2.ブラジル人のフロリアノ・マトス

 海軍街から棕櫚樹通りへ曲がらずにそのまま歩くと、高級ホテルが連なるサンタ・カタリーナ通りへと続いている。そこでは使う人間と使われる人間のあいだに厳密な壁が築かれていて、一度使われる人間に放り込まれたら最後、絶対に使う側に行くことはできないという代物だった。ボーイになったらせいぜい三十年勤めてやっとフロント係にしてもらえる。そのころには肉がたるんで髪に白いものが混じり、すっかりくたびれ果てているだろう。コンシェルジュというのもなかなか大変な仕事である。ロビーの奥まりにつんとすまして座っているところなどホテルの影の支配者然としているように見えるが、実際には客の奴隷に過ぎない。高級ホテル街においてコンシェルジュほど惨めな役はないといっても過言ではない。客が欲しがるものは何でも手配しなければいけないのだ。彼は高級娼婦を派遣する娼館の電話番号を知っている。だが、それは彼のためではなく、客のために知っているのだ。彼はコカインの売人への連絡方法を知っている。それもまた自分のためではなく、お客のためなのである。高級娼婦やコカインが彼の目の前を素通りしていくのをその目でしっかり見るハメになるというのは精神衛生上大変よろしくないことだ。だが、同時に客や支配人たちはコンシェルジュに禁欲的な肖像を求める。だが、コンシェルジュだって人間である。世間の求める偶像と己の本性のあいだで彼は矛盾にぶつかりそして内部から少しずつ崩壊していく。ホテルのコンシェルジュが何でも物知り顔で非常に大人しく自分の席に座っているのは彼という砂の城が常に自己破壊の波に晒されているからに過ぎない。彼には感情的になる余裕がないのだ。ホテルの支配人はといえば、ボーイからコンセルジュ、メイド長やコック長まで全てに采配する神のように見えるが、そう見えるだけで、ボーイやメイドたちは独自のルールをつくり暗黙の了解をつくり上げるし、コック長も独立志向が強いし、メイド長もどうしてなかなか言うことを聞かない。それなのに支配人は常にオーナーの批判の受け口にならなければいけないのだ。収益が減ると文句を言われるし、収益を上げるともっと上がるはずだとやはり文句を言わせる。オーナーは支配人の首など簡単にすげかえられるのだと脅し文句をはっきり言うことを躊躇しないし、実際にそうされた支配人も少なくない。馘首された支配人の行き先はやはりホテルである。ただしホテルの格はぐんと下がる。海から離れた旧市街の安ホテルでつぶされた南京虫のシミの残るデスクに腰掛け、客の目を盗んで煙草を吸うボーイだの、娼婦の斡旋をするフロント係だの、あるいはそのまま娼婦役も兼ねているメイドたちだのの監督をする。すると、ホテルの支配人はここに休息の地を見出す。ボーイたちを容赦なくこき使い、フロント係やメイドから上前を撥ねることで一財産築こうというわけだ。そうやって何年か安ホテルに君臨するも終末は突然やってくる。フロント係がコカインの不法所持で捕まり、憲兵の厳しい追求に耐え切れず全てを告白してしまう。コカインは客に売るつもりだったことを白状し、この手の不法行為が行われていたことはホテルの支配人も知っていて、ホテル内で行われる違法な稼ぎの三分の一は支配人に払うことになっていたことまでも白状してしまうのだ。支配人のピンハネ帝国はあっけなく崩壊し、彼に検挙の手が伸びる。だが、支配人は文化的な人間である。文化的な人間にとって、ナポリのカモッラ団員やカラブリアの山賊がごろごろいる監獄の生活は耐え難いものであることは必至。彼は禁固刑に甘んじるかわりに小さなピストルをぴったり胸に押し当てて引き金を引き、事件の幕を引き降ろすのだった。

 だが、ホテルの客たちはそんなことは露とも知らずに使う人間の応えられない安楽のなかでまどろむことができるのだ。黒人と白人の混血、ブラジル人フロリアノ・マトスはそうした高級ホテルの一つ、メトロポリタン・ホテルに部屋を取っていた。四十代、褐色の肌に高い鼻、いつも眩しげに細められた目、たっぷりたくわえた口髭と顎鬚、黒い髪はポマードを使わずに軽く分けられていて、右手の薬指には農業技師専門学校の卒業者に与えられる銀の指輪が光っていた。所作言葉遣いも白い麻の服の着こなしぶりも上品で、ギザギザのナイフで切られた右頬の傷痕がなければ、弁護士や医者に見えていたところだった。

 フロリアノ・マトスはブラジルの最南端にあるリオ・グランデ・ド・スル州で警察署長を殺した。そこでは政治家や警官、弁護士、そして、牛飼いの親玉たちが知事派と反知事派に分かれて対立していた。牛飼いの親玉たちは州の牧場と牛のほとんどを所有する草原の専制君主であり、大勢の牛飼いを手下にかかえていて、そのなかにはフロリアノ・マトスのような殺し屋も含まれていた。警察署長は反知事派の領袖を五人逮捕してさんざん拷問をしてから道に放り出した。そのなかには牛飼いの親玉の息子も含まれていた。息子は発見後まもなく息を引き取った。報復としてフロリアノ・マトスへ殺しの命令が下され、彼は警察署長の首を分厚い鉈で刎ねて、庭園晩餐会の最中だった知事邸の庭に放り込んだ。雇い主からは使い切れないほどの報酬をもらい、ほとぼりが冷めるまで、と母の故郷であるC市にやってきたのだった。

