6.宴

 銃を戻しに黒猫ホテルへ戻り、タクシーでガリバルディ通りのファシスト党支部の前までやらせた。

「党本部まで人を送るのは旦那で五人目だよ」運転手が言った。

「何か特別なことでもあるのかな?」

「あれ? 旦那知らないんで? 今日のパーティにはデ・ヴェッキ閣下がやってくるそうで」

「それは知らなかったな」

 アンジェロは次々と流れ去っていくショーウィンドウを眺めながら答えた。パナマ帽、シルエットドレス、自転車、アメリカ製チョコレート・シロップの缶詰ピラミッド。

 C市のファシスト党支部はジュセッペ・ガリバルディ大通りにあり、棕櫚樹を植えたその広大な車寄せには馬車や自動車がキラキラと金具を輝かせ、トルコ帽をかぶった黒シャツ隊の軍楽士たちが王室行進曲を演奏していた。男たちは勲章を胸に飾ったタキシードやベルサリエリ連隊の大佐の軍服、青の綬をかけた黒シャツ隊の幹部礼装、女たちは肘まで隠れる手袋に背中を大きく出したドレス、あるいはコロニアル・スタイルと呼ばれる袖をゆったり取ったブラウス風のドレスに様々な宝飾を身につけていて、それが彼女たちの肌の白さをさらに際立たせていた。

 ジョヴァンニ・ロアッタは昼間に出会ったままの格好で、正面柱廊の柱の一つに寄りかかっていた。アンジェロの姿を見つけると嬉しそうに手をふって、こっちに来るようしきりに手招きした。

「ほんと助かったぜ」ジョヴァンニ・ロアッタは声を潜めて言った。「ここに集まった連中ときたら、みんな豚のケツみたいなやつらばかりでね。どいつもこいつも偉そうな面した空っぽ野郎どもだ。でも、ジョヴァンニ、我慢だ。我慢すれば女のケツを好きなだけ追っかけられる、我慢だ、我慢。そう言い聞かせてたところなんだ」

「僕は場違いなようだね」アンジェロは自分の服の襟を軽く指で弾いた。「こんな公園を散策するような服で来たのは間違いだったかな?」

「気にするな。連中は服なんてろくに見てない。見るのはケツばかりさ。なかに入ろうぜ」

 黒シャツの召使いがリストを持っていて、招待客一人一人の名前を高らかに声を震わせて呼び上げていた。

「ラッファエーレ・ファーラ下院議員閣下、及びファーラ夫人」

「パトリツィオ・ディ・プリアーモ伯爵閣下、及びディ・プリアーモ伯爵夫人」

「ジュセッペ・フランチェッティ少将閣下、及びフランチェッティ夫人」

 ジョヴァンニ・ロアッタはアンジェロの名前を書き加えた招待状を召使いに差し出した。

「ジョヴァンニ・ロアッタさま、及びアンジェロ・ボンヴェントレさま」

 アヤ・ソフィア大聖堂のような巨大な円天井に二人の名前がきんきんに響いた。天井にはイエス・キリストの祝福を受ける馬上の〈統領〉が剣をまっすぐ真上にかかげているフレスコ画が描かれている。次々と歌うように上げられる名士たちの名前は広大な空間に吸い込まれていった。

 名士たちに囲まれてご機嫌なのはC市のファシスト党支部長のザッカリーア・ロンバルドー将軍だった。前世紀スタイルの大きい白鬚をいっぱいに生やした、よく肥えた陸軍大将で現在は黒シャツ国防軍の司令官の制服を着てご満悦だった。以前、彼のかぶっていたケピ帽の鷲は胸に盾を抱き、頭には王冠を戴いていたが、現在の彼の黒いトルコ帽にはめ込まれた金の鷲はただファッショ・リットーリオをつかむのみであった。それの意味するところは彼の忠誠はサヴォイア王家から〈統領〉へと移りつつあるということだった。ファシスト党支部長の前には市長も商工会代表もへいこらした。彼はイタリアの意思決定最高機関であるファシスト大評議会の評議員の一人であり、C市一の権力者だったのだ。大戦後、ロンバルトー将軍は失業した兵士たちを集めて嘆願運動のための団体を作り、それをうまい具合に国粋主義団体に作り変えて、全国で起きている工場ストライキや小作争議を叩き潰してまわって、その謝礼金で食っている現代の盗賊騎士とも言うべき輩だった。彼はローマ進軍の後には〈統領〉を支持し、宮殿や首相官邸を包囲して圧力を与え、〈統領〉への禅譲を迫った。その功績が認められ、彼は今の権力を手に入れたのだ。

