第7話 家族以外の誰か③

 二時間目が終わって少し長めの休み時間の中、束の間の自由空間を漂っている学生の脇をすり抜けて、保健室を出た勢いのまま校門まで来た。不審者対策でぴしゃりと閉じられた門の合わせ目に体をねじ込みながら押し広げて外に出て、小走りに学校から離れた。


 梅雨空らしく分厚い雲が空を覆っていて薄暗い。今にも落ちてきそうな空を気にしながら走っていると、格段に体が軽くなっていることに気がついた。本調子ではないけれど、サイズの合わない鎧を脱ぎ捨てたかのように手足を動かせる。腹の調子もいい。短くてもぐっすり寝たのがよかったのだろう。夢見は良くなかったが……。


 俺は、その後姫を助けに仲間と魔王の砦に乗り込んで、魔王と相打ちになった……相打ちの筈だ。あいつの腹に突き刺してやったんだから。あれから姫はどうなったのだろう。無事に逃げられただろうか。逃げられなかったとしたら、余計に酷い目にあったりしているのではないだろうか。


 それに、俺たちの国はどうなったのだろう。俺だけでなく姫も帰ってこないとしたら、誰が魔物から国を守るのだ。また蹂躙されているんじゃないだろうか。俺が生まれたところのように、村には火が放たれ、人は奴隷として連れて行かれて、王都は神官たちの祈りの壁に守られていても、その外には神官たちの気力を尽きるのを待っている魔物たちに囲まれているんじゃないだろうか。でも、それを知るすべはないし、知ったところでどうしようもない。本当はあんな不安定な世界を抜け出せて、喜ぶべきなのかもしれない。


 だが、思い出してしまった。剣の重さも、魔物の荒い息の匂いも、滅茶苦茶にされた故郷の風景も、それを悲し気に眺めるカトレア姫の瞳も……。どうしようもなさが余計にいらだたせるのだ。これを忘れるためには、忘れられなくてもせめて夢の中のぼんやりしたワンシーンにするには、どれだけ感覚を麻痺させればいいのか。どれだけ体を痛めつければいいのだろうか……。


 俺は、無意識のうちに体を痛めつけて、転生前の記憶を捨てようとしていたのだ。しかし、例え足がすり減るまで走っても、胃が破裂するまで食べ続けても、寝ればそのうち夢に出てくる。もう忘れることなどできないのだ。


 大きなため息が何度も出た。歩調はいつもの歩く速度になった。鎧のパーツをまた拾って付けた気がしてきた。


 いっそロクシア国も滅亡して、同時に俺も死んで故郷の土になれればよかったのに。そうすれば、何も思い残すことはなく、きれいさっぱり次の人生を謳歌できたのにな……。


 雨が降り出した。重力に逆らえずにこぼれてきた大粒の雨が、ボトボトとアスファルトに落ちてきて、すぐに止んでしまった。


 雨すらも中途半端か──俺のイライラはほぼ頂点にきている。


 だから、薄暗いとはいえ雨の降る昼間に何匹かのコウモリに背後からたかられても、深く考えずに乱暴に払おうとした。団地と山の境目の道。ここは本当に自然が豊かすぎる。


 だが、コウモリは払っても払ってもぱたぱたと寄ってきた。

 こいつらも中身は魔物らしい。キーキーと微かな声しかあげないが、俺への敵意がむき出しだ。


「うるせえな! もう戦いは終わったのに。俺たちはあの世界の亡霊なんだよ。もうやめろよ!」


 一匹捕まえて投げた。ブン!と腕を振った時に手応えがあった。ついに捉えた! 真空の刃を。勇者の力が蘇っている!


「こいつができれば、てめえらなんざいい憂さ晴らしだ。何匹でも来い!」


 あちこちの草むらや木陰から小さい塊が湧き上がった。全部コウモリだ。そいつらが四方八方から俺めがけて押し寄せてきた。


 真空刃エアブレード!!


