3.マンザネーロ

 午後の大砲が鳴るのを聞いたとき、アンジェロ・ボンヴェントレは七教会地区と呼ばれる街にあるレストランのガラス張りの仕切り部屋でアサリのスパゲッティを食べていた。七教会地区はテアトロ・グレコ大通りとジェラーチ通り、クロッチフェクシオ街とロトンダ街に囲まれた四角形であり、その入り組んだ小さな町のなかには教会が全部で七つもあった。全て三百年以上前から建っている教会でここの住人は七つのうちのどれかの教会で聖体拝領をし、七つのうちのどれかの教会のミサに通い、七つのうちのどれかの教会で罪を告白し、そして七つのうちのどれかの教会で葬られる。

「この町は秘密警察いらずさ」皮肉な無神論者のジョヴァンニ・ロアッタが言った。「なんせ教会が住民の秘密を全部握ってファシストどもに垂れ流してるからな。ここの教会の司祭どもはみんなファシストびいきだ。ロサルボ、パンを取ってくれ」

「そりゃアカどもが教会の扉にクソなんか塗りつけるからだよ」ロサルボがパンの入った籠を渡しながら言った。「司祭たちはここの住民がみんなアカだと思ってる。それもクソを塗りつけた犯人を突き出さなかったからだ」

「知らんもんをどうやって突き出せって言うんだ?」〈教授〉が言った。「だいたいやったのが、ここの連中だってどうして断言できる? ファシストどもがやった可能性だってあった」

「まさか!」ジョヴァンニ・ロアッタが大げさな手振りで否定した。「司祭と黒シャツは同じ蜜に集まった蝿みたいなもんさ。やったのはアカの労働者に決まっている。アンジェロ、きみはどう思う?」

「僕の意見としてはね」アンジェロが言った。「食事のときに教会の扉に塗りつけられたクソの話なんて聞きたくないってこと。それにあんまりおおっぴらにファシストを悪く言うと手が後ろにまわるよ」

「ここにファシストのチクリ屋はいないさ」ジョヴァンニ・ロアッタが自信たっぷりに言った。彼は仕切り部屋の扉を開けて店のなかの客全員に対して言った。「ここにファシストのチクリ屋はいない! そうだろう、みんな!」

 外の席に座っている連中は係わり合いになりたくないといった様子でぶつぶつ言いながらパンを千切って口に入れ、赤ワインで飲み下した。ジョヴァンニ・ロアッタはこの地区でも有名な札付きの反ファシストで、三年間の隔離流罪を食らわないのが不思議なくらい、ファシストの悪口を言いふらしていた。

「小市民どもめ」扉を閉じながら、ジョヴァンニ・ロアッタは嘲るように言った。「ファシストに金玉を握られたみたいに大人しくなってやがる。そういやマンザネーロの姿が見えないな。おれはあいつに五十リラ貸してるんだ」

「マンザネーロならまもなく来るさ」〈教授〉が言った。「やっこさんが動き出すのは午砲が鳴ってからだよ。なにせ時計は全部質に入れちまったからね」

「あいつの賭博狂いは問題だよ」いつだって中庸の意見を唱えるロサルボが首をふりふり言った。「先週はルーレットで一〇〇リラすったらしい。あちこちに借金だらけで、そのうち身動きが取れなくなるぞ」

「小市民め」ジョヴァンニ・ロアッタがせせら笑った。「なあに、そんときはガリバルディ通りのファシストの支部の前で〈統領〉をクソの山呼ばわりしてやればいい」

「ジョヴァンニ、後生だから僕がものを食べているとき、クソのことを持ち出すのはやめてくれないか?」アンジェロが言った。

「分かったよ、アンジェロ。まあ、金につまったら、ファシスト党の支部の前で〈統領〉をクソ馬鹿――おっと、すまん、アンジェロ――つまり救いようのない大馬鹿野郎呼ばわりすりゃいいのさ。そうすりゃ、行政処分で三年間カラブリアかシチリアに流される。さすがの借金取りも南の流刑地までは追ってこれない。そして、三年後にはほとぼりも冷めてまた新たに借金もできるってもんさ。やつが〈統領〉をクソ――じゃなくて、馬鹿野郎呼ばわりして流されたら、少なくともおれはあいつに貸した五十リラはなかったことにするつもりだ」

