第五幕


 第五幕



 アイシェとの結婚式からおよそ十日後の、ある晴れた土曜日。イスラームでは聖なる日とされる前日の金曜日に近所のモスクでの集団礼拝を終えた俺は、夫婦揃ってバジェオウル氏の宮殿を訪れていた。

「おお、よく来たなサイト。それにアイシェも、元気だったか?」

 宮殿の玄関ホールまで出迎えに来てくれたバジェオウル氏と、俺達は挨拶を交わす。

「本日はお招きいただきましてありがとうございます、フェルハト爺さん」

「お爺様、ごきげんよう」

「よく来たよく来た、さあ、積もる話はお茶を飲みながら聞こうじゃないか」

 そう言って先導するバジェオウル氏の後に続き、俺とアイシェの新婚夫婦は、以前に俺の退院祝いが執り行われたのと同じ宮殿の小ホールへと足を向けた。今日はこれからここで、バジェオウル氏とその親族だけによるプライベートな茶会が開催される予定なのである。そして勿論、俺達夫婦もまたその茶会に揃って招待され、こうして宮殿を訪れたと言う訳だ。

「それにしてもサイト、実に災難だったな。治り掛けていた腕を、またしても折ってしまうとは」

「ええ、まったく」

 バジェオウル氏の言葉に俺はギプスとアームホルダーで固定された右腕を撫で擦りながら応え、口元には自嘲気味な苦笑いを浮かべる。

「しかしこの短期間で二度までも同じ腕を折ってしまい、しかもその両方共が人助けを目的としての名誉の負傷だと言うのだから、やはりあなたはよくよく正義感と道徳心の強い男だ。アイシェから聞き及んでいるぞ? なんでもナイフを持ったひったくり犯を、カラテの技でもって一撃で撃退してみせたらしいな。我が孫娘の夫として、そして義理の孫として、改めて見直したぞ、サイトよ。やはり私の、人を見る眼に狂いは無かった」

 自身の顎に生えた白髪髭を撫で擦りながらそう言ったバジェオウル氏はにこにこと微笑んでおり、実に満足げであった。どうやら以前の退院祝いの際にアイシェとの結婚話を持ち掛けた時と同様、彼はまたしても、俺の事を必要以上に過大評価してしまっているらしい。

「さてと、それでは早速お茶とお菓子にしようじゃないか。今日は近くに住む親族だけを集めたプライベートな茶会なので、礼儀作法の類はさほど気にする必要も無い。好きな席に腰を下ろして好きな物を飲み食いし、最後まで楽しんで行ってくれたまえ」

 そう言ったバジェオウル氏の案内で宮殿の小ホールに辿り着いてみれば、既に二十名から三十名程度の、以前の退院祝いと結婚式の宴席とで見知った親戚の面々がテーブルを囲んで茶を酌み交わしながら談笑している。そこで俺もアイシェと共に適当に空いている席を見つけて腰を下ろすと、それら親戚の輪に加わった。勿論親戚とは言っても、俺の血筋である日本人の血縁者は一人も居ない。

「やあ、サイト。結婚式以来だね。元気だったかい?」

「また腕を折ったんだって? 俺の知っている良い病院を紹介するぞ?」

「アイシェ、新婚生活はどうかしら? 必要な物や欲しい物があったら叔母さんが何でも用立ててあげるから、相談してちょうだいね?」

 俺達夫婦が席に着くなり集まった親戚の面々が次々と声を掛けて来て、ちょっとした人だかりが出来上がった。まあ、今回の茶会はついこの前結婚したばかりの俺とアイシェが主賓の様なものだから、やたらめったらに声を掛けられるのも至極当然の帰結と言えるだろう。

 するとそこに、歳の頃にして十代後半からせいぜい二十歳くらいの、この場にはあまり似つかわしくない小柄な人影が姿を現した。そしてその人影はずかずかと大股で力強く歩きながら、怒り心頭とでも言いたげな不機嫌そうな仏頂面でもって、真っ直ぐこちらへと近付いて来る。ちなみに何故この人物がこの場に似つかわしくないと感じたかと言うと、他の親戚の面々がトルコ人、つまり顔立ちや髪や瞳の色が中東系の有色人種であるのに対してその人影は肌の色素も薄く、顔立ちなどもヨーロッパ系の、見事なまでの金髪碧眼の白人種コーカソイドであったからに相違無い。

「おい、お前。お前がサイトとか言う日本人か」

 俺を指差しながら不躾にそう言った人影の声色に、俺はその人物が女性である事をようやく確信した。と言うのも、その人影は身体のシルエットも顔立ちも服装もとても中性的で、声を出すまではその性別がはっきりとしなかったのである。

