* リビア帰りの男

 カフェ・ミランダのラジオががなりたてる――これより〈統領〉が演説す!

 ……(わー、わーという歓声が十七秒)……一九一九年から二二年にかけて、我が国の命運は風前の灯であった。戦勝国となったにもかかわらず卑劣な列強の専横によってイタリアは疲弊し、経済は打撃を受け、農民は零落し、中産階級は破産し、伝統的価値観は軽んじられ、ロシアのボルシェヴィキに影響を受けた共産主義者たちが権力を握らんとしていた。内紛の困難にあって、共産主義者は国王陛下を無視し、国民を無視し、我が国の伝統を無視し、我が国が担う歴史的使命をも無視した。彼らは口先だけの約束とコミンテルンの協力を背景にして、いたずらに民衆の人気取りに走り、真の政治的解決を回避してきた。そして、彼ら許されざる共産主義者たちはレーニンの手にすがりつき、この誇り高き国をあわれな隷属国家に堕落せしめんと計画した。あさましい背信行為である。だが、国民は決してそのような暴挙に屈することはなかったのだ。国民は立ち上がり、イタリアを栄光へと導くこと、その使命を果たさせることができたのだ。彼ら救国の士は一九二二年十月二十二日に誇りと勇気を胸にローマへと行軍した。国家は再建された。国民の誇りが回復された。そして、なによりも我が国が担ってきた歴史的使命が果たされたのだ。いまや我が国は二等国の屈辱をぬぐいさり、戦前の、いやそれ以上の国威をもってして復活を遂げた。だが、我が国民よ、誇り高き民族よ。戦いはまだ終わっていないのだ。諸君らの奮闘がさらに求められているのはいまこのときなのだ。確かに国家は復活した。だが、こうして勝ち得た全体の利益を守るために我々は、民主主義と名を変えただけのつけあがった利己主義や国家の運命を信じられない敗北主義の残滓、そして神と家族という人間の根幹に関わる価値観を否定するあの邪悪な共産主義と戦わなければならない。リビアでの戦争もまたそうした戦いの一つでもあるのだ。我々は敬意を表そう。いま海を越えた未開の砂漠では多くの若者たちが彼らの故郷と家庭を後にして最前線で戦っている。より優秀な民族が劣等な民族を支配し、その繁栄に責任を持つという歴史的使命を果たすために。彼らのたゆまぬ堅忍と自己犠牲の精神が勝利の栄冠を手にする日はそう遠くない。我が国の歴史的運命は神を敬い、祖国を信じ、勝利のために突き進むことを説く。それで、初めて我々は栄光に包まれる。そして、そのような栄光に包まれた歴史的運命の渦中にある国民に克服できぬ困難は存在しない。国王陛下万歳。神と祖国イタリア、そして勝利のために邁進する人民に栄光あれ!

(湧きあがった歓声の音が絞られ、アナウンサーの声が告げる)以上、ローマから〈統領〉の演説でした。続きまして、アオスタ公閣下より開会の挨拶が――

 ボクは立ち上がって、ラジオのつまみをいじくった。この国にも、そのくらいの自由はまだ残っている。つまみが音をたてずに静かにまわり、ぶつ切りの音楽や声がしばらく続く。女性の歌声とギターの伴奏が聞こえたあたりでつまみを止め、席に戻った。涼しい風の吹く、薄暗い通り抜け廊下のテーブル。ボクは不実な男に恋をした女の唄を聴きながら、サクランボのジュースを飲んでいる。

 メランコリックであまい唄が不意に途切れた。誰かがつまみをいじくったのだ。ボクは顔をあげた。つまみをいじっている男は明るい砂色の軍服を着ていた。頭に探検隊のかぶるようなヘルメットを乗せているところを見ると、リビア帰りだろう。偏屈な分からず屋の愛国者だろうか。また、首都の記念式典の放送を聞かされるのかな。いや、流れ出したのはジャズだった。あれは、たしか、ビッグバター・アンド・エッグマンって曲だ。どうしてそんな名前をつけたのかは作曲家にきかないと分からない。でも、優しく輝くようなコルネットととぼけた味わいのあるトロンボーン、しつこすぎないクラリネットが絡まりあって、いいアンサンブルを形成している。リビア帰りの男はワインを一杯、グラスで注文して、ボクのテーブルの、ボクと向かい合う席に座った。

