第三幕


 第三幕



 退院してから一週間ばかりが経過したその日の午前中、俺はあつらえたばかりのトルコの民族衣装であるカフタンに身を包んでいた。そしてイスタンブールの歴史地区の一角に建つ世界遺産にも認定されたスルタンアフメト・ジャーミィ、俗に言うところのブルーモスクの中心である、チューリップ模様が一面にかたどられた真っ赤な絨毯が敷かれたドームの中央に立つ。

「はあ……」

 繊細にして大胆なイズニックタイルによる装飾が一面に施されたブルーモスクの天井をぽかんと口を開けたまま見上げ、その荘厳さと壮大さにすっかり気圧されてしまっている俺の隣に立つのは、同じくカフタンに身を包んだフェルハト・バジェオウル氏とその秘書のハサン。そして俺を含めた三人を警護するために集められた、十名ばかりの黒スーツとサングラスの大柄な警護官SP達であった。

 勿論そんな物々しい様相の俺達を、たまたまブルーモスクを訪れていた地元のイスラーム教徒達や諸外国の観光客達は何事かと訝しみながら、遠巻きに取り囲んでひそひそと憶測交じりの陰口を叩き合う。まあ確かに、突然こんな厳粛な場に黒スーツの大男の一団に警護されたカフタン姿の日本人が姿を現せば、それもまた当然の帰結と言えるのではなかろうか。

 すると俺の隣に立つバジェオウル氏が両手を広げ、観衆に向かって声を張り上げながら宣言する。

「皆の衆、心して見よ! 今よりこの者が、イスラーム入信の信仰告白シャハーダを行う! 新たな同胞の誕生に刮目し、喝采せよ!」

 その言葉を聞いた観衆は、いきおい色めき立った。やはりどこの国のどんな集団であっても、自分達に新たな仲間が加わると言うのは喜ぶべき事であり、また同時に歓迎すべき事らしい。

「さあ、加屋さん。それでは教えた通り、アラビア語での信仰告白シャハーダを行ってください。私とハサンの二人が、証人として立ち会いましょう」

 バジェオウル氏からそう言われた俺は、今日ここに来るまでに彼から教わった事を思い返す。なんでもイスラーム教には、神道における神主やキリスト教における神父や牧師の様な、明確な『神職』が存在しないのだそうだ。だから入信する際に、寺の檀家になったり洗礼を受けたりと言った、神職や宗教組織との契約も存在しないのだと言う。その代わりに、イスラーム教では敬虔かつ公正な男性ムスリム二名以上に証人として立ち会ってもらった上で、個人が直接神であるアッラーに信仰告白シャハーダを行い、この行為をもってして入信したものとみなされるらしい。

「さあ、どうぞ」

 バジェオウル氏に促された俺は、観衆が見守る中で信仰告白シャハーダを行う。

「ラー・イラーハ・イッラッラー・ムハンマド・ラスールッラー」

 覚えたての片言のアラビア語なので発音は若干覚束無いが、俺は入信を宣言する信仰告白シャハーダを終えた。宣言の内容は、日本語に訳すと「神は唯一にして、ムハンマドはその使途である」と言う意味である。つまりこれで、イスラーム教の神であるアッラーと、その使途である預言者ムハンマドの正当性を認めた事になるらしい。とにもかくにも、この宣言をもってして、晴れて俺はイスラーム教に入信した事になるのだ。

「おめでとう、加屋さん。イスラームの世界へようこそ。これからはあなたをイスラーム様式に則った名で、サイト・カヤと呼ばせていただきます。よろしくお願いいたしますよ、サイト」

「はい。俺の方こそよろしくお願いします、フェルハト爺さん」

 そう言った俺がバジェオウル氏と握手を交わし、抱擁し合えば、周囲を取り囲む観衆が一斉に歓声を上げながら手を打ち鳴らして拍手する。イスラーム教に入信する事には多少の戸惑いもあったが、こうして拍手喝采でもって歓迎してもらえるのであれば、これはこれで悪い気はしない。

「それではサイト、早速だが、結婚式の会場へと急ごうではないか」

「はい、フェルハト爺さん」

 俺はバジェオウル氏と秘書のハサンと一緒に歩き始め、観衆の歓声を一身に浴びながら赤い絨毯が敷き詰められたドームを縦断すると、そのままブルーモスクを後にした。そして戸外で待機していた日本総領事館の小林書記官と合流してからモスクの前に停められていた真っ白なハマーリムジンに乗り込み、バジェオウル氏の宮殿を目指す。

「緊張しているのかね?」

「そりゃもう、ドキドキですよ」

 イスタンブールの市街を走るハマーリムジンの中で、俺はバジェオウル氏の問いに答えた。何せ、これから自分の結婚式の会場に赴こうと言うのだから、緊張しない方がどうかしている。

