足を向けた。そしてモスクが設けられた部屋に足を踏み入れると、礼拝の準備を整え終えた三人の妻達が、それぞれの言葉でもって俺を出迎えてくれる。勿論、昨日の朝までは俺に対して敵意を剥き出しにしていたクロエもまた一緒だ。

「おはようございます、サイト」

「おはよう、サイト。昨夜はよく眠れたかしら?」

「サイト、遅いぞ! もうちょっと遅かったら、あたしが寝室まで起こしに行くところだったんだからな!」

 我先にと俺を出迎えてくれる三人の妻達に微笑み掛けながら、俺は応える。

「ああ、おはよう。三人とも、今日も元気かい?」

 どうやら今日から俺達四人、夫一人と妻三人による変則的な新婚生活が、本当の意味で始まったらしい。

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