第六幕
第六幕
金曜日の集団礼拝を終えた俺は、以前に俺がイスラームに入信するための
「ふう」
待ち合わせ場所である身を清めるための水場の脇に立つと、一仕事終えた後の安堵の溜息を漏らしてからきょろきょろと視線を巡らせて、愛する妻であるアイシェの姿を探す。水場の在るドームの前は集団礼拝を終えた地元のムスリム達や世界各国からの観光客達でごった返しており、人探しも一苦労だ。そしてアイシェの姿を探しながら、俺は今の自分がこの場に立つ発端となった今朝の出来事を思い返す。
「どうですか、サイト。今日の集団礼拝は、その内行う予定の聖地メッカへの巡礼の旅の予行演習と観光も兼ねて、スルタンアフメト・ジャーミィまで行ってみませんか?」
朝の礼拝後の朝食の席でのアイシェの提案を断る理由は、俺には無かった。
「いいね、行こうか」
同意した俺はアイシェと共にイスタンブールの街の歴史地区の名所旧跡を観光し、その後はスルタンアフメト・ジャーミィを訪れて集団礼拝に参加し、こうして今に至る訳である。
「やっぱり、早くトルコ語とアラビア語を覚えなくちゃなあ……」
今朝の出来事に続いて集団礼拝の内容を思い返しながら、俺はボソリと独り言ちた。
イスラームでは毎週金曜日が聖なる日とされ、この日の正午の時間の礼拝の際に、可能な限り多くのムスリムが一堂に集って集団礼拝が行われる。この集団礼拝を『ジュマ』と言うらしい。そしてこのジュマの際には宗教指導者であるイマームによる説教が行われるのだが、当然ながらこの説教はトルコ語とアラビア語で行われたので、日本語と英語しか理解出来ない俺にはさっぱり意味が分からなかったのだ。つまりそれは今後の俺が、この二つの言語が理解出来るようにならなければならない事を意味している。
「はあ」
新しい言語を二つも覚えなくてはならない面倒臭さに、俺は天を仰ぎながら絶望の溜息を漏らした。するとそんな俺の名を、ふと誰かが呼ぶ。
「おい、サイト。あんた、サイトじゃないか」
不意に名を呼ばれて振り向けば、そこにはやけに毛深い大柄な中年の男、つまりバヤル兄妹の兄の方であるヤウズ・バヤルが立っていた。
「やあ、ヤウズ」
「奇遇だなサイト、こんな場所で会うだなんて。以前ハマムで会ってから、一週間ぶりくらいか? モスクに居るって事は、あんたも集団礼拝に参加してたんだろう?」
「そうさ、あんたもかい?」
「勿論、俺もそうさ。金曜日のこの時間にモスクでムスリムを見掛けたなら、そいつが集団礼拝に参加していない訳が無い」
そう返答したヤウズは、やはりその体格に見合った大きな声でもって豪胆にげらげらと笑う。
「それで、アイシェはどこだい? 彼女も一緒に来ているんだろう?」
「ああ、一緒さ。集団礼拝が終わったら合流しようと思って、ここで待ち合わせをしているんだが……。お、来た来た」
約一週間ぶりに再会した俺とヤウズがモスクの水場の脇で立ち話をしていると、向こうの方角から小走りで駆け寄って来るアイシェの姿が眼に留まった。
「お待たせ、サイト。……あら、ヤウズ? どうしたの、こんな所で」
「やあ、アイシェ。ついさっき、サイトとこの場所で偶然出会ってね。あんたともまた会えて、嬉しいよ」
アイシェとヤウズの二人も再会を喜び合うのかと思ったが、人の良さそうな大きな顔に満面の笑みを浮かべるヤウズとは違って、アイシェは少しばかり不安げな表情でもって周囲をきょろきょろと見渡す。
「あの……今日はその……妹さんは一緒じゃないんでしょうか?」
どうやらアイシェはヤウズの妹のヤセミーンを警戒し、彼女の存在の有無が気になるらしい。
「あら? あたしが一緒じゃお邪魔かしら?」
不意に背後から声を掛けられて、アイシェが「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。見ればバヤル兄妹の妹の方のヤセミーンがいつの間にか彼女の背後まで忍び寄って来ており、やはり意味深かつ悪戯っぽくほくそ笑みながらアイシェの肩を揉む。