「あ、うん」

 突然の事に気圧された俺は、薄らぼんやりとした力の無い返事でもってしか彼女の問いに答える事が出来なかった。すると少女は俺の頭の天辺から足の爪先までを、まるで値踏みでもするかのようにじろじろと一通り睨め回してから、二周りは背の高い俺に向かって怯む事無く詰め寄る。

「ふん! やっぱり大した男じゃないな、貧相な面しやがって! お前みたいなどこの馬の骨とも知れない日本人ごときがアイシェお姉様と結婚するだなんて、百万年早いんだよ! とっとと離婚しちまいな! この■■■■野郎が!」

 見知らぬ少女から突然詰め寄られた上に放送禁止用語でもって口汚く罵られた俺は、唖然としてしまって言葉も無い。

「こら、クロエ! サイトに向かって何て事を言うの!」

 クロエと呼ばれた小柄な金髪碧眼の少女を、唖然とする俺に代わってアイシェがたしなめた。するとクロエは、今度はアイシェに向かって声を荒げる。

「アイシェお姉様! そもそもアイシェお姉様は、どうしてあたしに何の断りも無くこんな男なんかと結婚したんですか? お姉様だったら、もっと良い縁談が幾らでもあった筈でしょうに! いや、そもそもお姉様が男なんかと結婚して、この家を出て行く理由なんて無かったじゃないですか! いつまでもこの家に留まって、あたしの傍に居てくれれば良かったんです!」

「まあ、何を言っているの、クロエ? あたしだってもう二十八歳の大人なんだから、いい加減に結婚して家を出て行くべき年齢でしょうに! それに、サイトはフェルハトお爺様を身を挺してまで守ってくださった、文字通りの意味での命の恩人なんですよ? その恩人をそんな言葉で罵倒する事は、このあたしが許しません! 今すぐサイトに謝りなさい、クロエ!」

「ぐうっ……」

 アイシェから謝罪を要求されたクロエが、言葉を詰まらせた。そして口惜しそうに顔を歪ませながら、ぎりぎりと歯噛みする。すると進退窮まったらしい彼女はこちらに向き直り、未だに状況が飲み込めずに唖然としたままの俺の右脚の脛、いわゆる弁慶の泣き所を思いっ切り蹴り飛ばした。

「痛っつ!」

 不意の激痛に俺は呻き声を上げ、その場にうずくまって痛みに耐える。

「死ね、この■■■■野郎! あたしはお前とアイシェお姉様の結婚を認めてないからな!」

 最後に再びの放送禁止用語でもって俺を罵ったクロエはくるりと踵を返して駆け出すと、そのまま宮殿の小ホールを飛び出してどこかへと立ち去って行ってしまった。後に残された俺やアイシェや他の親類縁者達はやはり状況が飲み込めずに、只々ぽかんと口を開けて、唖然呆然とするばかりである。一体今の、クロエとか言う小柄な金髪碧眼の白人種コーカソイドの少女は、一体何者だったのだろうか。

「大丈夫ですか、サイト? 痛みますか? 血は出ていませんか?」

「ああ、うん、大丈夫」

 やがて愛妻であるアイシェが俺の身を案じて声を掛けて来てくれたので、俺は痛む脛を擦りながら彼女に尋ねる。

「今の、クロエとか言う名の女の子は?」

 俺は尋ね、彼女の返答を待った。

「彼女はあたしの、歳の離れた従妹いとこなんです。幼くして父方の伯父様の再婚相手の連れ子としてこのバジェオウル家に招かれたのですが、その再婚相手である伯母様が早くに逝去された事もあって、なかなか親族全般に打ち解けてはくれませんでして……」

 アイシェは言葉を選びながらも、尚も語り続ける。

「それでも彼女は同じ家に住む従姉いとこであるあたしには心を開いていてくれていたのですが、今回の結婚の一件で、またしても心を閉ざしてしまったらしいのです。何と言うか、彼女は年甲斐も無くシスコンの気があって、実の姉同然に親しくしていたあたしに依存する部分が多かったらしいのですよ。それで、それが悪影響を与えてしまい、どうやらサイト、あなたに対する敵対心と言うか敵愾心と言うか、とにかくあなたと対立しようとする対抗心を無用に植え付けられてしまっているようなのです」

「なるほどね」

 俺はそう言って、得心した。つまりあのクロエとか言う金髪碧眼の少女にとっての俺は、たとえ彼女が同性愛者であろうがなかろうが、文字通りの意味でもって愛する従姉いとこを奪った憎き恋敵に相違無いのである。

