第四幕


 第四幕



 夜明け前。どこか遠くから微かに聞こえて来る男性の声に、俺は眼を覚ました。そしてゆっくりと意識を覚醒させつつ、なんだかほんのりと甘酸っぱい良い香りがする事にも気付く。

「お眼覚めになられましたか、サイト?」

 そう言ったのは、すぐ隣で同衾しながら優しい慈母の様な眼差しでもってこちらを見つめるアイシェだった。ちなみに遠くから聞こえて来る男性の声と彼女とは何も関係が無いが、ほんのりと漂って来る良い香りの方は、どうやら彼女が身に纏っている香水だか香油だかの香りらしい。

「おはよう、アイシェ」

 俺とアイシェは昨晩、新婚初夜の営みを終えたばかりだ。しかしその余韻にひたる間も無く夜は明けようとしており、それと同時にここトルコに到着してからと言うもの日に五回は必ず聞こえて来るこの男性の声が、俺を甘い夢の世界からほろ苦い現実世界へと引き摺り戻す。

「もう、お祈りの時間かい?」

 アイシェに尋ねると、彼女は無言のまま頷いた。俺だって馬鹿や白痴ではないので、この男性の声が近くのモスクから聞こえて来る、イスラームの礼拝の時間を告げる合図である事くらいは知っている。しかし俺には理解出来ないアラビア語なので、その内容は知らない。

「イスラームの人達は早起きだね。ところで、この毎朝聞こえて来る声は何て言っているんだい? コーランの朗読?」

 ベッドの中で寝転がったままアイシェに尋ねると、やはり彼女は優しく微笑みながら教えてくれる。

「いいえ、コーランの朗読ではありませんよ、サイト。それと、英語読みの『コーラン』ではなく、今後はアラビア語読みの『クルアーン』と発音した方がよろしいでしょう。更に定冠詞である『アル』を頭に添えて、『アル・クルアーン』と呼称すれば完璧です」

「ふーん」

 俺は、新しい知識を得た。そして更に新たな知識を、アイシェは与えてくれる。

「それからこの声ですが、これはモスクに勤める『ムアッジン』と呼ばれる男性が発する礼拝の時間を告げる声で、『アザーン』と言います。その内容はアラビア語で「神は偉大なり・神は偉大なり・神は偉大なり・神は偉大なり・神は唯一である事を証言する・神は唯一である事を証言する・ムハンマドは神の使徒である事を証言する・ムハンマドは神の使徒である事を証言する・礼拝に来たれ・礼拝に来たれ・繁栄に来たれ・繁栄に来たれ・神は偉大なり・神は偉大なり・神は唯一である」となりますので、覚えておいてください。ちなみに夜明け前の礼拝の際には、これに「礼拝は睡眠よりも良い」の一文が付け加えられます」

「礼拝は睡眠よりも良いか……。毎日こんな早朝からお祈りとは、ムスリムは大変だな」

「何を言っているんですか、サイト。今日からはあなた自身もまた、そんなムスリムの一人として礼拝を行わなければならないのですからね? 決して他人事ではありませんよ? さあ、あたし達も早く起きて、モスクに向かいましょう」

 そう言ったアイシェに促されて、俺は彼女と共にベッドから起き上がった。そして部屋着に着替えると寝癖でボサボサの頭髪をある程度整えてから、やはりアイシェに先導されながら寝室を後にする。

「モスクはここから遠いのかい?」

 邸宅の廊下を歩きながら、俺は尋ねた。

「モスクまでの距離なら、気にする必要はありませんよ。この別荘には家人の礼拝専用の小さなモスクが備え付けられていますから、誰にも邪魔される事無く、ゆっくりと礼拝を行えますから」

「へえ」

 邸宅の中に専用のモスクが備え付けられているとは、流石は元は財閥の家長が休暇を過ごすための別荘だっただけの事はある。やはり金持ちは何かにつけて生活の規模が違うなと、只ひたすらに感心する事しきりだ。

「こちらです」

 財閥一家の専用のモスクと言うから絢爛豪華な祭壇が設置された神殿の様な建造物を想像していたのだが、案内されたのは意外にも簡素な部屋に過ぎなかったので、少しだけ拍子抜けする。

「これが、モスク?」

「ええ、そうです。モスクに入るには心身共に清浄な状態である事が求められますので、まずはそちらで口を濯ぎ、顔と手足をよく洗ってください」

 その部屋、つまりこの邸宅の住人専用のモスクの入り口の前には洗面台が設置されていたので、俺はアイシェに指示された通りにそこで口を濯ぎ、顔と手足を洗った。そしてモスクに足を踏み入れてみれば、真っ白な壁にタイルで幾何学模様が描かれている点と高価そうなペルシャ絨毯が床に敷かれている点以外には、特にこれと言った装飾は無い。只一つだけ、何の意味があるのかは分からないが、モスクの入り口から見て正面の壁にドーム建築を模ったような窪みが掘られている。