「ケツの穴野郎の親玉だ」ジョヴァンニ・ロアッタは笑顔で唇を動かさずにこっそり教えた。「制服を軍服から黒シャツの服に変えた途端、ぶくぶく太り始めやがった。おっ、見ろ。あっちから来る婆さんども。ありゃあファシスト党の婦人部だ」

 ボルサリーノの中折れ帽を被り、黒いスカートにダブルブレストの黒のジャケット、青い綬をかけた老婆たちがローマ式敬礼をし、ロンバルトー将軍に敬意を表した。

「おそるべきババア軍団」ジョヴァンニ・ロアッタは評した。「あいつら、たぶん処女だな。男を知らねえであんなに歳を食っちまったんでなきゃ、ファシストの婦人部なんかに好き好んでなるもんか。あいつらが夢に見てるのは〈統領〉があいつらをレイプしてくれることだ。でもよ、こう言っちゃなんだが〈統領〉にだって選ぶ権利があるぜ。見ろよ、あの面、どいつもこいつもひでえ面ばっかし。機関車と正面衝突したようなご面相じゃないか」

 ジョヴァンニ・ロアッタはアンジェロを部屋の端のビュッフェへ引っぱって、そこで小海老のカクテルを二つ手に取り、アンジェロに一つ渡した。ジョヴァンニ・ロアッタはカクテル・ソースをたっぷりつけた小海老を一口でパクリとやると、しばらく噛んだ後、礼儀作法もくそくらえとばかりに海老の尻尾をぺっと吐き出した。

「いいかい、アンジェロ。ほんとの宴会はこんなサン・ピエトロ大聖堂もどきでやるんじゃない。フリーメーソン風乱痴気パーティーがあるんだ。そこじゃヘリオガバルスもびっくりの変態ショーがあって、酒も女も飲み放題ヤリ放題ときている」ジョヴァンニ・ロアッタはそこで言葉を切って、吐き出し損ねた海老の尻尾の残骸をペッと吐き出した。千切れた尻尾は黒シャツ隊百人隊長の背中にぴったりくっついた。ジョヴァンニ・ロアッタはせせら笑った。「まるで悪夢さ。あそこで行われてることは」

 かつてシナの皇帝の目覚ましに使われていたといわれている銅鑼の音が鳴り響いた。

 黒シャツの召使いは円天井の広間にやってくると、甲高い声を上げ、特別な来客の到来を告げた。

「ファシスト党の最高幹部〈四人官〉の一人、上院議員にしてソマリランド総督、ファシズム大評議会終身評議員、ファシズム党共同設立者チェーザレ・マリア・デ・ヴェッキ閣下のお成りです!」

 黒シャツ音楽隊がジョヴィネッツァを吹き、そして最高の賓客のためだけに開かれることになっている重々しい扉が開いて、デ・ヴェッキが現われた。彼は黒シャツ隊の制服ではなく、リボンや房飾りがごちゃごちゃつけられたソマリランド総督の大礼服を身につけていて、白い羽毛がシャンパンの泡のように噴き出している二角帽をかぶっていた。後ろには丈の高いトルコ帽を被った黒人の従僕が二人ついてきていて、チョコレート色の素足で歩いてチェスボード模様の大理石の床をペタペタと音を鳴らしていた。デ・ヴェッキが帽子を取ると、黒人の一人がうやうやしく受け取ったのだが、帽子を取ったデ・ヴェッキ閣下ときたら、カイゼル鬚を生やしたゆで卵にしか見えず、もしヴァニティ・フェアーがまだ発行していたら、風刺画家の餌食にされること間違いなしの笑いを誘う容貌をしていた。