「なんだか、面倒臭い事になっちゃったなあ」

 天を見上げながらそう言った俺に、弁解の余地など無い。


   ●


「サイト、日本人はシャワーだけではなく、大きくて熱いお風呂が好きなのですよね? でしたら、一緒にハマムに行ってみてはいかがでしょうか?」

 新婚生活も一ヶ月に達しようかと言うある日、アイシェがそう提案して来た。ハマムとはいわゆるトルコ式の公衆浴場の事であり、つまり日本で言うところの風呂屋、要は銭湯の事である。

「それはいいね。是非行こう」

 勿論、シャワーと小さなバスタブだけに満足していなかった俺に、その魅力的な提案を断る理由は無い。そこで俺とアイシェの二人は夫婦揃って、午後の夕暮れ時に、タオル片手に近所のハマムへと向かったのであった。

「ここか」

 アイシェに案内されて辿り着いたハマムの建物の入り口はなんとも地味な小さな扉でしかなく、特に観光客向けに派手に装飾されていたり、でかでかとした看板が掲げられていたりと言うような事は無い。あくまでも地元民向けの、日本の下町の寂れた銭湯にも似た落ち着いた佇まいである。

「それじゃあサイト、また後で会いましょう。ちょうどお店の前にレストランがありますから、先に出た方がそこで待っていて、合流したら一緒に夕食にすると言う事で如何でしょうか?」

「ああ、そうしよう。ゆっくりしておいで、アイシェ」

 俺達夫婦はそう言って待ち合わせの場所を決定すると、ハマムの入り口で男湯と女湯とに別れた。そして扉を潜って男湯のロビーに足を踏み入れてみれば、建物全体の地味な外観や看板とは対照的に、ハマムの中は意外にも広々としていて白い大理石造りの床や壁や天井には豪華なイスラーム様式の装飾が施されている。

「ありがとう」

 俺はロビーの受付で規定の料金を払い、タオル一式を借りて従業員に礼を言うと更衣室で着替え、タオル一枚で股間を隠しただけの姿になった。そして浴場に足を踏み入れ、まずは洗面器に溜めた湯を浴びて身体を温める。浴場全体はまるでサウナの様に蒸し暑く、もうもうとした湯気と熱気が立ち込めていた。残念ながら日本の銭湯の様な広くて深くて熱い湯を張った湯船は存在しなかったが、この際贅沢は言うまい。

「ふう」

 身体が充分に温まったら、いよいよハマム名物のマッサージと垢すりである。

「オキャクサン、コッチキテ、ネテ」

 待機していたこのハマム専属のマッサージ師の男性が手招きをしながら、カタコトの英語で俺を呼んだ。そこで彼に従って浴場の隣の部屋に入ればそこには大理石で出来た寝台が幾つも並んでいて、その内の一つに横になった俺の、折れた右腕以外の全身をマッサージ師が大量の石鹸の泡でもって丹念かつ入念に洗いながら、マッサージと垢すりを施す。

「痛ててて……」

 結構な力加減でもってゴリゴリゴシゴシと全身を揉み擦られるので、想像していた以上に痛い。しかし次第にその痛みに慣れて来ると今度は身体が快感を覚え始め、俺は嬉しい悲鳴と共に悶え続けた末に、気付けばトルコ式のマッサージと垢すりをすっかり堪能し尽くしていた。

「オキャクサン、オワッタヨ」

 やがてマッサージ師が宣言し、俺のハマム初体験はこれでほぼ終了となる。後は石鹸の泡と汗をよく洗い流してからバスタオルで全身を拭き、濡れた身体を乾かせば良い。

「どうだい、あんた? 気持ち良かったかい?」

 マッサージと垢すりの快感の余韻を楽しみながら寝台に腰掛けていると、不意に背後からトルコ訛りの英語で声を掛けられたので、俺は振り返った。すると隣の寝台に座っていた、俺と同じくタオル一枚姿でまるで熊の様に毛深くて大柄な中年の男が、こちらを見つめながらにこにこと微笑んでいるのが眼に留まる。

「あんた、トルコ人じゃないね。見たところ、観光客だろう? トルコのハマムは初めてかい?」

 その毛深くて大柄な男はそう言って、人の良さそうな表情と声でもって尋ねて来た。どうやら俺の事を、ハマムを体験しに来た観光客だと思っているらしい。

「いえ、一応は俺も地元民ですよ。未だトルコ語も喋れない移住して来たばかりの新参者で、ハマムも初体験ですけどね」

「おっと、これは失礼。移住して来たって事は、中国から? それとも、韓国から?」

「いえ、日本からです」

「そうかい、日本からの移住者かい。ようこそイスタンブールへ。騒々しくて雑多な街だが、これが住み慣れてみると、なかなか居心地の良い場所なのさ。……それで、初めてのハマムはどうだった、日本人くん?」