「そいつは立派なご高説だね」〈教授〉が言った。「だが、わしは貸しつけている二〇〇リラはしっかり取り立てるつもりだよ」

「シャイロックめ!」ジョヴァンニ・ロアッタがふざけて言った。

「二〇〇リラは大金だ」ロサルボが言った。「おいそれと貸しっ放しにできる額じゃない」

「やつに幸運の女神が微笑むのを待つことだ」ジョヴァンニ・ロアッタは司祭のような神妙な顔を真似て言った。「トリポリ富くじでも当たればいい。ん、おい、みろ。司祭だ」

 中折れ帽をかぶった背の高い司祭が黒い法衣の裾をひらつかせながらレストランに入ってきた。カウンターで二、三ほど言葉を交わすと、小さなグラスに琥珀色のウイスキーが注がれた。

「おれはあのイギリスびいきの司祭が好きなんだ」ジョヴァンニ・ロアッタが言った。「自分の欲望に正直だからな。お布施で飲むスコッチはさぞうまかろう。どれ、一つ挨拶といくか」

 ジョヴァンニ・ロアッタは立ち上がると、仕切り部屋を出て、司祭に挨拶した。ああして笑っていると、整った顔立ちに男らしい口髭を添えたジョヴァンニ・ロアッタは良家の子弟に見える。そして、実際に彼は良家の子弟であった。彼の叔父は予備役の陸軍中将で下院議員であり、父はC市では名の知られた実業家だった。

 ジョヴァンニ・ロアッタが戻ってくると、「あの司祭め、もう別の立ち飲み屋で二杯ひっかけたらしい。それはそうと、アンジェロ、昨日のこと、考え直したかい?」

「晩餐会のことかい?」アンジェロが言った。「あいにく着ていく服がなくてね」

「おいおい、シンデレラ。服なら任せろ。おれが貸してやる。お前の美貌で尻軽女を全部まとめてごっそり引っかけるんだ」

「気がのらないな。それに――」アンジェロは白ワインを飲んだ。「僕は底引き網じゃない」

「底引き網とは参ったね。じゃあ、分かった。晩餐会はやめてファシストどものパーティに紛れ込もうぜ」

「きみは反ファシストだろう?」

「おれは何かに固定されるのが嫌なだけだ。ファシストが尻軽女を集めてパーティを開くってんなら、喜んで出席するぜ。そうだ。そうしよう。ちょうど今日、お誂え向きのパーティをファシストどもが支部の建物でやるらしいんだ。そっちはフォーマルな服は着なくてもいいしな。招待状は親父のを使って入れる。もし、予定がなかったら、付き合ってくれよ。七時からだ」

「まあ、考えてみる」アンジェロは答えた。

「だめだ。考えちゃだめだ」ジョヴァンニ・ロアッタはしつこく食い下がった。「ガリバルディ大通り。七時にファシスト党の支部の前」

「分かったよ」アンジェロは両手を上げて降参のポーズを取った。「いくよ、いけばいいんだろ」

「そうそう」ジョヴァンニ・ロアッタは嬉しそうに手を打った。「いけばいいのさ」

「ファシストのパーティねえ」〈教授〉がフムムとうなった。「ジョヴァンニ。きみはやつらでいっぱいの部屋で〈統領〉万歳を叫べるのかね?」

「楽勝さ。おれの言葉にゃ魂がない。おれは神さまも無限の命も魂も信じちゃいない」

「イギリスびいきの経験主義者め」ロサルボが笑いながら言った。

「経験主義の何が悪い」ジョヴァンニ・ロアッタはしれっと言った。「女の良し悪しは実際にヤって経験してみないと分からないもんだぜ。仮定し、実験し、考察し確実な事実を積み重ねることが人間を神さまの奴隷から自分でモノを考えるいっぱしの生き物に引っぱり上げたのさ」