 デ・ヴェッキ閣下とロンバルドー将軍はお互いに抱き合って頬に口づけをし、そして、賓客たちのほうへ向き直ると、〈統領〉万歳! エイヤ、エイヤ、アララ!と大声で叫んだ。賓客もそれにならって、〈統領〉万歳! エイヤ、エイヤ、アララ!と叫んだ。ジョヴァンニ・ロアッタも精いっぱい叫んだが、まるで上演中のオペレッタに茶々を入れるような表情をしていたので、広間に一人でも観察好きの黒シャツがいれば、この若者が心のなかでは〈統領〉とファシスト党をコケにしていることを簡単に見抜けただろう。だが、幸い黒シャツの注意はジョヴァンニ・ロアッタではなく、その隣にいたアンジェロに向いていた。彼はローマ式の敬礼をせず、黙ってペリドット色のカクテルを飲んでいた。黒シャツはこの無礼で場の空気を読めない若者に一つ喝を入れてやろうと近づいた。色男は何をしても許されると勘違いしている若僧にファシスト流のやり方で愛国心を叩き込んでやる。そう意気込んだ黒シャツだったが、アンジェロに近づくと叩きつけてやろうとしていた言葉が喉の奥で凍りつき、何もできなかった。というのもアンジェロは良心の呵責なく人の喉を掻き切ることのできる人間特有の千里眼の目を黒シャツに向けたからだ。アンジェロの目は黒シャツのはるか彼方にある十字架の列を見ていた。蛇に睨まれた蛙のように萎縮した黒シャツは何も言わず、何もせず、デ・ヴェッキ閣下を讃える居心地のいい多数派のなかに戻るべく、その場を後にした。

 三十分間は賓客たちは円天井大広間でシャンパンを飲み、チーズと串刺しにされたオリーブを食べ、上品な会話を交わして、自分たちは上流階級の人間なのだということを再認識して悦に浸っていた。そのあいだにも黒シャツの召使いは次々とやってくる賓客の名前を呼び上げた。すると、アンジェロは一つ奇妙なことに気がついた。客が次々とやってくるにも関わらず、円天井の大広間には常に一定の人数しか人がいないのだ。

「いいところに気がついた」ジョヴァンニ・ロアッタが言った。「じゃあ、早速地下に行ってみよう」

 アンジェロとジョヴァンニ・ロアッタは長椅子が一つだけ置いてある廊下や石造りの中庭を通り過ぎていった。建物のなかに小さな森があり、その篝火の焚かれた小道では帽子に雉の羽根を差したアルプス猟兵が捧げ銃の姿勢で柱のように立っていた。兵士たちは篝火の灯が届くわずかな範囲の脇に立っていて、銃やベルトの金具が赤くギラギラと光っていた。篝火の道は森のなかの小さな祠につながっていた。すべすべした大理石の柱に切妻型の屋根がついた建物でなかには磨き上げた銅の扉が見えた。ジョヴァンニ・ロアッタは扉の横にある二つのボタンのうち下にあるボタンを押した。扉が開いた。エレベーター・ボーイの赤い制服を着た腰の曲がった老人が現われて、押し黙ったまま二人が乗るのを待っていた。二人がエレベーターに乗ると、老人は何も言わずに扉を閉めて、レバーを下降側に押した。エレベーターは床は真紅のビロード、壁はマホガニー、天井には鉄砲百合のようなガラスの傘のライトが灯っていた。三十秒以上、下降を続け、老人はエレベーターを止めた。扉を開けると、二人は暗い地下道に降りた。老人が扉を閉めると、二人が当てにできる明かりは廊下の壁を穿って作った小さな穴に置かれた灯明皿のみになった。それでも二人は暗闇のなかを安全に進むことができた。床はすべすべしていて一切の突起物は存在しなかったし、しばらく進むと中くらいの四角い光が見えてきた。そこからは発電機のまわるグウングウンという音や楽しそうな声が聞こえてきた。左右の廊下の壁には小さな穴が開いているらしく別々の部屋で演奏されている様々なジョヴィネッツァが聞こえてきた――オーケストラのジョヴィネッツァ、手回しオルガンのジョヴィネッツァ、室内四重奏のジョヴィネッツァ、ラグタイム・ピアノのジョヴィネッツァ、パイプオルガンのジョヴィネッツァ、アイルランド風コミック・ソングのジョヴィネッツァ、聖歌隊のジョヴィネッツァ、黒人ジャズバンドのジョヴィネッツァ、カストラートのジョヴィネッツァ――。

 十分ほど歩いて、二人は大きな広間に辿り着いた。そこは中央にバラの花びらで満たした浴場があり、裸になった男女がそこでお互いの体の最も秘密とされる部分をなでたり、指で弾いたりして、笑いあっていた。プールサイドにはローマ風のトーガを着た男たちが寝椅子に転がり、トルコのレスラーのように屈強な男にマッサージさせながら、美少年が口まで運ぶ葡萄やオレンジを物憂げに食べていた。上着を脱ぎ、黒シャツの裾をズボンから出してズボン吊りをだらしなくぶら下げた男は大理石の丸いテーブルに粉末コカインの線を作り、一リラ札でつくった円筒で一気にコカインを吸い上げた。目をパチクリした後、机に残っているコカインに鼻を直にくっつけて、ずるずると吸い尽くした。