 改めて尋ねられた俺は、素直に答える。

「いやあ、マッサージと垢すりは結構痛かったけれど、終わってみれば気持ち良くてさっぱりしました。これで日本の銭湯みたいに熱い湯に全身で浸かれる大きな湯船があれば、最高なんですけどね」

「なるほど、熱い湯を張ったでかい湯船か。そう言った湯船は、トルコではあまり見掛けないな。それじゃあもしも俺が日本に行く機会があったとしたら、今度は俺がその銭湯とやらに行ってみようじゃないか」

 大柄な男はそう言って、がははと屈託無く豪快に笑った。

「それじゃあ俺は、一足お先に上がらせてもらうよ、日本人くん。縁があったら、また会おう」

 そう言った大柄な男は寝台から立ち上がると、ハマムの中をもうもうと立ち込める湯気と陽炎の中へと姿を消し、気付けばその影は無い。それにしても、本当に毛深くて大柄な男だった。『巨漢』と言うのは、きっとあんな男を喩えた言葉なのだろう。なにせ身長185cmの俺よりも更に一回りは背が高く、しかも全身にごつごつとした筋肉と脂肪を纏ったその姿は、まるでプロレスラーか力士さながらの見事な体格であった。彼と並んでは、日本人にしては大柄な俺ですらも、まるで子供の様に見劣りする始末である。

「さてと、俺もそろそろ上がるとするか」

 俺はそう呟いてから寝台から立ち上がり、全身の泡と汗をたっぷりの湯で洗い流すと、更衣室へと移動した。そしてバスタオルで濡れた身体をよく拭いてからここに来る時まで着ていたのと同じ服に着替え、今度はハマムのロビーへと移動し、用意されていた無料の冷たいお茶をグッと一息に飲み干す。

「ふう」

 冷たいお茶が喉と食道、更に胃袋から大腸までを順繰りに潤して行くのを感じながら、俺は人心地ついた。

「世話になったね。また来るよ」

 俺は受付の従業員に借りていたタオルを返却して礼代わりにそう言いながら、心行くまで堪能したハマムを後にする。そして事前に待ち合わせ場所に決めていたレストランへと向かい、店内に足を踏み入れるときょろきょろと首を巡らせて、アイシェを探した。しかし、店内にアイシェの姿は無い。どうやら彼女よりも俺の方が先に、ハマムを出たものと思われる。

「よお、日本人くん! あんたもここに来たのかい!」

 すると不意に、俺に声を掛ける者が居た。見れば先程ハマムで肩を突き合わせた大柄で毛深い男もまたこのレストランの一角を占拠して一人で一杯引っ掛けており、やはり人の良さそうな笑顔をその顔に浮かべながら、俺を手招きする。

「縁があったらまた会おうとは言ったが、こんなに早く再会するとはな。ほら、何してる。早く座れ座れ」

 彼は嬉しそうにそう言いながら向かいの席に座るように勧めて来たので、それを断る理由は俺には無い。そこで彼の向かいの席に腰を下ろし、俺は軽く会釈した。すると彼はそんな俺の様子に、尚もげらげらと笑う。

「そんなにかしこまるなよ、日本人くん。とりあえず、まずは酒だ。ラクか? それともビールか? 俺が奢ってやるから、好きな方を選べ」

「いや、そんな悪いですよ、奢りだなんて」

「いいっていいって、こう見えても俺は、結構な高給取りなんだ。若者で新参者の移住者に奢ってやるくらい、どうって事無い」

 笑いながらそう言った大柄な男は既にラクを数杯空けているらしく、実に上機嫌で、陽気そうに見えた。ちなみにラクとはここトルコでは一般的な蒸留酒の一種であり、無色透明ながらも水で割ると白濁するのが特徴の、結構なアルコール度数の酒である。

「じゃあ、ラクを」

 俺もまた、レストランの給仕にラクを注文した。

「お、いいねえ。それでこそ、イスタンブールっ子ってもんだ」

 俺は大柄で毛深い男と、トルコ名物の蒸留酒であるラクを酌み交わす。するとそこに、長く艶やかな黒髪をバスタオルでもって拭き乾かしながら、我が愛妻であるアイシェがレストランの店内へと姿を現した。