「だが、みな最後は神さまにすがる」〈教授〉が諌めるように言った。「死んだ後の平穏が金や過激な思想では賄えないと分かり始めると、人間は結局、信仰にすがる。ジョヴァンニ、きみだってそうならないとは限らないぞ」

「そうなったら、そうなったで構わないさ。真理は効果を発揮して初めて真理化される。おれが土壇場で神さまに賭けなおしても真理は真理さ」

「真っ昼間から真理うんぬんの話はやめてもらおうか」太鼓腹のロサルボがマカロニでいっぱいの鉢に木さじを突っ込みながら言った。「メシがまずくなる」

「クソと真理ならどちらが食欲を削ぐ?」

「真理だな」ロサルボはチーズたっぷりのマカロニをすくい上げて口に放り込んだ。

「僕も真理かな」アンジェロが言った。

「まったく!」〈教授〉が嘆いた。「わしらときたら、ゾラの小説に出てきそうな革命家もどきみたいにレストランの奥に引きこもって、真理がどうだこうだと談義している。真理を舌先で転がして三十年メシの種にしてきたわしに言わせれば、真理なんてクソくらえさ。あんなものに仕えたからってメダルの一つももらえるわけではない。それどころかとんだ時間の浪費だった」

「そう嘆くことはないって、〈教授〉」ジョヴァンニ・ロアッタが快活に言った。「女が十人いるとすれば、必ず一人は真理うんぬんのことを口にすると、勝手にこっちをインテリと勘違いして引っかかるもんさ。インテリがモテることだってあるんだぜ」

「黒シャツはもっともてる」アンジェロが付け加えた。「みんな〈統領〉に夢中」

「あの突き出した顎がペニスを想像させるからじゃないかな?」ジョヴァンニ・ロアッタが言った。「相手のペニスでしか男の人格を把握できない馬鹿女を一人知っているが、そいつにいわせれば、〈統領〉は最高のペニスをぶら下げているに違いないそうだ。だから、黒シャツの婦人会に入って、ぴょこぴょこ手を上げて敬礼してるんだ」

 やれやれ! アンジェロは心中でややうんざりし始めた。ホテルへ戻るフロリアス・マトスと別れて、アメリカの従兄弟からの仕事を受けるべきか否か考えながら、クロッチフェクシオ街の狭い街路を歩いていたら、このジョヴァンニ・ロアッタにつかまった。そして、強引に引きずりこまれるようにしてレストランの奥へ連れてこられた。そのレストランは構えからして陰鬱としていて、ガラス窓には〈軽食〉〈飲料〉と味気ない文字が白ペンキで書いてあった。店に入れば、レジスターのすぐそばのカウンターには八等分に切られたライムパイや艶やかなカスタードケーキが目に飛び込んでくる。お菓子の類は青い絵皿に乗せられて蝿よけのガラス鐘がかぶせられ、カウンターの裏にはコーヒー豆の袋がだらしなく口を開けていた。店内のぐるりには背伸びしても届かないくらい高い位置に棚が作られていてワイン瓶がずらりと並んでいたのだが、その様子はまるで剣闘士たちの殺し合いを手すりをつかんで熱心に見下ろしているローマ市民といったところ。アンジェロたちがいるのは、四人掛けのテーブル席が並んださらに奥のガラスで仕切られた部屋だった。