「意外と、地味だな」

 俺は特に深い考えも無く、率直な感想を口にした。するとアイシェが、くすりとほくそ笑みながら教えてくれる。

「飾り立てられた仏教の寺院やキリスト教の教会に比べると、確かに地味でしょうね。イスラームでは偶像崇拝が禁止されていますから、どうしても神様や聖人の像や絵画を飾る事が出来ずに、モスク内の装飾は地味になってしまいます。その分だけイスラーム建築では幾何学模様による意匠が発展したので、まあ、功罪相半ばと言ったところでしょうか」

「なるほど」

 俺は得心した。

「それではあたしが手本を示しますので、よく見ながら真似をしてくださいね」

 アイシェはそう言って、モスクの絨毯の上に立った。そして壁に彫られた窪みの方を向く。

「あの窪みは?」

「あれは、聖地メッカのカアバ神殿の方角を示す窪みです。礼拝の際は、必ずあの窪みの方角を向いてください」

「なるほど」

 再び得心した俺はアイシェに倣って、窪みの方角を向いて絨毯の上に立った。

「まずは起立して手を頭の高さまで上げながら神を称える言葉を唱え、一旦手を下ろしてお腹の前で右手を上にして組みます。次に『ルクーウ』、両手を膝に当てて一回お辞儀をします。続いて『スジュード』、跪いて額を地面に付けながら、二回お辞儀をします。そして最後の『カーダ』はサイトの故郷の日本で言うところの正座の状態で座り、左右を見ながら「皆さんに平和と慈悲あれ」と言って、これで礼拝の一サイクルを終えます。この一サイクルを『ラクア』と言い、日に五回の礼拝毎にその回数が決まっています。今は夜明け前の礼拝の『ファジュル』で、導師イマームと共に礼拝する『ファラド』ではありませんから、ラクアは二回ですね。ちなみにこれらラクアはアル・クルアーンの一節を唱えながら行い、それを『キヤーム』と言います」

「うへえ、覚える事が山ほどあるな」

 俺がうんざりするかのような声と表情でもってそう言うと、アイシェはくすくすと笑う。

「大丈夫ですよ、サイト。最初は誰だって初心者です。それにあなたは昨日改宗したばかりなのですから、未だアル・クルアーンがアラビア語で読めない子供達の様に、あたしの真似をしながらゆっくりと覚えて行きましょう。さあ、まずは手を上げながら「神は偉大なり」と唱えてください。勿論、怪我をしている右手は上げなくても結構です」

「神は偉大なり……」

 俺はアイシェの後に続いて、文字通り見様見真似の礼拝を開始した。そしてこれらの行為を日に五回、これから死ぬまで毎日行い続けなければならないのかと思うと少しばかり辟易するが、イスラームに改宗してしまったからには致し方無い。今はこの境遇を、甘んじて受け入れる事にしよう。


   ●


 やがて夜明け前の礼拝を恙無つつがなく終えた俺とアイシェは食堂へと移動し、朝食の準備を始めた。とは言えこの邸宅の主人とその妻の立場にある俺達二人は特にする事も無く、テーブルの自分の席に腰を下ろしたまま、使用人であるエスラがこしらえた料理をスレイマンが運んで来てくれるのを静かに待つばかりである。

「さあ、いただきましょう」

「いただきます」

 アイシェに促された俺は、テーブルの上に並べられた朝食に手を付けた。トルコでは朝方にたっぷりの量の食事をゆっくりと時間を掛けて摂る習慣があるので、今朝の朝食もまた結構な量と種類である。日本に居た頃は殆ど朝食を摂らずに過ごしていた俺がこの習慣に慣れるまでには、少しばかり時間が掛かりそうだ。

「うん、美味い」

 昨日の結婚式の料理はトルコ料理とフランス料理が混在した宮廷料理だったが、今朝の朝食はごく一般的なトルコの家庭料理である。ドーナツ状に成型して表面に胡麻をまぶしたパンであるシミットに、砂糖とミルクがたっぷりと入った甘いチャイ。刻んだ生野菜や新鮮な果物やチーズや蜂蜜などの、素材をそのまま生かした比較的素朴な副菜。それにしっかりと火を通したゆで卵やスパイスの香り漂うケバブなど、豊富な食材による料理の数々はどれも美味かった。

「さてと、これからどうする?」

 やがて朝食を食べ終えた俺が三杯目のチャイを飲みながら尋ねると、アイシェもまたエスラが煎れてくれたチャイを飲みながら答える。

「サイトにはこれから、覚えていただく事が沢山あります。ムスリムとしての基本的な習慣や作法から始まって、トルコの公用語であるトルコ語とアル・クルアーンの原書を読むためのアラビア語、そして勿論、お爺様の下で財閥の顧問を務める際に必要なビジネス上の知識なども習得していただかなければなりません」

「ああ、そうだったね。これから大変だ。……なんだか、不安になって来たよ」

 そう言った俺は、深い深い溜息を漏らした。いくらバジェオウル氏が俺の生活を生涯に渡って保障してくれているとは言え、決して死ぬまで遊んで暮らせると言う訳ではない。俺にはこれから、トルコ有数の財閥一家の一員として、やらなければならない事が山程あるのだ。

「そんなに心配なさらずとも大丈夫ですよ、サイト。時間はまだまだたっぷりとありますから、礼拝の作法と同じように、ゆっくりと少しずつ覚えて行けば良いのです。あたしも可能な限り協力いたしますから、一緒に頑張りましょう、ね?」