「それは良心の呵責とは違うな」フロリアノ・マトスはチーズ・サンドイッチのフライを食べたときの死者への同情について言った。「もっと広範なものを含んでいる。自分自身も含めて」

「僕自身も含めて?」

 メトロポリタン・ホテルのラウンジで二人は煙草をくゆらせながら、ドレフュス事件を題材にしたすごろくをしていた。それは誰かの忘れものらしく、窓際のテーブルに折りたたまれた状態で置いてあった。賭博師でもあるアンジェロがサイコロを提供して早速やってみることにした。マトスは技師の指輪を外して駒代わりにし、アンジェロは銀のカフスボタンを外した。そのすごろくは大人向けに作ったものだった。というのも、自動車に乗ったエミール・ゾラやメキシコの版画家ホセ・グアダルーペ・ポサダが描いた髑髏の夫人、真犯人のエステルアジ大尉や陸軍省に送られた怪文書などのマス目のあいだにフランスを戯画化した女性マリアンヌが何度も裸で出てくるからだ。ゴールの六十三番目のマス目では素っ裸のマリアンヌがちっぽけな太陽を頭上に掲げ、正義の勝利を祝っていた。

「僕自身も含めてっていうのはどういう意味だい?」

「こいつだよ」そう言って、フロリアノ・マトスは髑髏の夫人のマス目を指でコツコツ突いた。「死ねば人はみな骨になる。きみはカタコンベの死者全てへの同情と同時にやがて死んで骨になる己をも同情したのさ」

 そう言いながらフロリアノ・マトスはサイコロをふって、チャプカをかぶった槍騎兵のマスまで駒を進めた。

「人は死ねばみな骨になる、か」アンジェロはサイコロをふって、仏領ギアナにある悪魔島のマスにカフスボタンを置いた。「僕のリードだね」

「競い合ったところで辿り着く真実は一つしかない。速いか遅いかの違いだ」

「でも、これはすごろくだから、速さを競うことに間違いはないと思うけどね」

「うん、それもそうだ」そう言いながらフロリアノ・マトスは六の目を出して、空に三日月がかかったヴァンドーム広場のマス目に止まった。「そら、悪魔島まであと少しだ」

 アンジェロの駒は二つ進んだ。そこでピカール中佐とエステルアジ少佐の喧嘩に巻き込まれて一回休みになったあいだにフロリアノ・マトスの指輪がカフスボタンを飛び越えて、弾道学の説明をしている黒板の駒に落ちた。

「接戦だ」アンジェロが言った。「このホテルは過ごしやすそうだね。シャワーはちゃんと出るかい?」

「ああ」

「チーズ・サンドイッチのフライにチーズが入ってないなんてことはないかな?」

「わからない。チーズ・サンドイッチのフライなんて頼んだことがない。だが、ここの朝食はいけるよ」

「高級ホテルは違うな」

「まあ、それだけの仕事はした」

「仰せごもっとも」

 アンジェロがサイコロをふった。六が出た。

 すごろくは結局、アンジェロがクレマンソーのマス目でまごまごしているあいだにゴールしたフロリアノ・マトスの勝利で終わった。

「おめでとう、アルフレド・ドレフュス。釈放だ」フロリアノ・マトスは法の殉教者に拍手した。「法律はきみに償いをしないし、謝りもしない。だからといって無政府主義に走ってはいけないよ。きみは家に帰って妻と子を抱ける。それでよしとしたまえ」

 フロリアノ・マトスは指輪をはめなおすと、すごろくを元のように折りたたんでテーブルに置いた。アンジェロはシガレット・ケースを開けたが、中身が空だったので、煙草屋はないかとマトスにたずねた。

「ホテルのなかで売ってるよ」フロリアノ・マトスはロビーの反対側に並ぶ店を指した。

 煙草屋は香水屋と高級チョコレート店のあいだの奥まりにあった。右では花の精油を添加した蒸留水が並び、左ではウイスキーボトルの形をしたボンボンの赤や青の銀紙が鱒釣り用の疑似餌のようにキラキラと光っていた。

 煙草屋には利発そうな若い店員が海泡石のパイプを並べたガラス製カウンターの向こうに立っていた。その背中にはシャープシューター煙草会社の宣伝ポスターが額縁に入っていた。一箱二リラの高級な煙草をシリーズで販売している。キルトを巻いてバグパイプを抱えた老兵が煙草を吹かしている〈マークスマン〉、緑色の目立たない軍服で銃と一緒に樹に寄りかかりながらパイプに火をつけている〈イェーガー〉、赤いだぶだぶのズボンに青いトルコ風チョッキを着た鬚面の男が一度に十本の煙草を鬚に隠れた口に突っ込んで目を剥いている〈ズアーヴ〉、ライチョウの羽根をつば広の山高帽に飾り、だいぶ崩した立て銃の姿勢を取り、気取った手つきで煙草を指に挟んだ〈ベルサリエリ〉。

