1.アンジェロ
水が止まった。
アンジェロ・ボンヴェントレがC市内にいくつもある中の下どころのホテルのなかから黒猫ホテルを選んだのは、各部屋にシャワーがついていたからだった。窓から崩れかけのボール紙細工のような集合住宅しか見えないのも、その底の洗濯場で繰り広げられる女たちの下品な冗談のやりとりを聞かされるのも、剥がれかけた花柄の壁紙の無様なのを許したのも、味が薄く材料費をケチったのがあからさまなので食事をわざわざ別の料理屋まで行かなければいけなくなったのも、全ては各部屋にシャワーがついているから許されたことだったのだ。その唯一の美点が突然無くなれば、それはもはや契約違反どころの話ではない。黒猫ホテルの存在価値そのものを問われる一大事だ。アンジェロは髪から水をたらしながら、内線電話でフロントにシャワーから水が出ないと文句を言った。フロントはただちに技師を派遣して原因を究明いたしますと約束した。それから十分間待ったが、技師はやってこなかった。フロント係が口だけでいいかげんなことを言った可能性が大きかったが、アンジェロの知らないうちに高さ四階客室数三十七のちっぽけな黒猫ホテルが高さ十五階建ての巨大ホテルに改築されてしまったために、アンジェロの所在が分からなくなってしまったという可能性も捨てきれないので、もう十分待ってやることにした。そして、十分後に電話をかけるとフロント係は本日は技師が休暇をとってます、と言った。
「それで?」アンジェロがたずねた。
「申し訳ありませんが」フロント係はあまり申し訳なさそうでない気だるげな口調で言った。「シャワーはあきらめていただくしかありません」
「それはだめなんだ。いいかい? 僕は朝起きたら必ず三十分、冷たい水のシャワーを浴びることにしているんだ。たとえ僕の後ろで〈統領〉と国王と教皇とイエス・キリストが順番を待っていたとしても、僕はたっぷり三十分水を浴びる。ところがこのホテルは水を出してから三分と十七秒後に水が止まったんだ。僕は後二十六分と四十三秒シャワーを浴びなければいけない。ここまでわかってくれたかな?」
「はい」フロント係は答えた。
「じゃあ、きみのすることは一つだ。技師の家に電話をかけて、ホテルに来て、シャワーが復活させるよう命じることだ」
「それがお客さま。当ホテルの技師はグイード・サルデリッラというのですが、ひどく頑固な男で休日になったら絶対にホテルにやってこない男なんです。以前も同じようなことがあったときに――」
「とにかくそのサルデリッラに電話するんだ。今すぐに」
一分もしないうちにアンジェロの部屋に電話がかかってきた。
「もしもし」
「だめでした、お客さま。今日のシャワーは辛抱していただくしかありません」
なんて役立たずなんだろう。アンジェロは辛抱強く言った。
「いいかい、ええと――」
「アッバチーニです」
「アッバチーニくん。これから大切なことを話す。心して聞いてほしい。今からきみは自分が為し得る最大の努力を行って、僕に残り二十六分と四十三秒のシャワーを用意するんだ。さもないと、とんでもないことが起こる。ホテルを出て行くくらいじゃすまないぞ」
「とんでもないことというのはどんなことでしょう?」
「死ぬほどすごいことだよ」
フロント係のアッバチーニはしばらく黙ってから、では、こうしましょうと妥協案を引っ張り出してきた。
「わたしの従兄がこのすぐそばに住んでいます。やはりアッバチーニという名前です。そいつの家のシャワーを使ってください。今、簡単な書き付けをしますので」
そこで電話はガチャンと切れた。
「従兄の家だって? まったく!」
アンジェロは濡れた体を拭くと、仕方なく余所行きに着替えた。クリーム色の背広にカンカン帽をかぶりレジメンタルのネクタイを絞めると、もう一枚の予備のタオルを手にして、部屋を出た。朝の七時半にもかかわらず、ホテルの廊下は電気をつけておかなければいけないほど暗かった。部屋の隅では年老いた掃除夫が火のついていないパイプをくわえたまま、ちりとりで胡桃の殻だの煙草の包み紙だのを集めていた。アンジェロは故障中の札に塵がつもっているエレベーターを通りすぎ、そのまま、階段を降りた。途中でルームサービスを運ぶメイドとすれ違った。浅黒く、栄養失調気味で白目がやや黄ばんでいた若い娘でその盆にはごく普通で何の特色もないブリオッシュと溶岩のようにブツブツと気泡を弾くホット・チョコレートが載っていた。アンジェロはメイドが通り過ぎるまで、自分の体を壁にくっつけて、先に通してやった。そして、メイドのエプロンの左右のバランスが大きく崩れている結び目を見送ると、また下へと降りていった。