「分かるよ、分かるとも。私も最初の妻との結婚式の時は緊張し過ぎたあまり、もう少しで嘔吐しかけたからな」

 バジェオウル氏は大袈裟にそう言ってみせるものの、流石に俺の緊張の度合いは、思わず嘔吐してしまうほどではない。しかしそれでも、口から心臓が飛び出ると言う慣用句が決して嘘ではないと実感させるかのように動悸は治まらず、額やうなじの毛の生え際にはじっとりと脂汗が浮かぶ。

「さあ着いたぞ、サイト。アイシェも招待客の方々も待ちくたびれている頃だろうから、急ごうじゃないか」

 やがて正門前の厳重なセキュリティを通過した後に、自分自身が所有する広大な敷地内へと進入したハマーリムジンの中で、バジェオウル氏がそう言った。そして氏の宮殿前に停められたハマーリムジンから降車した俺達三人は正面玄関と玄関ロビーを通過し、結婚式の会場である大ホールへと足を向ける。

「皆の衆、心して見よ! 主賓の到着だ! 新たに我らがイスラームの同胞となり、我が孫娘であるアイシェの夫、そして我が一族の一員となるサイト・カヤを盛大な拍手をもって称えたまえ!」

 俺と小林書記官の二人を先導しながら宮殿の大ホールへと足を踏み入れたバジェオウル氏が高らかに宣言し、謳い上げた。すると大ホールに集っていた大勢の着飾った老若男女、つまり俺とアイシェの結婚式に招待された参列者達が一斉にこちらに注目するのと同時に、バジェオウル氏が求めた通りの盛大な拍手喝采でもって新郎である俺を迎え入れる。

「ありがとう、どうもありがとう、皆さん」

 俺は笑顔と共に大きく手を振って、参列者達の拍手と歓声に応えてみせた。もっとも手を振ったとは言っても、アームホルダーで首から吊った状態の右腕は先月空港でバジェオウル氏を助けた際に骨折した傷が未だ完治していないので、俺に振る事が出来るのは左手だけである。そして促されるがままに大きなテーブルが無数に並べられた大ホールの最奥、つまり日本様式で言うところの上座にあたる席の中央に案内されてみれば、そこには花嫁衣裳を身に纏ったアイシェが俺を待っていた。

「加屋さん! ……いえ、サイト! お待ちしておりました!」

 そう言いながらこちらへと駆け寄って来た花嫁であるアイシェは金糸の刺繍が施された真っ赤なウエディングドレスに身を包み、頭にはやはり赤いヴェールを被っている。西洋ではウエディングドレスと言えば純白が当然であり、日本でも花嫁衣裳と言えば白無垢に角隠しか綿帽子が定番であるが、ここトルコでは白ではなく赤色こそがおめでたい祝いの色なのだそうだ。そのためアイシェのドレスは赤色であると同時に、ドレスの裾から覗く彼女の手元や足元や喉元には幾何学模様と植物を模った意匠を組み合わせたかのような、赤褐色のヘナによる装飾が施されている。

「そのドレスも、ヘナの模様も綺麗だよ、アイシェ」

「ありがとうございます、サイト。昨日の晩のクナ・ゲジェスィで、友達があたしの幸せを祈って一生懸命描いてくれたんですよ」

 嬉しそうにそう言ったアイシェは、ギュッと俺を抱き締めた。そんな彼女のドレスから覗く手や足の皮膚に施された、まるで刺青いれずみの様な赤褐色の模様はヘナと呼ばれる染料によって描かれた祝福の印であり、また同時に花嫁を守る解毒と魔除けの文様でもある。なんでも結婚式の前夜には花嫁とその友達が集まってクナ・ゲジェスィと称される独身生活最後の女だけのパーティーを開催し、その場で花嫁の全身にパーティーの参加者全員がヘナでもって祝いの装飾を施すのがトルコの慣わしだそうだ。

「ああ、本当に綺麗だ」

 俺はそう言って、花嫁であるアイシェの身体をギュッと抱き締め返した。彼女の全身から放たれる体温と甘い体臭を伴った、熱い抱擁。だがそこに、彼女の祖父であると同時にこれからは俺の義理の祖父ともなるべきバジェオウル氏の何気無い言葉が水を差す。

「残念ながらそこまでだよ、ご両人。キスとその先は、無事に式を終えてから新居でもって思う存分心行くまで行えばよい。そんな事よりも今は、この式場に集まった全ての来賓の方々の胃袋を満足させ、夜通し踊り明かす事の方が先決だ。さあ、皆の衆! まずは乾杯と行きましょう! 新郎新婦の幸福な門出を祝って、乾杯!」

「乾杯!」

 バジェオウル氏の音頭でもって、俺とアイシェの結婚式が始まった。どうやらこの爺さんは財閥一家の家長でありながらも、まるで下町の町内会長か何かの様に宴会を主催した上で、その宴会の乾杯の音頭を取りたがる癖があるらしい。上流階級のお大尽なんだか庶民派のお調子者なんだか、どうにもよく分からない爺さんだ。

「サイト、アイシェ、私はバジェオウル氏に懇意にしていただいている者で、アフメト・オザイと申します。本日はこのような盛大な結婚式にお招きいただきまして、本当にありがとうございます。あなた達夫婦の末永い幸せを、心からお祈りしております」