「マンザネーロのやつ、遅いな」ロサルボが言った。

「ガレー船に売られたのかもしれん」〈教授〉が言った。

「あわれなセルバンテス!」ジョヴァンニ・ロアッタがニヤニヤしながら言った。「マンザネーロのために身代金を気前よく払ってくれるキリスト教国家があるだろうか?」

「あるわけがない」ロサルボが言った。満ち足りた市民然とした太鼓腹の男は七教会地区で中古銀食器の店を開いていた。まるまる太った妻とまるまる太った息子を食べさせるため、ロサルボはあっちこっちで破産した貴族の屋敷へ赴き、銀食器の競りに参加する。普段おっとりしているロサルボが血気盛んになり、キビキビと動き出すのはこの競りのときだけで、様々な意味を持つ指の組み方をして、黒檀の入れものに入った銀のフォークと銀のスプーン一式や銀のティーポット、銀のスープパン、銀の皿と銀の蓋、銀のシャンパン・クーラーを次々と競り落としていく。品物を並べた彼の店はまるで星の海のなかにいるような錯覚を覚えるほど、冷たい光に満ちていた。そして、全ての銀器に映った客の顔は膨らんだり狭まったりといびつに歪んでいたが、それは銀器に顔を寄せた者に対して美に近づきすぎることの不吉さを暗示しているようだった。特に高額な銀食器はそれを入れる戸棚ごと買い入れた。ロサルボは軽い気持ちで屋敷のバトラーから銀製の鍵を受け取ったが、その鍵は四十年間、そのバトラーの首にかかっていたもので、この鍵を使えるのは屋敷にいる三十人の使用人中で彼だけだった。それがいま、見知らぬ庶民の手に渡ってしまったことを考えるとバトラーは深く錐刀を突き刺された気分になり、血とともに彼が最も大切にしてきたバトラーとしての世界観までもが流れ失せていくようだった。

〈教授〉は本当に教授なのか定かではなかった。ロサルボは退職した中級官僚だといい、ジョヴァンニ・ロアッタは本物の教授でボローニャ大学で哲学の講演をしているのを見たことがあると言い張った。〈教授〉も七教会街区の住人であったが、さほど信心深いわけでもなく、ミサには気が向いたら足を運ぶ程度のものだった。赤ワイン、女、太陽を愛する典型的なイタリアの老人である彼がどうしてジョヴァンニ・ロアッタと知り合ったのかは謎だった。ジョヴァンニ・ロアッタは厄介事が服を着て歩いているような手合いであり、小市民的インテリの〈教授〉とはとてもうまが合うとは思えなかった。

「〈統領〉が立派立派とみんなに褒め称えられているのはな」ジョヴァンニ・ロアッタはまた危険な話題を口にし出した。「イタリアという国をまんまとかすめとっちまったからなんだ。やっぱり男として生まれたらシニョーレと呼ばれて、一国を指図する立場に立ってみたいもんさ。おれにウルグアイくらいの国をくれたら、モンテカルロみたいに立派なカジノをじゃんじゃん立ててやるんだ」

「マンザネーロがよだれを垂らしそうな話だな」〈教授〉が言った。

「マンザネーロのことなんて持ち出さないでくれよ、ゲンが悪い。おれは割りと本気でカジノのことを考えているんだ。シチリアみたいな痩せた土地は農業の代わりに海沿いにカジノを立てるべきなのさ。海がきれいなんだからな」

「それは無理じゃないかな」それまで黙って聞いていたアンジェロが口をはさんだ。「僕らはイタリア人だ。一年の工期が平気で三年に延びるし、投資家から集めた元手の一五〇万リラのうちの半分が一ヶ月もしないうちに使途不明金となって煙のように消え、カジノ建設委員会のご婦人たちは突然ミンクのコートを着るようになるんだ」

「わかった、わかった」ジョヴァンニ・ロアッタは大仰に手をふった。「そりゃ、おれたちはイタリア人だ。イギリス人やアメリカ人、それにドイツ人ならうまく事を運んだだろう(実際、ドイツの温泉保養地はカジノだらけだ!)。でも、しょうがないだろ? それがイタリア人だ。ローマの役人と一〇〇万リラを同じ部屋に閉じ込めて、二重三重に鍵をかけて外に出られないようにしても、次の日に扉を開けたら、見事に金も役人もドロンしている。脱け出した方法は分からないが、確かなことはただ一つ。消えた一〇〇万リラは一チェンテージモだって戻ってこないってことさ」

「そのイタリア人らしさを〈統領〉は叩き直すと公言しているぜ」ロサルボが言った。

「どうやって? あのしゃくれた顎でどつくのか?」ジョヴァンニ・ロアッタは言った。「おれたちイタリア人はアイスクリームと複式簿記、それにカトリック教会を発明した。それでよしとしようや。それ以上を望んじゃいけない。そうだろ?」

