第203話 再出発

「え、なに……?」


シュはいまだなにを言われたのか、理解が追いついていない顔でそう零す。

 雨妹ユイメイ立彬リビンたちと刑部でこのような可能性について会話をしたのは、そう昔ではない。

 だが徐自身は、宮妓の身分からの解放を、ありえない話だとでも考えていたのかもしれない。

 そんな徐に、太子が微笑みかける。


「さらにはこれまで陛下や私の耳を楽しませてくれた礼として、恩給と内城に屋敷を授ける。

 さあ、目録を受け取りなさい」


太子がそう告げるのと同時に、控えていた官吏が進み出て徐に書面を差し出す。


「あ、ありがとう、ございます……」


徐は震える手で目の前の書面を受け取りつつも、なんとか感謝の言葉だけは絞り出せたが、まだどこかフワフワとした様子である。

 様々なことが一度に起きたので、夢の中にいるような気分なのかもしれない。

 ヂゥの方はもっと事態がわかっていないのだろう、「皇帝陛下」と「恩赦」という単語に、目を白黒させている。

 そんな二人に、太子は語りかける。


「そなたのこれまでの苦労は私も耳にしており、皇帝陛下からお言葉を預かっている。

 『幸せを得るのに、遅すぎるということはない。

 二人で長く語り合い、空白の時間を埋めていくとよい』とのことだった」


「なんと、陛下が全てを見通していらっしゃったなんて……!」


太子が皇帝からの言伝を告げると、徐は感極まった表情になる。


 ――その言伝を預けたお人って、この場にちゃっかりいるんですけどねぇ。


 けれど今の場の雰囲気を壊さないためにも、きっと口に出してはいけないことなのだろう。

 事実、この弔いに参列した兵士たちは皆、なんとも言えない顔をしている。

 きっと「すぐそこにいるぞ」と言いたいのを堪えているに違いない。

 雨妹だって、この感動の場面にもっと浸りたいのに浸りきれないという、微妙な心境を我慢しているのだ。

 そんな一同の心境をよそに、太子がさらに徐に言う。


「そして教坊から、徐子に師範となってほしいという要望がある。

 私としても今後も徐子の琵琶を聴きたいので、ぜひ受けてほしいところだ」


恩赦になっても、徐を師範にするという教坊の話は生きていたようだ。

 それだけ、徐の作曲の才能が類まれなものなのだろう。

 今日の演奏を聴けば、雨妹も無理はないと納得である。

 そして屋敷を貰えて仕事もあるとなると、徐の今後の生活は安泰が約束されているということだ。

 その事実が、徐にもじわじわと理解できてきたようだ。


「……なんと、光栄なことでございます、太子殿下、そして皇帝陛下、ありがとうございます、ありがとうございます……!」


徐は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、朱と共に額を地面にこすりつけるようにして叩頭した。



それから、徐はその場ですぐに宮城から出ることとなった。

 ミンから「とりあえず滞在は自分の屋敷にすればよい」と誘われたためであり、明にもまずはすぐに再会の喜びに浸らせたいという温情が湧いたのだろう。

 教坊にある徐の荷物は、これからも出入りするのだから、少しずつ持ち出せばいいことである。

 貰った屋敷だって後日確認しに行けばいい。

 今はまず、朱と長い空白を埋めていくことの方を優先させていいのだ。

 その徐の人生の新たな出立を見送ろうと、雨妹とドゥ、そして護衛役の立勇のみの見送りで、乾清門に立っていた。

 日が暮れようとしている時刻、明の隣に徐と朱が二人並んでいる。


「徐さん、外城に陳先生の師匠さんでよいお医者様がおられます。

 明様がその先生のことをよくご存じですから、先生に診てもらってちゃんと風湿病を治してくださいね?

 今日の演奏、かなり無理をしたでしょうに」


雨妹は少々強めの口調でそう忠告する。

 きっと徐は、もうこの後の人生なんて考えずに、琵琶の演奏に挑んだのだろう。

 きっと手がボロボロに痛んでるだろうから、また治療に励んでほしいものだ。


「せっかく治してもらったのに、悪いことをしたと思っているよ」


ばつの悪そうな顔をしている徐だが、言葉遣いがまたこちらに戻っている。

 もう長いところこの話し方で通したのだから、こちらの方が今の自分らしいと、そういうことらしい。

 それに、その目元は泣きすぎてすっかり赤くなっている。

 けれど、うれし泣きはいくらでもすればいいのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る