「ありがとうございます。えーと……オザイさん」

「本当に、ありがとうございます」

 俺とアイシェはアフメト・オザイと名乗ったデブでハゲのおっさんと抱擁を交わし合うと、彼から受け取ったご祝儀であるトルコリラの札束を宮殿の使用人に渡してから、次の来賓との抱擁とご祝儀の授受に移行する。どうやらトルコの結婚式では、まずはこうして参列者と主賓の新郎新婦が挨拶と抱擁を交わし合い、ご祝儀を受け取るのが慣例となっているらしい。

「私は公正発展党に所属する議員で、シャヒーンと申します。いやあ、お二人とも結婚おめでとう。末永くお幸せに」

「ありがとうございます、シャヒーンさん」

 シャヒーンと名乗った次の来賓と抱擁し合い、今度は掌に納まるくらいの大きさの純金のインゴットのご祝儀を受け取った。受け取るご祝儀はトルコリラか米ドルの現金か、もしくは金貨や金のインゴットと言った現金に準じた貴金属が大半である。日本の結婚式の様に現金を剥き出しのまま手渡すのは下品だとして御祝儀袋に包んで隠す風習からすると、あけっぴろげに現金や貴金属が右に左に飛び交うこの国のご祝儀の授受は、日本で生まれ育った俺にとってはちょっとだけ奇妙に感じられた。まあそこら辺はお国柄と言うものだろうし、郷に入っては郷に従えとも言うのだから、今はこの異国の風習を楽しむ事にしよう。

「さあ、それでは次は料理とダンスだ。皆の衆、今日は楽しんで行ってくれたまえ!」

 やがてご祝儀の授受が終了したかと思えば、バジェオウル氏が宮殿の使用人達にプログラムの進行を指示した。するとそれを合図に、大ホールの中央の雛壇の上で待機していたオーケストラの一団が陽気な民族音楽やポッピミュージックを奏で始め、それと同時にこの日のために臨時で雇われた給仕達が大ホール内を忙しなく歩き回りながら祝いの料理を次々とテーブルに並べ始める。

 トルコの結婚式では日本の結婚披露宴の様に出席者の人数や席次が厳密に指定されてはいないのが一般的で、何であればたまたま式場の前を通り掛かっただけの赤の他人が飛び入り参加する事も珍しくないらしいのだが、流石に財閥のご令嬢の結婚式ともなればセキュリティ上の問題でそうも行かない。なので今日ここに集った参列者達は皆が皆、事前に厳選された上で招待状が配られたバジェオウル氏とその一族の関係者なので、無関係な一般市民が紛れ込んでいるような事は無い筈だ。だがそれでも、ぱっと見渡した限りでも大ホールを埋め尽くす参列者の数はおよそ四百人から五百人ほどと、これはこれで結構な規模の結婚式と言える。まあ何にせよ、そんな五百人近い人間が一堂に会して食事とダンスを楽しめるだけの広さのホールが自宅の敷地内に在ると言う段階で、文字通り桁外れと評すべきバジェオウル氏の資産規模がうかがい知れると言うものだ。

「さあ、サイト。あなたのための料理なんですから、沢山食べてくださいね」

「あ、ああ。ありがとう、アイシェ」

 大ホールの上座の中央のテーブルで俺の隣に座ったウエディングドレス姿のアイシェが、以前の退院祝いの祝宴の時と同じように、折れた右腕が未だ満足に動かせない俺の食事を介助してくれる。こんなにまでも美人で献身的な女性が今日から俺の妻になってくれるのかと思うと、なんだかもうずっと狐に化かされっ放しでいるような不思議な気分だ。

「どうです? 美味しいですか?」

「うん、美味いよ。俺の事はいいから、アイシェ、キミももっと食べなさい」

「いいえ、あたしの事は気になさらないでください。だってあたしはもうあなたの妻なんですから、まずは愛する夫に尽くして差し上げませんと」

 嬉しそうにそう言ったアイシェは、やはり俺を甲斐甲斐しく介助してくれる。そして彼女が俺の口へと運んでくれる豪勢な宮廷料理の数々が、やはり以前の退院祝いの時にテーブルに並べられたのと同じようなトルコ料理とフランス料理の折衷料理なのは、この結婚式の主催者であるバジェオウル氏の趣味嗜好なのだろうか。

「ちょっとちょっと、加屋さん、加屋さん」

「ん?」

 不意に名前を呼ばれたので振り返ってみれば、アイシェが座っているのとは反対側の隣の席、つまり本来ならば俺の両親かそれに順ずる親類縁者が座るべき席に座った小林書記官がそっと日本語で耳打ちする。

