* 生きてもいないし死んでもいない葡萄酒色の少女
葡萄酒色のリボンネクタイを結ぶ。手袋みたいにぴっちりした葡萄酒色のズボンに十九個のボタンで留める葡萄酒色の革ゲートルをつけて。ボクが着るシャツはもちろん葡萄酒色。赤でもなければ黒にもあらず。さあ、出発だ。通りが人間ならホテルだらけのサンタ・カタリーナ通りは派手好きなおばさんってところ。女主人気取りでお客をご招待。むっちり大きなお尻を右へ左へ。お花はあちら、お料理はこちら。指図、指図で、また指図。その後ろに続くは海軍街。キザでいやらしい海軍士官でサンタ・カタリーナ通りのお尻にべったりくっついている。海軍なんていうくせに手品で創り出せるのは魚雷をのせたモーターボートが精いっぱいの空っぽ野郎。ああ、いやだ。おっと忘れちゃいけない棕櫚樹通り。南国生まれのカッカしやすい老人は海軍街とサンタ・カタリーナ通りから離れていく。あんな連中もう我慢ならん!ってワケだ。でもね、御大。あなたも相当なもんですよ。でも、仕方ない。お年寄りだ。先は短い。短い通り。だってしょうがない。誰もヴィットリオ・エマヌエーレ二世大通りをまたげない。だって、彼は国王だ。バラバラのイタリアをナショナリズムの接着剤でくっつけた偉大な長靴職人。しかも好色。まあ、これはイタリア男の性ってとこ。でも、きみだけは違うよ、アルトゥーロ。さてさてお次は息子のウンベルト一世通り。ミラノのウンベルト一世通りはため息をつきたくなるほど美しいガッレリア。でもC市のウンベルト一世はただの王さま。自分では自由主義に理解のある王さまだと思っていたけれど、ミラノの屠殺者フィオレンツォ・バヴァ=ベッカリス将軍にたらふく勲章をくれてやったのが間違いだった。ああ、無政府主義者の殺しのリストの筆頭に載ってしまった。行動によるプロパガンダ。ピストルで胸を一発、二発、三発。恩赦を与えるヒマもなく死んじゃった。レクイエスカット・イン・パーチェ。ラテン語の授業は嫌いだったけど(好きなやつなんているのかな?)、この言葉だけは覚えてるよ。薄暗い部屋につながる扉を開けっぱなしにしているポレストロッロ通りは陰気なイエズス会士。十字架を首から垂らしておいでおいでしている。足元に転がるのは悪名高き親指潰し。どんな異端者もこいつでコロリ。わたしが悪うございました。悪魔にまどわされたのです。神よ、許したまえ。異端も一発目なら許してもらえる。でも、二発目となるとカルロ・アルベルト広場の出番。ピエモンテとサルディーニャの王の名を冠するこの広場ではその昔、盛大な焚き火したものだ。異端者たちを薪にして。カタラーラ街はゲットー。強欲な金貸し。シャイロックたちの棲み家。自分の勘定で一チェンテージモでも足りないと髪の毛をかきむしって狂ったようにわめき散らす。お涙頂戴の安っぽい劇をかける劇場街は機械仕掛けの神さま役の俳優。悲劇も喜劇も歯車の機械で上から吊るされて突如降りてきた神さまが劇の最後で登場人物全員を幸せにするか大地震を起こして皆殺しにするかで強引に解決。それまでの話の筋はみんなパア。まさに脚本の殺し屋。デウス・マクス・エキナ。ああ、これも覚えてた。ラテン語っていうのはなくしたコインみたいだ。忘れたころに不意に出てくる。フランチェスコ・クリスピ通り。イタリア王国首相にしてシチリア人、赤シャツ隊の一員として急進的共和主義者を自称したのは過去の話。首相の彼は役人の神さま。彼が首相になった途端、役人にどしどし権限が付け加えられていった。ハレルヤ! 役人たちよ、彼をたたえよ。ただし、エチオピアの皇帝をなめてかかったのが躓きの石。一八九六年。アドワの戦い。ボロ負け。アフリカ人相手に。彼らは野蛮人? いいえ。ミラノ勅令が出る何百年も前から筋金入りのキリスト教徒。司令官に罪をかぶせて、無理な督戦をした自分は何とか非難から逃れようとしたけれど、そうはいかなかった。赤シャツ仲間のオラステ・バラティエリ将軍とアドワで死んでいった大佐たちは地獄の底から甦り、彼を首相の椅子から引き摺り下ろした。これにもレクイエスカット・イン・パーチェ。アゴスティーノ・デプレスティス通りはえっへん、おっほん、ごほんごほん、えへん。ごほん、ごほん? うおっほん! カポレットの大災難。カドルナ通りは役立たず。ディアス通りが尻拭い。ヴィットリオ・ベネト通り。一大反撃。大戦終結一週間前、停戦締結後の反則奇襲攻撃。逃げるオーストリア軍のお尻を蹴っ飛ばして得たものは大量のボヘミア人とハンガリー人。二十万人ばかし。彼ら捕虜を食わせるのに使うお金はもちろん国民の税金。世界は首をかしげる。イタ公どもは何がしたかったんだろう? 答えは簡単。勝利が、それも圧倒的な勝利が欲しかったのさ、ベイビー。ディ・ベネディクト博士通りはおやつの開拓者。新しいミント・ソース製造法の特許で一財産稼いだC市製菓業界の羨望の的。大発明が閃く確率はトリポリ富くじ一等賞なみなり。リービッヒ通りは世界をまたにかけた旅行家。