ロビーのチェックイン・デスクにはふやけたにやけ顔のアッバチーニがまるでそこにいろと主人に命じられた犬のように、主体性もないまま突っ立っていた。
アッバチーニは書き付けを渡した。
「従兄の家はホテルを出て、右に曲がって洗濯場を通り過ぎて、サネッタ通りを左へ曲がってください。そこの十一番地が従兄のいるアパートで従兄一家は二階に住んでいます。アッバチーニと表札があるのでそこにどうぞ」
「門番部屋に電話しておいてくれ」
「どうしてです? 書き付けがあれば――」
「いいから電話するんだ。一人シャワーを浴びに行くと門番に伝えさせるんだ」
「お客さまがそうおっしゃるのでしたら」
最後の言葉を聞き終わらないうちにアンジェロはデスクに背を向けて、ホテルを出て、右に曲がった。石造りの建物の谷間の奥底でシャツや肌着が水に叩きつけられ、絞り上げられる洗濯場では女たちが集まって、洗濯板に洗濯物をこすっていた。シャボンが洗濯場から溢れ出て、敷石の上をゆっくり走り、中庭の隅に小さな白い泡の山をつくっていた。
「ごらんよ、コンチータ!」洗濯女の一人が言った。「色男が出て行くよ!」
「ほんとだ、ほんとだ!」コンチータが言った。「女の子みたいな顔だねえ!」
「それにあの肩をごらんよ! 華奢だねえ! まるで女の子みたいじゃないかい!」
女たちが女の子みたい女の子みたいとぎゃあすか騒ぐのをアンジェロは無視して先を急いだ。残り二十六分と四十三秒のシャワーが彼を待っているのだ。サネッタ通りの十一番地に着くとアーチをくぐって、二階まで上った。自分の指をしゃぶっている男の子が一人、廊下に立っていた。擦り切れて継ぎだらけのズボンとシャツはこの子に何人も兄がいて、その兄たちが着ていた服をいまは彼が継承していることを示していた。ドアを一つ一つ確かめてみた結果、指をしゃぶっている男の子のすぐそばのドアが目指すドアであることが分かった。
表札はなく、それぞれの家は自分の家のドアにチョークで名前を書きつけていた。ノックすると、ドアが開き、扉目いっぱいに太った女性が前掛けで手を拭きながらドアを開けた。
「あんたがアンジェロ・ボンヴェントレかい?」壁のように分厚い体の女が低くうなるような声でアンジェロにたずねた。
「ええ」
「まあ、マリオおじさんの言うとおり、いい男だねえ。髪をうなじまで伸ばして女の子みたいにきれいな顔じゃないかい!」
こうしてただ生きているだけでも様々な情報が手に入るものだ。あのふやけたフロント係のファースト・ネームがマリオであり、マリオもまたアンジェロの顔を女の子のような顔と形容したことだ。こうした比喩を簡単に許すのはあまりよくない。普通、二人の紳士が道の真ん中で出会い、紳士の一方が、おめえの面ぁ女みてえだ、と言えば、もう一人の紳士には相手の腹に匕首を突き刺す権利が生まれる。とはいえ、相手は女性だ。アンジェロは権利を留保することにした。
アンジェロは一応、フロント係の書き付けも渡した。女はそれを前掛けのポケットに押し込むと、さあさ、どうぞ、あがってくださいな、といって、扉を目いっぱい占領しているその体をずるずると後退させていった。その途上で女は「コンスタンティノ! 指をしゃぶるのはやめな!」と叫び、アンジェロを食堂に案内した。シャワー室のある風呂場がどうしても食堂を通らないと行けなかったからだ。狭い食堂に長いテーブルを置いたものだから、みな背中が壁にくっついて窮屈そうだった。家長らしき小男と五人の息子がテーブルについていて、家長らしき小男はなるほどあのフロント係と血のつながりがあるらしく、ふやけた面をしていた。ただしにやけてはいなかった。というのもこの家長は朝から黒シャツにサム・ブラウン・ベルトを身につけていたからだ。彼の背後には彼が敬愛してやまない仏頂面した〈統領〉の写真があった。写真のなかの〈統領〉はボッチャで使う玉のような頭をしていて、異常なくらい発達した顎をわざと突き出して強調するかのように顔を反らしていた。〈統領〉に憧れ、彼を真似る男たちは笑うかわりに仏頂面をして顎を突き出す。この家の長である小男はコンパスの先端みたいに細い顎をしていたから、その仕草は粗悪なコカインを注射した中毒者のように滑稽としかいいようがなかった。工場や学校に通っている息子たちはパンと焼いた卵の取り合いで忙しく、父親の容姿に対する改善案を出すという親孝行をするだけの余裕はなかった。