「何度も言いますけれど、本当にいいんですか? こんなに安易にイスラームに改宗したり、国際結婚したりなんかして」

「何だ、またその話ですか」

 心配げな小林書記官の言葉に、俺は少しばかり辟易しながら嘆息した。彼はつい先週俺がアイシェとの結婚とイスラームへの改宗を承諾してからと言うもの、折に触れては今回の一件を考え直すように忠告し続けているのである。ちなみに何故彼が俺の隣に座っているのかと言うと、両親から勘当されて親子の縁を切られている俺は親類縁者が誰一人としてこの結婚式に参列してくれなかったので、俺の身元を保証する後見人の役目を彼が引き受けてくれたからだ。

「大丈夫ですよ、国際結婚なんて言うのは今時珍しくもありませんし、何よりもこんなに好条件の縁談なんて滅多に無いじゃないですか。なにせニートの俺が、いきなり財閥一家の仲間入りをするんですからね。それにイスラームへの改宗だって。たいした問題じゃない。ちょっとばかり神様にお祈りをする回数が増えて、豚肉が食べられなくなるくらいの事でしょう?」

「そうだと良いのですが……」

 渋々口を噤む、小林書記官。どうにも彼は心配性と言うか、今回の俺とアイシェの結婚の是非に対して悲観的である。それとも、俺の方が楽観的に過ぎるのだろうか。まあどちらにせよ、俺はもうイスラームに改宗してしまったし、こうして結婚式は執り行われてしまっている。今更後には引けないのだから、今はこの状況を楽しむのが先決ではなかろうか。

「さあ、サイト、アイシェ、本日の主役であるお二人も、心行くまで踊り明かすと良い」

 やがて宴もたけなわと言った頃合で、バジェオウル氏がそう言って俺とアイシェの二人を大ホールの中央へといざなう。そこには既に多くの式の参列者達がほろ酔い加減でもって集まり、オーケストラの生演奏に合わせて陽気なステップを踏みながら楽しそうに踊っていた。なんでもトルコの結婚式と言うのはこうして料理と酒を断続的に楽しみながら、特に出会いを求める若い男女の参列者などは深夜までか、場合によっては朝まで踊り明かすのが一般的らしい。

「さあ、サイト。あたし達も一緒に踊りましょう」

「参ったな。日本ではあまり踊る機会や習慣が無かったから、ダンスは苦手なんだ」

「大丈夫ですよ。他の人達を真似て、音楽に合わせてゆっくりとステップを踏んでいればいいだけですから。それに上手か下手かなんて、誰も気にしませんもの」

 そう言ってくれたアイシェと共に、俺は宮殿の大ホールの中央に集まった他の参列者達に混ざって、見よう見真似のステップを踏み始める。骨折した右腕が動かせないので少しばかりぎこちないが、まあ、素人にしてはそこそこに踊れているのではなかろうか。

「なかなか上手じゃないですか、サイト」

「そうか? ありがとう、アイシェ」

 アイシェに褒められた俺は少し酒も回って来た事もあって、上機嫌で踊り続ける。式の参列者達が踊っているのは社交ダンスと民族舞踊をごっちゃにしたような、ヒップホップの様な激しさや下品さは無いがあまり格式ばってもいない、長時間ゆったりと楽しむためのトルコ版盆踊りと言った感じの踊りだ。そう言えば確かトルコには『セマー』と呼ばれる、ひらひらとしたスカート状の衣装を着た踊り手がトランス状態に陥るまでクルクルと回転し続ける伝統舞踊があった筈だが、せっかくトルコに居るのだから機会があれば一度は生で見てみたい。

「ああ、やっぱり結婚して良かった」

 俺はそう呟きながら、アイシェと共に踊り続ける。


   ●


「サイト、サイト、起きてください」

 自分の名を呼ぶ優しい母の様な声に、俺は混濁した意識から覚醒した。

「サイト、起きましたか?」

「え? あれ? 俺、寝てた?」

 眼を覚ましてみればアイシェがこちらを心配そうに見つめながら、俺の肩をゆさゆさと揺すっている。どうやら俺は自分の結婚式で極上のシャンパンを飲み過ぎてすっかり酔っ払ってしまったせいか、それとも踊り疲れたせいか、椅子に座って休憩したまま寝落ちしてしまっていたらしい。

「ええ、すっかり眠ってしまっていましたよ。それじゃああなたもお疲れみたいですし、そろそろあたし達はおいとまさせていただきましょうか」

「ああ、うん、そうしよう」

 俺はアイシェの提案を快諾し、椅子から立ち上がった。するとやはりシャンパンを飲み過ぎてしまったらしく、少し足元がふらつき、ズキズキと頭痛がする。そして頭痛がする頭を巡らせて周囲を見渡せば、俺と同じように半分酔っ払った状態の老若男女が音楽に合わせて陽気に踊ったまま、結婚式は主役の所在に関係無くつつが無く進行していた。

「おや、サイト、アイシェ、もう帰るのかい?」

 歳に似合わす結構なアルコール度数であるシャンパンをぐびぐびと飲み下しながら平気な顔をしているバジェオウル氏が尋ねたので、アイシェに肩を借りた状態の俺は返答する。

「ええ、そろそろ俺達は退席させていただきます」

 俺がそう言うと、何かに納得したかのようなバジェオウル氏がこくこくと頷いた。

「そうだな、そなた達にはこれから、まだまだ子作りと言う重大な使命が残されているからな。……それでは皆の衆、心して聞け! 今日の宴の主賓のお帰りだ! 拍手をもって見送るが良い! そして残った者達は、朝まで踊り明かすが良いぞ!」