「サイト、お待たせ。えっと、そちらはどなたかしら?」

 アイシェに尋ねられた事によって、俺はこの毛深くて大柄な男の名前を未だ知らない事にようやく気付き、彼に問う。

「ああ、そう言えば未だ聞いてなかったが、あんたの名前は?」

「俺は、ヤウズ。ヤウズ・バヤルってもんだ。あんたは、サイトってんだな。それでサイト、あんたの下の名前は? それと、そちらのご婦人はどなたかな?」

「俺のフルネームは、サイト・カヤ。それとこれは俺の嫁で、アイシェ・カヤと言う名だ。アイシェ、こちらはハマムで知り合った人で、ヤウズと言うらしい」

 俺は隣の席に座ったアイシェに、ヤウズを紹介した。

「初めまして、ヤウズ。あたしはサイトの妻で、アイシェと申します。以後、お見知り置きを」

「これはこれはご丁寧に、アイシェ。いや、カヤ夫人と言った方がよろしいかな? とにかくお近付きになった記しとして、是非ともあんたら夫婦に酒と料理を奢りたい。それにあんたら、見たところまだまだ若いし、新婚だろう? だとすれば婚姻祝いとして、尚更奢らなくちゃ俺の気が済まん。さあアイシェ、俺に遠慮はいらんから、冷たいお茶と酒を飲むといい」

 その体格に相応しく、なかなかにして豪胆な性格らしいヤウズは、そう言ってげらげらと笑う。

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 こう言った豪快無比で先輩肌の性格の人間には、下手に遠慮しない方が良い。そう判断した俺は、奢ってくれると言う彼の意向に甘んじて順ずる事にした。

「よしよし、それじゃあ人生の先輩として、また同時にイスタンブールに住む先輩住民としても、今夜は俺があんたら二人を歓待してやろう。ほら、何でも好きな料理を頼むといい。さあ、さあ」

 やはりそう言ってげらげらと豪胆に笑うヤウズに、俺は尋ねる。

「そう言えばヤウズ、あんたは一人でハマムに来たのかい?」

「いや、俺は歳の離れた妹と一緒に来た。その妹ともハマムを出たらここで待ち合わせをしているのだが……ああ、ちょうどその妹が来たぞ。おおい、ヤセミーン! ここだ、ここ!」

 そう言ったヤウズが、レストランの入り口の方角に向かってぶんぶんと手を振った。するとヤセミーンと呼ばれた一人の髪の短くてスリムな若い女性が、こちらへと駆け寄って来る。

「ヤウズ兄さん、お待たせ。あら、こちらの方々は?」

「こちらはサイトとアイシェの、カヤ夫妻だ。ハマムの中で知り合ってね。是非とも彼らと食事を一緒にしようと思うのだが、お前も構わないだろう、ヤセミーン?」

「ええ、勿論」

 ヤウズの妹も、特に異論は無いらしい。

「どうも、ヤセミーン。初めまして」

 俺はそう言ってヤセミーンと呼ばれた若い女性に挨拶し、ぺこりと軽く会釈をした。するとその、髪が短くてスリムな体型の女性であるヤセミーンは口をぽかんと開けた驚いた表情でもって俺を見つめながら、感嘆と驚愕の声を漏らす。

「まあ、あなた! あたしですよ、あたし! あたしを覚えていませんか? えっと、あたしはヤセミーン・バヤル。この前エミルギャン公園で、財布をひったくった男から助けていただいた者です!」

 そこで俺は、思い出した。このヤセミーンと名乗った女性こそ、俺が右腕を再び折る事になりながらもひったくり犯から財布を奪い返した、エミルギャン公園の屋台でドンドゥルマを買おうとしていた女性である。

「ああ、あの時の……」

「あの時は、本当にありがとうございました! あの財布には銀行のキャッシュカードもVISAのクレジットカードも運転免許証も入っていたので、盗まれたりなんかしたら、それこそ大変な事になるところだったんです! それであたし、是非ともあなたに一言お礼を申し上げておかなければと思っていたんですが、あたしが警察に事情を説明して調書を作成している内にあなたは病院へと姿を消してしまい……。それで遅くなってしまいましたが、本当に心からお礼を申し上げます! ありがとうございました、サイト!」

「ああ、うん、そんな、礼には及ばないよ。当然の事をしたまでさ」

 俺は謙遜し、照れ笑いを浮かべた。自分の功績を改めて称えられるのは何だか気恥ずかしくて、脇腹がこそばゆい。するとヤセミーンは鼻息も荒く、俺の向かいのヤウズの隣の席に腰を下ろすと、自分よりも遥かに大柄な兄に向かって宣言する。