「おれたちは知らないが」ロサルボが言った。「あちこちの工場や事務所には必ず黒シャツ狂いがいて、仕事をサボったり、ちょっくら新聞に目を通しただけですぐに会社の上司にいいつけて、ファシスト党の名の下に改善しろと訴える。つまりクビにしろってことだ。やつらは工場や会社を軍隊みたいにしちまったんだ。これだけ窮屈になれば、イタリア人も変わるさ」

「まるで黒シャツは腐ってないみたいな口ぶりだな、え? じゃあ、郊外の開発計画が公表される寸前に市のファシスト党の幹部たちが当該地を買い上げて莫大な利ザヤを稼いだのはどうなんだ? とてもイタリア的じゃないか。いいか、ロサルボ。もし〈統領〉がイタリア人とは効率的で誠実で仕事に手を抜かない人間であると本気で思っているとしたら、おれたちは妄想性障害をかかえた野郎に国の舵取りを任せてるってことになる。ああ、おっかねえ!」

「そこまでイタリアを貶めることはないだろう?」ロサルボが小市民的ナショナリズムが発露させると、ジョヴァンニ・ロアッタの目がきらきら輝き出した。疑似餌に食いついた魚を見る釣り人の目だ。ロサルボは慌てて、アンジェロにも同意を求めるように話をふった。

「きみはどう思う、アンジェロ? ぼくらイタリア人はそんなにいいかげんな民族だろうか?」

「さあ」アンジェロは肩をすくめて付け加えた。「ただ、中流どころのホテルのサービスがどうしようもないほど低水準で路面電車は時刻表どおりにやってきたためしはなく、良識の欠片もない聖職者が我が物顔で教区を歩いているってことは知っています」

「まあ、確かにその手の連中には手を焼かされる」〈教授〉が言った。「それがイタリア人の性だというなら、ロサルボ、あきらめて受け入れることだ。十世紀以上前から続いている怠惰と不実の歴史は一朝一夕には解決せんよ。さて、そろそろ、デザートが欲しいな」

〈教授〉と扉を開けて、コーヒーとカスタードタルトを持ってくるように給仕娘に言った。ガラス製の店棚に並んだチョコレートケーキやチーズケーキのなかから甘いカスタードクリームをたっぷり使ったタルトを四切れ取り出して、食後のコーヒーとともに仕切り部屋に持ち込んだ。

「イタリア人はこんなにうまいデザートを作ることができるのだ」〈教授〉はタルトを一口食べ、口を拭きながら言った。「それで十分じゃないかね?」

「それにグラッパもある」ジョヴァンニ・ロアッタが言った。「エスプレッソもある。〈統領〉はイタリア人を変えるなんてことはしなくてもいいのさ。そんなのはどこかのサロンの有閑マダムたちに任せておきゃいい」

「おかわりを頼まんと」ロサルボはもうタルトを平らげていた。「実にうまいタルトだ」

 そのとき、店の開けっ放しの表に影が差し、客が入ってきた。アンジェロが振り返ると、仕切りガラスの向こうではカラーもネクタイもチョッキもつけていない男が鳥打帽を手に握って、主人に何か注文していた。だが、主人は首をふり、アンジェロたちのいる仕切り部屋を指差した。男はしょぼくれた様子で仕切り部屋へと歩いていった。その黒い服はあちこちが白っぽく色が抜け、こすれて開いた穴を無理やり縫い付けて閉じた跡がいくつもあった。

「やっと来やがったな」ジョヴァンニ・ロアッタはパンと手を打って、勝利宣言をあげる国家元首のごとく厳かに立ち上がると、このシチリアの小作農のような男を迎い入れた。

「マンザネーロ!」ジョヴァンニ・ロアッタは歓喜の声をあげた。「この悪党! 言えよ、カウンターで何があった?」

「大したことじゃないよ」マンザネーロは弱々しく言った。「牛の腎臓のバター炒めと小さなパンを三つ、それに赤ワインを頼んだだけさ。そうしたら、ここにいる誰かがぼくの勘定を持つことをはっきり保証しないと昼飯を出さないっていうんだ」