こんな調子だったので、食堂をアンジェロが通り過ぎても誰一人闖入者に注目することはなく、アンジェロはそのままシャワー室に滑り込むことができた。服を脱ぐと籐でできた籠に入れて、裸になり、シャワーの栓をひねった。冷たい水が流れ出てようやくアンジェロはいつもの生活リズムを取り戻すことができた。彼は石鹸を置くための棚に懐中時計を置いて、時間を計って水を浴びた。三十分よりも足りないのではいけないし、多すぎてもいけない。できるだけ三十分に近い時間浴びなければいけなかった。こうして、ほぼ三十分シャワーで水浴びをしたアンジェロが念入りに髪を拭いて、きちんと服を身に付け直して、食堂に戻ったころには食堂は空っぽで指をしゃぶっている男の子が一人いるだけだった。あの壁のような女もいなかったし、ファシストの小男もいなかった。テーブルの上にはチーズの小さな破片やパンくずが落ちていて、赤ワインがほんの少しだけ底に残ったグラスがいくつかあった。部屋は静かで窓の外からは遠くのヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りの喧騒や近所の夫婦喧嘩の言い争いが聞こえる程度でそれ以上に耳を聾するものは存在しなかった。
アンジェロはアッバチーニ家を辞すると、誰もいない廊下を静かに歩き、誰もいない階段を降りて中庭に出た。そして、洗濯場で女たちの冷やかし声のなかをくぐり抜けて、黒猫ホテルに戻ると、洗濯物用ダストシュートに濡れたタオルを放り込み、外に出た。近くのバールで食事をするためだ。黒猫ホテルの一階食堂は地べたに這いつくばって虫眼鏡を使わなければ分からないほど低水準なサービスを提供することをアンジェロはその身に思い知らされていた。アンジェロはチーズ・サンドイッチのフライを頼んだのに出てきたのは、あのごく普通の何の特徴もないブリオッシュだった。アンジェロがそれを下げさせ、もう一度注文を確認させると、からりと揚がったサンドイッチがやってきた。かじってみるとそこにあるべきモッツァレラ・チーズがはさんでなかった。アンジェロはまた皿を下げさせた。再びチーズ・サンドイッチのフライがやってきたが、かじってみるとまたしてもチーズが挟んでなかった。アンジェロはそれを下げさせ、そして店を出た。食堂のボーイたちが、あの女みたいな顔をした優男のやかまし屋がやっと出て行ったぜ、やれやれ、と言っているのが耳に入ったが、アンジェロは無視した。それ以来、アンジェロはホテルから歩いて五分のバールで朝食を取るようになった。
もう少しマシなホテルに住む手もある。実はアンジェロのもとにアメリカに移住したアンジェロの従兄弟から、アメリカのギャングのためにハバナとニューヨークで一件ずつ殺しを引き受けて欲しいという依頼を打診されていた。ナポリの仕事でしばらくは何もせずとも暮らせるが、あんなホテルに住み続けるくらいなら、もう一仕事か二仕事難しい暗殺をこなして、ホテルの格を上げるのも悪くなかった。しかし、ハバナとニューヨークでは言葉が通じない。それにアメリカの暗黒街事情がよく分からないのも難点だった。イタリアではマフィアはシチリア人だけで組むし、カラブリアの山賊は自分たちの出身地ごとに固まる。ナポリのカモッラ団員も全員ナポリ出身だ。ところが、アメリカのギャングはどうも様子が違うらしい。シチリア人、ナポリ人、カラブリア人のほかにアイルランド人やポーランド人、ユダヤ人も多くいる。キューバでの依頼はギャングたちのカジノを押収しようとしているキューバ人の政治家を殺してほしいという依頼だった。政治家殺しの難しさをよく知っていたアンジェロは難色を示したが、従兄弟の保証するところによると現在のキューバでは大統領と野党の代表がそれぞれ殺し屋を束ねてギャング団を作り、敵対派閥の議員や役人を撃ち殺すのが日常茶飯事になっている、ハバナに比べればシカゴなんて大人しいプードルみたいなものだと請合った。そして、ニューヨークのもう一件ではシチリア人がシチリア人以外と組むことを決して許そうとしない頑固なボスを殺してほしいというものだった。従兄弟はこれについても太鼓判を押して、こっちで武器から逃げ道、護衛の買収まで全部揃えるから、アンジェロはそのボスに銃を向けて引き金を引くだけでいい、とこれまた請合った。
どうしたものかな?
