第8話 思わぬ出会い

雨妹(ユイメイ)は医局に戻りがてら、お互いに名乗り合って医者から話を聞く。

 急いでいたので自己紹介すらしていなかったのだ。

 医者は名を陳子良(チェン・ジリャン)といった。

 高熱を出していた患者が目を離した隙に外に出たと知らせを受けて、探して治療しようと医局を飛び出したらしい。

 ――高熱での異常行動で、小川に落ちたのか。

「それ、目を離した人が悪いですよね?」

雨妹は思わずジト目になる。

 熱に浮かされおかしなことを言ったり錯乱したりは、よくあることだ。

 こうした症状は子供がなりやすいが、大人だってなる人がいる。

 どうして高熱を出している人を放っておいたのか。

 女の衣服は濡れた上に小川の石にひっかけたのか、あちらこちらが裂けて悲惨なことになっていたものの、意匠は凝ったもので生地は木綿ではなく絹だった。

 ということは、あの人は妃嬪であるはず。

 ならば、お付きの人が複数人いるはずではないか。

 妃嬪たちには常に人が付いている。

 王美人にもあのお供の人が常に一緒だし、他にも生活の細々したことを世話する宮女や女官がそれなりにいる。

 ましてやこの溺れた女性は着ていた衣服からして、恐らく王美人よりも位が上だ。

 きっとたくさんのお付きに囲まれているはずなのに。

「そうなんだがなぁ」

ここに至った状況に納得のいかない雨妹に、子良が唸る。


 そんな話をしている内に、医局に着いた。

 女を運んだはずの宦官たちの姿はすでになく、逃げ足の速いことだ。

 そして中に運ばれた女は、連れて行かれたままの姿で横たえられていた。

 布団を被せるでもなく、床に放置されているのだ。

 ――あいつら、許さん!

 医局にある床几(ショウギ)に寝せることすらしていないことに、雨妹は怒りを覚える。

 あの宦官たち、なんて仕事をしない連中だろうか。

「あの連中、ビビり過ぎだろう」

子良もこの状況に頭を抱えている。

「とりあえずこの人の濡れた服を脱がせますから、なにか布をください」

「洗った敷布でいいか?」

雨妹の言葉に、子良が棚から敷布を一枚出して渡す。

 ついでに濡れた身体を拭くための手ぬぐいも数枚受け取る。

「じゃあ、部屋から出てください。女性の着替えですから」

「お前さんを引っ張って行って、つくづくよかったよ」

子良は自分の判断を称賛しながら、医局から出て戸を閉める。


 子良が着替えを頼もうとしても、先ほど遠巻きにしていた宮女や女官の様子からして、呼んですぐに誰か駆け付けるとは思えない。

 けれど医者として、このまま濡れた服を着せておくわけにはいかない。

 雨妹という宮女がいなければ、非常に困難な状況になっていたかもしれないのだ。

 この場合、子良が自ら着替えさせるのは大変危険だ。

 医者で宦官とは言え、二人きりの状況で妃嬪の裸を見たとあってはタダでは済まない。

 姦通の疑いを避けるのは当たり前のことだろう。

 ちなみに姦通の危険を避けるために医者の助手的存在の女官もいるのだが、専門知識が必要とされるためにあまり人数が多くない。

 そのせいで彼女たちはみんな侍医付となっており、医局まで回されないのが現状だ。

 さらに言えば女医というのも一応いるらしいが、女が医者になるのは男に比べて非常に困難で、それこそ数がいないため後宮では見ない。


 医局の事情はともかくとして。

 まずは女の着替えだ。

 雨妹はまず、いつも帯に仕込んでいるマスク布を顔に巻く。

 熱を出している女の看病をするのに、マスクは必須だろう。

「さぁて、お着替えしましょうねぇ」

雨妹は意識がないとはわかっていても、念のため一言声をかけてから宦官から強奪した上着を剥ぎ、濡れた衣服に手をかける。

 床几に移動させる前に、まず全身濡れているのをなんとかせねば、床几が濡れてしまう。

 それを言えば、床几に上げなかった宦官たちの行動にも一理あるように思えるが、連中はおそらくそんなことを考えて床に放置したのではあるまい。

 女の着替えは無理でも、衣服の上からでも水を拭ってやればよかっただろうに。

 濡れた髪すら拭っていない宦官どもは、後で絶対誰かに言いつける。

 恨みつらみは後にして、まずは着替えだ。

 濡れた服を脱がせるのは案外難しく、既に破けているとはいえ、雨妹の手で新たに破くのは避けたい。

 苦労して服を脱がせた後は全身を手拭いで拭き、髪も丁寧に水分をとる。

 それから敷布を巻いて、肌が見えないように整えてやると、床几に上げて布団を被せる。

 雨妹の体型で女を抱えるのは大変だが、そこはコツというものがある。

 前世看護師は伊達ではないのだ。


 雨妹は濡れた床もしっかり拭いたところで、戸の外に向けて声をかける。

「もういいですよー」

「では、お邪魔しよう」

すると雨妹に聞き覚えのない、若い声が答えた。

 ――え、誰?

 戸惑うこちらを余所に入ってきたのは、艶やかな長い黒髪を背に流し、青い瞳を微笑ませた美しい男だった。

 その後ろに男のお付きであろう宦官と、子良が続く。

「え、え、え?」

雨妹の頭の中は、今大混乱中である。

 後宮は女の園。そこに立ち入る成人の男は皇帝と、跡取りである太子のみ。

 あとの男は全て宦官だ。

 それを踏まえて目の前の男を見る。歳は二十代半ばほど、来ている衣服は明らかに宦官のものではない。

 繰り返すが、後宮に立ち入る男は二人だけで、その内皇帝は四十代半ばのおっさんのはず。

 ――じゃあ、この人が太子殿下!?

 太子の名は劉明賢(リュウ・メイシェン)、もしかすると己の兄かもしれない人である。

 雨妹は「いつかちらっと顔を見れたらいいな」くらいの気持ちでいたのに、まさかこんなに早く出会う機会ができるとは。

 雨妹は驚いたあまりに、頭を下げることすら忘れて太子をガン見していると、瞳が青いことが同じだと気付く。

 というか、自分以外の青い瞳の人と初めて会う。

「ウォッホン!」

宦官がわざとらしく咳払いしたので、我に返った雨妹は慌てて頭を下げる。

 太子は、そんな雨妹をじっと見つめていたが。

「……ふぅん?」

小さく呟くと、雨妹から視線を外して床几に横たわる女に近寄る。

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