「いくらだい?」

「三リラあればいいんだ」マンザネーロは両手で鳥打帽を持つと少しうつむいてジョヴァンニ・ロアッタの顔をねだるように見上げた。

「わかった、わかった」ジョヴァンニ・ロアッタは言った。「三リラだな。おれが建て替えるよ」

 ジョヴァンニ・ロアッタが席を立ち、戸口からカウンターの主人に向かって、マンザネーロの勘定は自分が持つと言っているあいだ、アンジェロは心中の驚きを顔に出さないように努めて、冷静さを保とうとしていた。マンザネーロだって? こいつはトト・フェリーリョじゃないか! 伝説的な殺し屋。以前、アンジェロがその顔を見たのは二年前だったが、そのときは一流の殺し屋らしく、身なりも顔立ちもシャンとしていた。もし、そのとき、世界で一番の冷血漢は誰だ?とたずねられれば、アンジェロは躊躇うことなくトト・フェリーリョの名を挙げただろう。女で身を持ち崩して仕事から遠ざかったという噂は聞いていたが、アンジェロはちらりと見たときのトト・フェリーリョの印象が強く残っていたから、きっとトト・フェリーリョ自身が雲隠れのためにそんな噂を流しているのだろうと思っていた。

 しかし、今日の様子だと噂は本当だったようだ。トトことマンザネーロはアンジェロが同業者であることにまったく気づいていないらしく、見慣れない新入りにおどおどしていた。

「こちらはアンジェロ・ボンヴェントレ」〈教授〉が紹介した。「アンジェロ。こちらはジュセッペ・マンザネーロ」

「貧乏神に取りつかれた男さ」ジョヴァンニ・ロアッタが席に戻りながら言った。「悪党め。これで五三リラの貸しだぞ」

「分かってるさ」トトことマンザネーロは肩身の狭そうな様子でポケットに手を入れて、つま先を床にこすり付けていた。「〈教授〉には二〇〇リラ借りてるし、ロサルボにも七〇リラ借りてる」それからトトことマンザネーロはアンジェロのことを開きっぱなしのがま口でも見るような目でちらりと見た。それに気づいたジョヴァンニ・ロアッタは、

「アンジェロ、間違っても、この悪党に金を貸すんじゃないぜ。二度と帰ってこないからな」

 と言って、トトことマンザネーロの肩を強く押して、席の一つに着かせた。「昼飯代の三リラはおごりにしてやるよ。お前はただ五十リラのことだけ考えておけばいい」

「ありがとう、ジョヴァンニ」

「いいってこと」

 四人のタルトが片づき、コーヒーを飲んでいることになって、給仕娘が現われて、腎臓のムニエルと赤ワイン、それにシチリアの丘の石ころのような小さなパンを三つ入れた籠を置いていった。

「助かったよ」トトことマンザネーロはうっすら目に涙を浮かべていた。「この十日間、水で薄めたミネストローネを飲んで暮らしてきたんだ。ポーカーはぼくをコケにし、ファロはぼくを打ちのめし、ルーレットがぼくの心臓にトドメを刺した」