「そうだな、ニートの俺にとって時間だけは無限に残されているんだから、焦る事は無いか。……それで、差し当たって今日はこれから何をしようか?」

 俺が改めて尋ねると、アイシェもまた改めて答える。

「そうですね……。サイト、せっかく新居に越して来たのに未だあなたの服や靴や下着などの日用品が揃っていませんから、取り急ぎ新生活に必要な品を、イスティニエ・パークまで買いに行ってみては如何でしょうか?」

「イスティニエ・パーク?」

「イスタンブールの新市街の郊外のイスティニエ地区に建つ、比較的新しいショッピングモールです。沢山のブランドのアンテナショップがテナントとして出店していますから何でも揃いますし、レストランも沢山出店していますから、ついでにそこでお昼ご飯にしましょう」

「ショッピングモールまで日用品の買い出しか……。いいね、それじゃあ早速、そのイスティニエ・パークとやらに行こうか」

「それではスレイマン、イスティニエ・パークまで車を出してちょうだい」

 慣れた調子で、アイシェが使用人であるスレイマンに指示を下した。するとスレイマンは「かしこまりました」と言って、車を用意するために食堂を後にする。そして俺とアイシェの二人もまた食堂を後にし、ウォークインクローゼットが備え付けられた寝室へと帰還すると、部屋着から外出着に着替えて準備を終えた。勿論女性であるアイシェは、入念な化粧と身に着けるアクセサリーの選別に余念が無い。

「さあ、そろそろ行きましょうか」

 化粧とアクセサリーの選別を終えてそう言ったアイシェに先導され、俺はスレイマンが運転するリムジンが待っている筈の邸宅の正面玄関へと足を向けた。久し振りの大規模なショッピングの気配に、胸が躍る。


   ●


 イスティニエ・パークでのショッピングは意外と手間取り、必要以上の時間を割く結果となってしまった。そして今の俺はショッピングを一時中断して、アイシェと共に昼食を食んでいる。

 スレイマンが運転するリムジンでもってパークに着いてから分かった事だが、このイスティニエ・パークは実に三百もの店舗が出店している、トルコ共和国最大の都市であるイスタンブール有数の巨大ショッピングモールであった。日本の首都圏のイオンやルミネと言った小規模なショッピングモールかしか知らない俺にとっては、その規模だけでも驚きである。しかもここは上の階に行く毎に次第に高級ブランド店が軒を連ね始め、日本ではあまり見られない、階によって利用する客層が変化する階層構造のショッピングモールでもあった。

 勿論何の躊躇いも無くアイシェが真っ先に向かったのが、もっとも高級なブランドの直営店が立ち並ぶ最上階である。そしてやはり世の女性の御多分に漏れずショッピングに眼が無いらしい彼女はそれら高級ブランドの店舗を渡り歩き、気に入ったドレスやアクセサリーや家具を次々と購入しては、俺が見た事も無いような色のクレジットカードでもってあっさりと支払いを済ませてしまった。日本に居た頃は服はユニクロかライトオン、家具はニトリかアイリスオーヤマか無印良品の安物で満足していた俺にとっては、ちょっとしたカルチャーショックである。

「さあ、次はサイトの服も買いましょう」

 自分の分の買い物を一通り済ませると、アイシェがそう言った。そして今度は俺が着るための服や日用品を買う番であるが、正直言って上流階級の人間がどんな服を着るべきなのか俺にはさっぱり分からないので、アイシェに全てお任せである。

「うーん、サイトは背が高くて痩せているから、ヨーロッパ産のダークスーツで細さを強調すると良いかもしれませんね」

 そう言ったアイシェの希望通り、俺の体型に合わせたイタリアの高級ブランドのダークスーツがオーダーメイドでもって仕立てられ、完成と同時に俺達の邸宅に届けられる事となった。そして更にシャツや靴などの日用品が、日本に住んでいた頃の俺なら絶対に手が届かない程の、それこそ眼の玉が飛び出るような価格でもって次々と購入されて行く。

「ちょっと、頭がくらくらして来た」

「大丈夫ですか、サイト?」

 不調を訴える俺をアイシェは心配するが、過剰に『0』が並ぶ高額商品の値札を見過ぎた俺は、なんだか気分が悪い。そこで少し早めに昼食を摂り、一旦気分をリフレッシュしようと言う事になった。

「このイスティニエ・パークには有名なレストランも数多く出店していますから、そこで昼食にしましょう」

 やはりアイシェに先導されたまま彼女のお勧めの高級レストランに入店した俺は、案内されたテラス席に腰を下ろして、ようやく人心地付く。

「ふう」

 俺は抜けるような青空に向かって、深い溜息を吐いた。テラス席から見える戸外の景色と爽やかな空気が、今はとても心地良い。

「ここは、魚料理がとても美味しいんですよ。ですからせっかく海も程近いイスティニエに来た事ですし、あたし達も魚料理を注文してみては如何ですか?」

「ああ、アイシェに全て任せるよ」

 俺がそう言えば、アイシェはにこりと微笑んで、レストランの給仕にトルコ語でもって料理を注文する。すると程無くして、いかにも高級そうな年代ものの白ワインと共に、白身の魚をメインとしたコース料理が運ばれて来た。