「ベルサリエリを二箱」

 空のシガレット・ケースを受け取ると、店員はベルサリエリの包装紙をむしって、慣れた手つきでシガレット・ケースに煙草を並べてパチンと閉じた。

「四リラです」

 アンジェロは五リラ銀貨を置いて、お釣りはいらないと言った。ラウンジに戻ると、フロリアノ・マトスが体を動かしたいから少し散歩をしようと言った。

 ホテルを出ると今度の風は山から海へと吹いていて、灰銀色の波頭が撫でつけられるように後ろの水の上へと滑っていくのが見えた。波頭は白い泡の膜を引きながら黒い海水の渦に掻き消え、また新しい波頭が白い膜を引いてくる。そのうちに波は砂の上に流れて波頭は尽き、砂に染み込む。その上を棺を埋葬する土のように重苦しい次の波、次の波が重なっていく。

「どこか行くあてはあるのかい?」海沿いの道を歩きながら、アンジェロはたずねた。

「母の実家をたずねてみようと思ってるんだ」フロリアノ・マトスは答えてから、バツが悪そうに笑った。「まだ見にいってないんだ。人手に渡ったとは聞いているんだけど」

「住所はどこだい?」

「スカリーチェ博士通りとトンマーゾ・ベリッロ通りの角だと聞いている。分かるかい?」

「分かる。ここから歩いて二十分ってとこだ」

 通りの幅から察するにスカリーチェ博士とトンマーゾ・ベリッロ氏はさほどイタリアの発展に貢献したわけではないらしい。中央に椰子樹を植えた大通りや通りの向こうが霞んで見えるほどの幅広い大通りに名前を冠するにはヴィットリオ・エマヌエーレ二世やジュセッペ・ガリバルディのような大事を為さねばならないのだ。ところが、スカリーチェ博士とトンマーゾ・ベリッロ氏の街路はどちらもひどい有り様だった。荷馬車一台がやっと通れる広さで、道に降りそそぐはずの陽光は全て左右の建物の窓と窓のあいだに張り渡された洗濯物に取られてしまい、太陽のきれっぱしが空しく舗道に落ちていた。この、狭苦しい街の谷底は洗濯ソーダのツンとくる臭いや安ワインをフライパンの肉汁にふりかけた匂いに満ちていた。匂いは開けっ放しの半地下の扉や頭上の洗濯物から滴り落ちる水滴から匂ってきていて、この寂れた通りに人間の生活が営まれていることを様々な音や匂いによって証立てようとしているようだった。

 スカリーチェ博士通りとトンマーゾ・ベリッロ通りの角の三角形の土地には五階建ての小さなアパートが建っていた。フロリアノ・マトスの母親が住んでいた三階には次のような表札が郵便受けに貼ってあった。


  ガリバルド・カロポーレ

  版画師・共和主義者

 

 共和主義者を自称し、それを表札にまで書き加え、さらにガリバルドというファースト・ネームをつけられたくらいだから、よほどジュセッペ・ガリバルディにいかれているのだろう。事実、古典的自由主義者にして共和主義者、スカリーチェ博士通りとトンマーゾ・ベリッロ通りの角の三階の持ち主カロポーレ老人は実に単純なやり方で相手を判別した。つまり、ジュセッペ・ガリバルディを認めるか否か。

「こちらのフロリアノ・マトス氏は――」アンジェロは悪乗りしてホラを吹いた。「ガリバルディの足跡が知りたくて、あなたをお訪ねしたのです。リオ・デ・ジャネイロのリバプリック書店を経営しておられるガリレオ・ガリアーノ氏をご存知で?」

「いや」老人は首をふった。「そんな男は知らん」

「それは変ですね」アンジェロは左手で肘を持ち、右手の指で下顎をつまむ動作で考え込むように言った。「ガリアーノ氏はあなたをよくご存じでしたよ。彼は一八九九年にあなたからガリバルディに関する版画を約二百枚買って、ブラジルへ移住したのですが、覚えはありませんか?」

「フムム」老人はますます分からんと言った様子でうなった。「覚えがないな。そちらの紳士、イタリア語は?」

「話せます」フロリアノ・マトスが答えた。

「フム」疑り深げな老人の表情が少し緩んだ。「まあ、玄関で立ち話もなんだから、奥へどうぞ」

 部屋のなかはガリバルディだらけだった。作業台にもガリバルディ、食事用テーブルの上にもガリバルディ、台所にもガリバルディ、張り渡した針金には刷ったばかりのガリバルディの版画が何十枚と連ねて乾かしてあった。船員時代のオデッサの若き日のガリバルディ、ウルグアイ革命に助太刀してコロラド派として戦ったガリバルディ、一八四八年ローマ蜂起に参加したガリバルディと敗退してその途中で愛する妻アニータを失ったガリバルディ、ニューヨークに逃れ蝋燭工場で働きながら捲土重来のときを待つガリバルディ、イタリアに戻ったガリバルディ、赤シャツ隊とガリバルディ、シチリアに上陸したガリバルディ、ナポリ王国の兵隊を蹴散らすガリバルディ、テアーノの握手、南イタリアをヴィットリオ・エマヌエーレ二世にそっくり献上したガリバルディ、国王と二人馬首を並べたガリバルディ、普仏戦争でフランス共和政のために義勇軍を率いて参戦したガリバルディ、官職や富を求めず、家族に看取られ、窓の外のエメラルド色の海を眺めながら天に召されたガリバルディ。