「つまり、有り金は全部すっちまったってことか?」

 トトことマンザネーロは恥じ入るように頷いた。

 ロサルボが嘆いた。「昨日、渡した金はきみが質屋からカラーとネクタイを受け戻すために渡したものだったはずだ」

「そうです。ロサルボの旦那。でも、昨日、ぼくは賭場に行ってしまって……」

 ジョヴァンニ・ロアッタがトトことマンザネーロをかばった。彼は欲望に忠実な人間を嫌いになれない質だったのだ。ジョヴァンニ・ロアッタがトトことマンザネーロの弁護を受け持っているあいだに当のトトことマンザネーロは腎臓のムニエルをあっという間に食べつくし、パンでソースをきれいに拭きとって飲み込み、赤ワインで全部胃袋に流し込んでしまった。人心地つくとトトことマンザネーロも多少の矜持を取り戻したらしく、上目づかいをやめて、顎をしっかり引いて、まともな人間らしい表情をするようになった(これまでの表情ときたら、まるで屠殺用の鉞を前にした子牛のようだった)。そして、図々しくも今夜の賭場で使う軍資金として五〇リラを借りたいと言い出した。あまりの図々しさにその場にいた全員が呆れ果てたが、結局、ジョヴァンニ・ロアッタが三〇リラ貸し、足りない二〇リラをアンジェロが貸すことになった。〈教授〉はやめるように忠告したが、アンジェロはきかなかった。

「戻ってこないぞ」

「それは期待してません。ところで、彼ですが、古い住人ですか?」

「いや」〈教授〉は首を横にふった。「八ヶ月か九ヶ月前にジョヴァンニが連れてきた。それがどうかしたかね?」

「いえ、まあ、以前、どこかで見かけた気がしまして」

「それはそうだろう。あの手の男はどこにでもいる。そんな気がするのも無理はない」〈教授〉は葉巻の端をハサミで切ると、マンザネーロが持っていたマッチを素早くすって、風など吹いていないのに火を手で囲いながら(そっちのほうがより媚びてみえるから!)、〈教授〉の葉巻に火を差し出した。それからロサルボには銀食器のほうは儲かるかなどと会話をかわし、ジョヴァンニの体制批判を含んだ辛辣かつ過激な冗談に油断なく笑い、何とかその場の雰囲気が悪くならないように気を配っていた。

 アンジェロが知る限り最も腕が立ち、最も冷酷だった殺し屋が場末のレストランの仕切り部屋で役に立たない議論をこねくりまわす一団の道化役を買って出ているというのは見ていて辛い光景だった。これが勘違いだったらいい。そう思い、アンジェロはシガレット・ケースからベルサリエリを一本取り出しくわえると、マッチをすって近づいてきたトトことマンザネーロから火を貰いながら礼を言った。

「ありがとう。トト・フェリーリョ――じゃなくて、マンザネーロさん」

 トトことマンザネーロの顔はみるみるうちに蒼くなり、火のついたマッチを持ったまま、彼は金縛りにでもかかったように動けなくなった。マッチの火が彼の指をあぶって始めて、腕を跳ね上げてマッチを落とした。火のついたマッチを踏み消すとアンジェロは何も言わずにトトことマンザネーロに微笑した。

 額に汗を浮かべ、薄ら笑いを浮かべながらも押し黙ってしまったものだから、ジョヴァンニ・ロアッタは辛気臭くていけないといい、グラッパを一杯注文した。

「さ、ぐっと飲みな」

 トトことマンザネーロは勧められるまま、グラッパを飲み、咳き込み、ジョヴァンニ・ロアッタの笑いを誘った。

 マンザネーロは気分が優れないといって、外の空気を吸いたいといった。ジョヴァンニ・ロアッタがそれを許さなかった。

「そんなこといってトンズラするつもりだろ? 金策も終わったことだしな」

「そんな、ジョヴァンニ。必ず戻ってきますよ、信じてください……」

「じゃあ、僕が――」アンジェロが立ち上がり、帽子を手に取った。「一緒に出ますよ。足がこわばったから少し歩きたいと思っていたところです」

「アンジェロがいれば安心だ」ジョヴァンニ・ロアッタは笑ったが、ロサルボと〈教授〉はアンジェロがさらに金を無心されるのではないかと思い、それとなくやめるように言ってみたが、アンジェロはやはりきかなかった。

 トトことマンザネーロは汚れたハンカチで額や首筋の汗を拭きながら、アンジェロを見つめていた。二人が店を出るとからりと熱い風が吹いた。トトことマンザネーロは帽子をかぶらず、両手でくしゃりとつぶしたまま、胸に押しつけていた。店を出て、七つある教会のうちの一つである聖ロトンダ教会の小さな柱廊の陰へ二人は歩いた。トトことマンザネーロは歩きながら震えていた。教会の前の小さな広場には誰もおらず、窓にも人の姿は見えなかった。