「うん、美味い」

 骨折しているせいで動かせない右腕に代わってアイシェに介助されながら、俺はコース料理に舌鼓を打つ。まあ、俺の庶民的な貧乏舌からすれば全ての高級食材を過剰に美味く感じてしまうのが道理なのだが、それでもやはり美味い物は美味い。

「ところで、アイシェ」

「何ですか、サイト?」

「俺達はこうして昼間から堂々と白ワインを飲んでいるけれど、これはイスラームの戒律に反していないのかい? 確かイスラームでは、酒を飲む事は禁止されていると聞いた事がある筈なんだけれど?」

 トルコに足を踏み入れてからの積年の疑問を、俺はアイシェに問うた。すると彼女は少し難しい顔をしながら、答え難い事に答えてくれる。

「確かにアル・クルアーンによれば、ムスリムの飲酒は明確に禁止されています。事実、同じイスラーム国家であり、戒律に厳格なサウジアラビア王国やイラン・イスラーム共和国では公共の場での飲酒は違法です。それにここトルコでも、現職のエルドアン大統領は高級レストランやモスク近辺での飲酒を制限しようとしていますから、決して他人事ではありません」

 そう言ったアイシェは、敢えて白ワインを一口飲み下した。

「ですが一言にアル・クルアーンによって飲酒が禁止されているとは言っても、その解釈は多様です。まずそもそも、酒の定義とは何なのかが判然としません。それに預言者ムハンマドがアル・クルアーンを遺した後に発明された蒸留酒も禁止されるのか、そのあたりもイスラーム法の研究者によって意見が分かれるところですからね」

「ふうん」

 アイシェの言う事もそれなりに理解出来るものの、只の詭弁にも聞こえなくはないので、少し引っ掛かる。

「どちらにせよ、ここトルコではオスマン帝国以前の時代から伝統的に飲酒の習慣がありますが、それで何の問題も起きてはいません。節度を守っての適度な飲酒は、むしろ心身の健康の維持に貢献しているのです。ですからサイト、そんな無用な心配はせずに、あたし達はワインを楽しみましょう、ね?」

「あ、ああ、うん」

 何だか色々と引っ掛かる点はあるのだが、多分そこは、ムスリムであると同時にトルコ人でもあるアイシェとしてもあまり突っ込まれたくはない点であろう事は容易に想像出来た。なので俺は無用に藪をつついて蛇を出す事も無く、アイシェに倣って白ワインを飲み下す。

「それで、他にイスラームの戒律で食べてはいけない物などは無いのかい?」

 俺は改めて、アイシェに尋ねた。

「そうですね……まず豚肉は、絶対に禁止です。穢れた不浄な肉なので、何があっても食べてはいけません。また同じ理由で、犬肉も食べてはなりません」

「ああ、うん。その二つは食べないでおこう」

 豚肉はともかくとしても、犬肉は俺も食べる習慣が無いので問題無い。

「それとユダヤ教では海老や蟹やタコやイカなどの『鱗の無い魚』は全て禁忌ですが、このあたりはイスラーム、特に地中海に接するトルコでは広く許容されています。昨日の結婚式でも立派な伊勢海老ロブスターが供されたように、食べても構いません」

「ああ、それは助かるよ」

 海に囲まれて生きる日本人の一人として海老や蟹が大好きな俺としては、これは天恵と言える。

「しかしその反面、水辺と陸の両方で生きる者は食べてはなりません」

「水辺と陸の両方で生きる者?」

「具体的に言えば、亀やワニ、蛙などです」

「なるほど」

 亀やワニや蛙などの大型の両生類は日本でもあまり食べる習慣が無いので、俺は特に異議を唱える事も無く許諾した。しかしワニを食べる習慣が根付いたタイ王国や、食用蛙の養殖が盛んな台湾や中国南部などのムスリムにとっては、これらの肉が禁忌である点はいくばくなりとも酷かもしれない。

「もうよろしいですか、サイト。正直言って、食べてはいけないハラームについて語るのは、あまり気分がよろしくありませんから」

「ああ、そうか。うん、ごめん。」

 俺はそう言って、会話を中断させた。普段はにこやかで温和なアイシェも、今は少しばかり機嫌が悪そうである。まあ確かに、俺も食べてはいけない穢れた食材や穢れた動物について食事中に語られたら気分は良くないので、彼女の気持ちも理解出来なくもない。基本的に食材に関しての禁忌が無い日本人にとってしてみれば、食事中に豚肉やら犬肉に関して詳細に語られるのは、人糞などの排泄物を食べてもいいかどうかを訪ねられているようなものなのだろう。

「そろそろ出ようか」

「ええ」

 やがて食後のデザートと紅茶を賞味し終えた俺とアイシェの二人はレストランを後にすると、午前に引き続き、午後もまたイスティニエ・パーク内でのショッピングに励んだ。そして気付けば結構な量と数の服や家具などを購入し終え、それらの商品の邸宅への発送手続きを終えると、スレイマンが運転するリムジンが待っている筈のパークの外の空気にその身を晒す。