「本当だったんだな」

 リビア帰りの男は探検隊のヘルメットを脇の椅子に置きながら言った。

「ここにくれば、死んだ人間に会える。占い師にそういわれたんだ。本当に驚いた。なにもかも十年前のままじゃないか、葡萄酒色の服、短く切った灰色の髪、そのリボンネクタイと十八個のボタンのゲートルだってそうだ。きみはあのときと同じ十四歳の男っぽい少女のままだ。これが死人じゃなかったら、いったいなんだ。ぼくはここへグリエルモに会うつもりで来たんだ。むこうで死んだ戦友さ。ところが、出てきたのはきみ。あのときの姿のままであらわれた。これもなにかの縁だね。いろいろ、話をしようじゃないか」

「いいとも」ボクは言った。「でも、最初にはっきり言っておくよ。ボクは死んだりしていない。ただ、歳のとり方を忘れただけ。だから、いつまでたっても十四歳の少女のままなのさ。さあ、なにから話す?」

「そうだなあ」リビア帰りの男は顎を撫でた。「ぼくのことおぼえているだろ?」

「もちろん」

「よかった」リビア帰りの男はほっとして言った。「もし、忘れられていたら、ショックで寝込んじまうところだったよ。まったく。でも、こうしてみると、なんだか、いい気分だ。あのとき、ぼくは十三で、きみは十四だった。散々、兄貴風を吹かされた。いや姉貴風かな。でも、いまではぼくは十九で、きみは十四。ぼくのほうが年上になったってわけだ。背だって昔はぼくのほうが小さかったが、いまじゃぼくのほうが断然高い。うれしいねえ」

 給仕がソーダグラスに入れたワインを持ってきた。リビア帰りの男はそれに一口つけて、言った。

「酒は本土に限るね。むこうじゃウィスキーを椰子の実のジュースで割ったものばかり飲んでいた。ウィスキーの語源は命の水だって言うけど、そんなの嘘っぱちだ。ひろい砂漠の真ん中で、椰子の葉で編んだ兵舎のベッドに横たわって、ウィスキーの椰子の実ジュース割りを飲むと、いつもこう思ったもんさ。ああ、いつかはぼくも死ぬんだ。次はぼくの番なんだ。でも、ワインを飲むと、違うね。ああ、ぼくは生きているんだ。生きて帰ってこれたんだ。そう感じる」

「うらやましい話だね」ボクは言った。「ボクはもうずっと自分が生きているんだって感じたことはないんだ。まるで亡霊みたいだ。ボクだけがあのときのまま、みんな大人になっていく。きみだって、そうだ。ボクをおいて大人になったりしてさ」

「だって、きみは死んだから」

「いや」ボクは反論した。「死んでいないね」

「きみとアルトゥーロは」とリビア帰りの男は悲しげに言った。「二二年の十月二十二日、あの日に死んだんだ。覚えていないのかい? きみはたしかにクレスピ通りで死んだ。海洋博物館の前のバリケードで、黒シャツ隊が撃った砲弾の爆発に巻き込まれて死んだんだ。アルトゥーロはやつらに連れていかれて、それっきり。きっと彼も殺されたはずだ」

「待ってよ」ボクは言った。「きみはボクの死体を見たのかい?」

「見てないよ、きみの死体は跡形もなく吹き飛ばされたんだ」

「じゃあ、死んだって断定はできないんじゃないかな。ボクも最初はアルトゥーロは死んでしまったんだと思ってたんだ。でも、ここで二度目のサクランボ・ジュースを飲んだら、なぜだかアルトゥーロがどこかで生きていてボクを探しているかもしれないような気がしてきたんだ」

「でも、やつらは砲撃で重傷を負ったアルトゥーロを連れていった」

「つまり、きみはアルトゥーロの死体だって見ていない。やつらに連れていかれたところまでしか、見ていないんだ。だったら、アルトゥーロも生きているかもしれない。連れ去った後、やつらがアルトゥーロを解放したかもしれないじゃないか」