「教会でおれを殺すのか?」トトことマンザネーロは震えながらたずねた。「神の御許で? おれを殺すのか?」

「誰も殺したりしません」アンジェロが答えた。「ただ知りたいんです。一流の殺し屋だったあなたを何がここまで堕落させたのか」

「堕落か。現役で働いているきみから見れば、今のおれは堕落者以外の何者でもないな」

「質問にまだ答えてもらってないんですが」

「女。酒。コカイン。いつのまにか手の小刻みな震えが止まらなくなった。そこにおれは嫌な光景を見ちまったんだ」

「なんです?」

「ある母子だよ。母親が路面電車に轢かれて死んだ。そして子どもが泣いていたんだよ」

「それが?」

「分からないんだろう? おれはこれまで殺してきた人間にも家族がいて、おれのせいで涙を流しているという単純明快にして今まで考えようともしなかった事実を突きつけられたんだ。想像力がついたんだ。そして、おれはそれに負けた」

「それがここまで落ちぶれた理由だって言うんですか?」

「もうおれは以前のおれのように人を殺す自信がない。とてもじゃないができない」

 それからさんざん泣き言を聞かされたアンジェロは半ばうんざりしてきた。伝説の存在がめそめそ泣くだけの賭博狂に成り下がった様子をじかに見るのは辛かった。だが、本番はこれからだった。めそめそしていたトト・フェリーリョが突然汚れた袖口で涙を拭い去ると、いや、ここできみのような優秀な殺し屋と出会えたのはむしろ神さまがおれにくれたチャンスなのかもしれないと言い出したのだ。

「どういうことですか?」嫌な予感を感じつつもアンジェロはたずねた。

 不運に取りつかれた男は説明した。ある貿易会社がコカインの密輸をこのC市で始めようとしている。その会社がこれまでに手を染めた悪事は脱税くらいのもので裏の世界のことにはとんと素人だった。だから、サルヴァトーレ・〈トト〉・フェリーリョがまだ一流の殺し屋だと思っている。その会社はトトに用心棒役を頼んできた。取引の見張り役になってくれというのだ。トトが借りた五十リラは賭場ではなくて、古着屋で使うつもりで借りたもので、彼は多少は見栄えを良くするためにカラーとネクタイと中折れ帽を買い、それにどんなにポンコツでもいいから銃を一丁手に入れて、取引に同席するつもりだった。だが、本当にまずいことになったら――例えば撃ち合いなどに――今の自分では対応しきれないのは間違いなかった。まだ現役の本物の殺し屋が必要だった。そんなときにアンジェロが現われたのだから、これはもう天の啓示に違いないとトト・フェリーリョは思ったのだ。

「僕にコカインの取引に付き合えっていうんですか?」アンジェロはあからさまな嫌悪感を示した。

「二人の殺し屋が街でばったり出くわす確率は何パーセントだと思う? これはトリポリ富くじ一等賞並みさ。頼む。おれの伝説に最後の一花を添えるつもりで引き受けてくれ」トトは哀願した。「報酬は二〇〇〇リラ。二人で山分けで一〇〇〇リラ――いや、あんたが一二〇〇リラ持っていってもいい。荷物が船から降りて車に乗せられるのを見守るだけで一二〇〇リラだ」

 アンジェロは黙っていた。トト・フェリーリョも黙っていた。にらみ合いの末に、結局、アンジェロが根負けした。自分の憧れと畏怖の対象だったものに対して一つのケリをつけるために受けることにした。トト・フェリーリョは午後五時に旧埠頭の七号桟橋にスウェーデン船籍の貨物船「オクセンシェルナ」号で問題の荷物が下ろされる。三十分の仕事だ、と太鼓判を押した。

「報酬は五分五分で結構です」

「そう言ってくれると思っていたさ。さあ、そうと決まれば、店に戻ろう!」トト・フェリーリョは喜びに顔を綻ばせていた。「これがうまくいけば、借金はみんな返せてお釣りが出る」

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