 ゴヤの描いた熱に浮かされたような妄の世界が次々と二人の前に現われた――ガーゴイルの衣装を身につけて絡まりあう二人の少年、頬と口髭に白粉をたっぷりかけて口紅をして女装しようとしている太った大佐(肩章付きの上着が椅子に乱雑にかけてあった)、鍵穴から覗くのでないと性的要求が満たされない倒錯者たちのために用意された特別大きめの鍵穴をつけた扉とその向こうでの乱痴気騒ぎ。

 兵舎のように長い部屋では翡翠をはめこんだ中国式の寝台が二百ほど並んで、薄暗い豆ランプの光が阿片キセルに口づけする男女の姿を浮かび上がらせていた。その寝台のあいだの闇のなかを年老いた中国人がわざと小さな足音をパタパタ立てながら(阿片で気分が舞い上がっているときは中国靴で小刻みに歩く音がとても愉快に聞こえるのだ)、客に茶を出したり、炙った阿片の小さな玉をキセルの火口に入れたりしていた。

「なるほど」アンジェロは言った。「こいつはひどい」

 ジョヴァンニ・ロアッタはアンジェロが自分と同じ考えに到達したことが心底嬉しかったらしく、彼は自分たちも享楽に身を投じようと言って、アンジェロを置いて、美女が十人、宙吊りにされた十個の巨大な鳥籠に入ってみだらに男たちを誘いかける部屋へと走り込んだ。そこは〈観賞室〉と呼ばれている場所でジョヴァンニ・ロアッタはタイツだけしか身につけていないブルネットの娘の気を引こうと指笛を吹いていた。

 アンジェロは気乗りがしなかった。阿片も娼婦も果物も美少年も手を出そうという気にはなれなかった。彼は別にストア派哲学の信仰者ではなかったが、頽廃に傾けば、トト・フェリーリョに見舞った運命がやってくることを知っていた。ここは快適などころか、ひどく息苦しく、アンジェロはもうこんなところには居たくないと思い始めた。

 小人たちの部屋に入ったときはアンジェロはこの地下の瘴気めいた空気を吸い込みすぎて幻影を見ているのかと思った。小人たちはみなイタリア国王の顔をしていた。裸のイタリア国王が太った女二人とベッドでもぞもぞ動いていた。二人のイタリア国王が阿片とコカイン、どちらがより素晴らしいかを論議していた。かと思えば、一部の隙もないイタリア国王が礼服姿で柱に背を預けて、キアンティの芳香を楽しんでいた。裸になったイタリア国王と少年たちが追いかけっこをしているかと思えば、目隠しをしたイタリア国王が日本のキモノ一枚を纏っただけの娼婦たちのあいだを彷徨っている。

「どういうことだ?」アンジェロはたずねた。

「みんな影武者だよ」ジョヴァンニ・ロアッタは答えた。「ひょっとすると本物も混じってるかもな」

「どうしてこんなことを?」

「先代の国王が無政府主義者に撃ち殺されたのはきみも知っての通りだ。それで暗殺を恐れた国王は無政府主義者対策として五人の影武者を用意した。そいつらを自分の代わりに公式な行事に出席させるわけだ。イタリアが世界大戦に参加することになると、影武者の数は十五人に増やされた。国王の影武者たちは大忙しだ。イゾンツォ河の最前線でライフルを手にして、敵の塹壕に銃弾を撃ち込むかと思えば、アルプス戦線で標高三千メートルの氷河につくったトンネル陣地でアルプス猟兵たちと一緒に魔法瓶に入れたコーヒーを飲む。かと思えば、フランダースに行って、のっぽのベルギー国王と一緒に並んで、いかにしてドイツ人を叩き潰すかの相談をする。戦争が終わって、イタリアじゅうで労働者たちが赤旗を振り回すと、今度は共産主義者対策で影武者の数が二十五人に増えた。ボルシェヴィキがロシア皇帝を殺したのなら、イタリアもそれに倣うべきだと言う連中が大勢いたからね。そして、いま、影武者の数は五十人に増えた。ファシスト党は力を持ちすぎた。〈統領〉は今でこそ首相の地位で満足しているが、そのうち自分を国王に仕立て上げようと黒シャツをそそのかすかもしれない。実際の話、黒シャツ隊のなかには〈統領〉から直々に国王に鉛弾をお見舞いしろと命令されたら、喜んでぶっ放すやつが結構な数いる。それを考えると影武者の数は百人でも少ないくらいだ」