 バジェオウル氏が声高らかにそう宣言するや否や、既に高齢の来賓は席を立ったとは言え、それでも数百人に及ぶ結婚式の参列者達が退席する俺とアイシェの二人を盛大な拍手と歓声でもって見送ってくれる。その一方で見送られる俺達二人は、なんだか照れ臭くて面映い。

「自分の結婚式で酔い潰れるとは、みっともないな」

「もう酔いは冷めましたか?」

「ああ、うっかりとは言え一眠りしたから、もう平気だよ」

 俺とアイシェは見送ってくれる参列者達に感謝の意を込めて手を振りながら、大ホールを後にする。そして長い長い廊下を渡り終えてから宮殿の正面玄関を出ると、そこには一台の黒塗りのリムジンと、細身のスーツに身を包んだ一人の初老の男性が直立不動の姿勢でもって待機していた。

「お待ちしておりました、サイト様、アイシェ様」

「あら、スレイマン。待っていてくれたの?」

「はい、アイシェ様。不肖この私めが、お二人を新居までご案内させていただきます」

 スレイマンと呼ばれた初老の男性はこちらに向き直り、流暢な英語でもって俺に自己紹介する。

「お初にお眼に掛かります、サイト様。私めはバジェオウル家に仕えております、スレイマン・エルゲンと申す者です。以後、お見知り置きを。また、私めは新居でのお二方の生活をサポートするようにフェルハト様より命ぜられておりますので、御用の際は何なりとお申し付けください」

 そう言って深々とお辞儀をしたスレイマンは、柔らかな物腰でもってリムジンの後部座席のドアを開けた。そして俺とアイシェが並んで乗車するとドアを閉め、彼自身は運転席に腰を下ろす。

「それでは、新居へと向かいます。今の時間でしたらおよそ三十分ほどで到着いたしますので、それまでは車内の冷蔵庫の中のお飲み物でもお楽しみください」

 そう言ったスレイマンはアクセルを踏み込み、ゆっくりとリムジンを発進させた。そして宮殿を後にした黒塗りのリムジンは深夜のイスタンブールの街路を走り抜け、その車内で俺は、冷蔵庫から取り出したペットボトル入りのミネラルウォーターをごくごくと飲み下す。酔って火照った身体に冷たいミネラルウォーターが染み込んで行くようで、心地良い。

「そう言えばアイシェ、俺達の新居ってどんな所なんだい? フェルハトの爺さんが、無償で俺達のために用意してくれるって言ってたけどさ」

「ええ、元々はフェルハトお爺様が所有する、休暇を過ごすための別荘の一つだった建物ですの。でも別荘とは言ってもそこそこ大きな設備の整った屋敷ですし、住み込みの使用人も居りますから、日常生活を送る上で不自由するような事は無い筈です」

「そうか」

 休暇を過ごすためだけの別荘に住み込みの使用人が居ると言うのだから、やはり財閥のご令嬢夫婦のための新居ともなれば規模が違う。日本に居た頃は中産階級の一庶民に過ぎなかった俺からは、まるで想像も出来ない世界の話だ。だが今日からはこの俺もまた、そんな想像も出来ない世界の住人の仲間入りを果たすのだと思うと、緊張でもって急激に酔いが冷め始めるのを感じる。

「到着いたしました。暗いですので、足元にお気を付けください」

 やがてイスタンブール郊外に建つ一軒の屋敷の敷地内に進入したリムジンが正面玄関前で停車すると、先に降車して後部座席のドアを開けてくれたスレイマンがそう言った。そこで俺とアイシェもまたリムジンから降車すると、今夜から俺達二人の新居となる屋敷を臨む。

「ここが新居か……」

「ええ、そうです。如何ですか? お気に召しまして?」

 それはちょっとした邸宅と言っても良い程の規模の立派な屋敷だったが、幸いにも先程まで俺達の結婚式が執り行われていたバジェオウル氏の宮殿に比べるとずっと小さくて落ち着いた雰囲気の、新婚夫婦の新居としては理想的な建造物だった。勿論それでも東京の俺の実家と比べると比較にならない規模の大邸宅ではあるものの、このくらいならば気兼ねせずに暮らして行けそうである。

「えっと、ただいま……でいいのかな?」

 そう言いながら俺は正面玄関の扉を開け、邸宅の中へと足を踏み入れた。すると玄関口に待機していたやや小柄な一人の少女が、俺とアイシェを迎え入れる。

「お帰りなさいませ、サイト様、アイシェ様。お待ちしておりました」

「ただいま、エスラ。こんな時間まで起こしちゃって、ごめんなさいね」

「いいえ、とんでもございません。主人を待つのは、使用人の務めですから」

 アイシェからエスラと呼ばれた少女はそう言うと、俺達二人に向かって深々とお辞儀をした。どうやらこの少女が、この邸宅に住み込みで働くと言う使用人らしい。そして彼女は俺と視線を合わせてからにこりと可愛らしく微笑むと、自己紹介の言葉を述べる。