 温かいインクの匂いがする部屋で老人は戸棚を開けて、イギリスの酒はお好きかね?とたずねてきた。是非も聞かず、テーブルの上の版画を何枚かどけるとそこに三つの小さなグラスを置き、琥珀色のウイスキーをちょっとずつ注いでいった。

「ガリバルディに。革命と動乱の時代に偉大な指導者を戴けた幸運なイタリアに乾杯」

 フロリアノ・マトスの母親がいたころの名残はすっかりガリバルディに上塗りされているようだった。老人は作業に戻るから、欲しい絵があったら言ってくれといって、作業台の椅子にぎこちない動作で腰掛けた。無理もない。物心ついたときから、彼はガリバルディの絵を描いてきたのだ。アドリア海もアルプスもローマの遺跡もヴェネツィアの街並みも彼を靡かせることはできず、彼はただその生涯をジュセッペ・ガリバルディを描くことに捧げた。彼がやらずともすでに十二分に知れ渡った名前の英雄をひたすら書き続けた。でも、何が悪い? それを愚かと言って笑えるだろうか? ナポレオンやジュリアス・シーザーの胸像が毎年世界中でどれだけ作られ、どれだけの売り上げを誇っているのか、皆さんはご存じだろうか? 彼らだけではない。英雄は世界のあらゆるところにいる。ジャンヌ・ダルク、イダルゴ神父、ジャン・ジャック・デサリーヌ、ホセ・マルティとマクシモ・ゴメス、ジョージ・ワシントン、シモン・ボリバル、サンティアゴ、テュレンヌやコンデ公、アウグランゼーブ、ヤン・ソビエツキ、イリヤ・ムローメツ、グスタフ・アドルフ、スレイマン、ズールー族のシャカ、エンリケ航海王子、ボクダン・フメリニツキ、関羽、明治天皇、チンギス・ハン、ホレイショー・ネルソン、そしてシャルルマーニュあるいはカール・デア・グローセ。彼ら英雄たちの記録を重ねるべく絵や詩や彫刻が今現在どれだけ作られているのかは誰も知らない。だが、莫大な数であることは確かだ。

 カロポーレ老人はそうした英雄たちの記録係の一人に過ぎない。彼は今日も椅子に腰を押しつけて、慎重に赤を刷る。赤いシャツこそガリバルディの輝ける鎧なのだ。カロポーレ老人の作業台の端には様々な色のインク瓶が蓋を開けっぱなしにして箱にならべてあった。顔料を伸ばすローラーやへらが天井から降りてきた鉤にひっかかっていて、老人が北向きの作業台に座れば、立つことなく必要な仕事道具全てに手が届くようになっていた。老版画師の仕事道具のなかにはもちろん生命の霊薬ウイスキーと老体に生きる力を与えてくれるポテト・ケーキも含まれていた。これはポーランド人のパン屋で売っているもので食い手のあるじゃがいもとバターをどっさり使い、腹持ちのよさは焼き肉並みだった。カロポーレ老人はこれをフライパンにのせて、一階に住む電気技師に作ってもらった小さなコンロの上に置いておき、食べるときにはスイッチをひねってポテト・ケーキを温めなおした。電熱線はまるでうぶな生娘のように物言わぬまま赤くなり、ポテト・ケーキはかっかしてくるのだ。

 フロリアノ・マトスはスカリーチェ博士通りに面した窓に近づき、ひらめく洗濯物越しに見える子どもたちの石蹴り遊びを眺めていた。母もこうして石蹴りの仲間に入っていたのかもしれない。このあたりはそう上品な街区ではないらしく、男の子と女の子がごっちゃになって遊んでいた。同じ歳らしいのだが、どう見ても女の子のほうが体が大きく、声も大きかった。みなボロボロのスモックを着ていた。バリッラ少年団の制服を買う金のない親たちは子どもがバリッラに加入しなかったくらいで秘密警察に逮捕されることはあるまいと高をくくっていたのだ。実際、ここの住人の黒シャツに対する敬意は大変低く、ファシスト党の幹部を乗せた自動車が通りかかってもなかなか道を開けようとせず、クラクションを十回くらい鳴らしてようやく近所の住人が窓から顔を出して、「ニコロ! どいてやれや! 車のラッパがうるさくてかなわねえ!」と言われて、やっと道を譲るほどのものだった。

「この国の秘密警察などブラジルの警察に比べれば、スープ・キッチンの婦人慈善会員みたいなものだよ」フロリアノ・マトスは言った。「ブラジルの警察じゃ、まだ犯人の認証に指紋を使っていない州がいくつもあって、そういう場所ではおたずね者を捕まえると首を刎ねて、署に持ち帰り、そいつが指名手配の罪人かどうか確かめるんだ。それに比べると、この国は自分の考える自由とファシストが考える自由をうまく重ね合わせてあきらめることさえ覚えれば、そこそこ平安に暮らせる。ポーチで新聞を読んでいたらいきなり鹿弾が飛び込んできたりしないもんな」