「よくこれだけ集まったな」

「〈統領〉みたいな顎の持ち主を五十人探すよりはずっと楽さ。こいつらはみんなカラブリア出身だ」

「カラブリア?」

「あそこの山奥じゃあ、育ち盛りの子どもたちはパンもろくに食べられない。そして、栄養失調の少年たちは成人したころには小人みたいにちっこくなる。ちょうどイタリア国王と同じくらいの背丈にな。まあ、国王がチビなのは高貴な血は薄めてはならないというヨーロッパ王室ご自慢の近親相姦が原因だが、この場合、別に過程は求められていない。大切なのは結果だ。イタリア王室の侍従のなかに毎年カラブリアに言って、イタリア国王そっくりのじいさんがいないか探してまわる専門家がいる。そいつは毎年、この世の楽園を約束して、ここに連れてくるわけだ」

「で、これが楽園?」

「パンもろくに食えないんだぜ? そこに比べれば、ここはまさに天国じゃないか」

 ジョヴァンニ・ロアッタは阿片を一本吸ってから〈観賞室〉で女たちを眺めにいくと言い残して、さっさと来た道を戻ってしまった。一人残ったアンジェロはイタリア国王だらけの大部屋で手持ち無沙汰にうろついた。

 大部屋にはいくつもの個室があるらしく、そのなかでもやはり人間の持つ想像力の全てを注ぎ込んだ乱痴気騒ぎが行われていた。美女に鎖を持たせて、自分は犬の首輪をつけ、四つん這いになってはっは、と舌を出す紳士がいれば、〈コカインの女王〉を自称するスウェーデン人女優がいたし、裸の美少女と美少年の写真を全ての壁にべたべた貼りつけて、その部屋もなかで空ろな顔をしてぐるぐるまわりつづける枢機卿もいた(真っ赤な帽子ですぐに分かった)。

 それら小部屋の一つで見覚えのある男を見つけた。昼間、フロリアノ・マトスと訪れた聖ドメニコ教会のミミズクのような司祭だった。司祭は熟睡中で左右に裸の美少年をはべらせていた。三人とも阿片チンキをやったらしく、ちょっとやそっとのことでは起きそうになかった。そういえば、アンジェロは夜になったら、この司祭を殺すつもりだったことを思い出した。アンジェロなりの慈善事業のつもりだったが、今の彼にはそんな気力はなかった。そんなことよりも、この不愉快な地下世界から脱出したかった。それでも何もしないでいるのも良くない気がしたので、彼は司祭が頭を預けている枕に『神は常に見ている』という意味深なメッセージを書いた紙を近くに転がっていたスペイン製の短剣でぶすりと刺して留めておいた。どう捉えるかは司祭次第だ。イタリア国王たちが飛んだり跳ねたり宙を舞っている部屋に戻ると、アンジェロははあはあと荒い息をつき、自分がどうやってここまでやってきたのかも忘れてしまっていた。ジョヴァンニ・ロアッタもいない状態でどうやって出口へ戻れるだろうか?

 そんなとき、サヴォイア竜騎兵連隊の連隊長の服を着たイタリア国王もどきがアンジェロにたずねてきた。

「あの――」国王もどきはアンジェロが自分のほうに顔を向けると次の句を継いだ。「何かお困りのようですな」

「ええ」アンジェロは言った。「ここを出たいんです」そして、彼は眼を閉じた。

「わかりますよ」国王もどきは言った。「ここの空気は最悪ですからな。あなたはここに来られるのは初めてですな?」

「ええ、その通りです」

「ここにはお知り合いの紹介がなければ来れないはずですが……」

「その知り合いはたぶん阿片で夢のなかです」

 アンジェロはがっくりと頭を落とした。まるで頭が鉛でできているように重かった。国王もどきはフムとうなずいた。

「もし、よろしければ、わしが外までお送りしましょう。ファシスト支部の外へ出る抜け道を知っておりますから、そこから街に出て、夜風に当たればきっと気分はよくなるでしょうな」