「お初にお眼に掛かります、サイト様。私、エスラ・アイドアンと申します。フェルハト様よりお二方の身の回りの世話を一任されておりますので、御用がございましたら何なりとお申し付けください」

「ああ、うん、えっと、その、よろしく頼むよ」

 当然ながら日本に居た頃の俺に使用人を雇っていたような経験は皆無なので、彼女とどのような距離感でもって接するべきなのか判然とせず、なんだか要領を得ない口調になってしまった。住み込みで働いていると言う事は在宅中は毎日四六時中顔を突き合わせて生活すると言う事なので、家族の様に親密な関係を築けばいいのか、それともホテルの従業員にでも接するかのようにドライな対応でいいのか、どうにも勝手が分からない。

「お二方とも、お食事は既にお済みですね? それではシャワーとお休みの準備をいたしますか? それとも、お休みの前に何か軽い食事でも召し上がられますか?」

 エスラの問い掛けに、アイシェが答える。

「そうね……。サイトは未だ少しお酒が残っているみたいだから、酔い覚ましのお茶と、何かお茶菓子でも用意してあげてくれるかしら?」

「かしこまりました」

 アイシェの要望を承諾したエスラは、さっそくお茶の用意をするために玄関から立ち去ろうとした。すると何かを思い出したらしいアイシェが、補足するように彼女に尋ねる。

「そうだエスラ、アイは今、どこに居るのかしら?」

「アイ様でしたら、リビングのソファで横になっておられます」

「そう、ありがとう」

 アイシェが礼を言うと、エスラは改めて玄関を後にした。

「アイ? スレイマンとエスラ以外にも、住み込みの使用人がいるのかい?」

 俺が尋ねると、アイシェは俺の手を取って邸宅の廊下を歩き始める。

「そう言えば、サイトは未だアイとは面識が無いのよね。アイは使用人じゃなくて同居人だから、ちゃんと挨拶してあげてくれるかしら?」

「同居人?」

 使用人ではなく同居人とは、果たしてどう言う意味だろうか。アイシェの兄弟姉妹、もしくはそれに順ずる親戚の誰かか、まさかアイシェの隠し子じゃないだろうなと俺は訝しむ。

「この子が、アイ。ほらアイ、サイトに挨拶なさい」

 やがてリビングに足を踏み入れたアイシェがソファで寝ていたアイを抱きかかえながらそう促すと、アイは俺に向かって「にゃあ」と鳴いた。つまりアイとは真っ白な毛並みが美しい短毛種の雌猫であり、寝ていたところを起こされたアイは不機嫌そうな顔でもって俺を睨み据える。

「なんだ、同居人じゃなくて同居猫か」

 アイの正体がアイシェの隠し子ではなかった事に、俺はホッと安堵した。すると俺が安堵している理由を知ってか知らずか、アイシェはにこにこと悪戯っぽく微笑みながら解説してくれる。

「猫を馬鹿にしてはいけませんよ、サイト。イスラームの世界での猫は預言者ムハンマドも愛した神聖な動物として、理由も無く傷付けたり殺したりしてはならないと、預言者の言行スンナを纏めた伝承ハディースにも明記されているんですからね? ほら、サイトもアイを撫でてあげてくださいな」

「よしよし、よろしくな、アイ。でも猫も嫌いじゃないけれど、子供の頃に実家で柴犬を飼っていたから、俺はどちらかと言うと犬の方が好きだなあ。……どうだい、アイシェ? 猫だけじゃなくて、これからは犬も飼ってみないかい?」

 俺はアイの頭や顎の下を撫でてやりながら、特に深い考えも無しに、純粋に犬が飼いたいがためにそう言った。するとアイシェは眉根を寄せ、怪訝そうな、それでいてちょっとだけ申し訳無さそうな顔をする。

「駄目ですよ、サイト。イスラームの世界では猫とは違って、サルーキ種を除く犬は豚と並ぶ、不浄で穢れた生き物とされています。ですから狩猟犬や番犬として戸外で繋いで飼うならともかく、ペットとして愛玩目的で家の中で飼う事、ましてや寝室やモスクに入れる事は許されてはおりません。……まあ、そうは言っても隠れてこっそり家の中で飼っている人も居るには居るのですが、我がバジェオウル家の様な世界のムスリムの手本となるべき公人に等しい一族の者であるならば、敢えて穢れた犬を飼うような危険な真似はしない方が得策でしょう」

「そうか、それは残念」

 ムスリムは豚肉を食べてはならないと言う事は重々承知していたが、犬までもが忌避すべき穢れた生き物とされている事は、流石の俺も今の今まで知らなかった。こんなに広い邸宅で自由気ままに犬を飼えない事は残念だが、やはり郷に入っては郷に従えと言う格言の通り、アイシェの助言に従っておいた方が得策だろう。