アンジェロが見上げた空は雲に覆われていた。だが、その厚みは必ずしも一定ではなく、雲の層がところどころ薄くなっていたために空は光のまだら模様を映していた。街路は仄かに明るくなったり暗くなったりを繰り返し、その優しい光の明滅が朝の不機嫌な出来事に見舞われたアンジェロを慰めてくれていた。
バールは十軒足らずの建物に囲まれたごく小さい広場に面していた。六つの数字が並んだトリポリ富くじが風にはためいていた。店の構えは狭いが、奥行きは二十人が掛けられるほどで向こうの壁では別の路地に通じるドアが開きっぱなしになっていた。バールの主人は堅物の芯が一本通った男でその壁には国王の写真しか飾られていなかった。時おり黒シャツがやってきて、〈統領〉の写真が飾られていないことについて指摘すると、主人はその小さいが深い色を湛えた目で相手をジロリと見るだけで取り合おうとしなかった。ファシスト党が政権を握って以来、若さというものがとにかく妄信されているが、主人に言わせれば、それは間違いで黒いシャツを着てアカを殴ったくらいで自分をいっぱしの男だと誤認させるファシズムは真の男の価値を大きく傷つけて、その信頼を大きく揺るがすことになるはずだった。バールの主人の観察眼はどうしてなかなか鋭かった。というのも、古参ファシストたちは大戦や二二年のローマ行進に参加していない党員のことを心のなかで――時おり口に出して――コケにしているのだ。
アンジェロは主人に軽く挨拶した。
「おはよう。景気はどうだい?」
「おはよう。まあ、良くも悪くもないってとこだ」
「富くじは売れてる?」
「まあまあだな。買っていくやつはいつも同じ顔ばかりだ」
「賞金はいくらだっけ?」
「十万リラだ」
「それだけあったら、あんたならどうする?」
「どうもこうもない。銀行に預けて、この店を続ける。十万リラは大金だが、一生遊んで暮らせるほどの額じゃない。で、注文は? 昨日と同じでいいのか?」
アンジェロはチーズ・サンドイッチのフライとミルク入りのエスプレッソを注文した。そして、裏口に近い席に座った。目の前ではいい匂いの湯気を立てているガラス製の蒸気加温棚があり、なかで赤、桃、黒のソーセージが横たわっている。コリエーレ・デラ・セラ紙を買って、適当に紙面に目を彷徨わせた。まず〈統領〉の記事が続く。写真、写真、写真。〈統領〉と国王。〈統領〉とアオスタ公。〈統領〉と将軍。〈統領〉と議員。〈統領〉と知事。〈統領〉とイギリス大使。〈統領〉と枢機卿。〈統領〉とバリッラ少年団のトスカーナ代表。〈統領〉と十人の子どもを産んだことで表彰されることになった石炭屋の夫婦。そこまで来てやっと普通の記事がやってくる。客船の進水式や外務大臣のトルコ訪問。アメリカの竜巻。ドイツの不景気。バチカン、メキシコを破門。イギリスで競売にかけられたマナー・ハウス。リビアの殖民団募集記事。これらに混ざって、ナポリで刺殺された二人のカモッラ団員にまつわる小さな記事が載っていた。警察は下手人を絞れず、事件は他のカモッラ絡みの殺人事件同様迷宮入りの可能性が高くなっているという記述で記事は終わっていた。アンジェロは涼しい顔でその記事をめくった。ジャンピエトロ・カターニアとヴィンチェンツォ・リナルデッティ。新聞にすら載らなかった名前の二人の魂に平安のあらんことを。
胡椒をふったチーズ・サンドイッチのフライとミルク入りのエスプレッソが出来上がると、蒸気加温棚の上に置かれたそれを受け取って、ナイフで切ってみると、白いモッツァレラ・チーズが切り口からとろりと流れ出した。こうでなくてはいけない。アンジェロはそれを口に入れ、ゆっくり噛んで飲み込んだ。舌の上を滑っていった温かいチーズの感覚が作用して、死んでしまったらチーズ・サンドイッチのフライを食べることができないという当然のことが急にはっきりと浮き出てきて、アンジェロにそれを認識させた。イタリアじゅうのカタコンベに葬られた死者たちへの同情のようなものがアンジェロにふつふつと生まれ、その象徴としてチーズ・サンドイッチのフライが存在しているように思えた。ジャンピエトロ・カターニアとヴィンチェンツォ・リナルデッティの亡霊がアンジェロに良心の呵責を感じさせようとしているらしいが、別に彼らには何の同情も沸かなかった。アンジェロの感傷の対象になっているのはカタコンベの死者たちなのだ。死んでから骨一本一本をあんなに窮屈に詰め込まれた上にチーズ・サンドイッチのフライを食べることがかなわないということがアンジェロに同情の念を思い起こさせるのだ。死は不可逆、死んだら戻れない、窮屈なカタコンベ、顎の骨は何も噛めないまま風化していく、トリポリ富くじ一等賞をもってしてもひっくり返せない厳然たる事実――死。