「ヤウズ兄さん、今夜は是非ともあたしに奢らせていただかないと、このあたしの気が済みません! 何と言っても、サイトはあたしの恩人なのですからね!」

「お、そうか? それじゃあお言葉に甘えて、今夜はお前に奢らせてもらう事にしよう、ヤセミーン」

 どうやらこの場は、ヤウズの妹であるヤセミーンが奢る事になったらしい。

「しかしサイト、あんたが妹をひったくり犯から救ってくれた例のカラテの達人だったとは、こいつは驚きだ。ついさっきハマムで隣に寝転んだ時は、そんな事は予想もしていなかったよ。いやあ、偶然ながらも、これは実にめでたい! 妹の恩人であるあんたのカラテの腕前と正義感を、ヤセミーンの兄である俺もまた、心から称えさせてもらおうじゃないか! さあ、サイト、アイシェ。今夜は好きな料理と酒を、遠慮せずにじゃんじゃん注文してくれ!」

 やはりげらげらと豪胆に笑いながらそう言ったヤウズの言葉を音頭に、俺とアイシェの新婚夫婦、そしてヤウズとヤセミーンのバヤル兄妹との計四人による、レストランの一角での小規模な宴席は始まった。そしてテーブルの上には調子に乗ったヤウズが次々に頼んだ料理の皿と、飲み続けるとぐでんぐでんになるまで酔っ払ってしまう、結構強烈な酒であるラクのグラスが並ぶ。

「この肉料理、結構美味いな。何て料理?」

「これは、キョフテですね」

 大きな挽肉の肉団子を食べながら問うた俺に、隣に座るアイシェが答えてくれた。

「これがキョフテ? 前に空港のバーガーキングで食べたキョフテバーガーとは、形も味も随分と違うな」

 俺が驚けば、そのからくりをもまた博識なアイシェが教えてくれる。

「キョフテはアジアから中東全域に広まった、非常に起源の古い料理なのです。ですから地域や家庭やレストランによって形や味もまた非常にバリエーションが豊富で、その差異にサイトが驚かれるのも無理はありません。特にこの店のキョフテは卵が入った大きな団子状の、イランのタブリーズ風のキョフテらしいですね」

「なるほど」

 俺は得心し、そのイランのタブリーズ風のキョフテとやらをじっくりと味わいながら、むしゃむしゃと食み続けた。挽肉の中には卵だけでなく様々な香草や香味野菜やスパイスがたっぷりと練り込まれていて、中東らしいエキゾチックな風味が実に美味い。

「こっちの、この挽肉とチーズが入っているパイは?」

「これは、ボレクですね。パイ生地で肉などを包んで焼いただけのシンプルな料理ですので、これもまたキョフテと同じく、南アジアから中東全域の広い地域で食べられている名物料理です。パセリを入れて棒状に巻き上げたシガロボレクが、トルコでは有名ですよ」

「なるほど」

 俺が再度得心していると、今度は向かいの席に座るヤウズが、一枚の皿に乗せられた料理を食べるように勧めて来る。

「おっとサイト、こいつを忘れちゃならない。やっぱりラクを飲む時のつまみには、こいつが一番だ」

「これは?」

「メロンとベヤズペイニール、いわゆる白チーズさ。ラクと一緒にこいつをつまむのが、真のイスタンブールっ子ってもんよ」

 もう既にほろ酔い加減らしいヤウズは皿に盛られたメロンと白チーズをそれぞれ一口大に切り、それらを重ね合わせて口に放り込んでから軽く咀嚼すると、そこに水で半分程度に割ったショットグラス一杯分ほどのラクをグッと一息に流し込んだ。そして眼を閉じながらラクとメロンと白チーズの風味と香りを楽しみ切ると、それらをごくんと嚥下してから至福の溜息を漏らす。

「ぷはあ、やっぱり俺には、こいつが最高だな。どうだサイト、あんたも是非、やってみろよ」

 年長者であるヤウズに勧められてしまっては断るのも無礼だし、それにそもそも断る気も無いので、食に対する好奇心が人一倍旺盛である俺は遠慮無くメロンと白チーズを重ねて口に放り込んだ。そしてヤウズに倣ってそれらを軽く咀嚼したところでショットグラスに注がれたラクをグッと一息に流し込み、口の中で転がして風味と香りを楽しんでから、ごくんと嚥下する。