「それにしても、猫と犬とで随分と扱いが違うな」

「仕方がありません。伝承ハディースにそう明記されていますから、我々ムスリムはそれに従うのみです。……実を言うと、あたしもイングランドに留学していた頃は、友達が飼っている小型犬とよく遊ばせてもらっていたんですけどね」

 猫のアイを撫でてやりながら残念がる俺に、アイシェが悪戯っぽくほくそ笑みながら言った。どうやら彼女も、決して犬が嫌いと言う訳ではないらしい。

「サイト様、アイシェ様、お茶とお茶菓子のご用意が出来ました。こちらでお飲みになられますか?」

「ありがとう、エスラ。ええ、ここに並べてちょうだい」

 アイシェがそう指示すると、お盆を手にキッチンから姿を現したエスラが「かしこまりました」と言ってから、慣れた手つきでもってリビングのテーブルの上に紅茶の注がれたティーカップと菓子鉢を並べた。紅茶はイングランド風の濃いミルクティーで、菓子鉢の中のお茶菓子はゴディバかどこかの菓子メーカーのチョコレート。酔って火照った身体に、甘くてほろ苦いチョコレートの風味と、ミルクティーのまろやかな乳脂肪分が優しく染み込んで行く。

「ふう」

 リビングのソファに腰を下ろした俺は紅茶を飲み下し終えると、やけに広々とした邸宅の天井に向かって小さく嘆息し、人心地ついた。ソファの隣の席にはアイシェが腰を下ろしたまま俺と肩を寄せ合って、お互いの体温と鼓動を静かに感じ合う。

「俺達、本当に結婚したんだな」

「ええ、本当に結婚したんですよ。あたし達はもう夫婦なんですから、これからは寄り添い合って、いつまでも仲良く一緒に生きて行きましょうね」

「そうだな。……それじゃあアイシェ、お互いに隠し事はすべきじゃないよな?」

「? サイト、それは一体、どう言う意味でしょうか?」

 俺の言葉に、アイシェが不安げな顔をした。そこで俺は、今の今まで敢えて聞かずにいた禁断の質問を口にする。

「アイシェ、キミは今、何歳なんだい? 見た目からすると、俺よりも何歳か年上なんだろう?」

 清水の舞台から飛び降りるほどの決意でもってそう尋ねると、アイシェは眼をぱちくりさせながら、きょとんとした顔で呆けた。そして一瞬の間を置いてから、ぷっと吹き出して笑う。

「なんだ、そんな事ですか。あたしはてっきり、もっと深刻な事を聞かれるのかと思ってドキドキしてしまいました」

 アイシェはそう言ってくすくすと笑うが、俺は至って真剣だ。

「これでも一応、真面目に聞いているんだけどなあ。女性に年齢の事を聞くなんて失礼だと思って、これまでずっと聞かずに我慢して来たんだからさあ」

「そうですね、ごめんなさい、サイト。気を使っていただいた事を、感謝いたします」

 ようやく笑い止んだアイシェは、俺の質問に答える。

「ええ、確かにあたしの方が年上です。正確に言うと、先月あなたよりも五歳年上の二十八歳になりました」

「五歳年上か……」

「決して隠していた訳ではありませんが……。行き遅れた年上の妻は、お嫌いですか?」

 再び不安げな顔で、アイシェが尋ねた。

「別に、そのくらいなら気にもしないさ。俺の実家の母親も父親よりも年上だったし、それに日本には「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」って言う格言があるくらいで、姉さん女房の方が良好な夫婦関係が築けるって言うしね」

「そうですか。それを聞いて安心いたしました」

 ホッと安堵の溜息を漏らしたアイシェは、より一層俺に身を寄せながら告白する。

「本当の事を言うとですね、あたし、もっとずっと若かった十八歳の頃に一度、結婚し掛けたんです。ですがその縁談は、相手方の都合で破談になってしまって……」

 そう言ったアイシェは、少し寂しげだった。

「結局その後は良縁に恵まれず、それならばいっそ学問の世界で活躍しようかと思い、あたしはお爺様に頼んでイングランドの大学に留学させていただきました。そしてそこで、二十六歳まで勉学に励んでいたんです。しかしそれでも、いつか未来の旦那様があたしの前に現れてくれる事を、ずっと待ち望んでいたのでしょうね。サイト、今回あなたとの縁談をお爺様から持ち掛けられた時は、本当にあたし、嬉しかったんですから」

 アイシェは俺を、熱っぽく見つめる。

「サイト、本当にあなたを愛しています」

「ああ、アイシェ、俺もキミを愛しているよ」

 そう言った俺はアイシェの手を取り、彼女の唇に俺の唇をそっと重ね合わせて、半ば強引に彼女の口内に舌をこじ入れた。俺よりも年上であっても性的な経験の少ないアイシェの身体がビクッと震え、生まれて初めてのディープキスの快感に反射的に抗おうとする。

