* 暗闇のなかの誰かさん

「つまりね、ジプシーのおばあさんが言うには、もしボクがアルトゥーロに会いたいならヴェトラーノ砦に行けっていうんだ。アルトゥーロが死んでいるのなら、間違いなくヴェトラーノ砦にいるんだって。逆にアルトゥーロがいなかったら、アルトゥーロは生きてるってことだよね?」

「ヴェトラーノ砦というのは」暗闇のなかの誰かさんは、ポルトガルっぽい訛りのイタリア語できいてきた。「午砲を撃つあの丘の上の砦のことか?」

「うん。この町で一番高いところにある砦だよ」

「バルセロナにいたとき、あれによく似た城を見たことがある。それもバルセロナを一望できる丘の上に建っていたが、たしか監獄として使われていたはずだ」

「ヴェトラーノ砦に行くのが怖いんだ。もしアルトゥーロがそこにいたら? 死んだことを受け止めるなんて、そんなこと出来っこないよ。でも、行かないと、なんだか胸が苦しくなって、こんなことならウジウジ悩んでないで、いっそ楽になろうと思って、砦のあるほうへ歩き始めるんだけど、二十歩も進まないうちに、もしアルトゥーロがいたらどうしよう、死んでいたらどうしようって考えちゃって、また元に戻るんだ」

「それでこの真っ暗闇に来たわけか」

「うん。本当に大切なことを相談するときは親しい人よりも、むしろお互い、顔も分からなければ、名前も知らないし、出身地も知らない人のほうが悩みが吐き出しやすいもん」

「懺悔室がいい例だな」

「でも、懺悔室みたいにあれを寄付しろ、これを祈れって命令されないから気楽でいいんだ。あ、ボクばかりしゃべってるけど、いいかな? もし、そっちが何か話したいなら、ボク聞くよ?」

 暗闇のなかの誰かさんはちょっと考えさせてくれ、といって二分か三分黙った。暗闇のなかの誰かさんが話しやすい環境を作ろうと思い、ボクは息をするのも控えるくらいの沈黙を作り、相手の反応を待った。

「そうだな。少し話そう。実はおれは外国人なんだ。出は南米なんだが」

「驚かないよ。たくさんのイタリア人がアメリカに行っちゃったもんね」

「おれの母親もその一人だった。そして、向こうでおれを産んだ。おれにとって故郷は海の向こうにある。だが、ここで教会の聖像の前で蝋燭を点し、ロザリオの祈りをしてみると、おれの起源はここにあったんだってことが分かった。おれはまるで魂が二つに割れてしまったような不思議で、それでいて言いようのない不安を覚えた。その不安ときたら、心のなかにじっとりくっついて嫌な気持ちにさせるんじゃなくて、この街の太陽のようにじりじりとこの身を焦がすんだ。不安の感じ方も地中海と大西洋ではだいぶ違うわけだ。身を焦がす不安に悩まされながら、おれは故郷と起源を一つにまとめる方法はないかとずっと考えている。聖人に捧げた蝋燭の火のなかに答えを見出そうとしたこともある。だが、どうしても故郷と起源を一つにすることができなかった。おれはどこに行けばいいのだろう? ここは起源だが、それでいて、見るもの全てをおれはまったく知らない。逆に海の向こうはおれの故郷で、帰れば、蛇や毒トカゲ、バナナやコーヒーの樹、丘に出来上がった貧民街、それに腐った政治家といったものがおれを出迎えてくれる。それら全てをおれはよく知っているはずなのに、おれはそこに何か白々しさを感じるだろう。もし、おれを満たしてくれる土地がこの世に存在しないのなら、おれは一生を彷徨うことになる。彷徨った末に何があるのかは分からない。いや、おれはおそらくその途上で倒れるだろう。思い悩み、彷徨い歩くことがおれに与えられた運命なんだ」

「神さまも残酷なことをしてくれるね」

「こいつは神さまのせいじゃない。たぶん、おれが自分で自分に課したことだ。人間は常に何かを不安に思い、幸福に水を差されなければ、自分のことすら真剣に考えることもできない。イタリアに来るまでのおれはお祭り好きの、どうしようもないほどおめでたい男だったが、ここに来て、おれの魂は故郷にあるべきか起源にあるべきか岐路に立ったわけだ。それははっきり言って辛いし、後悔してないかと言われれば、まあ、してないことはないんだが、でも、これは全て自分で引き受けたことであって、神も国も社会も関係がないのだと割り切ることができるから、まだ耐えられる」

 暗闇のなかの誰かさんはそこで言葉を切った。そして、ポケットのなかをまさぐる音をさせると、

「おっと。危うくマッチを擦るところだった。煙草が吸いたくなったが、ここじゃ吸えないな。ここは完璧な暗闇なんだから。もう、行くことにするよ、誰かさん。アルトゥーロに会えればいいな。いや、会えないほうがいいのか」

 暗闇のなかの誰かさんが遠ざかっていくのが、足音で分かった。音の響き方から考えると、どうやらこの暗闇はトンネルのようになっているらしい。ボクはまた誰かさんに会うために真っ暗闇のなかを歩いた。足元はつるつるの石畳だから、見えなくても転ぶ心配はない。

 トンネルから外に出たけれど、空には星が一つもかかっていない。いったいどんなところにボクはいるんだろう?