「ぷはあ」

 なるほど、これはまた強烈で、そして美味い。アルコール度数の高い蒸留酒であるラクと、甘いメロン。そして脂肪分の少ない白チーズの風味と、僅かな塩気。これらを同時に口に含めばどんな味がするのだろうかと期待と不安が半々の心持ちでもって試してみたのだが、メロンの甘さと白チーズの風味がラクのアルコール臭さを緩和してくれたおかげで実に飲み易くなっており、これならば何杯でもラクが飲めそうだ。

「どうだ、意外にも飲み易くって、美味いだろう? だが飲み易いからと言ってガバガバとラクを飲んでいると、あっと言う間に泥酔して記憶を無くしちまうから注意しな」

「忠告ありがとう。飲み過ぎないように気を付けるよ」

 俺はそう言って、メロンと白チーズをつまみにもう一杯ラクを飲む。なるほど、確かにこれは、飲み易さにうっかり騙されると酷い悪酔いをしてしまいそうだ。すると斜め向かいの席に腰を下ろしたヤセミーンが、ラクを飲む俺を見つめながら言う。

「お酒、お強いんですね」

 そう言ったヤセミーンは、なんだかやけに熱っぽい眼差しでもってジッとこちらを見つめていた。

「え? ああ、まあそこそこに酒には強い方だけど、たいした事ないさ」

「いいえ、そんな、謙遜なさらずに。だって、さっきからあなたが飲んでいるそのラク、白く濁っていないんですもの。水で割っていないストレートのラクをそんなにぐびぐびと飲めるだなんて、充分にお酒に強い証拠じゃない」

 言われてみれば、確かに俺が飲んでいるラクは白く水に濁っていない、アルコール度数の高い純度100%のストレートのラクだ。しかしそれでも、ほんの五杯か六杯程度飲んだに過ぎず、世間一般的には決して飲み過ぎとは言えない。つまり俺の飲みっぷり程度では根っからの酒豪と言うにはまだまだ程遠い気もするが、普段からあまり強い酒を飲み慣れていない女性からすれば、それでも充分に酒に強く見えるのだろう。まあ何にしろ、酒に弱いと思われるよりは強いと思われた方が、男としては格好が良い。

「あたしね、とにかく強い男が好きなの。腕っ節の強い男、酒に強い男、心が強い男。全部全部、大好き」

 意味深にほくそ笑みつつそう言ったヤセミーンは少し酔っているのか、頬を赤らめながら尚も熱っぽく、また同時に艶かしい視線でもって俺を見つめ続ける。

「ねえサイト、あたし、あなたの事が好きになっちゃったみたいなの。どう? あたしと結婚しない?」

 唐突なヤセミーンの告白とプロポーズに、俺は飲み込みかけていたラクをブッと噴き出してしまった。

「へえ、そりゃあいい。サイト、ヤセミーン、あんたら結婚しちまえよ」

 そう言ったのはヤセミーンの兄のヤウズであり、冗談のつもりなのかそれとも事の重大さを理解していないのか、既にほろ酔い加減の彼は陽気にげらげらと笑っている。

「いや、俺、もう結婚してますから! ほら、今も横に妻が居るんですからね?」

 俺はヤセミーンの言動に困惑しながらも、すぐ隣に座る、新婚ほやほやの新妻たるアイシェを指差しながらそう言った。そして指差されたアイシェはと言えば俺以上に困惑し、夫である俺とヤセミーンとを交互に見つめながら、おろおろと狼狽するばかりである。

「そっか、サイト、あなたもう結婚しているんだっけ。……それじゃあさ、もし仮にあなたが今も未だ独身だったとしたら、あたしと結婚してくれる?」

「それは……」

 ヤセミーンの問い掛けに、俺は暫し考えあぐねる。果たして彼女の真意は今一つ汲み取れないが、何にせよ、何とも返答し難い事を平気で尋ねて来るミステリアスな女性だ。そして考えあぐねると同時に、俺は改めてヤセミーンと言う一人の女性を観察する。

「うーん……」

 端的に言ってしまって、ヤセミーンは美人だ。俺やアイシェほどではないが女性にしては背が高く、まるで一流のファッションモデルの様にすらりとしたスリムな肢体は、文句無く美しい。そして体型だけでなく、切れ長の眼とシャープな顎のラインが特徴的なその顔立ちもまた整っていて、おっとりとして丸みを帯びた顔立ちのアイシェとはまた別のタイプの美人である。

「結婚……しちゃう……かな?」

 返答に困った俺は小声で言葉を詰まらせながらも、ヤセミーンのプロポーズを安易に受諾してしまった。すると耳ざとくそれを聞き付けたヤセミーンは、その美しい顔に浮かべた意味深で悪戯っぽい笑みを深めながら言う。