アマゾン、アフガニスタン、ポリネシア、ドイツ領西アフリカ、ドイツ領東アフリカ、シナ、日本、メキシコ、ビスマルク諸島、そして古代ギリシャまであらゆる場所を旅するさすらいの旅人。その旅行資金は全て肉汁エキスの売り上げから出ている。かくいうボクもリービッヒ・カードを集めたもんさ。ココアのカードも集めたなあ。つばを左側だけ上に折り曲げて赤白黒のリボンバッジで止めた帽子をかぶった植民地スタイルのドイツ軍が反乱を起こした黒人たちを蹴散らす絵柄。アドワのボロ負けに比べると、ドイツ人は黒人殺しがイタリア人よりもずっと上手だ。トリポリ広場では伊土戦争戦勝記念碑が地面に突き刺さった不発弾のように屹立していた。メルキオーレ通りは玉ねぎ剣士。玉ねぎ売りの屋台が入口のアーチから時計塔のある出口のアーチまでぐさりと剣で串刺しにされたように並んでいる。玉ねぎ一つ一つは品種や大きさが違うらしく、料理にあった玉ねぎを選ぶことが賢い主婦の買い物の一つだった。トマトソースを作るのに大きな玉ねぎを三分の二切るよりは小さい玉ねぎを二つ入れたほうがいいソースができる。料理の甘みは玉ねぎの炒め具合で調節するのだから、これだけ玉ねぎにこだわるのも当然のように思えてくるものだ。ガリバルディ通りはC市最大最長の通り。町の外から海岸まで中央に椰子を植えた道が一直線に続いている。真っ赤な二階建ての赤シャツ路面電車が走っている。市庁舎や法務局出張所などC市の主要な公的機関の建物が集まる官庁街と商業銀行やアーモンド、オリーブ並びに赤ワイン用葡萄栽培農家向け信用金庫などの金融街がここに集まっている。そして、ファシスト党C市支部の大きな建物もこの通りにある。ガリバルディさん、ガリバルディさん。あなたの名前のお腹の上で役人と銀行家と黒シャツどもがマズルカを踊っていますよ。アーモンドの丘の麓にある工場街を歩くのは気が滅入る。洗濯工場の排水口から垂れてきた白い泡が風にゆられて、水溜りの上をゆれているのは出来損ないのソフトクリームのようでムッとくる。黒く煤けた石炭置き場はミンストレル・ショーの芸人みたいな顔をした男たちでいっぱいでスコップで石炭をすくっては麻の袋につめて、倉庫に積み上げていく。フィアットの工場が五〇七のオープン・カーを作っている。乗るのは金持ち、見るのは庶民、ひき潰されるは犬ばかりなり。鋳物工場はコンキスタドールがかぶりそうな鉄兜似の巨大バケツをつくっている。甘ったるい匂いをぷんぷんさせるシロップ工場ではストロベリー・シロップやレモン・シロップを毒ガスの原料でつくっている。混ぜる順番を変えるだけで毒ガスがシロップになるのだ。あな、おそろしや。辻の中央の広告塔にポスターあり、なになに――ファッショ・リットーリオ製作請負。一〇〇リラから。あんな斧に薪を束ねてくくりつけただけの代物に一〇〇リラも取るの? ぼったくり! 面の皮が厚いというか、なんとやら。まだ帝冠をかぶった双頭の鷲のほうがカッコがつく。工場食堂の使い走りが床に撒くためのおがくずを製材所や指物師の元を駆け回って集めている。工場に挟まれたぺちゃんこの家の奥からは猫みたいにぎらぎらと光る目をした老人がブリキ卓に肘をつき、油断ない目を通りに向けながら、シェリー酒をなめていた。戸の上には文字のかすれた看板――グイドネッキ剥製商。左右に並んだ工場が小さな作業場に変わり、さらに職人数人でまわしている工房に変わり始めると、道は居酒屋帰りの酔っ払いの千鳥足のようにジグザグに丘を下る。そこはバッカスに魅入られた道。ワイン卸商や蒸留酒卸商の大きな門構えから樽を転がす音がごろごろとお腹に響いてくる。バールは何軒もあって、道が角に行き当たると、そこには必ず小さな泉がある。酔っ払い道路とお別れすると、パレルモ通りが横に走っている。パレルモ通りはツンと済ました気取り屋のお嬢さん。左手に精緻なステンドグラスが評判の聖カルミネ教会、右手にペリドット色の蔓草が深く絡んだ〈緑の砦〉を手にし、ドレスの袖は路面電車のレールに飾らせ、大きな海老を出すレストランやイタリアで唯一の女性用乗馬服専門の仕立て屋、それに三つの宝石店をつなげて、ネックレスのようにしてよそゆきの召し物に仕上げた手腕はお見事。でもね、パレルモちゃん。きみは地べたに敷きつめられた石の集合体なんだから、いくらおめかししたとこで、どこにもいけないよ。おまけにパレルモなんて素敵な海が臨める名前を貰ったのにきみはずいぶん海から離れているね。そうだ、海で思い出した。カフェ・ミランダに行かなくちゃ。どうして、海を見て、ミランダを思い出したんだろう? 壁を水色に塗っているせいかな? もうじきヴェトラーノ砦の砲兵隊が正午の大砲をドンと一発鳴らすはずだ。お昼を軽く取るのも悪くない。カフェ・ミランダにはラジオもある。冷たいサクランボのジュースを飲みたいな。そうしたら、海だ。こんな日はやっぱり海で泳ぐのがいい。もちろん水着の色は葡萄酒色で――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます