第48話 名前

 ここで太子と皇帝の会話は途切れ、しばし沈黙が流れる。


 ――え、話ってこれで終わり?


 皇帝はその後も「その宮女を引き渡せ」などということは言わなかった。

 拍子抜けもいいところだ。

 身構えていた雨妹(ユイメイ)としては肩透かしを食らった気分だが、とりあえず話がわかって満足した。

 気付かれないうちにさっさと戻ろうと、立彬(リビン)を促そうとした時。


 ガサガサッ


 雨妹は気が緩んでいたのか、茂みの葉に身体が当たってしまい、結構大きな音を響かせた。


「うん?」


こちらの方に皇帝の視線が向く。


 ――ヤバい!


 焦る雨妹の隣で、立彬が「阿呆か」と声を出さずに言っているのが見て取れる。

 自分でもそう思っているので、反論できない。

 とにかく存在に気付かれまいと、雨妹は懸命に存在感を消そうとする。

 ここで盗み聞きしていたことが発覚すれば、叱責では済まないだろう。


 ――私は風、私は空気!


 雨妹が己に言い聞かせつつ息も止めてじっとしていると。


「野良猫ですよ、父上。最近よく見ますから」


太子がいい感じに助け船を出してくれた。

 ここで雨妹が上手に猫の鳴き真似でもできれば完璧なのだろうが、不細工な猫の声になりそうなのでやめておいた。


 ――ここにいるのは猫だから、早く行っちゃって!


 雨妹は必死に念を飛ばしていたのだが。


「そうだ、父上」


太子はなんとそのまま会話を続ける。

 話ならどこかの部屋に入って、お茶を飲みながらにしてくれと、雨妹がやきもきしていると。


「その雨妹が言っていたのですがね。

 彼女は『雨の日に生まれた女の子だから』という適当な名前を、死んだ両親から付けられたと嘆いていたのですよ」


太子が朗らかな様子で意外なことを話し始めた。


 ――はい? 突然なに言ってくれてるの?


 雨妹が驚いて立ち上がりかけるのを、立彬にぐっと頭を押さえられて止められる。


「適当とは、そんなことは……!」


皇帝は声を荒げかけ、途中で黙る。


「父上なら、その両親はどういった気持ちで名付けたのだと考えますか?」


太子の質問を聞いて、雨妹は心臓が破裂しそうに煩く鳴っているのがわかる。


 ――なに、これはなんなの?


 雨妹は今、混乱の極致だった。

 立彬に頭を押さえ込まれているため、皇帝がいる方は見えない。

 だが例え見れたとしても、一体どんな顔をすればいいのかわからないので、助かったと言えよう。

 雨妹は今まで親なんて実感がない、正直どうでもいいとすら思っていたはずなのに。

 自分が皇帝の子かもしれないなんて、そんな夢みたいな話よりも、旅の夫婦の娘である方があり得ると、自分を戒めたりもしていた。

 けれど今、自分がずっと聞きたくても聞けなくて、最近では聞かない方がいいかもしれないと考えていた真実への手がかりが、示されようとしている。


 ――もしかして、太子殿下は知っている……?


 雨妹が、後宮を追い出された張美人の娘であることを。

 皇帝が沈黙していたのはほんの数秒だったのだろうが、胸をドキドキさせて変な汗をかきながら待つ間が数時間にも思えてきた頃。


「……そうだな」


皇帝が口を開いた。


「丁度あの娘が生まれたであろう時期は、雨が降らぬ日が続いて干ばつ被害が酷かった年だ。

 民の飢えを和らげようと食料を配りはしたものの、間に合わずに死んでいった者のなんと多かったことか」


皇帝の口から語られたことは、雨妹が知らなかった事実だった。

 自分が生まれたのがそんな厳しい年だったとは初耳だ。

 尼たちからはそんな話は聞かなかった。

 もしかすると、辺境の方では干ばつ被害が及ばなかったのかもしれない。


「そんな中で久しぶりに降った雨は、まさに恵みの雨だったのだよ。

 雨妹という名は、この大地を潤し癒す雨のように、人々を癒す優しい娘に育ってほしいと。

 そう願った名なのだ、と思う」


皇帝のこの言葉は、雨妹の胸の中に静かに染みわたっていく。

 そしていつの間にか、頬を幾筋かの涙が伝い落ちていた。


「雨妹、お前……」


立彬が泣いている姿を驚いたように見つめているが、雨妹は涙を止められないでいる。

 雨妹にいくら前世の記憶があっても、それは「寂しさ」を補ってくれるものではなかった。

 むしろ前世での家族の愛情を覚えているからこそ、なおさら愛情に憧れてしまう。

 そして親の愛情なんて諦めたのだと、大人ぶってみても。

 やはり心の奥底には、愛情を求めて泣き喚く小さな幼い雨妹がいて。

 今まで「仕方のないことだ」と、そんな自分に言い聞かせてきたのだけれども。


 ――「雨妹」っていう名前は、ちゃんと願いのこもった名前だったんだ。


 ちゃんと愛情は与えられていたのだとわかり、幼い雨妹が「名前」という愛の印を得て、嬉しそうに笑っているのがわかる。

 雨妹が声を上げずに静かに泣きながら、その場から動くことが出来ずに蹲っている間に、太子は皇帝を伴って去っていく。


「……おい」


回廊が無人となってしばらくして、立彬が声をかけて来る。


「もうちょっとだけ、待ってください」


雨妹はそう断って数回深呼吸をする。


『ありがとう、お父さん』


雨妹は本当は皇帝の背中を追いかけて、そう叫びたい。

 しかし言葉にすれば、それは必ずどこかしらに漏れるもの。

 そうなれば雨妹は後宮にいられなくなる。

 成人した皇帝の子は、後宮を出るのが決まりだから。


 ――大丈夫、私はこれで十分だから。


 自分は愛されて生まれてきた、それがわかっただけでも幸せ者だ。

 感動に浸るのはいつでもできるし、今はするべきことをしよう。


「さあ、バレないうちに戻りましょう!」


雨妹は涙の痕を拭いて立ち上がり、笑顔で立彬に告げる。

 太子には二人がここにいる事はもうバレているのだろうが、それでも知らぬフリをするのが大人というもの。

 それに部屋にはまだ蒸しパンが残っていたはず。


 ――泣いたらなんだかお腹が空いたし、早く戻ろうっと!


 空腹が雨妹を夢現から現実へと引き戻してくれる。

 そう、雨妹は皇帝へ親子の名乗りを上げたくて、ここに来たわけではない。

 あくまで己は、後宮ウォッチャーなのだから。

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