 俺は体の中から噴き出してきた力を腕に集めて、周りの空気とともに思いっきりぶん投げた。


 鋭く圧縮された透明な三日月刃が放たれ、目の前の小動物の塊を見事に分断した。


 俺の技が戻ってきた。


 右手と左手を交互に振って、横からの、後ろからの飛翔体を次々に両断する。


 腕が細いから往年の頃より刃は小さいが、今は的が小さいからかえってその方がいい。さっきの雨よりも激しく大量に落ちていく。コウモリの雨だ。


「どんどん来やがれ! この世からも魔物を追い出してやる。お前らと同じあの世だなんてまっぴらだ!」


 今度は自分から目の前の塊にダッシュして飛び込んだ。と同時に両手で真空刃を放つ。黒い壁がパッと飛び散った。


 溜まっていた憤りが笑気になって込み上げてきた。肩を揺らして、ワハハハハ!と大声で辺りに響かせた。俺の力が蘇ったことをこの辺にのさばっている魔物の亡霊どもに知らしめて、死んだことすら後悔させてやるんだ。


 もうコウモリは襲ってこなくなった。残った仲間で固まって上空で黒い煙のようにもやもやと飛んでいる。


 今朝の惨劇場所の手前の角に着いた。登下校の途中だから普通に歩けば自然に通る道だ。ドキドキしながらのぞいてみると、俺の放射能砲痕もカラスもきれいサッパリ無くなっていた。思わず手を合わせてしまう。ありがとう、ありがとう、真島家の使用人の人たち。こんなモノを始末することなんて、一生に一度もないはずなのに……。


 祈る俺の上空を何かが通る気配がした。目を開けると、薄暗い天気の中さらに黒い影が地面を過ぎていく。


「やはり勇者か。目障りな……」


 妖しげな呟きと共に、空を翼を広げた何かが飛んでいった。弱くても日光を背にしているので、顔や模様などは影になっているが、体のシルエットは人間のようにも見えた。


「待て!」


 俺は空飛ぶ影を追いかけて走り出した。勇者の勘が、あれがコウモリの親玉だと言っている。


 親玉は、近くの林に向かって飛んでいた。逃げ込む前に落としてやろうと、腕を振り上げて空に真空刃を放った。


 影は軽く身を翻してかわした。ザッと林の中の枝に捕まろうとする。その着地点に狙いを定めてもう一度放った。


 真空刃が影を散らす。散った小片が、一つ一つコウモリになって一斉に俺に飛びかかる。


 数が多くてかわしきれない。思わず身を丸めた俺にコウモリが次々に噛み付いた。


「いてててて!」


 夢中で手足や頭を動かすが、払いきれない。全身真っ黒だ。薄目を開けると、枝にあの影がいる。翼を揺らしながらこっちを見ている。真空刃は当たってなかったのか? 余裕で笑っているみたいだ。辺りの空間にささやくような声が、しかし、はっきりと耳に聞こえてきた。


 ──出て行け。死んでまた別の世界に飛んで行け。我々の安息を邪魔するな……。


「ちょっかいかけてくるのはお前らだろう。手前らこそ大人しくしてろよ」


 ──世界は変われども恨みは晴れず。下等な人間の狭間で生をなす、その屈辱がさらに身を焦がす地獄。その炎を消す。邪魔をするな……。


 全身の力が抜けてきた。血を吸われているみたいだ。立っていられなくなって、膝をついた。どんどん増えてくるコウモリの重さで手も持ち上がらない。


 死ぬかもしれない……ぞっとする結末が頭に浮かんだ。ミイラになった俺。さっき聞いた真島の言葉も浮かんだ──勝てば官軍。勝たなくては、次はない──


「助けてー! 誰か助けてください!」


 あらん限りの力で叫んだ──つもりだった。体の中では声は響いている。しかし、外には響かない。スイッチの入っていないマイクだ。口もとを覆うコウモリをなんとか払ってもう一度叫んだ。


