4.エゼキエーレ庭園

 黒猫ホテルに戻ったアンジェロは曲がり角や階段の踊り場に差し掛かるたびに、ポケットを小銭でいっぱいにした小賢しいボーイや肺病持ちのいやな咳が止まらない部屋付きメイドたちとぶつかりそうになりながら、やっとのことで自室に辿り着いた。ベッドの下に押し込んでおいた旅行カバンを引っぱり出して開けると、中に入っている服やタオルや石鹸をどけて、隅っこの小さな掛け金をパチンと外した。隠し底には三二口径のレミントン・ピストルと革製のショルダーホルスター、それに偽造した拳銃携帯許可証が入っていた。アンジェロはホルスターを身につけると、銃をホルスターに入れて、上着を羽織り、クローゼットの裏に吊るされているヒビの入った姿見で服が銃のせいで不自然に膨らんでいないか確かめた。本当だったら、強力な四五口径コルト自動拳銃を持ち歩いてみたいところなのだが、情けない話、アンジェロの体は華奢だから四五口径の銃を持つと上着が不自然に膨らんで懐に何を隠しているのか十キロ先から見ても一発でバレてしまうのだ。まあ、いいさ。レミントンだっていい銃だ。カタログには握手するような握り心地と書いてあった。実際、その通りで握りやすさと狙いの正確さはブローニング・ピストルの比ではない。その分値は張ったし、手入れも面倒なのだが……。

 最後に左の袖口の内側に特別に作ったポケットに飛び出しナイフを入れると、アンジェロはカンカン帽をかぶって再び年老いた掃除係にぶつかりそうになり、五〇二号室に宿泊している子沢山の一家が廊下を塞いでいるのをかきわけながら、ようやく外に出た。外に出たからといって、これといった予定はなく、あと三時間、短すぎるわけでも長すぎるわけでもない時間をつぶさないといけなかった。この二週間無為に過ごしてきたツケが一度にまわってきたような有り様だった。これから三時間後にはコカイン取引に同席し、七時にはジョヴァンニ・ロアッタとガリバルディ通りのファシスト党支部の宴会に出なければいけない。そして、そこを二時間くらいで切り上げて、例の聖ドメニコ教会の少年好きの司祭に会い、ちょっとした善行を積む。荒野に散った石屋の住人たちのために行商をしている男ならきっとこういうだろう――善行は教会の専売特許じゃない。

 黒猫ホテルのある旧市街を北に歩いて、テアトロ・グレコ大通りに出ると、オートバイに乗った黒シャツが通り過ぎて、ファシストを乗せたトラックが次々と走っていった。乗っているのは突撃部隊上がりの古参兵たちと新参のファシストたち。ローマ行軍以前からの古参ファシストとローマ行軍以降ファシスト党に入党した新参のファシストは犬猿のなかで、特に古参ファシストたちは新参の若者を哺乳瓶野郎どもと呼び、軽蔑していた。党歌でさんざん若さを讃えているにもかかわらずだ。

 古参ファシストたちは大戦中、突撃部隊に所属していた。音を立てずに敵の歩哨をナイフで倒す訓練を受けていたらしく、ナイフの使い手を自称し、カモッラ団員のように自慢していた。そんな古参ファシストが実際にナイフを使う現場をアンジェロは一度だけ目撃したことがあったが、まったくひどい代物だった。構えから攻撃に移る際に無駄な動きが多すぎるし、致命的なのは突いた後に元の構えに戻るスピードが遅すぎることだった。背後から襲うのなら一撃で葬れるが、向かい合って戦うのであれば、普通の錐刀を使うとしても最低三回は突かないと相手は死なない。例え心臓を貫いても相手は十秒間生きていられるから、その十秒のあいだに捨て身の反撃をされたら、両者共倒れになる。だから、ナイフでやりあうときは突く速度よりも元の構えに戻る速度のほうを上げるよう訓練しなければいけないのだ。アンジェロが目撃した古参ファシストはそれができていなかった。結局、相手が銃を持っていたので、古参ファシストは犬のように股の内側に尻尾を丸めて逃げるはめになったが、あれがイタリア軍においてナイフの使い手を自称できる基準なのだとしたら、イタリア軍が大戦で勝利することができたのはまさに奇跡としか言いようがない。カモッラ団で一番下っ端の少年団員だって、あれより巧みにナイフを扱える。