「まさか、お邪魔だなんて言わないでしょうね? 折角なんだから女同士仲良くしましょうよ、アイシェ」
アイシェの肩を揉みながらヤセミーンはそう言うが、背後に立つ彼女から眼を逸らしたアイシェの表情は硬く、無言のままだ。
「遅かったな、ヤセミーン。見ての通り、偶然今さっきここで、サイトとアイシェに会ったところなんだ」
「やあ、ヤセミーン。久し振り」
兄であるヤウズと俺に声を掛けられたヤセミーンはアイシェの肩を揉む手を止めると、今度はこちらに歩み寄って来て俺の手を取る。
「サイト、お久し振り。そろそろまた、あなたに会いたいなと思っていたところなの。だからここで出会えた事を、
「女性にそんな事を言われるとは、光栄だね。俺も会いたかったよ、ヤセミーン」
半ば社交辞令としてそう言った俺を、眉間に皺を寄せたアイシェが恨めしそうに睨んでいた。温厚でおっとりとした性格の彼女がこんな表情を俺に向けるとは、よほどヤセミーンの言動と、それを諌めない俺の態度が癪に障るのだろう。
「どうだサイト、アイシェ、こんな所で出会ったのも何かの縁だし、再会を祝してこれから一緒にお茶でも飲みに行かないか? いいだろう?」
鈍感なのかそれとも面白がって故意に無視しているのか、こちらを睨み据える不機嫌なアイシェの態度を気にする素振りも無いヤウズが俺達夫婦をお茶に誘った。
「えっと……」
躊躇する俺の脇腹を、背後からアイシェが軽く小突く。どうやら俺に、ヤウズのお茶の誘いを断ってほしいらしい。
「悪いけど、今日は遠慮させてもら……」
「何だよ、つれない事を言うなよ、サイト。集団礼拝の後なんだからあんたら夫婦も疲れていて喉も渇いているだろうし、急ぎの用事があるって言う訳でもないんだろう? だったら、お茶の一杯くらいいいじゃないか? な? な?」
誘いを断ろうとした俺の肩を抱いたヤウズはそう言って、半ば強引にお茶に連れ出そうとする。
「それじゃあ、一杯だけなら……」
優柔不断な俺は、一杯だけと言う条件でヤウズの誘いを了承してしまった。するとどうやら激怒しているらしいアイシェがこちらを睨んでいる視線をひしひしと背中に感じるが、人付き合いと言うのはある程度の妥協と我慢が必要なので、今この場ではこうする他に致し方無い。
「よし、決まりだ。ちょうどこの近くに俺の馴染みの店があるから、そこに行こう。小さな店だが、なかなか美味いバクラヴァが食えるぞ」
やはり俺の肩を抱いたまま、ヤウズは強引に連れ出すようにして俺を歩かせ、スルタンアフメト・ジャーミィの敷地を後にする。すると俺達男二人の背中を追ってアイシェとヤセミーンの女二人も付いて歩いて来るものの、この二人は互いに会話を交わす事はおろか、眼を合わせようともしない。そしてスルタンアフメト・ジャーミィの敷地を出てからほんの百mばかりも歩けば、ヤウズが言うところの『馴染みの店』とやらに辿り着いた。そこは確かに地元民向けの小さくて古風なカフェだったものの、なかなか清潔で古臭さは感じさせず、雰囲気の良い店に思える。
「四人だ。出来れば、外のテラス席を用意してくれ」
店に足を踏み入れるなり、ヤウズが店長と思しき店員に告げた。するとその店員は「かしこまりました、中佐殿」と言うと、あっと言う間に大通りに面した店の軒先の、眺めの良いテラス席を用意してくれる。
「中佐殿?」
ヤウズ、ヤセミーン、アイシェの三人と共に俺は用意されたテラス席に腰を下ろしながら、ヤウズに尋ねた。
「あれ? 言ってなかったっけか? 俺はこう見えてもトルコ陸軍に所属する軍人で、階級は中佐だ。この店の今の店主は、俺の元部下なんだよ」
何が「こう見えても」なのかは良く分からないが、とにかくどこからどう見ても軍人かマフィアかプロレスラーにしか見えないような風体のヤウズはそう言ってテラス席に腰を下ろすと、給仕に注文する。
「人数分のチャイと、バクラヴァを頼む」
すると程無くして注文通り、俺達四人分のチャイとバクラヴァがテラス席のテーブルの上に並べられた。
「それでは再会を祝して、乾杯!」