「予想していたよりも、時間が掛かったな」

「そうですね。もうすっかり陽も傾いてしまいました」

 パークの外の空気にその身を晒してみれば、戸外は既に夕暮れ時であった。見上げた空はすっかり茜色に染まり、道行く様々な人種や性別や年代からなる買い物客達の足元には、彼らの身体から落ちた影法師が長く長く地面に伸びる。

「どうだい、アイシェ? 風も気持ちいいし、屋敷に帰る前にちょっと散歩でもして行かないかい?」

「散歩ですか、なるほど、いいですね。でしたら少し東に行った河沿いにエミルギャン公園が在りますから、その公園内をぐるりと一周してみては如何でしょうか?」

 アイシェの魅力的な提案を断る理由は、何も無い。そこで運転手であるスレイマンには公園の出口までリムジンを先回りさせてもらった上で、俺とアイシェの二人はその河沿いのエミルギャン公園とやらまで徒歩で向かう事にした。

「へえ、綺麗な公園じゃないか」

 辿り着いてみたエミルギャン公園はそれはそれは美しい公園であり、多くの地元民や観光客で賑わっている中で色とりどりの花、特にチューリップの花が見事に咲き乱れていて実に壮観である。

「ああ、これは綺麗だ」

 俺は感嘆の声を上げた。

「どうですか? 来て良かったでしょう、サイト?」

 アイシェの言葉に、常日頃は美術芸術に対する審美眼も無く、景観の美醜を判断する慧眼すらも持ち合わせてはいない俺もまた同意せざるを得ない。それほどにまで、花咲き乱れるエミルギャン公園の景観は甘美であり、とても美しかった。

「あ、ドンドゥルマの屋台ですよ。どうです、買って行きませんか?」

 そう言ったアイシェが、遊歩道の遥か先を指差す。するとそこには小さな屋台が見受けられ、どうやら彼女が言うところのドンドゥルマ、つまりトルコアイスが売られているようだ。日本でもそこそこ名の知られた、まるで餅の様にびよーんと延びるアイスクリームであるドンドゥルマ。せっかくトルコに住んでいるんだから是非ともそれを食べてみたいと思った俺は、彼女に同意する。

「うん、いいね。散歩がてらに買って行こうか」

 そう言った俺とアイシェが、ドンドゥルマの屋台まであと五十mばかりの距離まで近付いたところだった。ちょうど屋台でドンドゥルマを買い求めていた一人の女性に身なりの悪い男がそっと音も無く近付き、支払いのために取り出された彼女の財布を背後から素早くひったくったのである。

「あ! 泥棒!」

 ドンドゥルマを買い求めていた女性は叫ぶが、時既に遅かった。財布をひったくった身なりの悪い男は全速力での逃走を敢行し、公園の遊歩道をこちらの方角へと向かって走って来る。しかもその男は懐から取り出した鋭利なナイフを振りかざすと、道行く歩行者に向かって「退け退け!」と叫びながら走り続けているのだから、たまたま居合わせた行楽客達は逃げ惑わざるを得ない。

「逃がすかよ!」

 それはまさに咄嗟の判断での、無意識下での行動だった。俺は折れてギプスで固められた右腕でもって、ナイフで刺されるかもしれないと言う恐怖も厭わずに、すれ違いざまにひったくりの男の顔面にプロレス技で言うところのラリアットを渾身の力で叩き込む。

「痛ぇ!」

 ラリアットがひったくりの男の顔面に叩き込まれた瞬間、俺の折れた右腕にグシャリと言う嫌な感触と鈍痛が走った。どうやら治り掛けていた右腕が、今のラリアットの衝撃でもって再び折れてしまったらしい。しかしギプスで固められていたおかげで威力が倍増されたラリアットが顔面に叩き込まれたひったくりの男は意識を失って昏倒し、大の字で地面に転がったままピクリとも動かないので、その隙に周囲の観衆が彼を取り押さえる。

「この盗っ人め!」

「恥を知れ! イスタンブールの面汚しが!」

 公園に居合わせた観衆は口々に罵りながらひったくりの男を取り押さえるが、少しは腕が折れた俺の心配もしてほしいものだ。

「大丈夫ですか、サイト! 怪我はありませんか?」

 心配してくれるのは、我が愛しの新妻たるアイシェだけである。

「泥棒! この! この! この!」

 やがて財布をひったくられた女性が俺達の元へと駆け寄って来ると、地面に寝転がって昏倒したまま動かないひったくりの男の手から財布を奪い返し、更に男の顔面を握り締めた拳骨でもって何度も何度も殴打していた。いくら白昼堂々と財布をひったくる犯罪者とは言え、意識も無いままに見る間に鼻血と青痣まみれになって行く彼を見ていると、少しばかり可哀想に思えなくもない。

「助かりました。本当に本当に、ありがとうございます」

 やがてひとしきりひったくりの男の顔面を殴打し終えた女性はこちらに向き直ると、俺に礼を言った。

「ああ、うん、どういたしまして」

 俺も女性にそう言ってから、改めて彼女に向き直る。

「お強いんですね」

 微笑みながらそう言った女性は、すらりとしたスリムな体型の、俺と同じくらいの年頃の髪の短い女性だった。そしてよく見ればこの女性もまた結構な美人だったが、アイシェが垂れ眼でおっとりした母性愛に満ち溢れる豊満な美女であるのに対し、こちらは眼が切れ長で鼻が高いシャープな顔立ちの美女である。