 嘆き声が聞こえる。人魚がどうとか言っている。ボクは暗闇のなかの誰かさんに話しかけた。

「どうかしました?」

「ああ、聞いてくれ。ついに終わりのときがやってきた。人魚が逃げ出したんだ。どうやったかは知らないが、人魚のやつ、外に協力者を作って、ラム酒用の樽に入り込んで、まんまと逃げおおせたんだ。これでおれはおしまいだ。アルバニアに帰される。あそこにはおれを殺そうとしているやつらが一ダースもいるのに!」

「探し物ならジプシーのおばあさんに占ってもらうといいよ」

「そのばあさん、どこにいるんだ?」

「砲兵隊広場だよ。棕櫚の樹通りはわかる? そこを上った先のジプシー街にあるんだ」

「おれの人魚も見つけてくれるかな?」

「わからないけど、ボクの探している人のことは教えてくれたよ」

「そのばあさんは何リラで占ってくれるんだ?」

「ボクは三リラとられたよ」

 ポケットのなかにある小銭とくしゃくしゃの紙幣をかき回す音が聞こえてきた。

「くそっ! こんなに暗いんじゃどれが一リラ札なのかわかんねえや! 悪いが、おれはずらからせてもらうぜ」

「うん。バイバイ」

 暗闇のなかの誰かさんは、砲兵隊広場、棕櫚の樹通り、ジプシー街とぶつぶつ繰り返しながら、走っていった。温い風が渦を巻いた。かすかだけれど、草がカサリと鳴るのが聞こえた。どうやらこの暗闇はC市の人々の非公式懺悔室になっているようだ。このまま歩いていれば、いろいろな悩みを持った人にぶつかるだろう。でも、ボクの悩みも聞いてくれるだろうし、何か力強いアドバイスももらえるかもしれない。

「いや、そんなものは必要ない」

 突然の声にボクの胸がドキンと鳴った。かすれた老人の声が言葉を継いだ。

「悩んでいるということは行動を躊躇っていることだ。そして、わしに言わせれば、行動あるのみだ」

 この誰かさんはボクを相手に話しているんだろうか? それとも別の誰か? それとも独り言か?

「こんなときこそ偉人の生き様を参考にするときだ。そして、運のいいことにイタリアはジュセッペ・ガリバルディという偉大な英雄をその歴史に有している。ガリバルディならこう言うだろうな。さあ、行こう、同胞たちよ。行動のときだ。そこに栄光が、自由が、正義が待っている」

「ボクを待っているのは一人の男の子なんだ」

「それがどうしたというのだね? その男の子はきみにとって大切な男の子だ。違うか?」

「そうだけど、でも、ジプシーのおばあさんはこう言ったんだ。アルトゥーロにはヴェトラーノ砦で会える。でも、それはすでにアルトゥーロがこの世の人ではないことを示しているって。ボクはアルトゥーロに生きていてもらいたい。無事でいてもらいたいんだ。でも、いろんなことがアルトゥーロはもう死んでいる、もう生きちゃいないってボクに教えようとしてくるんだ。ボク、アルトゥーロに会いたいんだ。会いたくて会いたくて、心が悲しくなるんだ」

「いいかね、お嬢ちゃん。大切なのはどう生きるかではなく、どう死ぬかなのだ。男の価値はその男の死に様で分かる」

「でも、やっぱりやだよ。アルトゥーロが死んだなんて。アルトゥーロはあの日、黒シャツたちにさらわれたんだ。もし、死んだとしたら、アルトゥーロはきっとあいつらに拷問されて死んだってことになるんだ。そんなのやだよ」

「もう昔の話だ。生きているあいだの苦しみは死んでなお、その魂を傷つけたかもしれないが、今ならもう折り合いをつけているだろう。お前さんがそのアルトゥーロとやらに会うべく、砦への道を示されたのなら、お前さんはその運命を受け入れることだ。さて、わしはもう行くとしよう」

「悩み事とかないの? あったらボク聞くよ?」

「悩み事なら人並みにある。だが、それは行動で解決できる。そう信じることで人間は今日よりもずっと素晴らしい明日を手に入れることができるのだ」

 暗闇のなかの誰かさんは、行動することの重要性をボクに放り投げて去っていった。すると、また別の誰かさんが現われて、行動の限界について話し始めた。

「あと二回だな」

「何があと二回なの?」ボクはたずねた。

「ガソリンと商品の仕入れがあと二回しかできないってことさ。ぼくはワゴンで行商をしてるんだがね。客たちはみんなツケで買うんだが、ほとんど払ってくれたためしがない」

「貧乏ってつらいね」

「いや。貧乏よりももっとたちが悪いのはお金があるのに、その使い方が分からないことだよ。ぼくの顧客はみな老人だ。ぼくが行商に来なければ、マカロニ一つだって手に入れられないんだ。だから、ぼくは行商をする。でも、それももう限界だ。あと二回だ」