ヤウズの音頭でもってティーカップを掲げた俺達四人は、そのティーカップに注がれたチャイとバクラヴァを賞味する。ちなみにバクラヴァとはナッツ類を挟み込んだ小麦の生地をシロップ漬けにしたお菓子の一種で、ここトルコなどの中東では広く一般的に食べられているのだが、正直言ってあまり俺の口には合わない。と言うのもインドなどの南アジアから中東に至るユーラシア大陸南部のお菓子はどれもシロップやハチミツなどでもってギトギトに甘く味付けされた物が多く、和菓子の素朴な甘さに慣れた日本人には少々甘過ぎて、食べるのに難儀するほどであった。何故こうにも、外国のお菓子と言うのは歯が溶けそうなほどにまで甘いのだろう。
「またお会い出来て嬉しい限りよ、サイト」
チャイを飲む俺にそう言って、ヤセミーンがほくそ笑んだ。
「俺もまた会えて嬉しいよ、ヤセミーン」
半ば社交辞令としてそう言ったものの、そんな俺の脇腹を隣に座るアイシェが唇を尖らせながら結構な力でもって小突き、
「それにしてもサイト、日本人であるあんたが俺達と同じムスリムで嬉しいよ。同じムスリムなら、イード・アル・フィトルもイード・アル・アドハーも一緒に祝えるし、それになんなら、いつか聖地メッカへの巡礼にだって一緒に行ってもいい。素晴らしい事じゃないか、なあ?」
プロレスラーの様な巨体を揺すりつつ、ヤウズが豪胆にげらげらと笑いながら言った。ちなみにイード・アル・フィトルとは
「そうだな、ヤウズ。俺もあんた達兄妹と共に、是非とも巡礼に赴いてみたいよ」
やはり半ば社交辞令として俺はそう言ったが、それでもヤウズは嬉しそうににこにこと微笑みながらチャイを飲んでいるので、多分この毛深くて大柄な男は根っからの善人なのだろう。しかしこんな根っからの善人でも、やはり彼は軍人なのだ。いざ戦争ともなればこのヤウズもまた血生臭い戦場の最前線に立って勇猛果敢に戦ったりするのだろうかと思うと、世の中と言うのは不可思議かつ理不尽で、また同時に不条理でならない。
「ねえ、サイト」
「ん?」
不意にヤセミーンが、やはり意味深かつ悪戯っぽい笑みと共に宣言する。
「前回お会いした時のあたしの言葉、覚えているでしょう? あたし今でも、本気であなたと結婚するつもりだから」
彼女の言葉に俺はブッとチャイを噴き出してげほげほと
「あら? あたし、何かおかしな事を言ったかしら? あたしはサイトを愛しているし、サイトはあたしの事が満更でも無いんでしょう? だったら二人目の妻、つまり第二夫人としてあたしを
どうやら本気でそう言っているらしいヤセミーンに対して苦言を呈するのかと思えば、兄であるヤウズもまた破天荒な妹の味方をする。
「いいぞ、ヤセミーン! それでこそ、この俺の妹だ! サイトへの愛を、最後まで貫き通せ!」
げらげらと笑って手を打ち鳴らしながら、そう言って妹を囃し立てるヤウズ。兄を味方に付けて調子に乗り、俺に擦り寄りながら色目を使うヤセミーン。するとどうやら、遂に我が妻であるアイシェがキレたらしい。
「ヤウズ! ヤセミーン! 二人ともいい加減にしてください! 何ですかさっきからあなた達は、第二夫人に
普段は温厚でおしとやかでおっとりとした性格の彼女の立ち居振る舞いからは想像もつかない事だが、アイシェは椅子から立ち上がるとカフェのテラス席のテーブルをバンバンと激しく叩きながら、ヒステリックに叫んだ。そこで俺は彼女を
「まあまあ、アイシェ、落ち着いて。きっとヤセミーンも本気じゃなくて、新婚の俺達を羨んでからかっているんだよ。なあ、そうだろ、ヤセミーン?」
「あら? あたしは至って本気だけど? 至って本気で、サイトと結婚するつもりだけど?」
この場を収めるためとは言え俺がバヤル兄妹に味方した事と、まるでアイシェの感情を逆撫でするかのようなヤセミーンの返答が、彼女の逆鱗に触れてしまった。どうやら堪忍袋の緒が完全に切れてしまったらしいアイシェは怒り心頭に達し、顔を真っ赤にしてわなわなと全身を震わせながら、キッと俺を睨み据えて言い放つ。