「そんな事無いですよ。何せ、今のでまた腕が折れたみたいですから……痛ててて……」

 俺はそう言うと、折れて痛む右腕を押さえたままその場に蹲った。そしてよく見ればすれ違いざまに引ったくりの男が振りかざしていたナイフが掠ったのか、シャツの胸元が切れて、切り口からじっとりと血が滲んでいる。

「まあ、大変! 早く救急車を呼ばないと!」

「大丈夫ですか、サイト? 痛みますか? ああ、どうしましょう!」

 スマホでもって救急車を呼ぶ切れ長の眼のスリムな女性と、混乱しておろおろするばかりのアイシェ。二人の美女に心配されながら痛みに耐える俺の耳に、観衆の誰かが呼んだのであろうパトカーのサイレンの音が届く。

「何だか、面倒臭い事になっちゃったなあ……」

 咄嗟の事とは言え引ったくり犯を撃退してしまった俺は自分の軽率な行為を少しばかり後悔したが、後悔先に立たずとはよく言ったもので、今更悔やんでも致し方無い。今は只、一分一秒でも早く救急車が到着する事をアッラーに祈ろう。


   ●


 とっぷりと陽も暮れた頃になって、ようやく俺とアイシェの二人は帰宅する事が出来た。

「ただいま」

 スレイマンが運転するリムジンから降りた俺はアイシェと共に正面玄関の扉を潜り、出迎えてくれた使用人のエスラの脇を素通りしてそのまま真っ直ぐ邸宅のリビングに向かうと、以前にここがバジェオウル氏の別荘だった頃から使われている高価な革張りソファにどすんと腰を下ろす。腰を下ろした衝撃でソファの端っこで寝ていた猫のアイが眼を覚ましたが、今はこの雌猫に構っている心の余裕が無い。

「ああ、疲れた」

「そうですね。何だか色々と、大変な出来事ばかりの一日でしたね」

 俺とアイシェは互いの労をねぎらい合うのと同時に、ようやく肩の荷が下りた事による安堵の溜息を、全く同じタイミングでもってホッと漏らし合った。

「お疲れ様でした、サイト様、アイシェ様。スレイマンより事情はうかがっております。それで、早速で恐縮ですが、すぐにお夕飯になさいますか?」

 エスラが尋ねて来たので、猫のアイを膝の上に乗せたアイシェが答える。

「そうねエスラ、すぐに準備してくれるかしら? 病院でずっと待たされっ放しだったから、あたし、お腹空いちゃった」

「俺も痛みにずっと耐えていたから、やけに腹が減ったよ。痛みに耐えるのは、やたらとエネルギーを消耗するんだ」

 そう言った俺とアイシェは夫婦揃って、ひどく空腹であった。と言うのも俺達は昼食を食べ終えてから今の今まで、何も口にしていないのである。勿論屋台で買おうとしていたトルコアイスであるドンドゥルマも、食べる事が出来ていない。

「とにかくサイト、あなたの傷が浅かった事にだけはホッとしました」

「ああ、そうだな」

 今から数時間前の夕方にエミルギャン公園でひったくり犯を撃退した結果として右腕の骨を再骨折してしまった俺は、被害者の女性が呼んでくれた救急車でもって近くの総合病院へと搬送され、アイシェもまた救急車に同乗して俺に付き添った。そして病院での診察の結果として、やはりくっ付き掛けていた骨がボッキリと折れており、しかも自分でも気付かない内にひったくり犯にナイフで腹を刺されていたのだから救えない。まあナイフで刺された傷は内臓には達しておらず、脇腹を三針縫うだけで済んだし一週間ほどで傷も塞がるらしいので、これに関しては不幸中の幸いと言っても良いだろう。

 しかし折れた右腕は、再び全治二ヶ月と診断されてしまった。今は痛み止めの薬が効いているおかげでさほど痛くはないとは言え、今回の一件は、精神的には結構痛い。つまり軽率で迂闊な正義感から余計な事をしてしまい、しかももう少しで死んでいたかもしれないと言う後悔の念でもって、胸が一杯である。仮に万が一の事があれば結婚早々にアイシェを未亡人にしてしまっていたのだから、今後はもっと慎重に行動するべきであり、今回もまた行動するべきであった。

「サイト、あたし、もしもあなたが死んでしまったらと思うと本当に怖かったの」

 隣に座るアイシェがそう言いながらこちらに身を寄せて来たので、俺は彼女の肩を抱く。

「うん、ごめんアイシェ。心配掛けたね。……とりあえず、今は夕飯にしようか」

「ええ」

 アイシェの肩を抱いたまま、俺達は邸宅の食堂へと移動した。するとテーブルの上には既に料理が並べられており、家事全般を担当する使用人のエスラが温かい紅茶を煎れながら待っていてくれたので、俺とアイシェはそれぞれの席に着いて遅い夕食を食み始める。