 灰色がかった塵の風が吹き込んだ。風向きはまた山から海へと変わり海を撫でた潮風に代わって、乾いたアーモンド樹の丘から舞い上がった塵たちがやってきて、細い街路の洗濯物を汚し、窓ガラスを曇らせ、体の弱い年寄りと子どもに喘息の発作を起こさせた。アーモンドの林は灰色の塵の霞の上に浮かんだ空を飛ぶ島のように見えた。数世紀前にはこの不吉な風がC市に黒死病や異端審問官、略奪目当ての傭兵隊たちを連れてきた。首にできた黒いしこりが破れて異臭を放つ黒いどろりとした液や供述書を作るためになされる拷問の数々、そして略奪をまぬがれるために町じゅうの人間が家財を売り払って傭兵隊長に渡した賄賂など、塵の風は街の不愉快な記憶を呼び戻す暴虐の風だった。

 母もこの潮風と塵の風が入れ代わるのを見ながら、少女時代を過ごしたのだろうか。フロリアノ・マトスはそんなことを考えていた。彼の母親がイタリアに住んでいたのは十四のときまでだった。そして、サンパウロのコーヒー農園で働きづめに働いて、倉庫の火事に巻き込まれて死んでしまったのが二十九のとき、フロリアノ・マトスはそのとき九歳だった。

 作業台のほうからはぶつぶつと老人の繰言が聞こえてくる――そら、プロシアンブルーだ。こっちの黒は根性曲がりだから特に気をつかって伸ばさんといい色にならん。それとマゼンタ。マゼンタの戦い。誇るべき勝利こそ赤シャツを彩るにふさわしい。ソルフェリーノの前哨戦。だが、あの戦争はカスのようなもんだった。なんせ戦争が終わったら、ニースがフランスのものになっていたのだからな。あんな糸みたいによじった口鬚をのばす怪しげな小男なんぞ信用したのが、間違いだった。獲れるもんだけ獲ってフランスはトンズラをこいた。あの変な鬚の小男はメキシコの皇帝も見捨てたしな。ハプスブルクの次男坊だか三男坊だかを拾ってきてメキシコの皇帝に仕立て上げたがいいが、負け戦の気配が漂うと早速トンズラと来たもんだ。そういう野郎だったのさ。そんなやつと取引して英雄の故郷を売り渡したカヴールは絶対に許しちゃならん。絶対にだ!(ここで老人はどんと作業台を叩いたらしく、インク瓶がカタカタ鳴った)首に結んだハンカチーフの緑はどうしたもんかな? グリーン、ボトルグリーン、アップルグリーン、ミントグリーン……えい、全部使っちまえ! 肝心なのは赤シャツの仕上げなんだからな。

 そのとき、ノックが三回鳴った。どうぞ!と老人が大声で答えると、まんまるの顔、小さな出っ張りのような鼻に眼鏡を乗せた男が部屋に入ってきた。

「どうも」まんまる男が会釈した。アンジェロとフロリアノ・マトスも軽く会釈した。

「絵を選んでいるんですか?」まんまる男がたずねた。二人はまあ、そんなところです、と答えた。

 まんまる男は二人との会話を切り上げると、作業台の老人に今週分の版画ができているかたずねた。

「注文のものなら、できている。ほれ」老人は作業台に座ったまま、まんまる顔に褐色の大封筒を渡した。まんまる男は勝手知ったるなんとやらといった様子で居間の長椅子にドシンと腰かけると、山高帽を脱いで、その見事に禿げた丸頭をハンカチで拭きながら、封筒の中身を確かめた。全てガリバルディの版画で細かく彩色されていた。

「これは上客用なんですよ」まんまる男はたずねられてもいないのにアンジェロたちに話しかけた。「普通の棚に並ぶものよりもずっと手が込んでいるんです。予約購買品ってやつです」そして、まんまる顔は作業部屋のほうを向き、「ところで、カロポーレさん、例の件、考え直してくれましたか?」

「ガリバルディと〈統領〉が握手している画のことか?」

「はい、そうです。きっと馬鹿売れすると思いますよ。イタリアじゅうのファシスト党支部が注文するでしょうし、党員の自宅にも飾られるでしょう」

「くそくらえだね」

「まあまあ、そうおっしゃらずに。ガリバルディと〈統領〉の画を売れば、もっと広いアトリエに移動できますし、カロポーレさん。あなたの名前をイタリアじゅうに知らしめる大きなチャンスでもあるんですよ」

「ガリバルド・カロポーレの名がイタリアにあまねく知られるのは共和主義者としてのガリバルド・カロポーレであって、ファシストのガリバルド・カロポーレではない」

「別に党に入らなくてもいいんですよ」

「そういう問題じゃない。わしら版画家は自分の感情や思想を刷っているんだ。もし、わしがガリバルディと〈統領〉が握手している画を刷って、世に媚びれば、わしはわし自身を裏切り、何よりもジュセッペ・ガリバルディを裏切ることになるのだ」