「サイト! あなたがそんなどっちつかずな返答を繰り返してばかりいるから、この女が調子に乗るんです! いいですか、あなたにはこれから後見人であるお爺様の所に行って、叱ってもらいますからね! 勿論ヤウズ、ヤセミーン、あなた達も一緒にお爺様に叱ってもらいます! 覚悟なさい!」
アイシェの言葉に、俺とバヤル兄妹の三人は最初、きょとんと呆けた。そしてすぐに、俺は状況を理解する。つまりこのアイシェと言う女性は生まれながらにして財閥のご令嬢であり、どこまで行っても世間知らずで苦労知らずの、まさに箱入りのお嬢様なのだ。だから彼女は齢二十八歳になっても自分の中の怒りの感情を上手く表現したり他人を叱ったりする方法が分からずに、その結果として「お爺様に叱ってもらう」などと言う、頓狂で子供じみた事を言い出したのである。
「ぷっ」
俺に続いて状況を理解したらしいヤセミーンがぷっと吹き出し、そのまま腹を抱えてけらけらと笑い始めた。すると今度は自分が何故ヤセミーンから笑われなければならないのかが理解出来ないらしいアイシェが、きょとんと呆ける。
「あー、面白い。急に立ち上がって何を言い出すのかと思ったら、いい歳した大の大人が、お爺様に叱ってもらうとか言い出すんですもん。ええ、ええ、いいでしょうとも。それじゃあ早速そのお爺様とやらの所に行って、あたし達も叱ってもらいましょうよ。ねえ、ヤウズ兄さん?」
「ああ、そいつは実に面白そうだ。是非ともその、サイトの後見人のお爺様とやらに会ってみたいね」
どうやらヤウズとヤセミーンのバヤル兄妹は、俺にとっては心中穏やかではないこの状況を、ちょっとしたハプニングに巻き込まれた程度に思いながら楽しんでいるらしい。そして怒りが収まらないアイシェが電話で迎えを要請すると、程無くして使用人のスレイマンが運転するリムジンがカフェの前に姿を現した。
「さあ、行きましょう。今更後悔しても、遅いんですからね」
自信満々にそう言うアイシェの後に続いて、俺とバヤル兄妹の三人はリムジンに乗り込むが、未だアイシェが財閥のご令嬢である事を知らないヤウズとヤセミーンは運転手付きのリムジンの登場に少し驚いている。そして二十分ばかりも車を走らせた末にバジェオウル氏の宮殿に辿り着いてみれば、バヤル兄妹の驚きもまた最高潮に達していた。
「……なあ、サイト」
「ん?」
宮殿の玄関ホールに足を踏み入れたヤウズが、物珍しげにきょろきょろと辺りを見渡しながら俺に問う。
「あんたら夫婦とその後見人のお爺様とやらは、一体何者だ? こんな馬鹿でかいお屋敷に住んでいるなんて、只者じゃないんだろう?」
「アイシェの結婚前の旧姓は、バジェオウルだ」
「バジェオウルって事は……あのバジェオウル財閥か! へえ、こいつは驚いたな。初対面の時から上品で物腰柔らかなお嬢さんだとは思っていたが、まさかアイシェが財閥のご令嬢だったとはね。いやあ、本当に驚きだ」
「本物のお嬢様だったなんて、びっくり」
アイシェの正体を知ったヤウズとヤセミーンのバヤル兄妹は、驚きを隠せない。そして彼ら二人と俺の計三人はアイシェに先導されながら長い長い廊下を渡り、やがて宮殿の奥の一室へと足を踏み入れた。するとそこは、どうやらバジェオウル氏の個人的な書斎か何からしいこじんまりとした部屋で、宮殿内の他の部屋の様な広壮さや豪奢さはあまり見受けられない。そしてその書斎の中央に置かれたゆったりとした長椅子に腰掛けていたバジェオウル氏が俺達四人に気付くと、ゆっくりと立ち上がる。
「フェルハトお爺様!」
「来たか、アイシェ。突然電話を掛けて来て今すぐに会いたいと言うものだから、驚いたぞ。それで、一体何の用だ? 決して暇ではないこの私にわざわざ時間を取らせると言うのだから、看過出来ない火急の用件があるのだろう?」
「ええ、そうですお爺様。実は今日は、お爺様にお願いがあって来たのです」
そう言いながら、アイシェは祖父であるバジェオウル氏の元へと駆け寄った。そして俺とヤセミーンを指差しながら、訴える。