「いただきます」

 夕食も朝食と同じくトルコの一般的な家庭料理らしく、メインは茄子にトマトとタマネギを詰め込んで煮込んだ料理らしいが、それ以外にも小皿に盛られた多くの食材が並んでいた。

「うん、美味いね。エスラ、これは何て言う料理?」

「イマーム・バユルドゥですね。お気に召されたのであれば、またお造りいたします」

「ああ、頼むよ」

 エスラがイマーム・バユルドゥと呼んだ茄子の煮込み料理も美味いが、それと一緒にヨーグルトをかけて食べる、豆の入った炊き込みご飯の様な米料理もまた美味い。

「これは?」

「ピラウです。フランス料理で言うところのピラフの語源となった料理です。今日はひよこ豆を使ったノフットル・ピラウにしてみましたが、お肉を使ったピラウの方がよろしかったでしょうか?」

「うん、そうだね。これも充分美味いけれど、どちらかと言えば俺は肉が入っていた方が好みかな」

「かしこまりました、サイト様。それでは明日は、鶏肉を使ったタウクル・ピラウをご用意いたします」

「ああ、楽しみにしているよ」

 明日の献立を楽しみにしながら、俺とアイシェの二人はエスラがこしらえてくれた夕飯を食む。そして食後のデザートと紅茶も賞味し終えるとシャワーを浴びて歯を磨き、揃って夫婦の寝室へと移動した。今日は色々な事があって疲れたし、俺は右腕と脇腹を負傷しているので、今夜は夫婦の夜の営みも控えて早々に就寝する心積もりである。

「夕飯の茄子を煮込んだ料理、美味かったなあ」

 広々としたキングサイズのベッドの上でごろごろしながら、俺は特に深い意味も意図も無く呟いた。すると俺の隣に座って、彼女のチャームポイントの一つである長く艶やかな黒髪を櫛で梳いていたアイシェが同意してくれる。

「茄子の煮込み料理でしたら、イマーム・バユルドゥですね。あたしも好きな料理の一つですよ」

「イマーム・バユルドゥか。トルコ語だよね? 『イマーム』と『バユルドゥ』の、どちらが『茄子』って言う意味なのかな?」

「ふふふ、残念ながらどちらも『茄子』と言う意味ではありませんよ、サイト。『イマーム』は『イスラームの宗教指導者』と言う意味であり、『バユルドゥ』は『気を失う』と言う意味です。つまり『宗教指導者が気を失うほど美味しい料理』と言う、ある種の比喩表現を料理名にしているので、食材の名前や調理法を意味してはいません」

「へえ、なるほど。中華料理の『佛跳牆フォーティャオチァン』みたいな物か」

「フォーティャオチァン? それは何ですか?」

 聞き慣れない言葉に、アイシェが聞き返した。

「中国語でね。つまり『仏教のお坊さんが壁を飛び越えてまで食べに来る』って意味の料理があるんだ」

「そうですか。そんな料理の名前は初めて聞きました。機会があれば、是非とも一度、一緒に食べてみたいですね、サイト」

 そう言ったアイシェに、俺は尋ねる。

「ところで『イマーム』が『イスラームの宗教指導者』と言う意味って事は、イスラームの開祖である預言者ムハンマドもイマームだったのかい?」

「うーん……」

 俺の問いに、アイシェは少し難しい顔をした。

「少し難しい話になってしまいますが、ムハンマドは預言者ナビーであって、イマームではありません。預言者とは唯一神たるアッラーの存在、絶対性、またその言葉をアル・クルアーンとして地上の人間に伝えるために遣わされた特別な存在なのです。また預言者とは、正確にはムハンマドのみを表す言葉でもありません。アル・クルアーンによれば、神は歴史上、この地上の全ての民族に数多くの預言者を遣わしたとされています。例えばユダヤ教のモーセやノアの箱舟で有名なノア、キリスト教のイエスなどもまた預言者の一人であり、その総数は実に十二万四千名に上るとされています。しかし残念ながら、その大半は道半ばで挫折したか、神の言葉を正しく伝えられなかったか、もしくは神の言葉に疑問を抱くなどして布教を行いませんでした。そして長き歴史の奔流の末に、最高にして最後の預言者たるムハンマドのみが、遂に正しい神の言葉でもって布教に成功したとされています。それが現在の、イスラームです」

「ふうん、モーセやイエスも預言者なんだ」

 他の宗教の聖者もまた預言者として扱っているとは、ちょっと意外だった。しかしこの地上の全ての民族に預言者が遣わされたとなると、日本の大和民族に遣わされたとされる預言者とは一体誰になるのだろうかと、どうでもいいような事をふと考えてみる。預言者ムハンマドと同時代の日本の歴史上の人物と言えば、聖徳太子あたりだろうか。

「詳細は省かせていただきますが、最高にして最後の預言者たるムハンマドは偶像を崇拝する多神教に支配されていた聖地メッカを奪還し、これを清浄して、ほぼ一代にしてアラビア半島のある程度の地域にイスラームを布教させる事に成功しました」

 アイシェの講義は続く。

「しかし預言者ムハンマドは、正統なる後継者を指名する事無く、西暦632年に逝去されてしまいます。この事が結果として後継者争いや指導者の正統性を巡る混乱を招き、後々の時代になってからも、イスラームが多くの派閥や宗派に分裂する遠因となってしまいました。特に、現在のイスラームはスンナ派とシーア派の二つの宗派に大きく分断されてしまっていますが、これもまた後継者争いが原因です」