「死んだ人間を相手に裏切っても文句なんて言ってきやしませんよ。なんたって相手は死んでいるんですからね、カロポーレさん」

 老版画師は手を止めて、回転椅子をぐるりとまわして、まんまる顔をじっと見た後、はあ、とため息をついた。

「なあ、ペッリーリ。わしはときどきお前さんのそのずば抜けた楽観主義を羨ましく思うことがあるよ」

 ペッリーリはおそらく楽観主義者ゆえにこの皮肉を肯定的な評価と受け取った。ペッリーリの表情は自然と明るくなり、

「じゃあ、ガリバルディと〈統領〉の画は――」

「やらん。刷らん。そんなもの刷るくらいなら両手を切り落としたほうがマシだ。だが、カヴールと〈統領〉が握手する画なら何枚でもつくってやる。ふさわしい組み合わせだ」

「いえ、そこは赤シャツのガリバルディと黒シャツの〈統領〉が握手するほうが画になるじゃないですか?」

「信じられん。ペッリーリ。お前さんはローマまでただ行進しただけの黒シャツのチンピラどもが、シチリアとナポリで尊い血を流し同胞を失いながらも知恵と勇気で勝利をものにし暴政を打ち倒した赤シャツの勇士たちと同じだと思っているのか? 本気じゃないんだろう?」

「まあ、世間はそう思ってますよ」

「世間? それは検閲された新聞が述べている社説のことを言っているのか? 黒シャツ隊なんてジョヴィネッツァを唄いながら練り歩くか、共産主義者に亜麻仁油を大量に飲ませて手足を縛って放置するくらいのことしか能の無い連中だ。そんな連中が赤シャツ隊と肩を並べることなど絶対に許されん」

「しーっ、滅多なこと言うもんじゃありませんよ。こんなこと、もし、ファシストのスパイに聞かれたら、三年間の島流しですよ」ペッリーリ氏はまるでアンジェロたちが密告屋であるかのような物言いをしたので、二人はひどく気分を害した。殺し屋にとって密告屋ほど卑劣な商売はなく、もしやれと言われれば、無料で殺すほど頭にくるのが密告屋という人種なのだ。アンジェロが、失礼ですが、と断って会話に割り込んだ。

「僕らはファシスト党とはなんの関係もありませんし、密告とは人間の美徳を穢す最たるものだと思っています。だから、カロポーレさんは〈統領〉を蝿がたかった馬糞の山とだって言うことができます。誰も密告などしませんし、ここはカロポーレさんの家なわけですから」

 ペッリーリ氏はアンジェロの口出しにあきらかに嫌悪を示していたが、それを無視して、再び老版画師を口説きにかかった。ここにいても得るものはもうないと感じたフロリアノ・マトスはアンジェロにこっそり、ここを出ようとささやいた。

 スカリーチェ博士通りとトンマーゾ・ベリッロ通りが作り出す二等辺三角形の頂点はフランチェスコ・クリスピ通り上にあった。それを西へ歩くと、聖ドメニコ教会がありカルロ・アルベルト広場があった。広場に足を踏み入れれば屋台がずらりと並んで商売しているのが見られる。蝋でできたバラやスミレを売る造花屋では埃よけのガラス鐘のなかに閉じ込められた美しい艶やかな花たちが囚われの身から救い出してくれる騎士を待っていた。彼女たち蝋の花は本物の姫とは言いがたいかもしれない。だが、これだけは確か。蝋の花の姫君は本物の花の姫君よりもずっと長く美しい姿を保っていられる。火薬鉄砲やブリキの戦艦を売る玩具屋はさしづめお祭りに出没する死の商人といったところ。空気銃や黒色火薬で派手に音を鳴らすピストル、ブリキの大砲、戦車、複葉機、戦艦などを子どもたちに売りさばく様子にはヴィッカーズ社やクルップ社のセールスマンも舌を巻くほど。シロップで味つけしたかち割り氷やアイス・キャンデーを売る氷菓子屋の前では中流階級の婦人が一人、衆人環視の場でガラスのカップに入ったレモン・アイスクリームを食べることがレディとしてはしたないことかどうか、自らの経験則にのっとって必死に考えているところだった。そして町のどこにでもあるトリポリ富くじ屋。パタパタはためく富くじは未来の百万長者を待っている。しかし、買う人間がみな運に見放されたような深刻な顔をした連中ばかりであるのはどういうことだろう?

 二人はアイスクリームとレディとしての礼儀コードのあいだで身悶えしている婦人をよそにレモン・アイスクリームを買うと小さなカップから小さな銀のスプーンでアイスクリームをすくって食べた。きっと彼女の目にはアンジェロたちはこう映るだろう。ああ、男って気楽なものね。いつどこでアイスを食べても後ろ指を差されないなんて!

 そうこうしているうちに婦人のもとに知り合いの婦人が近づいてきた。どうもその婦人もアイスクリームを買いにきたのだが、知り合いにばったり出会ってしまい、中流階級の婦人がアイスを買うことの礼儀に対する影響を考えてしまったようだ。二人の女性は心の奥でこう思う。ああ、気楽な男たち! あなたたちを産んだお母さんに感謝するがいいわ! そして、相手の婦人に対してはそれぞれ相手から先にアイスクリームを買ってくれないかとじりじり待っていた。相手が買えば、自分も安心して一緒に買えるのに。礼儀作法も一人で破るのは怖いものだが、二人で破ればそれが通説になるのだ。

