* 海の上にて
「あなたの水着、とてもかわいいわ。葡萄酒色がとてもきれいね」
「ありがとう。これ、海水浴場の管理小屋から借りてきたんだ。きみの水着もかわいいよ。真っ白くて素敵だ。きっときみはそういう水着を買ってもらえる裕福な子どもなんだろうね。ところで、きみは死者?」
「そうよ」
「海で死んだの?」
「ううん。死んだのは山の見える涼しいところ。結核で死んだの。あなたサナトリウムに入ってみたことがある?」
「ないよ。そこは楽しいところ?」
「咳き込むばかりで息を吸い込むことの出来ない病気の人たちが集まるところよ。もし、あなたが他人の不幸を喜ぶタイプなら、きっとサナトリウムは天国みたいなところよ」
「実際、そこから本当に天国に行っちゃう人たちが大勢いるんだろうね」
「あなたって辛辣なジョークをいう子だって言われたことはない?」
「ボクみたいな女の子にとって、辛辣さは自分を守る飛び道具なのさ」
「ママは涙が女の飛び道具だって言ってたわ」
「きっときみのお母さんが正しいんだろうね」
「あなたも幽霊なの?」
「分からないんだ。きみは幽霊がサクランボのジュースを飲んだり、哀れな男の言い訳を聞いたりすると思う?」
「わかんない。ねえ、海の底を見てみたいと思わない?」
「思わないね。それに海のなかを歩くのは良くないな」
「どうして?」
「突然、二人の女の子が海の中に消えちゃうんだよ。海水浴場の監視員がびっくりするじゃないか」
「あなたって見た目よりも常識にとらわれる人なのね」
「男の子みたいな話し方をしている女の子はわがままのかたまりにでも見えるのかい?」
「女の子はみんなわがまま。でしょ?」
「そうかもしれないね。それもきみのお母さんの言葉かい?」
「ううん、これはわたしの言葉」
「警句家なんだね。きみも、きみのお母さんも」
「ケイクカって?」
「ボクもよく知らない。ただ警句家はモテるって言ってたよ」
「誰が?」
「ここに来る途中のバールでそう聞いたんだ。二人の若い男がどうやったら女の子に好かれる男になれるかを真剣に話し合っていたんだけど、その片割れが警句家になるのが一番いいって言ったんだ」
「でも、わたし、そんなにモテなかったわ」
「バールの男たちの言葉を信じちゃいけないってことさ」
「バールに行くと男の人ってわざと嘘をついてみんなを笑わせるのよね」
「思い出した。皮肉屋もモテるって言ってたんだ」
「わたし、皮肉屋嫌い」
「ボクも好きじゃない。でも、百人に一人は皮肉屋の安っぽい皮肉にころっと参っちゃう女の子がいると思うんだよ。イタリアは四千万人の人が住んでいる。ということは皮肉屋にころっと参っちゃう人が四十万人いるかもしれないってことなんだ」
「ふーん」
「……」
「……」
「……」
「雲がきれいね」
「うん、そうだね」
「朝のうちは曇ってたのに」
「あっちに入道雲がある」
「ちょっとぼんやりしてるわね」
「あれだけ遠いとね」
「あの雲の下には大雨が降ってるんでしょうね」
「きっとそうだろうね」
「そのうち雨も降りつくしちゃうのかしら」
「たぶんそうなると思うよ」
「そうしたら雲は絞られた雑巾みたいにしわくちゃになっちゃうのね」
「そういえば、雲が消えるのを見たことがなかったなあ」
「町のほうには雲ひとつかかってない」
「きっと暑いだろうね」
「溶けちゃうくらい暑いわよ」
「アイスクリームみたいに?」
「うん、アイスクリームみたいに溶けちゃう」
「……」
「……」
「……」
「……」
「ひょっとすると――」
「どうしたの?」
「ボクが死んだと仮定して――いい? 仮定の話だよ――死んだのは一九二二年十月二十二日かもしれない」
「どうして一九二二年十月二十二日なの?」
「〈統領〉がローマで天下を取った日だからさ」
「それとあなたの死がどうつながるの?」