 だが、そのカモッラ団も今では表通りを堂々と歩けなくなった。昔なら山刀のような大きなナイフを鞘に入れてベルトに差してこれ見よがしに歩き、手にくっついている指全部に金の指輪をはめたカモッラ団員たちが肩で風を切って颯爽とナポリの町を歩いたものだが、今では〈統領〉の厳しい弾圧にさらされ、カモッラ団員は一切の例外なく行政処分で島流しにすることが決められていた。カモッラたちはナポリの暗黒街をブルボン王家の時代から仕切っていたから、〈統領〉の弾圧を乗り切れる自信があった。だが、〈統領〉は山砲を含む陸軍とカービン銃を持たせた黒シャツ隊を二千人以上動員して、すでにカラブリアの山賊をあらかた検挙して島流しにした実績があった。カモッラ団員たちは自分たちの暴力と腐敗した政治家による鉄壁の守りを期待したが、彼らを守るはずの鉄壁は〈統領〉の弾圧の前には水に濡れたボール紙のごとくぐにゃぐにゃになり、そしてカモッラ団の統領たちが十数人一度に検挙され、ろくに裁判もないまま、行政処分で島流しになった。シチリアのマフィアたちは次は自分たちの番ではないかと戦々恐々しているらしい。

 アンジェロも人の命を奪って生業としている以上、カモッラやマフィアほどではないが、ファシスト政府の犯罪撲滅運動には注意していなければいけなかった。殺し屋たちがこっそり政治家や犯罪組織の後ろ盾を得て、安全に仕事にかかれたのは遠い昔の話になりつつある。すると、アメリカの従兄弟の話もそう悪いものではないという気がしてきた。ハバナとニューヨークで指定された標的の眉間にスコープの十字線を合わせて引き金を一度ずつ引くだけで二万ドルが転がり込んでくる。

 そのとき、アンジェロは門衛の訝しげな視線に気づいて、初めて自分がエゼキエーレ公園の入口の門のそばをうろうろしていたことを知った。

 考え事をしながらうろうろするなんてことは枢機卿のすることであって、アンジェロのような若者のすることではない、というのが門衛の見方であったらしく、そして彼はアンジェロがこの公園が入園料を取るのではないかと思って入口をうろうろしていると誤解してしまった。しかし、誤解するだけのことがあったのだ。よそものには公園があまりに立派だったから、それなりの入場料をふんだくって維持しているように見えるのだ。しかし、違うのだ。エゼキエーレ公園の名に冠されたフェルナンド・ピエロ・エゼキエーレはいくつもの名曲やオペラを書いてイタリアはおろかヨーロッパじゅうに名を知られた夭折の天才だった。逆をいうとC市というのはこのエゼキエーレ以外に傑出した人物を輩出することができなかったということでもある。そのせいか、生粋のC市民たちはこの公園を美しいものにすることでひいてはエゼキエーレの、そしてC市全体の評判を底上げしようとしていた。そして、有志市民らの寄付金と市からの補助金でエゼキエーレ公園は入場料を払うことなく、園内の広場や噴水、ローマのボルケーゼ公園を意識したアルテミスの小さな神殿が建てられた池の畔をまわり、それにヨーロッパじゅうの二流どころの絵を集めた美術館、黄や赤の花を咲かせる蔓植物が椰子の木に絡みついている植物園、開園以来檻が空っぽで営業したためしのない動物園、地面の下から引っぱり上げた冷たい地下水で鱒や鰻を飼育している水族館まで見てまわることができるのだ。