「聞いてください、お爺様! あそこに居るヤセミーンとか言う女と最近知り合ったのですが、彼女がこの前からずっとサイトに色目を使って来て、よりにもよって二人目の妻としてサイトと結婚するなどと言い出したんです! しかもサイトもサイトで、あたしと言う立派な妻を
声を荒げながらそう訴え終えたアイシェはこちらを見据えると、まるで勝ち誇ったかのようにふふんと鼻を鳴らしてほくそ笑んだ。どうやらこれで、財界の実力者であると同時に政界や社交界にも多大な影響力を持つ偉大なる祖父が、俺とヤセミーンを
「素晴らしい! 真の男とはより多くの女子供に慕われて然るべき存在であり、また同時にこれらを慕って然るべき存在でもある! つまり我が命の恩人たるサイト・カヤがより多くの女性に慕われて、これらを愛し慈しむのと同時に彼女らをその庇護の下に置いて幸せにすべき偉大なる男である事は、アル・クルアーンに記載された一夫多妻の正当性が保障する必然的事実なのだ!」
「そんな……」
当てが外れたらしいアイシェは言葉を失い、文字通りの意味でもって絶句した。
「えっと、その、つまり、どう言う事で?」
俺が尋ねると、バジェオウル氏は胸を張って答える。
「つまりだ、サイト。そちらのヤセミーンなるお嬢さんがあなたを愛していると言うのならば、その愛に応える事こそが真の男の選ぶべき道であり甲斐性の発露であると、私は説いているのだ。ただしアル・クルアーンによれば、一人の男が同時に
「はあ……」
てっきり激怒するものとばかり思っていたバジェオウル氏が重婚に前向きなので、俺は拍子抜けしてしまった。すると俺の隣に立つヤセミーンが一歩前に出て、バジェオウル氏に問う。
「バジェオウルさん、つまりあなたはあたしとサイトとの結婚を認め、祝福してくれると仰っているのですね?」
「その通りだとも、お嬢さん。いや、ヤセミーン。あなたもまたサイトと結婚し、我が孫娘のアイシェと共に力を合わせて、是非とも夫であるサイトを陰日向無く支えてやってほしい。勿論トルコの法律では重婚は許されていないので、二人目の妻であるあなたとの結婚は法的な保証が得られない、内縁の妻との見かけ上だけの事実婚と言う形態になってしまうがな」
バジェオウル氏にそう言われたヤセミーンは、小さなガッツポーズと共に「やった!」と歓喜の声を上げた。そして兄のヤウズと抱擁を交わし、俺の後見人から結婚の許諾を得た事を喜び合っている。
「えっと、本当にいいんですか、フェルハト爺さん? 俺がヤセミーンと、その、つまり二人目の妻と結婚しちゃっても?」
一応の確認のために、俺もまたバジェオウル氏に問うた。
「勿論だとも、サイト。あなたの生活の全てを生涯に渡って保障すると誓ったこの私が、あなたとヤセミーンとの結婚を認め、これを祝福しようじゃないか。いやむしろ、器の大きい男である事を証明するためにより多くの女性と結婚し、幸せにする事を推奨する。そして我が孫娘のアイシェと同様に、決して優劣を付けず分け隔てる事も無く、全ての妻を平等に愛するが良い」
バジェオウル氏は胸を張ってそう言うが、彼の隣に立つアイシェは怒りと絶望と困惑とが入り混じったかのような複雑な表情をその顔に浮かべながら茫然自失としており、どうやら頭の中が真っ白になってしまっているらしい。
「アイシェ、ええと……その……大丈夫かい?」
「……はい?」
俺の問い掛けに対して返事を返しはしたものの、アイシェの視線は定まらず、ふらふらと虚空を
「どうした、アイシェ? 私の決定に、何か不満でもあるのか?」
しかし愛する祖父であると同時に絶対的な権限を持つ一族の家長たるバジェオウル氏に睨まれながらそう問われてしまっては、一介の孫に過ぎないアイシェの返答は一つしか無い。
「いいえ、お爺様……あたしに不満は……ありません……」
口惜しそうに唇を噛み、言葉を濁しながらも、決して本音ではない偽りの返答を返したアイシェ。少しばかり可哀想ではあるが、今の彼女の立場では、バジェオウル氏に倣って俺とヤセミーンとの結婚を認める以外の選択肢を選ぶ事は出来ないのだろう。