アンジェロはサンドイッチのフライを食べながら、どうして自分が急にそんなことを思い浮かべたのか、考えてみた。二口目以降はそんなことはさっぱり想起しなかった。最初の一度だけなのだ。これについてはフロリアノ・マトスと話し合ってみるのが、いいかもしれない。フロリアノ・マトスは生と死について一家言持っていそうだったし、それ以外の話をしてもいい話し相手になってくれる男だった。
路地裏に面した入口から男が一人、店に入ってきた。鉤鼻、こけた頬、後退してゆく髪の生え際の蒼白く、白髪混じりのうなじに届く髪、そして、半世紀前に仕立てたフロックコートにあいたポケットの穴から、ほんのわずかに残った彼の運がこぼれ落ちてやしないかとビクビクしている様子の大きく飛び出した目。下級雇員か小学校の教師であり、職場の同僚からその陰気さをからかわれ、生徒たちからからかわれ、そして、間違いなく幸運の女神にもからかわれ、運に見放されていることが間違いない男。
「よお、ペッピーノ」バールの主人が言った。「今日も富くじか?」
「ええ、ええ、そうですよ、ご主人」ペッピーノが答えた。「富くじです」
主人は富くじがずらりとピンで張りつけられているコルク板まで歩いていった。「一枚一リラ、どれがいい?」
「縁起のよい数字をお願いしたいのですが」
「となると、この六六六があるのは駄目だな」
「ええ、駄目です。他には?」
「〇三二四はおれの母親の誕生日だ」
「じゃあ、それを一枚」
「一枚でいいのか?」
「そうです――いえ、やっぱりもうちょっと買います」
「じゃ、何番がいい」
「わたしの誕生日が〇七〇七なんですが」
「ないな。一一一一ならあるぞ。大戦が終わった日だ」
「じゃあ、それを。それと――」
ペッピーノはちらりとアンジェロを見た。
「あの」ペッピーノはアンジェロに話しかけた。「こんなふうに話しかけたりすると、なれなれしいやつだと思われるかもしれませんが、わたしには真剣事でして。その、あなたは何となく運に恵まれているように見えます。だから、おききしたいのですが、その、誕生日を――」
「五月十四日です」アンジェロは嘘を言った。
哀れなペッピーノはすぐに〇五一四のくじを買った。アンジェロはカフェ・ラテを飲み干し、代金を置くと、裏路地のほうへ出て行った。 彼は店のなかを振り返り、毛羽立った山高帽をかぶったペッピーノがその帽子の縁を神経質にさわりながらくじの番号一つ一つに縁起を担いでいるのを見つめた。酒や煙草を控え、着る物を買わずに何度も継ぎをして使い倒し、同僚からのカルタ遊びをとことん断り続けて、一枚一リラの夢を買い続けるかわいそうな男ペッピーノ。世界を創りし神は彼に主役の座を与えるかわりに夢にとらわれる亡霊の役を与えたもうた。神の意地の悪さはこの数年特に目立つようになった。というよりも、学問全体が冷たくなったというべきか。ヨーロッパを蜂の巣にした大戦に対して、神学はただ死後の世界という怪しげな手形を振り出し、哲学や形而上学はただ戸惑い、科学は高性能爆薬や毒ガス、戦車という形で人間に噛みつき、医学は砲弾で真っ二つに裂けた怪我人とスペイン風邪の前に己が無力さをさらけ出した。このように厳しい情勢に対応するには若さこそが最も重要であると繰り返すファシズムにおいて、ペッピーノのような男はまさに用無しなのだろう。いや、ファシズムだけではない。ボルシェヴィキも資本家も司祭も労働者もペッピーノのような人物を必要としていないのだ。彼を必要としているのは彼自身だけなのだ。
路地裏はペッピーノと同じくらい冴えない通りだった。狭く建物が迫りあった結果、ほとんど日光が差さずキャベツやアーティチョークのクズが道の端に寄せられて、様々な段階の乾燥や腐敗の進捗状況を示していた。アンジェロが路地をしばらく歩くと、ちょうど羊の群れが向こうから路地を通ってやってきた。アンジェロは見知らぬ人の家の窪んだ玄関口に身を寄せて、群れをやり過ごした。羊飼いに先導されて、黄色味がかった毛をした羊たちがめえめえ鳴きながら、路地裏をふわふわした毛で満たした。この路地は羊や豚が通ることはあっても車は決して通らない道であり、この光に眩んで潰れてしまいそうなC市にはそんな路地裏がそれこそ何千本と存在していた。路地裏=不衛生、そこから導かれる答えが疫病であり、市役所は何度も路地裏の清潔を保つことの重要さを訴える集会を行ったが、その集会の会場に煙草やチョコレートの包み紙が捨ててある始末なのだ。羊の群れが通り過ぎると、アンジェロはまた歩き出し、棕櫚樹通りに出たことで自分がフロリアノ・マトスを訪ねようとしていることに気がついた。なんとなく会いに行こうと思っていたのが、今から会いに行こうに昇格したのだ。