光、C、八月一日
実茂 譲
プロローグ 夢
一日の始まりは眠りのなかの夢に始まる。夢は赤い天鵞絨の上に散らばった真珠のようにきらきらと独立していて、誰も夢に手を加えることはできない。目覚まし時計が鳴り出すか、東を向いた窓の向こうから差す朝焼けの、焼きを入れられている剣のような輝きがまぶたに当たらないかぎり、人は夢の世界の住人でいられる。
一九二*年八月一日、アドリア海沿岸のC市の市民たちも夢のなかを生きていた。起きていたころの世界を包括する形で投影される夢に対して、あるものは親しみを覚え、あるものは良心に対する疚しさを覚え、あるものはこの上ない快楽を覚える。もちろん、苦痛、疼痛、激痛を覚えるものも多い。彼らはたいていが工場で骨が軋むまで働いた労働者たちであり、夢の材料である起きている時間が苦痛、疼痛、激痛に満ちているので、夢のなかでも結局、苦痛、疼痛、激痛を覚えなければいけなかった。多少学のあるものを自称する労働者は中学生たちがふくよかな女性の裸の写真をこっそり見せるようにして資本論を同僚に見せて、革命を説こうとした。おれたちもボルシェヴィキを見習うべきなのさ! チビの王さまも〈統領〉も資本家どももみんなケツを蹴っ飛ばしてこの国から追ん出しちまうのさ! そのなかにはアゼッキオの旦那も含まれるのかい? やつがいの一番さ、同志! 工場を没収して吊るしちまえ!
黒シャツに包まれた夢を見るものもいた。大戦のころはまだ十二かそこらで従軍してもいない少年たちはさも自分が突撃部隊の隊員であったかのように夢を見て、突撃部隊の印である黒いトルコ棒をかぶり、数々の戦闘で勝ち得た勲章をかちゃかちゃと鳴らしながら(本当はマラソン大会の参加賞メダルしか持っていないのに!)、ローマへと行軍し、我らが〈統領〉を国家の指導者に推載する! 〈統領〉万歳! 国王万歳! イタリア万歳!
夢のなかでなら誰にでもなれる。ホテル支配人になったボーイの夢、局長になった臨時雇用吏員の夢、イスパノ・スイザの自動車で送り迎えされる馭者の夢、〈統領〉になる小学生の夢――これらの夢を沼沢地にばら撒いてみたまえ! 噴水のコインは大理石のように美しい鱒に姿を変じて、つがい、愛しあい、営みの末に新しい夢を生み出し、それが何度も続いていくうちに巨大な夢の集合体が沼沢地から太陽のように昇り全ての人々の想像の世界を照らす。あまりに眩いので人はその光を漆喰壁や白い雲の反射を介してしか見ることができない。そんな巨大な夢に対して、人はちっとも恐れを感じる必要はない。なぜなら、あの夢の起源は己が夢なのだ!
汝、人よ、夢の光を恐れるべからず。
それは汝の夢ならば恐れることはなにもない。
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