「助けてください! 死ぬ! 火事だ! 泥棒だぁ!」


 声は出なかった。家もまばらな団地とはいえ、声を出せば聞こえない事もない。でも、肝心の声が出なかった。


 ふと、昔、話に聞いた魔物のことが頭に浮かんだ。血と言葉を吸い取る魔物。幻影も使う。糧の生き血を求めて、闇に引き込まれて吸われる間どんなに叫び声を上げても仲間に届くことはない──ノイズキャンセラーと呼ばれる能力。


 意識が朦朧としてきた。地面に倒れこんだ。まだまだコウモリがのしかかる。もうどこを噛まれているのかもわからない。


 また死ぬんだ──そんな思いも気だるく感じ出したその時、コウモリがわさわさと離れだした気配がした。


「めんどくせぇなぁ。なにやってんだか」


 ヒューッと空気がなる。ぎゃあー!と人とも動物ともつかない鳴き声が聞こえた。


 ──これで済んだと思うな。我々には、切り札がある……


「とっとと消えろ」


 再び鳴き声がした。助けが来たようだったが、俺は確かめられなかった。


 寝る時は暗黒だったが、今度は白い空間に上っていく気がした。




 ゆらゆらと揺さぶられているのだろうか……。微かな振動。血液が流れる鼓動も伝わってくる。


 胸や頬が当たっているところが生暖かくて、少し湿った布の肌触りを感じる。そして汗臭い……つい顔を背けてしまった。


「起きたか」


 さっきの男の声がした。


「ヴァンパイアサイレンの幻惑にかかったんだ。後にたかっていたコウモリは幻だ。お前が気を失ったところを連れ去って、ゆっくり血を吸うつもりだったのかな」


 誰だ……。小さく尋ねたつもりだったが、また声にならない。これは、口が思うように動かせなかったからだ。


「まだ幻惑の影響が残っているだろう?  ちっと回復魔法もかけたからよ、しばらく寝とけばじき覚める……けっこう重いなぁ、俺より小さいくせに」


 手足の感覚がジワリと戻ってきて、初めて誰かにおんぶされているのがわかった。


 誰だろう。声は低くて聞いたことのない大人のものだ。骨張った痩せた背中をしている。重い瞼をなんとか持ち上げると、ヨレヨレの黒い背広越しに俺の家の喫茶店らしい建物が写った。


 俺を背負った男は、店の裏側にまわり、裏口の門を足でけって入ると、庭の芝生の上にしゃがんで俺を下ろした。俺はまだ立てなくてそのまま転がった。庭にはガーデニングが共通の趣味である父さんと母さんが手がけた草花が青々と繁っている。まだ全快しない視覚にも、紫陽花の紫色がぼんやり染みた。


 ドサっと俺のカバンとスポーツバッグが投げ落とされた。男はすぐに背を向けて歩き出した。顔は見れなかった。ボサボサの頭に長い手足がひょろりとスーツから伸びていた。


「ボランティアはここまでだ。ウェルスによろしくな」


 ああ! 鈍い頭の奥で火花が咲いた。こいつはジェイルだ。あいつは、俺たちよりウェルスと仲が良かった。


「やっぱり……ウェルスだと……思うか?……」


 まだ重い唇を必死に動かして呼びかけた。男は止まったが、振り返らなかった。


「あれだけ似てるんだから、きっとそうだろ。じゃあな」


 ジェイルらしい男はさっさと行ってしまった。前からそんな風のようなやつだった。ジェイルであることに確信が持てた。


 どのくらい転がっていたかはわからない。そんなに長くはなかったはずだ。ゆっくり深呼吸をしながら目をぱちぱちしていると、隅々まで血が廻って体が動かせるようになった。視覚も元に戻ってきた。