アンジェロはまだら模様の空の下を歩いた。光がテーブルクロスにこぼした赤ワインのようにじわじわと広がり始めていて、棕櫚樹通りの横町から見える海はどうやら頭上に雲のない空を抱えているらしく、その海面は小銭みたいにきらきらしていた。横町には海のほかに紙巻のトルコ煙草を吹かしていっぱしの男を気取る小学生たちが群れていて、ハーレムの女たちが描かれた箱を尻ポケットにこれ見よがしに突っ込んでいた。その手の子どもたちはときどき棕櫚樹通りまで溢れ出していた。アメリカ製の缶入りチョコレート・シロップを並べた雑貨店のショー・ウィンドウ前でオーバーオールのポケットに手を入れて立っていた小学生がトルコ煙草を口にくわえながら、言った。
「そこの兄さん。火ィあるかい?」
アンジェロはマッチ箱を出して、つけてやった。
「あんがとよ、兄さん」
「バリッラの集会に行かなくていいのか?」アンジェロはたずねた。
「バリッラ? 馬鹿言っちゃいけねえや。兄さん。あんなの学校に言ってる連中の軍隊ごっこじゃねえか。工場で自分の手で稼いでるおれたちみたいな男はあんな半ズボンの兵隊を気取ったりしねえもんさ」
「立派なネヴィァータだね」
「ネヴィカータ?」
「素晴らしい意見だってことさ」
「ああ、そうさ。おれたちゃいつだって素晴らしいぜ。クソ素晴らしすぎてケツの穴がおっ開くってもんよ。黒シャツ着込んだ連中に旋盤を使わせてみな。瞬き二つするあいだに材料を駄目にしちまうから」
「そんなことばかり言ってると島流しにされるよ」アンジェロが言った。「連中は危険思想を持った人間を行政処分で三年間島流しにできるんだ」
「島流し上等よ。親父も自慢ができるってもんだ。『なあ、おれのせがれはお上に逆らって島流しにされたんだぜ。こんな自慢の息子が持てて、おれぁ幸せだ』ってなもんよ。本物の男の価値は工場で仕上げたブツの数とお上に逆らった回数で決まるんだ」
「そうなると僕はあまり価値のない男になるのかな?」
「まあ、そうだねえ。それは優男の宿命ってやつさ。女にきゃあきゃあ騒がれてるうちはまだ本物の男になれねえからな。でも、お上に逆らった回数については、兄さん、結構な数、盾突いてるんじゃないかい?」
「さて、どうだろうね」アンジェロは微笑んだ。
小学生は、へへんと鼻を鳴らした。
「まあ、いいや。他人の脛の傷を見たがるやつは馬に蹴られて死にゃあいいんだ。だろ、兄さん?」
それからすぐに少年は本来の居場所である横町に引っ込んだ。アンジェロは棕櫚樹通りを下っていった。朝の八時ではチーズ屋や惣菜屋、玩具店や鉄道切符代理店、玉突き場などの並びはまだ静かで歩いている人はあまりおらず、路面電車もぼんやりと形の定まらない影をひきながら空っぽの車を走らせていた。棕櫚樹通りは滑り込むようにして海軍街に合流し、その行き先に海が見えるようになった。ヤコブの階段と呼ばれる雲を裂いて斜めに落ちる光が海に当たると、海面はまるで黄金色の鰯が跳ねているように眩い光を発していた。フロリアノ・マトスは海浜沿いに走るサンタ・カタリーナ通りにあるメトロポリタン・ホテルに泊まっていた。まだ午前九時前だったので、アンジェロはもう少し時間をつぶすつもりでメトロポリタン・ホテルを通り過ぎて、海浜遊技場の閉じられた鉄の門も通り過ぎて、その先にある海軍の魚雷艇工場へと歩いていった。
魚雷艇工場は町外れの岬にあった。建物は途切れ、右手に荒地が続き、左では海が磯を洗う音が響いていた。風は強く、海から吹いてきていて、潮が道を飛び越えて荒地の雑草の上に跳び散らかっていた。荒地には革なめし場の跡地があった。崩れた煉瓦の建物が黄ばんだ雑草と黒ずんだ潅木に囲まれたクリスマスプディングのような丘の上にのっかっていた。荒地の石屋に住む偏屈な住人を相手に商売をしている男がフォードのワゴンを運転して、雑草が車の幅で二筋禿げているだけの道へと入っていくのを見た。緩く左へカーブした道の行き止まりではカルカノ・ライフルを担った水兵が一人、工場の門の前で立ち番をしていて、アンジェロが来ると訝しげな顔をした。
「やあ」アンジェロは微笑んで挨拶した。
「おう」水兵はおずおずと探るような目をして返した。
「ここは魚雷艇の工場だよね?」
「そこに書いてあらあ」
水兵が顎でしゃくった壁には真新しい銅の板がはまっていて〈ルイジ・リッツォ記念魚雷艇工場〉と銘打たれていた。
「確かに魚雷艇工場だね」アンジェロはたずねた。「入って見学してもいいかい?」
「だめだ。誰もいれちゃなんねえって大尉から言われてんだ。入れたら、おれのせいになっちまう」
「そうか」
そうやって数分間二人は顔を見合わせていた。