「入場料は払う必要はありませんよ」門衛はアンジェロにそう呼びかけた。

 一体何のことだか、さっぱり分からないアンジェロはとりあえず時間つぶしにはなるだろうと思い、公園に入ってみることにした。白い花をつけた樹が左右に並び、頭上は枝葉が伸びて、木漏れ日を落としてくる。左右に枝分かれする道はアルプス猟兵の活躍を記念した銅像がある広場や四頭の棹立ちになった馬の石像に支えられた噴水へと伸びていて、中央の道を行った先には大広場があった。そこからさらに三本の道が伸びていて、それぞれが美術館、水族館、植物園に伸びていた。美術館は館内清掃のため休みの札がかかっていたので、アンジェロはバード・サンクチュアリを突っ切る形で水族館のほうへと足を運んだ。

 水族館のなかは洞窟を掘りぬいたような意匠になっていて、十個の大型水槽のなかで鰻や鱒、コイなどが退屈そうに鰓ぶたと動かしていた。珍しい魚はイソンゾ河にのみ生息するといわれる大理石のような模様をした鱒くらいで、他は魚屋に並ぶ魚がただ生きているのを見せるだけでさほど面白くはなかった。

 すると、帰ろうとするアンジェロに気づいたアルバニア人の係員が腰を低くしてアンジェロに近づき特別なお客さまにだけ見せる隠し玉があるといって、全てはこれ次第といった調子で親指と人差し指をこすり、いやらしい仕草をしてみせた。五リラ札をその指に挟んでやると、係員はそれをポケットに突っ込んだ。そして、関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアを開けて、アンジェロに入るように促した。洞窟風の水族館の裏側には白鑞のような輝きを放つ水道管がくねくね曲がって天井を隠し、コンクリートむき出しの壁のそばには水の循環装置がうおーんと大きな声で鳴きながら、汚れた水をきれいな水に漉し直していた。

「こっちだ」アルバニア人が言った。

 その先は下り階段になっていて、裸電球が階段と踊り場に一つずつかかっていた。そして、三十六個の裸電球の下を進んでいった先にはまたしてもドアがあった。鉄製の分厚い扉に婦人用ハンドバッグと同じくらいの大きさの南京錠がかかっていた。アルバニア人がそれに鍵を差してまわすと、南京錠が解けた。アルバニア人はふうふうと息をしながら、巨大な南京錠をすぐ脇の円卓に乗せ、鉄の扉を引き開けた。

 天井からハリケーン・ランタンがいくつか吊り下がっているだけの暗い部屋で地下水を吸いだすためのポンプが途切れることなくヴヴヴヴと低く鳴いているのが聞こえたが、ポンプ自体がどこにあるのかは分からないほど暗かった。

「大切なのはポンプじゃなくて、こいつなんでね」

 そう言いながら、壁から下がったカーテンを勢いよく左右に払った。

「さあさあ、ごらんあれ! ここに出でますは本物の人魚ですぞ!」

 ブルネットの人魚が一尾、トルコのハーレムのように飾った水槽のなかでアヘンでも吸ったように気だるげにクッションに寄りかかっていた。二つに切ったスイカのような乳房、地中海地方の娘らしい小麦色の肌、そして細かい鱗に覆われた下半身と切れ目が一つ入っている尾びれには上端がかすかに欠けがあり、そのせいで完璧に一歩及ばないのだとアルバニア人は悔しそうに言った。

「どこで彼女は獲れたんだい?」アンジェロがたずねた。

「マルマラ海で獲れたトルコ娘ってとこだ。それに合わせて水槽のなかもトルコ風にしてある。まだオスマン帝国があるころなら、この人魚はスルタンのハーレムに納められることになっていただろうが、こいつが獲れたのはあのケマル・パシャがスルタンを叩き潰した後だった。おれはちょうどそのときトルコに駐在していたイタリア軍の支配区域に住んでいたから、これをイタリアに持ち込むことにしたんだ」