「ああ、それはNHKのニュースか何かで観た事がある。確かスンナ派が多数派で、シーア派が少数派だっけ? 詳しくは知らないけれど」

 ついこの前まで一介の日本人でしかなかった俺のイスラームに対する知識は、正直言って、その程度でしかなかった。しかしそんな俺の瑣末な知識も、優しいアイシェは褒めてくれる。

「そうです。よくご存知ですね、サイト。比率的に言えば世界のムスリムの八割から九割程度はスンナ派で、残りの二割から一割程度がシーア派と、それ以外の少数派の宗派です。ちなみにここトルコ共和国は政教分離と世俗主義の観点から明確な国教は制定されておりませんが、伝統的に多数派であるスンナ派を信仰する国ですから、覚えておいてくださいね」

「なるほど。覚えておくよ」

 俺は得心した。

「さて、それではそろそろ、茄子の煮込み料理の語源であるイマームについて説明させていただきます」

 そう言ったアイシェは、一拍の間を置いてから続ける。

「預言者ムハンマドは、正統なる後継者を指名しませんでした。しかしその後のイスラーム共同体ウンマを指導する役割としてのカリフ、つまりムハンマドの後継者たる宗教指導者の役割を、ムハンマドの高弟であったアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの四代の指導者が受け継ぎます。この四代が統治された時代を、イスラームの世界では正統カリフ時代と言います」

「ふうん」

 只の茄子の煮込み料理の語源の話題がなかなか複雑な内容になって来たが、アイシェの講義はまだまだ続くようだ。

「しかしここで、分裂が生じました。四代目の宗教指導者のカリフたるアリーの子孫を正統なるイマーム、つまり宗教指導者であるとするシーア派と、イマームとはあくまでも礼拝を行う際の先導者であり、イスラーム共同体ウンマの指導者であるカリフとはまた別個の存在とするスンナ派との間で軋轢が生じてしまったのです」

「ふうん、面倒臭いな」

 俺は何気無く得心したが、アイシェが語る内容は益々をもってきな臭くなる。

「こうして、カリフを指導者とするスンナ派と、四代目カリフであるアリーの子孫をイマームとするシーア派とでイスラームの世界は大きく二つに大別されてしまいました。同じイスラームの同胞でありながら、悲しい事です」

「えっと、アイシェ、ちょっと待ってくれ。今の説明だとカリフもイマームも同じ宗教指導者って事になるけど、これらはどう違うんだい?」

 俺は素朴な疑問をぶつけてみたが、やはりアイシェは難しい顔をして、言葉を詰まらせてしまった。

「カリフとイマームとは……正直言って……明確な線引きは出来ません。両者の間にはイスラーム共同体の指導者、また宗教指導者としての役割が重なっている部分が多く、黒か白か、もしくはゼロか一かのような排他的な区別は無いのです。たとえばサイト、あなたの故郷の日本でも中世の頃にはショーグンとテンノーの二つの国家権力が同時に存在しましたから、それになぞらえてみてください。まあ、それでも仮に区別するならば、カリフは預言者ムハンマドの教えを頑なに守り続けるスンナ派の正統なる預言者の使途であり、イマームはもう少し自由に時機に応じて教えを変えるシーア派とそれ以外の宗派の使途の一派と言う事になります。ですが、これ以上の事は残念ながら、あたしの一存で語る事は出来ません。申し訳ありません、サイト」

「いいんだよアイシェ、そんなに謝らないでくれ」

 俺はそう言って、気落ちしてしまったアイシェの肩をそっと優しく抱き締める。きっと彼女も、自分の宗教観と学術的な知識との間に、言葉には出来ない葛藤を抱いてしまっているに違いない。

「ああ、ちなみに補足させていただきますと、スンナ派もシーア派も、その後のカリフとイマームの地位はここ数百年は適格者が存在せずに空位になっております。そしてあたしの祖父であるフェルハト・バジェオウルは、ここトルコでは二十一世紀のカリフ候補などと呼ばれて賞賛されておりますので、その事もお忘れなく。……あたしとしましては、出来ればあなたがお爺様の後を継いで、二十二世紀のカリフとなってくれる事を祈っておりますよ、サイト」

 ベッドにごろりと横になったままそう言ったアイシェは俺の眼を見据えながらにこりと微笑み、俺の乾いた唇にそっと口付けすると、屈託無く笑う。

 愛する新妻から二十二世紀のイスラームの宗教指導者としての立場を半ば強引に押し付けられたまま、俺は全ての説明を締め括られてしまった。このままでは俺はこれからどうなってしまうのだろうか、どうすべきなのだろうかと思うと気が気ではないが、そんな事いちいちを気に病んでいても、きっと詮無い事に違いない。

 とにかく今は怪我をした右腕と脇腹がずきずきと痛むので、愛する新妻たるアイシェにぎゅっと優しく抱き締められたままぐっすりと眠ってしまおうと思いながら、俺はキングサイズのベッドの上でそっと静かに眼を閉じる。

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