「よし、そうと決まれば早速、結婚式の日取りを決めようではないか! それにヤセミーンが式で着るためのドレスも
意気揚々と張り切りながら、バジェオウル氏が高らかにそう宣言した。すると次の瞬間、唐突に書斎の扉が勢いよく開いたかと思えば、氏の決定に異を唱える者が姿を現す。
「その結婚、待った待った待った!」
そう叫びながら怒鳴り込んで来たのは金髪碧眼の小柄な少女、つまりバジェオウル氏の孫の一人であると同時にアイシェの従姉妹でもある、クロエ・バジェオウルであった。
「クロエ!」
思わぬ味方の出現に、アイシェが色めき立つ。
「フェルハトお爺様、一体何を考えているんですか! サイトは既に、アイシェお姉様と結婚しているんですよ? それをそんな、どこの馬の骨とも知れない女狐を二人目の妻として
怒髪天を突く勢いで怒鳴り散らし、クロエが怒りを露にした。しかし怒鳴られたバジェオウル氏はと言えば、至って涼しい顔である。
「おや、クロエ。お前は以前、自分はサイトとアイシェとの結婚を認めないとか言ってはいなかったかな? そのお前が、サイトが二人目の妻を
「ぐっ……」
祖父であるバジェオウル氏に痛い所を突かれたクロエが、忌々しそうに歯噛みしながら口篭った。しかしそれでも、彼女は俺とヤセミーンとの結婚に異を唱え続ける。
「そ……それはそれ! これはこれです! とにかく、そこのヤセミーンとか言う女狐とサイトが結婚する事を、あたしは認めません! もし仮に結婚するのであれば、その時はアイシェお姉様とは離婚してもらいますからね!」
「それは嫌! あたしはサイトと離婚なんてしない!」
そう言ってクロエの要求を拒絶したのは、誰ならぬアイシェだった。
「何を言っているんですか、アイシェお姉様! お姉様はいいんですか? このままではそこの女狐がサイトの二人目の妻になって、お姉様と一緒に新居で暮らす事になるんですよ? そんな事、あたしなら耐えられません!」
「そんな事は分かっています! あたしだって耐えられません! でもだからって、サイトと離婚するのだけは絶対に嫌なの! あたしはサイトを愛しているの!」
「アイシェお姉様……」
今度は俺と離婚するか否かを巡って、アイシェとクロエとが対立する。当事者の一人である俺がこう言うのもなんだが、本来ならば仲が良い筈の従姉妹同士がこうしていがみ合っている姿は、何だか痛々しくて見ていられない。
「……分かりました。お姉様がそこまで言うんだったら、あたしにも考えがあります」
暫しの静寂の後に、意を決したらしいクロエが重い口を開いた。そして彼女の祖父であるバジェオウル氏に向き直ると、宣言する。
「お爺様、あなたがそこの女狐とサイトとの結婚をお望みなら、このあたしもまた三人目の妻としてサイトと結婚します。よろしいですね?」
「?」
その場に居たクロエ以外の全員が頭の上に大きな疑問符を思い浮かべながら、ぽかんと呆けた。彼女が何を言っているのか、どうやら誰にも理解出来ていないらしい。
「……クロエ、あなた、一体何を言っているの? 気は確か?」
最初にそう尋ねたのは、アイシェであった。するとクロエは、声高らかに彼女独自の理論を展開し始める。
「だってお姉様、サイトと結婚すれば四六時中ずっとサイトとそこの女狐を監視出来ますし、それにお姉様と一緒に一つ屋根の下で暮らす口実だって出来ます! だから不本意ではありますが、あたしもまたサイトと結婚して、サイトや女狐からお姉様を守ってあげるんですよ! そうでもしないと、きっと薄情で卑劣な二人はお姉様を散々利用した挙句に新居から追い出して、いずれはお爺様の財産を横取りするつもりに決まっているんですから!」
クロエはふふんと鼻を鳴らして勝ち誇りながらそう言うが、彼女の理論の飛躍に付いて行けない俺やアイシェやヤウズはぽかんと口を開けてその場に立ち尽くしたまま、只々呆けるばかりだ。
「ぷっ」