 起き上がってからどうしようかと考えていると、父さんが片手にじょうろを持ってやってきた。


「勇也! どうしたんだ、そんなところで」

「いやぁ、早退してきちゃったよ。気分悪くて……」

「そんなところで寝てちゃだめだろう。早く入りなさい」


 父さんに支えられながら二階の家に上がり、自分のベッドに転がった。そこからはほんとにぐっすり寝た。夢も見なかった。


 目が覚めたのは夕方遅くだ。暗い部屋で電気もつけず、布団の中でゴロゴロしていた。母さんが夕飯の支度をする音が聞こえる。


 玄関のドアが乱暴に開けられ、バタバタと廊下を誰かが走ってきた。こっちへ来る。


 バン! と俺の部屋のドアが吹き飛ばされたように開いて、セーラー服を着た仁王のような形相の舞が入ってきた。


残像ディレイステップ! か~ら~のぉ~、残像ディレイスターンプ!」


 分裂した舞が空中に飛び上がり、それぞれが俺に膝を落としてきた!


「おわあぁぁぁー!」


 間一髪、戻った勇者の勘でなんとか避ける。着地した舞は俺の襟をつかんで叫んだ。


「なんんんで『ひめー!』って叫びながら女子生徒に抱きつくの! あんたバカなの! バカなの! 学校中大騒ぎになったわよ!」

「してないしてない! 抱きついてなんかいない! 姫って叫んだだけだ! だきついてなんかいない!」


 ガチャーンと金属音がして、お玉を落とした母さんが入り口で立ちすくんでいた。


「やっぱり……勇也……記憶と一緒に、大人になったんだわ……」

「違うって、誤解だって。そりゃ、中身は大人に戻ったかもしれないけれど……」

「これからおっさん一直線なんだわ……ひげ濃くなって脂っぽくなって、エロサイト見て『このおっぱいがいいなぁ。母ちゃんのなんかしぼんで目もあてられねえや。うへへへへ』とか言い出すんだわあぁー!」

「なんでそうなる!……ってか、それは『息子』じゃなくて『夫』のセリフじゃないか? 息子ならいい変態じゃないか!」


 ふん! と舞は俺をベッドに投げ捨てて、母さんの方に向き直った。


「変態というか、りっぱにエロかったよね」

「そうね、エロかったわ」

「そ、そうかもしれないけど。でも、姫一筋だったぞ」

「うそ。『勇者さまステキ~』って寄ってくる子に鼻の下のばしてた」

「ええ、のばしてた。そして、何回か連れて行ったわ」

「レグルス! てめえだって!」


 母さんはウインクして、拳で肘をまげて脇を閉めたぶりっ子ポーズを決めた。


「今はかわいい奥さんなのおー。ちょっぴり今流行りの筋肉女子なだけなのおー」


 昔と今の姿が重なって頭が痛くなってきた。なんなんだ、いったい。俺よりすね毛が濃かったくせに。


 舞は腕組みして俺を見下ろしながら言った。


「安心しなさいよ。立川先生があんたの潔白を証言してくれたら。でも、先生の言うことなんか信じない子も多いからね。一部の女子には『変態魔王』と呼ばれてゴミ扱いよ。あたしは『変態魔王』の妹なんてごめんだからね! この世界では、平穏無事に暮らしたいんだからね! 」

「あたしも『変態魔王』の親はごめんだからね。さっき学校から『事故の後遺症が残っているんじゃないか』って電話がかかってきたのよ。元から夢遊病の気があったって言っといたけれど」


 二人は息をそろえて怒鳴った。


「「とにかく! 気をつけてよね!」」

「は、はい……」

「舞、ご飯にしましょ」

「まったく……真島先輩の垢か汗を煎じて飲ませてやりたいわよ」


 二人はブツブツ言いながら出て行った。


 どう気をつけたらいいのか、寝なきゃいいのか……訳が分からなくなって俺はもう一度ベッドに倒れこんだ。


 こんなドタバタのお陰で、ジェイルのことは言いそびれてしまった。

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