「そうしていただけると」アンジェロは息も絶え絶えに言った。「助かります」

 国王もどきは竜騎兵のサーベルをがちゃがちゃ鳴らしながら、アンジェロの手を取り、まずイタリア国王の間から外の廊下に出て、左に曲がって、そのまま廊下を歩いていった。ついさっきまで洞窟のような廊下を歩いていたのが、いつのまにか床も壁も天井も大理石でできた天井の高い廊下を歩いていた。箱馬車が十台横並びに走れるくらいの大きな廊下でローマにある〈統領〉の宮殿の廊下よりもはるかに立派な廊下だった。というのも天井と壁の燭に灯された数千の火が磨き上げられた大理石に移って十万か二十万ほどに増えて、廊下中が暖かい光に満たされていたからだ。廊下の端で前後不覚に酔っ払った紳士が鼾をかいて寝ていることを抜かせば、ヨーロッパでも五指に入るであろう申し分のない廊下だった。廊下にいるのはアンジェロと連隊長の格好をした国王もどき、そして、ときどき自転車で走ってくるメッセンジャー・ボーイくらいのものだった。彼らはみな青い制服を着て、革製のゲートルを脚につけ、火を吹く爆弾の紋章がはめこまれた革の書類カバンを肩から提げて、六月のつむじ風のように疾走していった。

 これだけの廊下でありながら、空気は依然として淀んでいて、アンジェロを苦しめた。国王もどきは巨人の背丈ほどある細長いドアを開けて、アンジェロをなかに導いた。

 天井は高いが、壁は冷たく苔の臭いがする石の壁に変わり、光のほとんどが失せてしまった。そこは数百の事務机を並べた部屋で、机一つにつき菜種ランプが一つ支給されていて、その灯がオーストリア=ハンガリー軍の野営地の焚き火のようにどこまでも広がっていた。机には十七世紀のオランダ商人のような地味な身なりの男たちがいて、小さな灯のなかで猥褻な絵や写真を虫眼鏡で熱心に眺めていた。これまで見た部屋のようなあからさまな恥戯と違って、この部屋の男たちは修道僧のように黙々と写真を眺めていた。

 狂気ここに極まれり。そう思ったアンジェロは国王もどきにたずねた。

「よくこんな環境で暮らしていけますね」

「失礼ながら、あなたはカラブリアという土地をご存知ではない」国王もどきは言った。「あそこにいるかぎり、わしらのような百姓は決して豊かになりゃせんのです。頑張って仕事して三十年がかりでちょっとした財産とも呼べる小金が貯まると、この身を山賊にさらわれて、三十年かけて貯めた金を身代金として持っていかれるんです。それにたとえ、山賊が持っていかなかったとしても、政府と教会がやれ固定資産税だ、やれお布施だのと言って、結局、わしらのささやかな財産をむしりとっていってしまう。それに比べれば、ここは天国ですよ。山賊も教会も固定資産税もありませんからな。しかし、不思議なのは大地主たちはどうして固定資産税で破産しないのでしょうな? あれだけの土地を持っていれば、相当な固定資産税を払わされるはずなのに」

「たぶん払っていないんでしょう」

「たぶんそうですな。金持ちはいつだって税吏を黙らせる手を心得ているものです。カラブリアに未練があるかと言われたら、まったくないと答えますよ。アスプロモンテ山はアルプスのように雪をかぶったりしません。白茶けた土にひん曲がった潅木が点々と生えているだけで、あの土地の空しさ、苛立ち、貧しさをまるで象徴しているかのようでした。村のどこにいても、あの貧弱なアスプロモンテ山が見え、それがわしらが幸せになるのを押さえつけて、妨げるのです」

 国王もどきは奥のドアを開けた。そこは一筋の光もない暗闇の世界だった。

「この暗闇のなかを適当に進んでいけば、いずれ町に出られます」

「どっちの方向へ行けばいいんです?」

「どこでもいいんです。では。お別れです。わしは外へ出ることは許されていないのでしてね」

 アンジェロが外に出ると、後ろで扉が閉まった。完全な暗闇。曇り空の夜を歩いているのか、巨大な空洞を歩いているのかも分からないが、淀んだ空気はまるで潮が引くように失せた。それで少し元気を取り戻すと、アンジェロは目の前に塞がる闇のかたまりへと足を踏み出した。

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