「その老人たちは代金が払えないくらい貧乏なの?」

「いや、ぼくに払うくらいのお金は持っているよ。でも、ぼくがツケを許すものだから、彼らは払おうとしないんだ。そのせいでぼくは行商をできなくなって、彼らは何も手に入れられなくなるのにね」

「でも、それは自業自得じゃないですか?」

「そうだね。ぼくが合理的思考の持ち主なら、あと二回のガソリン代と仕入れの代金をポケットに入れて、この街で一番のホテルのダイニング・ルームに行って、一番大きな海老を焼かせて、トカイワインなんて楽しむところだ。でも、ぼくは無神論者のくせに非合理的な考え方をするのが好きでね。だから、ぼくはあと二回、破産するために行商をするんだ」

「行動が全てを解決してくれるわけではないんですね」

「でも、終わりにはしてくれる。行動には必ず結果が伴うからね。でも、ぼくはその結果が全て素晴らしい結果に終わると思えるほど、ロマンチックではないんだ」

「やっぱり悪い結果になることもあるのかな?」

「そうだね。でも、やって後悔するよりも、やらないで後悔するほうが悔やみは長く続くし、はっきりいって辛いよ。人間っていうのは何事にも節目をつけるのが大好きなもんだから、苦しみや悩みにも節目をつけて、何とか耐えられそうな別の何かに作り変えようとする。もちろん、どんな結果を生むかは分からない」

 暗闇のなかの誰かさんは、じゃあ、ガソリンを売ってくれる店がもうすぐ閉まるから失礼させてもらうよ、と言って、去っていった。耳を澄ませると、自動車の走る音が聞こえてきた。それに路面電車の車輪がレールに擦れる音もかすかにだけれど聞こえてくる。でも、目の前は真っ暗闇で誰かに鼻をつままれても、顔も分からないくらいだった。そんななか、また暗闇のなかの誰かさんがやってきた。

「やあ、こんばんは」

「こんばんは」

「ヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りに出たいんだけど、こっちで合ってるかい?」

「うん。合ってるよ。どっちに進んでも必ずヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りに着くし、テアトロ・グレコ通りやガリバルディ通りにも行けるんだ」

「みんな、方角が別々のようだけど」

「ここは暗闇。脱け出したいと思えば、簡単に脱け出せるし、好きなところへ出て行くことができるんだ」

「便利なもんだね」

「もっと便利なのは、ここを悩みの相談室にしちゃうことなんだ。だって、こんなに暗いと相手は顔も分からないし、名前も分からないし、これまでどんな生き方をしてきたかも分からないでしょ? つまり、それってゼロから出発して悩みを聞いてくれるってことなんだよね。そうしたら、悩みにまた違ったほうから光が差したりするんだ。悩みごとはある? もしよかったら、ボク聞くよ?」

「まあ、ないことはないんだけど。きみはいいのかい?」

「ボクの悩み事はつい今さっき片付いたよ。もう決心がついたんだ」

「そうか。僕の悩み事は、まあ、そんなに大袈裟なことじゃないんだけど――外国に行こうかどうしようか迷ってるんだよ」

「外国? わあ、それって素敵に重要なことだと思うけどなあ。遊びに行くの?」

「いや、仕事で行くんだ?」

「外国に仕事に? それってオペラ歌手とかバンドマンにだけ許された特権だよね」

「僕はどちらでもないんだ。まあ、顔も見えないし、きみとはこれっきりだから教えるけどね、というより、顔もはっきり見える相手に教えたことも何度もあるんだけど――実は、僕は殺し屋なんだ」

「人を殺してお金をもらうってこと?」

「そうだね。怖いかい?」

「わかんない。ボクはひょっとしたら死んでるかもしれないし、ひょっとしたら死んでないかもしれない女の子だから」

「それはまた難儀な身分だね」

「ボクは齢の取り方を忘れただけだと思ってる」

「でも、人によっては、それを死とみなすこともあるよ」

「殺し屋さんは命の専門家でしょ? こういう場合ってどうなんだろう?」

「答えられないなあ。命に関して深く考えたことがないんだ。そんなことすると、人を殺せなくなる気がするからね」

「じゃあ、しょうがないね」

「しょうがないんだ。ところで、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りはこっちでいいんだよね?」

「どこを指差してるのか分からないけど、そこに行きたい、暗闇を抜け出したいと思えば、すぐにヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りに行けますよ」

「こんなに心地のよい真っ暗闇を去るのは少し後ろ髪を引かれるけど、僕は夜にシャワーをぴったり三十分浴びないと気が済まない質なんだ。だから、ホテルに帰らないと。じゃあ、ここでお別れだ」

「さよなら、暗闇のなかの誰かさん」

 暗闇のなかの誰かさんの足音が静かに遠ざかっていくのをぼんやり聞きながら、ボクはこの足音が聞こえなくなって、自動車の音や草のこすれる音もしなくなったそのときに、ヴェトラーノ砦に行こうと心に決めた。

 数秒もしないうちに完全な沈黙がやってきた。

 ボクは大砲が突き出た石の砦を頭で思い浮かべながら、足を一歩前へ踏み出した。

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