「今日は風が強いね」アンジェロが突然話し出した。
「んだら、なんだってんだ?」
「いや、きっとライフルの手入れが面倒だろうなと思ってさ。今日一日こうやって突っ立ってたら、ライフルは潮まみれだよ。分解してきちんと潮をふき取って、グリースを塗りなおさないといけない」
「おめえも兵隊だっただか?」
「いや。仕事で使うことがあるんだ」
「鉄砲を使う仕事? おめえ、猟師か? そんは見えんが」
「僕の仕事はね、殺し屋なんだ」アンジェロはにこりと微笑んで片目をつむり人差し指を唇に添えて付け加えた。「みんなには内緒だよ」
「おめえが殺し屋?」
「そう、普段はナイフで殺すんだけど、ときどき消音器をはめたスコープ付きライフルで仕事をすることもあるんだよ」
「ショウオンキ?」
「銃声を消してくれる装置のことだよ」
「銃声が消える? おめえ、おれにホラこいたな。このカルカノ銃ってのはぶっ放すとえれえ音がするんだぞ。それこそ耳元がキーンとするような音がするんだ。まるでてめえの真横に雷が落ちたような音がな」
「まあ、信じるも信じないもきみの自由だ」
「じゃあ、信じねえ」
また数分間、二人は顔を見合わせた。
「〈名誉ある男〉みてえなもんか?」今度は水兵がアンジェロにたずねた。
「ん?」
「おれの故郷のシチリアじゃ〈名誉ある男〉ってのがいて、そいつらに逆らうとどえれえことになるんだ。ひでえとぶっ殺されちまう」
「ひょっとしてマフィアのことかい?」
「マフィアなんてものはいねえ。〈名誉ある男〉ってんだよ」
「僕と彼らとは少し違うな。僕は特定の組織には属さないし、基本的に自由な立場でありたいと思ってるんだ」
「また、難しい言葉を使い始めやがったな。ソシキだの、キホンテキだの。でも、自由は知ってるぞ」
「へえ。どうして?」
「以前、『おれは自由主義者だ』って言ったやつが黒シャツにビンタされるのを見たことがある。だから、自由なんて言葉を軽々しく口にしたらビンタされちまうんだ」
「窮屈な世の中だね」
「まあ、そうだが、こればっかしは仕方ねえ」
「ところで話を蒸し返すけど、なかの見学は――」
「駄目ったら駄目だ。あんまりしつけえと大尉を呼ぶぞ。うちの大尉はめちゃくちゃな野郎だからな、すぐ殴りかかってくるからな」
「分かった。仕事の邪魔をして悪かった。もう行くよ」
アンジェロは魚雷艇工場を後にして潮が飛び散る道を戻っていった。途中で雑草が禿げた二筋の線のところまで着くと、気まぐれの虫が動き出して、自然と未舗装の道路へ足を向けていた。褐色の草を生やした荒野はC市の南西、山脈のふもとまで広がり、茅葺きの石屋がテーブルに残ったパンくずのように散らばっていた。フォード・ワゴンは数人の黒ずんだ住人に囲まれていた。ワゴンの後ろは大きく開いていて扉の内側もまた棚となり、商品が並べられていた。塩や胡椒の缶、ムラトやベルサリエリといった銘柄の紙巻煙草にパイプ用の缶入り煙草、一本八十チェンテージモの葉巻、ブリキでできた汽車や戦艦、飛行艇、カミソリ、ヤカン、アイロン、ウイスキーのような研磨洗剤、婦人用養毛剤、シロップの缶、石鹸、飲めばピタリと咳が止むドイツ製の鎮咳薬。殺虫剤と灯油は量り売りしてくれることになっていた。
やってくる石屋の住人たちは黒いスカーフをかぶり全身を黒ずくめにした老婆かボロボロの山高帽と作業用エプロンをした老人と相場が決まっていた。彼らは商品を手にとっては棚に戻し、手にとっては戻しを一時間繰り返し、ようやく洗剤が一つ売れるというような状態だった。
住人たちは何かを買ったものも買わなかったものも、もう十分といった様子でそれぞれの石屋に帰っていった。商人はワゴンの商品陳列扉を閉じて別の売り場へ車を走らせる準備をした。そのとき、商人とアンジェロの目があったので自然と言葉が出てきた。
「あんたも何かいるのかい?」
「いえ。それと、こんなことをきくのは失礼だと思うんですけど」アンジェロはたずねた。「儲かりますか?」
「全く儲からないね」
商人はそう言って自嘲気味に笑った。口髭と顎鬚の大きいので気づかなかったが、商人はまだ二十代半ばらしく若々しい目と血色のいい顔をしていた。少なくとも荒地に散らばった無気力な住人のために自動車で訪問販売するよりは市内で店員や工場の管理職をさせたほうが本人にとっても社会にとっても有益に思えたが、商人は首を横にふった。
「そうはいかないんだよ」
「なぜです?」
「ここの住人ときたら、えらくめんどくさがり屋だから、おれみたいなのがわざわざ家の前に車をまわさないと買い物にも行かないくらいなんだ。誰かがここに住む年寄りたちのために赤字覚悟で車をまわさなきゃいけない。そうしないと連中はそのままぽっくり逝っちまうんだよ」