「正確に言えば、ボクの死ではなくて、アルトゥーロの死に関わることなんだ」
「だあれ? そのアルトゥーロって人?」
「ボクの大切な人。そのアルトゥーロが死んだかもしれないのは一九二二年十月二十二日なんだ」
「その日に何があったの?」
「〈統領〉が首相になることを認めない大人たちが町にバリケードを作って兵隊と戦ったんだ。そのとき黒シャツ隊が大砲を発射してアルトゥーロが吹き飛ばされたんだ。もし、ボクが死んだのなら……」
「……死んだのなら?」
「その日に同じように巻き込まれたのかもしれない」
「じゃあ、やっぱり死んじゃったのね」
「いや、そうじゃないよ。歳の取り方を忘れてるだけかもしれない」
「でも、死んでからこうして泳いだり、おしゃべりしたりできるのはいいことよ。そうじゃない?」
「そうだね。もし人間が死んだ後、光のない部屋にずっと閉じ込められるようなことがあれば、人はもっと死を恐れるだろうね」
「わたしたちとても素晴らしいことを知ってるってことね」
「そうだね」
「パパとママにこのことを教えてあげたいわ」
「どうして?」
「そうすればパパとママはわたしが死んだことを悲しんだりしないもの。ねえ、もし、わたしがパパとママに話しかけることができたら、あなたのことをお友達だって紹介してもいい?」
「もちろんさ」
「ああ、見て。入道雲がさっきよりも縁がくっきりし始めた」
「膨らんでる。こっちにくるのかな?」
「一雨ざあっとくれば、町も涼しくなるのに」
「でも、風が弱いな。あの雲は雨の匂いは嗅がせてくれるけど、実際には降らずに通り過ぎていくと思う」
「このまま南へ行くと、やっぱりアフリカに行くのかしら?」
「アフリカには雨が降るのかな?」
「降らないと思う。だって、砂漠だもの」
「じゃあ、あの入道雲はどこに行くつもりなんだろう?」
「たぶんアルプスに行くんじゃないかしら?」
「アルプス? どうして?」
「だって、あの雲ったらまるで雪山みたいだもの。アルプスだったら、山たちもきっとあの雲を仲間に入れてあげると思う」
「豊かな想像力に脱帽するよ。脱げる帽子はないけれど」
「あったら脱いでた?」
「もちろん」
「えへへ」
「どうしたの?」
「生きてたころはみんながわたしのことをお馬鹿さんって呼んでたの。でも、今日、初めて、わたしの想像する力を褒めてもらえたの。それが嬉しくて」
「その気持ち分かるよ。ボクもずっと灰色髪、灰色髪って馬鹿にされたもん。でも、そんななかでボクの髪をミルクティーみたいな色だねって言ってくれたのが――」
「――アルトゥーロってわけね」
「ご名答。だから、ボクはアルトゥーロが大好きなんだ」
「何とか会えたらいいわね」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……」
「わたし、一度、家に帰ることにするわ」
「家はどこにあるの?」
「ヴェローナよ」
「ずいぶん遠くだね」
「温かい海に憧れてここまで来たの。でも、やっぱり家に帰る。それで何とかしてパパとママにわたしが死んだことを悲しむ必要はないってことを知らせるの。パパとママにはわたしの姿は見えないけれど、でも、あきらめないで頑張ってみる」
「そう。ボクもきみの計画が成功することを祈っているよ」
「わたしも祈ってあげる。アルトゥーロに会えるといいわね」
「てへへ」
「じゃあ、もういくね」
「うん。ボクもカフェ・ミランダに戻ることにするよ。何だかまたサクランボのジュースが飲みたくなっちゃった」
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
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