「それはない」リビア帰りの男は断言した。「やつらは連れていった人間を誰一人解放しなかった。本当だ。ぼくはアルトゥーロの両親と彼を探したんだ。警察署や憲兵隊本部、王立刑務所、死体集積所がわりに使われた国立フェンシングセンターにもいった。でも、どこにもいなかった。彼の両親は政府に手紙も出した。お願いします、アルトゥーロを返してください、あの子はまだ十五歳なんです、政治のことなんかなにも知らない子どもなんです。一週間後、政府から返事が来た。答えはノー。アルトゥーロの行方は国家機密扱いになってしまった。変な話だよな。あのころ、アルトゥーロほど目立つ男はいなかった。背が高くて、ハンサムで、みんなの人気者だった。彼のまわりにはいつも人の輪ができていたから、百メートル先からでも彼がいるのがわかったもんだ。そのアルトゥーロが消えてしまったんだぜ。この世界から、ぼくらの前から永遠に消えてしまったんだ。でもね、きみ、こんなふうに暑い夏の日になると、ぼくはいまでも百メートル先に目を凝らせば、女の子たちに囲まれたアルトゥーロのはにかんだ顔が見えるんじゃないかって思うときがある。アルトゥーロとぼくの目があって、助けてくれないかって感じで茶目っ気たっぷりにウインクするんじゃないかと思うときがある」

「死んでなんかいないと信じたいね」ボクは言った。「アルトゥーロは生きていて、ボクみたいにあの日と同じ、十五歳のアルトゥーロがどこかにいるんだ。ボクはアルトゥーロを見つけるよ。二人で歳のとり方を思い出すんだ」

「そりゃあいい」リビア帰りの男は言った。「うまくいくよう祈ってる。ところで、ここ、なにか食べられないのかな?」

「リゾットとオムレツ」ボクは答えた。「あるのはそれだけだよ」

「ふうん」リビア帰りの男はワインを一口飲んでから、両方注文した。「これでこの店のメニューは制覇したことになるな」リビア帰りの男は言った。「もし、味がよければ、ひいきの店にしてもいい」

 しばらくして、料理がやってきた。白身魚のリゾットと香草入りのオムレツ。リビア帰りの男はまずオムレツにナイフを入れ、口に運んだ。とくに表情らしいものを浮かべず、今度はリゾットをひとすくい食べた。

「うーん」リビア帰りの男はうなった。「きみもちょっと食べてみてくれないかい。文句なしにうまい。いや、うまいと思うんだ。でも、ぼくの舌はいま、まったくもってあてにならない。なんせ外地ではずっとココナッツご飯とイモのフライばかり食べてきたから、ちょっとくらいまずくても我慢できてしまう、いや、それどころかこんな絶品食べたことがないと感動してしまうくらいだ。頼むよ、第三者の公平な判断をあおぎたい」

「いいよ」ボクはスプーンを受け取ってにっこり笑った。「そういうお願いなら大歓迎だ」

 ボクはまずリゾットをいただいてみた。濃厚なチーズが白身魚とよく合っている。オムレツはというと、あつあつの卵がとろけるような仕上がりだ。そこに香草がぴりっと味をきかせている。

「すごくおいしいよ」ボクはスプーンを返しながら言った。「ぜひとも、ひいきの店にするべきだね」

 リビア帰りの男はうれしそうに笑って言った。「そうだな、ここはいい店だ。こうして、きみにも会えたし。うまいオムレツとリゾットが食べたくなって、さらに幽霊にも会いたくなったら、ここを利用するようにしよう」

「だから、ボクは死んでないんだって」

 二人で笑った。サクランボのジュースがなくなった。ラジオはというと、誰かがつまみを国営放送にあわせたのか、また独裁者のがらがら声を流し始めている。そろそろ店を出るときだ。

「もう、いくのか?」リビア帰りの男がたずねた。「まだ、いいじゃないか」

「いや、もういくよ」ボクは言った。「きみをここに導いた占い師にも会ってみたいんだ」

「そうか。占い師は砲兵隊広場にいるよ、棕櫚の木通りの坂を登っていったところにあるジプシー街の小さい広場だ。じゃあな、ぼくはここに残るよ、なんだか今日はグリエルモにも会えそうな気がするんだ。とても気のいいやつだった。きみとあいつは会えば、きっと気があったと思う」

「会えたらいいね」とボク。

「そっちもな」とリビア帰りの男。「もし、アルトゥーロに会えたら、よろしく伝えておいてくれ。いい夜を」

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