「このままいくとあなたが破産するんじゃないですか?」
「まさにその通り」
「この荒野の住人のために?」
「ええ」
「彼らにどんな借りが?」
「借りどころか貸しがある。取り立てていない代金がごまんとある」
「教会には通いますか?」
「人並みに。それほど熱心でもない」
「でも、自分の損を認識した上で荒野の年寄りたちのために商売をする」
「そうだ。別に善行は教会の専売特許ってわけじゃない。実をいうとおれは無神論者でね。あんまりおおっぴらに言えないが無政府主義にはまった時期もあったんだ」
「でも、あなたはさっき人並みに教会に通うって――」
「あれは教会の雰囲気が好きだから通うんだ。赤ワインがキリストの血になるなんて最低の手品以下の茶番を信じちゃいないし、神さまもこのT型フォードと同じで人間の発明品さ。神が自らの姿に似せて人を創ったのではなく、人が自分の背格好をまねて神さまをこさえたのさ。まあ、ありふれた神学談義はこのくらいでかんべんしてくれ。悪いけど、まだ寄っていくところがたくさんあるんだ」
フォード・ワゴンはタイヤで乾いた雑草をむしりとりながら発車して、山のすその灰色の帯に見える草地へと向かっていった。この一帯の住人の生活は『善行は教会の専売特許じゃない』という言葉一つに支えられていた。政府でも教会でもないし、集まった寄付金の半分以上をパーティに使ってしまう慈善団体でもない。たった一人の破産を覚悟した無神論者の若者がC市の市街地と水雷艇工場のあいだに広がる荒野で善を為している。
とはいえ、この荒野は停滞と怠惰のなかでゆっくりと終りへ向かっていく世界だった。商人の帳簿が赤字をつけ、ガソリンや商品を仕入れることができなくなったとき、空っぽのガソリンタンクを蹴っ飛ばしたその音のなかに、この荒野の世界の終わりを告げる弔鐘が聞こえるのだ。
アンジェロは丘を上ってみることにした。革なめし工場の跡地には地面にはめ込まれた深い桶が十二ほどあって、それぞれは子どもが落ちたりしないように板で塞がれていた。二階へ昇って窓から外を覗くと考えていたのよりもずっと見晴らしが利いた。特に魚雷艇工場の敷地がほぼ視界に収まっていた。アンジェロはライフルに取りつけるドイツ製の狙撃用スコープを胸ポケットから出した。ポンドには完成した魚雷艇が三艘浮いていて、魚雷を持ち上げるためのクレーンがそばでかみなり竜のように首を上に伸ばしていた。工場と工員の宿舎が隣同士で立っていて、司令官の執務室があるらしい。煉瓦造りの平屋が敷地の一番奥に引っ込んだところにあり、司令官専用の自動車が一台、カクテルのオリーブのように添えてあった。狙撃鏡で例の門番を見てみた。相変わらず立ち番をしていたが、急にこちらを向いた。アンジェロは舌打ちした。狙撃鏡が太陽の光を反射したのだ。水兵はライフルを抱きかかえるようにして走り、丘を駆け上がった。アンジェロは一階に降りて、肩で息をしている水兵にできるだけ好印象を持ってもらえるようなことを言おうと思ったが、水兵の首まで真っ赤になった顔を見て、無駄だと悟り、黙って水兵の主張を聞くことにした。水兵は息がようやく落ち着いたところでアンジェロに乱暴な調子で言葉を投げつけた。
「おめえスペエか!」
「スペエ?」
「そうだ、スペエだ!」
「スペエってなんだい?」
「とぼけんじゃねえ、このスペエ野郎! スペエってのは今のてめえみてえにこそこそ嗅ぎ回る野郎のことを言うんだ」
「ああ、スパイのことか。いいかい、僕はスパイじゃなくて、殺し屋なんだ。時々やることがかぶることがあるけれど、僕は――」
「ぺちゃくちゃしゃべんな!」水兵が遮った。「スペエを見たら、ぶっ殺してもいいって大尉に言われてんだ」
水兵はそう言いながら本当に銃の安全装置を解除した。
「わかった」アンジェロは言った。「僕の降参だ。退散させてもらうよ」
アンジェロは両手を上げたまま、ゆっくり後ずさりに歩いていき、距離が離れたら、そのままくるりと背中を向けて手を下ろして歩き出した。アンジェロは万が一、水兵が自分に向けて発砲した際の用心で空を見上げた。まだら模様だった空の雲は連帯を失いすっかりばらけて、いくつもの雲のかたまりが青空のなかで中世イタリアの都市国家のようにバラバラになって独立していた。だが、その柔らかい雲一つ一つがはっきりとした光に縁取られ、インディゴのように深い青の空と分かたれているのはとても美しかった。万が一、水兵が銃を発射してもアンジェロが最期に見るものはこの美しい空だ。それさえ心得ておけば背中に銃を突きつけられることはそう恐ろしくはならなかった。
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