「だったら、あたし達結婚しちゃいましょうよ。ね?」

「いや、だから何度も言っているように、俺はもうここに居るアイシェと結婚しているんだってば」

 俺は半ば呆れながら、漫才で言うところのツッコミ役的な感覚でもって、この場ではボケ役にあたるヤセミーンに突っ込んだ。しかし俺の意に反して、当のヤセミーンは至極本気らしい。

「あら、そんなの別に構わないじゃないの。あなたがもう既に、そちらのお嬢さんと結婚していたってさ。神様アッラーだって一人の夫がめとれる妻は四人までってアル・クルアーンの中でも認めているんですから、あたしがあなたの二人目の妻になったとしても、何も問題は無いんじゃないのかしら? どう?」

「いや、どうって言われたって……どうもこうも無いよ。二人目の妻になるだなんて、そんな重婚まがいな事が出来る訳が無いじゃないか。なあ、アイシェ」

 ヤセミーンの提案を鼻で笑った俺は隣に座るアイシェに同意を求めたが、アイシェは何やら難しい顔をしながら考え込んでいる。

「……あれ? アイシェ、どうしたの? ……もしかして、出来るの? 重婚が?」

 俺は困惑するが、どうやら俺以上にアイシェ本人の方がよっぽど困惑と言うか混乱しているらしく、その視線は激しく虚空を泳いでいた。そして夢遊病者の譫言うわごとの様に、彼女は何やらぶつぶつと呟いている。

「確かにアル・クルアーンによれば、ムスリムの男性は最大四人までのムスリムの女性を妻としてめとる事が許されています。しかし現代のトルコの法律では一夫一婦制が基本であり、重婚は許されておりません。でも仮に、法的には結婚せずに事実婚でもって愛人を妻とするならば、これは問題無いのでしょうか? いえ、どうなのでしょう? でも実際に地方の有力者などは複数の妻をめとっているとも聞きますし、アル・クルアーンで許されている以上は、その教えにあたし達ムスリムは従わなければなりませんし……。ああ、サイト、あたしはどうすればよいのでしょうか?」

 要約すれば、困惑する一方のアイシェの呟きはそのような内容であった。

「どうすればよいのでしょうかと聞かれても……その……参ったな」

 助けを求めるアイシェに必死にすがり付かれたところで、彼女以上にイスラームの教えやトルコの法律、そしてアル・クルアーンの内容に疎い俺に聞かれても、今度は俺が困惑するばかりである。

「ふふふ、ごめんなさいね。どうやらそちらのアイシェとか言うお嬢さんに、いらぬ混乱を招いちゃったみたいで」

 そう言って謝罪しながら、重婚話を持ち掛けたヤセミーンが悪戯っぽく笑った。そして今しがたまでの彼女の発言は全て冗談だったのかと思った俺は、ホッと安堵の溜息を漏らす。

「何だかちょっと場の空気が悪くなっちゃったから、未だちょっと飲み足りないけれど、今日のところはこれでお開きにしましょうか。さあ、ヤウズ兄さん、あたし達は家に帰りましょ」

 宴の閉幕を宣言したヤセミーンが、伝票片手に立ち上がった。そして「今日はあたしの奢りだから、先に会計を済ませて来るね」と言った彼女は、一足先にレストランの入り口横のレジカウンターへと向かう。

「それじゃあまだまだ名残惜しいが、今日はこれでお開きにするか」

 ヤウズもまたそう言って立ち上がり、俺とアイシェの二人も彼と共にレストランの外に出ると、会計を済ませたヤセミーンと合流した。

「サイト、アイシェ、今日はあんたら夫婦と一緒に飲めて、楽しかったよ。機会があったら、また会って飲もうじゃないか」

 その言葉を別れの挨拶として、ヤウズは手を振りながら、イスタンブールの住宅街の方角へと立ち去り始める。ヤウズの妹のヤセミーンもまた「じゃあね、サイト」と言ってから、兄に続いて立ち去ろうとした。しかし彼女はふと思い出したかのようにこちらに振り返って俺に顔を寄せると、小声でもってそっと耳打ちする。

「言っておくけれど、あたし、本気であなたと結婚するつもりだから」

 耳打ちし終えたヤセミーンはやはり意味深かつ悪戯っぽく笑いながら、先を行く兄のヤウズを追って、俺達の元から立ち去って行ってしまった。後に残された俺とアイシェの二人は、只々困惑するばかりである。

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