 気だるげななかにどこか哀しさを感じさせる視線がアンジェロとアルバニア人のあいだを彷徨っていた。

「満たされた生活というわけでもなさそうだね」アンジェロが言った。

「ああ、本当ならマルマラ海から黒海にもエーゲ海にも出られるんだ。それがこんな四角い棺おけみたいなもんに閉じ込められてちゃ、誰だって哀れだと思うさ。かくいうおれもその一人だがね」

「逃がしてやればいいじゃないか」

「そうするとおれは失業だ。おれは人魚の世話をするという条件でイタリアにいられるんだ。人魚を逃がせば、おれはアルバニアに戻らないといけない。ところがアルバニアってのは面倒な土地でね。恨みが長続きして、しかも子々孫々に至るまで殺し合いを続ける土地柄なんだ。おれの場合、じいさんのじいさんのそのまたじいさんが隣の家の親爺から口に含んだ焼酎をぶっかけられたって言って両家のあいだで戦争をおっぱじめやがったんだ。そして、それはおれの代まで続いていて、おれは何の恨みもない隣の家の息子を殺せと言われて両親から猟銃を渡された。相手も同じことを言われたらしくてね。畑で馬鍬を扱っているところをずどんと一発撃たれた。偉大なアッラーは弾をおれに当てずに馬に当てた。これでぶっかけられた焼酎から延々と付けられていた我が一族の恨み一覧に殺された馬も書き加えられた。もう、おれはおっかなくっておっかなくって、こんな土地は今すぐ捨てちまおうと考えて、イズミルに行った。そこの郊外の漁村でしばらく漁師暮らしをして、こいつを捕まえた。おれにとっちゃこいつは金の卵を産むガチョウどころか、おれのたった一本の生命線なんだ。もし、こいつがいなくなれば、おれは復讐が支配するアルバニアに戻される。そうなれば間違いなく殺される。というのも、おれの従兄弟が隣の家の跡取り息子を撃ち殺したといってご丁寧に葉書を送ってきたんだ。こうなると相手はおれを殺さないことには済ませられないってことになっちまう。だから、どんなにかわいそうに思っても、人魚は逃がせないんだ」

 アルバニア人はそう言うと、水族館に我が身を縫いつけられ一切の動きが取れないことを嘆いていたが、当の人魚のほうは水ギセルを吸い、自由なんてクソ食らえといった様子でまどろんでいた。人魚の部屋を出て、あのハンドバッグのような南京錠を苦労して掛け直し、三十六個の裸電球の下で階段を上がっていき、元の展覧広間に戻った。

 アルバニア人は気取った仕草でお辞儀した。「以上。束縛されるあわれなアルメニア人と人魚でござい」

 水族館を出ると、アンジェロはその離宮のような建物を見た。イギリス人の建築家に図面を引かせたこじんまりとした建物で、その地下には人魚が隠されている。アルバニア人がその世話をしていて、それを怠ったが最後、味方の血に敵の血を上塗りすべく猟銃を磨いている土地へと追いやられる。

 地表の下には何が隠されているのか、ときどき分からなくなることがある。レストランの下ならワイン樽が、墓石の下なら棺おけが、コッポラ通りの行き止まりにある床屋の下にはコカイン窟があることがはっきりしているが、今の人魚のように思わぬものを見せられると、この足元には土や蝉の幼虫の他に何かが埋まっていると思える。事実、C市はローマ帝国時代から町であったのだから、旧市街の空き地を掘ると今でも古代ローマ時代のコインや陶器の破片が出る。

 大広場に戻ると、子どもたちが笑い、若い娘たちが笑い、老夫婦が微笑んでいた。白い服にカンカン帽をかぶったアイスクリーム売りが帆船型の屋台を押して、バニラ・アイスクリームにチョコレート・ソースをかけたものを売っていた。帆船の船首につけられたハープをかき抱いた人魚像を見ると、闇の底で水を吸い上げ続けるポンプの呻り声が聞こえてくるような気がした。

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