第7話 いきなり緊急事態

「えーと、ここだ」

迷いそうになりながら辿りついた医局は、そこそこ立派な建物だった。

「ごめんください」

雨妹(ユイメイ)が声をかけてから戸を開けると、中で医者らしき中年男がこちらに気付かずに荷物を鞄に詰めていた。

 医者と言えども、後宮勤めであるからには当然宦官である。

「あのぅ、すみません」

呼びかける雨妹に気付いた医者が、こちらをくわっと見開いた目で見た。

「そこの宮女! 丁度良い、荷物を持て!」

「はぁ?」

突然そう言われても、雨妹は戸惑うばかりだ。

「急ぐんだ、早く!」

けれど医者の謎の勢いに押されて、雨妹はなにかが詰まった荷物でパンパンになった鞄を押し付けられるままに持つ。

「付いて来い!」

医者はそう言うと、雨妹が付いて来ているのか確かめもせずに走り出す。

「え、ちょっと待ってよ!」

 ――なに、どういうこと!?

 わけがわからないまま、雨妹は鞄を抱えて医者を追いかける。


 意外と足の速い医者は、後宮の奥の広い庭になっている場所まで進む。

 すると庭を流れる人工の小川のあたりに宦官の人だかりが見え、それを宮女や女官たちが遠巻きにしていた。

「おい、患者はどこだ!?」

医者は人だかりに向かって怒鳴る。

「目を離した隙に小川に落ちて、勝手に溺れてしまいました」

そう答えた宦官の足元を雨妹が隙間から見ると、びしょ濡れの女が横たわっている。

 ――え、あの人溺れたの!?

 その女をただ見ているだけの連中が、雨妹には信じられない。

 カッとなった雨妹は、思わず宦官の集団に割って入った。

「どきなさい、邪魔!」

彼らは雨妹の剣幕に驚いたのか、自然と道を空ける。

「ちょっと、大丈夫ですか!?」

雨妹は女の肩を強めに叩く。

「お嬢ちゃん、やめておけ」

薄情者の宦官の言葉は無視だ。

 ――呼びかけても反応は無し、脈と呼吸を確認するもどちらも無し。

 雨妹は溺れた人への対処法を冷静に思い出す。

 男たちは息をしていないせいでもう死んでいると思って、放置の体勢だったのだろう。

 けれどどのくらい放置されていたのかわからないが、溺れて間もないのなら蘇生が間に合うはず。


 雨妹は女の顎を上げて気道を確保し、心肺蘇生を試みる。

 心臓マッサージと人工呼吸を交互に繰り返す姿に、宦官たちは不気味そうな顔をする。

「なにしてるんだ、アイツ」

「気味悪いな」

「呪われるぞ」

そんな声の横で、医者は戸惑いの表情を浮かべているが、必死の雨妹の視界に入らない。

 ――まだ反応がない、もう手遅れだった!?

 長く心肺蘇生を続けているが、変化の見られない女に諦めかけた時。

「ゴホッ!」

女が水を吐いた。

「よし!」

蘇生が間に合ったことに、雨妹は笑みを浮かべる。

 女の顔を横に向けて水を吐き出させていると。

「お前はそれを続けろ」

いつの間にか隣にいた医者が女の口を綺麗な布で拭い、気道の中に詰まっていないかを確認している。

 言われた通りに再び心臓マッサージを続けると、また水を吐く。

 それをしばらく繰り返すうちに、弱々しいながらも呼吸が戻って来た。

 ――これで大丈夫ね。

 あとは水で冷えた身体を温めなければ。

「温かい布! 早くちょうだい! なんでもいいから!」

誰も動かないので、雨妹は近くにぼうっと立っている宦官の上着を剥いで、女を包む。

「この人を早く医局に運んで、動かないなら邪魔よ!」

相変わらず反応しない宦官の足を、雨妹が蹴飛ばす。

「これは患者だ! お前たちが仕事をしないのならば、上にそう言っておくがいいか!」

医者も動かない宦官たちを恫喝するように怒鳴る。

 「上に言っておく」という台詞が効いたのか、宦官たちがようやく動き始めた。


 雨妹が運ばれて行く女を見送りながら一息ついていると、医者が肩を叩く。

「宮女お前、手際がいいな」

「……それはどうも」

なにせ前世は定年まで勤めあげた看護師なので、考えるより先に身体が動いた結果である。

「出しゃばりました、ごめんなさい」

医者がなにか言うよりも先に雨妹が行動してしまったのは、彼の面子を潰したとも言える。

 人の命の方が大事とはいえ、女が助かった今は立場を慮るのも重要だ。

 なにしろ雨妹は下っ端宮女なのだから。

 ぺこりと頭を下げる雨妹に、医者が苦笑する。

「いいや、お前が怒鳴らなかったら、たぶん俺が蹴飛ばしていたさ」

溺れたばかりなら助かるのに、放置するなんて論外だ。

 せめて濡れた身体を温めるくらいの行動はしてもよかっただろう、と医者は放置の体勢だった男たちを詰る。

「呪いだなんだと、大の男が情けない……」

医者がそう呟くとしかめっ面をする。

 ――呪い?

 そう言えば雨妹が心肺蘇生を試みている最中、そんなぼやきを聞いた気がする。

 あの宦官らには、溺れた女に触れたくない理由でもあったのだろうか。

 首を傾げる雨妹に、医者が顎をしゃくって促した。

「ついでだ、お前さんはもう少し付き合え」

ここで帰っては気になりそうなので、雨妹は医者の言葉に乗ることにした。

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