「サイト……」

「アイシェ……」

 俺とアイシェの二人はそのまま暫し、互いの舌と唾液の味と匂いと感触の生々しい温かさを思う存分にねぶり合う、真の意味でのキスの快感に溺れ耽った。そんなキスの快感から抗おうとしながらも抗い切れないアイシェの姿は二十八歳と言う実年齢をまるで感じさせず、十代の少女の様に初々しい。

「サイト様、アイシェ様、シャワーの準備が……あ、し、失礼いたしました」

 シャワーの準備が整った事を伝えに来たエスラが、濃厚なディープキスに耽り合う俺とアイシェの姿に驚き、そそくさと出て行ってしまった。

「アイシェ、シャワーの準備が出来たってさ」

 俺が重ね合わせていた唇を一旦離してそう言うと、アイシェは提案する。

「ふふふ、サイト、何でしたらこのまま二人で一緒にシャワーを浴びませんか?」

 くすくすと笑いながら、悪戯っぽくそう言ったアイシェ。どうやら彼女は冗談でもって俺をからかう腹積もりらしいが、むしろ俺にとっては千載一遇のチャンスと言えるのではなかろうか。

「よし、それじゃあアイシェ、これから一緒にシャワーを浴びよう!」

「ええっ? そ、そんな!」

 やはり先程の発言は只の冗談のつもりだったらしいアイシェは、驚きを隠せない。そして羞恥と困惑でもって美しい顔を真っ赤に紅潮させながら、おろおろと狼狽する。

「……冗談、ですよね?」

「冗談じゃないさ、アイシェ。結婚式を挙げた以上は俺達はもうれっきとした夫婦なんだから、夫と妻が一緒にシャワーを浴びたって、誰に責められる謂れも無いだろう? さあ、ほら立って! 俺は未だこの屋敷に来たばかりで勝手が分からないんだから、キミがバスルームまで案内してくれよ!」

「そ、そんな、恥ずかしいです! それに破廉恥です! 女が男をバスルームに連れ込むだなんて、恥ずかし過ぎます!」

 真っ赤な顔でそう言うアイシェは、どうやら本当に恥ずかしくて仕方が無いらしい。なんともはや、齢二十八歳にしてまだまだ可愛らしい、初心うぶな乙女同然の反応だ。そこで俺は更に調子に乗って、未だバスルームに到着してもいないのに、結婚式の正装として着ていたトルコの民族衣装のカフタンを脱ぎ始める。

「きゃっ!」

 黒い絹の布地に金糸の刺繍が施されたカフタンの下から姿を現した、ボクサーパンツ一枚だけの半裸の俺の肢体。それを眼にしたアイシェが驚いて、小さな悲鳴を上げた。

「どうした、アイシェ? キミだって、男の乳首を見た事が無い訳じゃないだろう?」

「それはそうですけど……そう言う問題ではありません!」

 そう言ったアイシェはぷいと顔を逸らし、そのまま唇を尖らせて眉間に皺を寄せながら、ぷりぷりと怒っている。どうやら羞恥に耐える彼女の姿が存外に可愛かったからとは言え、少しばかり調子に乗ってからかい過ぎてしまったらしい。

「ははは、ごめんよアイシェ。もう意地悪しないからさ。それに、最初に冗談を言ってからかって来たのはキミの方じゃないか」

「それとこれとは、別問題です! たとえ人前ではないとは言え、夫が妻を性的な冗談でもってからかうものではありません! 下品です!」

「だから、謝ってるじゃないか。……さあ、それじゃあ一緒にバスルームに行こう!」

 俺が改めてそう言いながらアイシェの手を取ると、彼女はきょとんとした表情でもって呆ける。

「え? そんな、だって、もう意地悪しないと言ったじゃありませんか!」

「そうとも、これは意地悪ではないし、ましてや性的な冗談でもってキミをからかっている訳でもない。仲の良い夫婦の夜の営みの一環として、純粋にキミと一緒にシャワーを浴びたいんだよ、アイシェ」

「……」

 暫しの間、アイシェは顔を真っ赤に紅潮させたまま眼を伏せ、ジッと無言で考え込んでいた。彼女なりに敬虔なムスリムの女性として、貞淑な妻として、また同時に一人の生身の女として心の中で色々と葛藤しているに違いない。しかしアイシェはやがて意を決したように顔を上げると、彼女の手を取った俺の手をぎゅっと握り返しながら宣言する。

「分かりました。一緒にシャワーを浴びましょう、サイト。どうせその後にベッドの中で互いの裸を見せ合う事になるのですから、シャワーを浴びるくらいの事で、恥ずかしがる必要などありません」

 そう言って強がってはみたものの、やはり初心うぶな乙女の様に顔を赤らめて恥ずかしがり続けるアイシェは、まるで十代の少女さながらに可愛らしかった。そして彼女と俺は一緒にバスルームでシャワーを浴び、その後は寝室のベッドの上で初夜を迎えたのだが、その詳細な一部始終に関してはアイシェの名誉のために今は割愛させてもらいたい。只一言、彼女は精神面だけでなく物理的な意味でも乙女であった事だけは、ここに明記させてもらおう。

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