ぽかんと呆けるばかりの俺達を尻目に、隣に立つヤセミーンがぷっと吹き出したかと思えば、いつかと同じように腹を抱えながらけらけらと笑い始める。
「あー、面白い。アイシェもそうだけれど、そこのあなた、クロエって言うの? あなたも何だか世間ズレしてるって言うか、ちょっと変わった価値観の持ち主なのねえ。……まあ、あたしはそんな変わった子も嫌いじゃないけど? だから、さ。あなた、あたしと一緒にサイトと結婚しましょうよ。それでアイシェやあたしと一緒にサイトと暮らして、あたし達を監視するなり何なり好きにしたらいいんじゃない? 勿論あたしはあたしで、好き勝手させてもらうけどさ」
どうやらヤセミーンは、この訳の分からない状況を殊更に楽しんでいるらしい。そしてクロエの独自の理論を支持する者が、もう一人居た。
「そうかそうか、クロエ。お前もサイトと結婚したいのか」
そう言ったのは誰あろう、アイシェとクロエの祖父であると同時にこの俺の後見人でもある、フェルハト・バジェオウル氏その人だった。
「お爺様? 一体何を仰っているの?」
祖父の意図を察したらしいアイシェは困惑し、その美しい顔から血の気を引かせながらおろおろと狼狽するが、そんな孫娘の様子を意に介した様子も無くバジェオウル氏は語り続ける。
「ヤセミーンもクロエも、動機は何であれ、サイトと結婚したければするが良い。そしてサイト、あなたは彼女らにアイシェも含めた三人の妻を
「はあ……」
気の無い返事を返すばかりの俺は未だに状況が理解出来ず、いや、理解する事を本能的に拒否し、その場に立ち尽くしたままぽかんと呆ける事しか出来なかった。しかしその一方で、歓喜の声を上げたのはヤセミーンである。
「本当に? 本当にあのバジェオウル財閥が、あたし達に資金援助してくれるの? だったらもうお金に困る事も無く、生涯安泰じゃないの! ねえヤウズ兄さん、あたしどうやら、これ以上無いほど理想的な嫁ぎ先を見付けちゃったみたいよ?」
楽天的な性格らしいヤセミーンはそう言って大喜びしているが、彼女とは対照的に忌忌しげと言うか苦々しげと言うか、まさに苦虫を噛み潰したかのような表情をその美しい顔に浮かべながらわなわなと震えているのがアイシェであった。彼女の心中は穏やかでないどころか、きっと
「アイシェ、お前もそれでよろしいな?」
そんなアイシェに、バジェオウル氏が強引に同意を求めた。
「……はい……お爺様がそう望まれるのであれば……あたしに異論はありません……」
同意を求められたアイシェは言葉を詰まらせながらそう返答したが、どう贔屓目に見ても、またどう考えてもその言葉は彼女の真意ではない。だがそんなアイシェの胸の内を知ってか知らずか、彼女の同意を得たと判断したバジェオウル氏は声高らかに宣言し、この場を強引に収める。
「よろしい! それでは近々、サイトとヤセミーン、そしてクロエとの合同結婚式を執り行おうではないか! 場所はここ、私の屋敷の大ホールを広く一般にも開放しよう! 我が孫娘であるクロエは勿論、ヤセミーンもまた親類縁者や親しい友人諸氏を招待し、盛大で壮大な式にするが良い!」
氏の宣言に歓喜するヤセミーン。何故か勝ち誇ったかのようにふふんと鼻を鳴らしながら胸を張るクロエ。そして忌忌しげに歯噛みするアイシェ。三人の女達は三者三様に、その全員が俺と結婚、しかも重婚すると言う事実を噛み締めていた。
「おいおいおい、何だか気付いたら、随分と面白い事になっちまったじゃないか。なあ、サイト?」
事の成り行きを傍観していたヤウズが俺の肩を抱きながらそう言うと、やはり豪胆にげらげらと笑う。どうやら彼はこの複雑怪奇な状況を、しかも自分の妹が妻帯者と重婚する上に、更にクロエと言う三人目の花嫁までもが登場してしまった事すらも楽しんでいるようだ。
「はあ……」
ヤウズと違ってこの状況を楽しめない俺は、ぽかんと呆けたまま言葉も無く嘆息すると、その場に立ち尽くす。
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