 そんな見えざる思考のぶつかり合いなど気にもしていないアンジェロとフロリアノ・マトスはアイスクリームを平らげるとカップを店に返して、教会に入った。別に敬虔な心から入ったのではなくて、石造りの教会はまあ涼しかろうと思ったのだ。ひんやり冷たい石に守られた冷蔵庫のような教会に入ると、アンジェロはフロリアノ・マトスを一番涼しい側廊に誘った。ロザリオを爪繰る黒服の老婆やアンジェロたちと同じ目的で暑気払いにやってきた若者たちを除けば、この教会にいるのは年老いた雑役夫が一人だけで、司祭の姿は見えなかった。

「教会に来ると」フロリアノ・マトスが言った。「自分の起源に戻ってきた気がする。お袋が信心深かったせいもあるし、海外に移住したイタリア人はみんなカトリックの教会に入ると、故郷に帰ったような気になるんだ。おれにとっての故郷はブラジルだが、起源はここにある気がする。親父については、おれはほとんど知らない。背の高い黒人で女ったらしだったってことくらいで、親父は孕ませるだけ孕ませると姿をくらましたらしい。こんなことを当時八歳だったおれに教えるくらいだから、お袋はよっぽど頭にきてたんだろうし、よっぽど親父を愛してたんだろうな。白黒の混血に合うたびに、相手の顔におれと同じ親父の名残がないか、つい確かめちまう。親父は白人の女が大好物で孕ませちゃ捨てるってのを繰り返していたらしいからな、きっともう生きちゃいないだろう。どこかでヘマをして白人にぶち殺されてるはずだ」

 ステンドグラスの聖人たちは蝋燭売りのポスターのように信徒たちを見下ろして、蝋燭を買うことがとても素晴らしいことであるかのように宣伝している。アンジェロとフロリアノ・マトスは蝋燭をそれぞれ一本買うと聖母マリアのために十字を切り、蝋燭を点けた。石の祭壇は溶けた蝋でつやつやしていた。ナイフとピストルでこさえた諸々の罪が蝋燭一本で許されるとは思えないが、教会に入ったら、それなりの儀礼に付き合わないとどうも居心地が悪いものだ。この居心地の悪さとミケランジェロ的な豪華絢爛荘厳絶後な大聖堂で異端者たちを圧倒し、信者を獲得するのがカトリックのやり口だ。ドイツ領東アフリカの反乱者やシナの拳術匪賊も一度手ひどくぶちのめして、神の加護があるのはどちらかを思い知らせてから布教活動を行うのだ。すると、効果覿面。信者がどんどん増えてくる。土民たちは拳術の奥義や銃弾を泡に変える蛇の神を捨てて、カトリックのミサに参加し、葡萄酒で酔っ払う。ハレルヤ! 救い主イエスを讃えよ! 御子に噛みついて、血管を流れる赤ワインを吸い尽くすがいい! それが白人に対する最後で最大の報復なり!

 フロリアノ・マトスは蝋燭の前でひざまずいて、ポルトガル語でなるべくはやく帰国できますようにと祈っていた。教会のどこかから吹き込んだ風が聖堂に重々しい呻き声を響き渡らせた。アンジェロはふと考えた。教会の賛美歌が亡霊の呻き声のように聞こえ始めたのはいつごろからだろうか? その声が聖歌隊席からではなく、石で封じ込められたカタコンベのなかから聞こえてくるような気がするようになったのはいつごろからだろうか?

 真摯に祈るフロリアノ・マトスを置いて、アンジェロは司祭館へ通じる扉を出た。背の低い椰子が植えてある庭園を柱廊がL字状に貫いていた。その先には小さな司祭館があり、小さな窓ガラスが底なし沼のように黒光りしていた。庭園には浅い池があり、濃緑の苔の上を金魚たちが泳いでいた。池のすぐそばには籐の揺り椅子があり、上品な仕立ての服を着た初老の男が座っていた。男は池の縁を囲う白い石の上に置いたパナマ帽を見つめ、足で軽く地面を蹴って揺れながら、大きな節くれだった左手の指で懐中時計の蓋を開けたり閉めたりしていた。

「司祭さまを待っているんです」初老の男はアンジェロに気づくと、そう言った。そう言っているあいだも懐中時計の蓋の開け閉めはやめなかった。「十時半の約束なんですがね」

「懺悔ですか?」アンジェロがたずねた。

「まあ、それもありますが」初老の男は言った。「お金の話です。この教会の」そう言ってから、コホンと咳をすると、では改めて、と前置いて「アンドレアーノ・パゼッティです。職業は銀行家です」

「アンジェロ・ボンヴェントレです」アンジェロは言った。「職業は殺し屋をしています」

「そうですか、そうですか」アンジェロと握手し、アンジェロが殺し屋を自称していても、驚く様子は見せず、そして懐中時計の蓋の開け閉めは止めなかった。「殺し屋というと、その、得意な手口とかはあるのですか?」

「ピアノ線からライフルによる狙撃まで一通りこなせます。基本料金は一人六〇〇〇リラからとなっています」

「そうですか、殺し屋ね。しかし、偶然ですね。わたしも手口は違えども、よく人を殺しました。融資を引き上げて、工場や商店を倒産させるんです。そうすると、人が勝手に死んでいきます」

「それは最高の手口ですね。絶対に法に問われない」

「ありがとうございます」懐中時計の蓋は止まらない。ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん。「それでもときどき良心の呵責を覚えることがありましてね。定期的に司祭さまと直々にお話をするんです。ただ懺悔だけで司祭さまのお時間をとるわけにもいきませんから、こちらの教会が預けている資産の運用に関する相談も一緒にしようというわけです。司祭さまはお忙しい人ですからね」

