第202話 終演

 決して大きなものではなかったヂゥの声は、拍手に消されそうになっていたのだが、その声がシュに届いたらしい。


「……今の声は」


勢いよく顔を上げた徐はキョロキョロと目をさまよわせ、やがて朱の姿を視界にとらえた。


「……! まさか」


驚きで大きく目を見開いた徐は演奏で体力を使ったのか、力の入らないらしい足でよろりと立ち上がり、縋るように琵琶を抱きしめたまま、朱の方へと一歩一歩歩み寄る。


「お歳をとって、やつれていらっしゃるけれど……あなた様はもしかして」


徐はそう言いながら朱の元まで来ると、彼の前に同じように跪き、膝でにじり寄って顔を間近で覗き込む。


「あなたは朱仁ヂゥ・レン様?

 だって、わたくしを仙女なんて評する物好きは、あの方しかいませんもの!」


そう叫んだ徐の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 言葉遣いも昔に戻っているようだ。


「なにを言うのですか徐子シュ・ジ、子、あなたはあの頃だって、今だって美しい!」


朱はそう言って徐を抱きしめようとして、その手の中にある白菊に気付く。


「あなたの琵琶の音が、私を取り戻してくれたのです。

 やはり、あなたは愛しい私のがく仙女だ!」


朱が語りながら差し出した白菊を、徐は彼の手ごと握りしめる。


「ずっとずっと、お戻りを待っておりました。

 お帰りなさいませ、仁様……!」


互いの存在を確かめ合った後はもうなにも言葉が出ないようで、泣きじゃくる徐と朱は、実におおよそ十年越しに再会の約束を果たしたのだ。

 その様子を見守っていた一同からは戸惑う声が上がりはするものの、なんとなく事情を察したらしく、おおよそ二人に同情的な雰囲気であり、「よかったな」と再び拍手が盛り上がった。

 大切な人との戦地での生き別れというのは、兵士であれば身近な出来事だからだろう。

 そして、雨妹ユイメイも拍手を贈る一人であった。


 ――白菊って、花言葉は「真実」だったっけ。


 それは前世での意味であり、この国では花言葉なんてものは聞いたことがないけれども、誰の選択か知らないが白菊を選んだのはあの場にぴったりだと、雨妹は思う。


「よかった、よかったです……!」


目に感動の涙を溜めながら手を叩く雨妹の目の前に、隣からすっと手巾が差し出される。


「感激するのはわかるが、涙はともかく鼻を垂らすな、見た目的に問題がある」


手巾の持ち主である、いつの間にか朱から離れていた立勇リーヨンがそんなことを言ってくるのに、雨妹はムッとして言い返す。


「仕方ないじゃないですか、涙と鼻水はひとそろいで出ちゃうんですぅ!」


しかし、手巾はありがたく受け取って鼻をかんだ雨妹であった。

 この手巾は洗って返すことにしよう。

 そんな雨妹たちのやり取りを、立勇とは反対の隣にいたドゥが見ていたようで、「ふん」と鼻を鳴らした瞬間に立勇が肩を跳ねさせる。


 ――そんなにビビらせなくてもいいじゃないのさ。


 雨妹がジトりとした視線を向けると、杜はにこりと笑って見せる。

 こんなことをしている雨妹たちの一方で。

 拍手に包まれる場の中で徐と朱に歩み寄った太子が、二人の前で立ち止まり手をあげたことで、拍手が止んだ。


「徐子、素晴らしい琵琶の演奏だった。

 冥府に旅だった兵士たちの元へも、きっとその音色が届いたことだろう」


太子にそう声をかけられた徐は朱と共に向き直ったものの、彼女がなにか言おうとするより先に、太子が言葉を続ける。


「徐子よ、皇帝陛下より恩赦が下された。

 徐子は只今をもって宮妓の身分から解放されることとする」


この太子の宣言に、わっと歓声が沸いた。

 皇帝の恩赦という目出度い場に居合わせるなどそうそうないことなので、そうなるのも無理はない。

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