 アンジェロはこの教会の司祭について思い出してみた。二日前、キエーザ通りとクリスピ通りの辻で鉄道馬車から降りて、いそいそと待っていた車に乗り込み、あっという間にいってしまった。人間というよりは煤けたミミズクのようで、まんまるの目が大きく、大きいが細い鼻が下に垂れていた。ああいう形の鼻は絶対に鼻眼鏡をかけることができない。そんなことをふと考えたことを覚えている。

「司祭さまは外出を?」

「いえ」パゼッティ氏は首をふって、司祭館を指した。「あそこにおいでです」

 ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん。

「では、訪ねられたらよろしいのでは?」

「そうしたのですが、司祭さまの代わりに老僕が現われて、ここで待つようにといわれたのです」ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん。「もう一時間になります」

 ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん。

「もう一度訪ねられたらいかがでしょう?」

 ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん。

「そうはいきません」ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん。「ここで待つように司祭さまが言われたのでしたら、ここで待たねばいけません」

「もしよろしければ、僕が代わりに言ってきましょうか?」

 ぱかっ、ぱちん、ぱかっ、ぱちん! 懐中時計の蓋が閉まったままになった。

「そうしていただけると大変助かります」男が言った。「あと三十分で次の訪問先へ行かないといけないものですから」

 アンジェロが司祭館の扉の前に立つと、わずかに開いた隙間から中の部屋が見えた。ミミズクのような司祭がうっとりした顔でカールした金髪が美しい天使のような少年の頬を撫でていた。教会の金庫番を一時間も待たせるだけの理由は歪んだ愛の発露であったらしい。アンジェロが扉を打ち金を鳴らすと、ミミズクはネズミ花火でも放り込まれたように慌てふためき、衣服を正して現われた。

「どちらさまですか?」

「僕はアンジェロ・ボンヴェントレといいます。あちらのパゼッティ氏にあなたの様子を確かめて欲しいと頼まれたものです」

「わたしの様子?」ひどくどぎまぎした顔をして司祭が言った。「わたしの様子ですって?」

 アンジェロは司祭の言葉を無視して傍らにいる少年を指して言った。「まるで天使のように美しい少年ですね」アンジェロは冷めた笑みを浮かべた。「きっと声も天使のようなのでしょうね」

「ええ、ええ」ミミズクはうなずいた。「今日は聖歌隊の特別な練習をさせていました」

「司祭さまの館で?」

「ええ」ミミズクは少し目を逸らした。

「パゼッティ氏にはもう来ても大丈夫だと教えて構いませんね?」

「ええ、ええ! 構いませんとも!」司祭は少年に優しく告げた。「ミケーレ。今日はもう帰ってもいいよ」

 アンジェロがパゼッティ氏にもう大丈夫だそうですと告げると、氏は懐中時計をポケットにしまい、書類カバンとパナマ帽を手にして司祭館へと出ていった。

 ミケーレ少年は庭の隅でテラコッタのビー玉をぶつけて遊んでいた。

「司祭さまが歌の練習をしてくれたんだって?」アンジェロは優しく微笑んでたずねた。

 少年はこくんとうなずき、またビー玉を転がして、かちかち鳴らした。

「表の広場にあるおもちゃを欲しいと思ったことはないかい?」アンジェロは言った。「ピストルとか」

 少年はこくんとうなずいた。

「じゃあ、司祭さまと何をしていたのか教えてくれたら、三リラあげよう」アンジェロは銀貨を三枚見せた。太陽の光をいっぱいに浴びた銀貨は少年の心をつかんだらしい。

「司祭さまはぼくだけに特別にしてくれることがあるんだ」少年は言った。「歌の稽古が終わると部屋が暑いから水浴びをしようっていって、シャワーを浴びるんだ。ぼくと司祭さまで。司祭さまはぼくを洗ってくれるんだけど、こうして司祭さまに洗ってもらうと他の人よりもずっと罪を洗い流せるんだって」

「司祭さまも裸かい?」

「うん」

「きみはどんな罪をおかしたのかな?」

「昨日、ヴィヴィアナ・マルケーゼのおさげを引っぱって泣かしちゃったんだけど、その罪は司祭さまと一緒にシャワーを浴びたら赦されるんだ。きれいに洗い流されるってね。でも、司祭さまは内緒だよって言った。父さんと母さんに知られるとご利益がなくなっちゃうんだって。でも、お兄さんに話しちゃだめって言われてないから、大丈夫だよね?」

「ああ、大丈夫だよ」

 アンジェロは三リラを与え、司祭館のほうをちらりとみた。アンジェロの冷めた笑みを見たとき、あのミミズク司祭がうっとりした視線をアンジェロに向けた。

 この教会にはもう一度、夜になってから来ることにしよう。たまには自分も懺悔と償いをやって、善行を積むのも悪くない。例えば、あのT型フォードの行商人みたいに。

 聖堂の側廊に戻るとフロリアノ・マトスはまだ膝をついてポルトガル語で祈っていた。彼は起源にあって、故郷を望む。もし、ここの司祭が少年の裸をこよなく愛する変態野郎だと知れば、フロリアノ・マトスはどう思うだろう?

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