第5話 楊おばさんと王美人

翌朝、雨妹(ユイメイ)は自分の床几(ショウギ)の上ですっきり目覚める。

 枕や寝床が変わると寝れなくなるといった体質でないことに、感謝したい。

 寝床を片付けて身支度をした雨妹は、食堂に行って食事する。

 今日は昨日の話が通っているなら、あの建物の屋内の掃除だ。

 家具などをどかして掃除する分、屋内の方が体力を使う場合がある。

 精々食べておかなければと、モリモリ食べていると。

「ちょっといいかい?」

昨日雨妹たちが最初に会ったおばさんに声をかけられた。

 彼女は楊玉玲(ヤン・ユリン)といい、宮女たちの監督指導する立場であるらしい。

「……」

なにか答えなくてはと思うものの、いかんせん口いっぱいに頬張っているため、なかなか飲み込めない。

「待つから、喉に詰まらせないようにしな」

楊おばさんは呆れた顔でそう言った。

 雨妹が食いしん坊なのではない、ここのご飯が美味しいのは悪いのだ。


 もぐもぐごっくんをしてお茶を飲んだ後、雨妹は改めて尋ねた。

「なんでしょうか?」

「王(ワン)美人から申し入れがあった、昨日の娘に今日も掃除をして欲しいとね」

「……王美人?」

雨妹は初めて聞く名に眉を寄せる。

 その様子を見た楊おばさんは、再び呆れた顔をした。

「なんだい、知らずにいたのかい? お前さんだろう、昨日王美人の所を掃除したのは」

 ――ああ、昨日の建物の主さんか!

 なんと、あの人は美人の位らしい。

 母と同じということで、雨妹の中でまた勝手に親密度が増した。

「事前説明もありませんでしたし、本人に尋ねるのも失礼かと思いまして」

「全く、あの娘は……」

雨妹が昨日の状況を説明すると、楊おばさんの表情が険しくなる。

 あの世話役の女がなにも言っていないと思っていなかったのだろう。

 そして改めて話を聞くと、王美人は昨日の雨妹の反応に心配になり、楊おばさんに直談判してきたという。

「私も話を聞いて様子を見に行ったが、よく半日であそこまでやったね。しかも一人で」

「掃除は要領と計画性ですから」

掃除の順序を守り、ここまでするという範囲を決めるのが大事だ。

 昨日は屋外だけを掃除すると割り切ったからよかったのだ。

「……お前さん、難しい言葉を知っているんだね」

楊おばさんが胡乱気な視線を雨妹に向けた後、大きくため息を吐いた。

「来た初日からあんなに働いたのは、雨妹だけだよ。他の娘たちは世話役から話を聞くだけで仕事なんてしてないっていうのに」

なんと、雨妹にも初日に労働させるつもりではなかったらしい。

 全てはあの世話役の暴走だという。


「本当は新人と一緒なら、さすがの梅(メイ)も仕事をするかと思ったんだがね」

世話役の女は名を李梅(リー・メイ)というらしい。

 そしてどうやらサボり癖のある宮女のようだ。

 ――状況がわかっているんだったら、他の人を回すとかできなかったの?

 まさに塵も積もればで、屋敷は酷い様子だった。

 こまめに掃除していればなんてことないのに、長期間放置したせいで掃除困難物件となり果ててしまったのだ。

 別に梅にやらせることに固執せずに、別の人員を配置することもできただろうに。それともそれができない事情が、なにかあるのかもしれない。

 なにせ女の怨念渦巻く後宮だからして。

「とにかく、王美人の屋敷の掃除、頼んだからね」

楊おばさんはそう言って布に包んだ饅頭を一つ、卓の上に置いて行った。

 ――やった、本日のおやつだ!


 というわけで、食事を終えた雨妹が掃除道具を持って昨日の場所に行くと、王美人とお供の人が待っていた。

「今から留守にしますから、その間に掃除をしてください」

お供の人がそう言ってくる。

「わかりました。触ってはいけない物などはありますか?」

「……壺と鏡は陛下からの贈り物です、心して扱うように」

雨妹の確認に、お供の人は一瞬目を細めた後にそう答えた。

 出かける二人を見送ったら、掃除開始だ。

 まずは昨日と同じように頭巾とマスク布を装着し、掃除の格好になる。

「お邪魔しまーす」

誰もいないのだが、つい声をかけながら戸を開けて中に入る。

 ――うーん、屋内もなんだか空気が埃っぽい。

 雨妹はまず窓を全開にして空気を循環させる。

 辺境よりは暖かいとはいえ風はまだ寒いので、王美人もお供の人も窓を開けないのかもしれない。

 それでも掃除が入っていれば、換気くらいしただろうが。

 「ようやく掃除の人員を回してもらえた」とお供の人が言っていたので、掃除自体がずっとされていないための埃っぽさだろう。

 もし王美人が雨妹の推測通り元宮女であるなら、この埃具合はもどかしかったに違いない。

 自分で掃除出来れば手っ取り早いのに、偉くなったら掃除をしてはいけないのだから。

 掃除は宮女の仕事で、それを王美人自らがやってしまったら、他の妃嬪に馬鹿にされてしまう。

 そうなると後宮内での立場が悪くなる。

 ――皇帝の奥さん家業も大変だな。


 感傷に浸るのは後にして。

 空気の入れ替えの次に、床几(ショウギ)の上の布団を剥いで外に持って出る。それを昨日掃除したばかりの欄干の日当たりのいい場所にかけて干すと、お手製はたきの竹竿部分で叩いて埃を落とす。

「ふぁっ、埃っぽい!」

とんでもない量の埃が出た。

 これで毎晩寝ていたら、くしゃみが止まらないのではなかろうか。

 アレルギーがあれば悲惨なことになる気がする。

 それから屋内の細々した物を移動させて、外の一か所に纏める。

 陛下の贈り物だという壺と鏡は棚から下ろし、念のために見える場所に置いておく。

 割らないようにするためには、最初から割れない場所に置いておけばいいというわけだ。

 これらの作業が済んだら、後は昨日と同じ手順である。

 はたきで天井の埃を落とし、床の塵を掃き、仕上げの拭き掃除だ。

 どうしても埃の溜まりがちな床几周りを、特に綺麗にする。

 途中休憩に楊おばさんに貰った饅頭を食べて一日中掃除すると、今日は日が傾きだす前に終わった。

 小物類や壺や鏡もしっかりとはたきをかけて埃を落とし、元の位置に戻す。

「うん、いいんじゃないの?」

我ながらいい仕事をしたと雨妹が自画自賛していると、ちょうど王美人が戻ってきた。

 雨妹は頭巾とマスク布をとると、頭を下げる。


「まあ、綺麗になったわね。それに呼吸が楽よ」

「ようございましたね」

埃っぽくない室内の様子に、感激して笑みを浮かべる王美人に、お供の人も一緒に喜ぶ。

「あの、なにか病気ですか?」

王美人の言葉に引っかかりを覚えた雨妹は、余計なことかなと思いつつ聞いてみる。

 すると王美人は誤魔化さずに答えてきた。

「いいえ、昔からすぐ咳が出るの。

 ひどい時は長い時間止まらなかったりするわ。

 それでも、今は子供の頃ほどひどくはないんだけれど」

 ――王美人は喘息持ちか。

 それで埃まみれの状態は辛かっただろう。

 そしてさらに聞けば、室内にいる方が咳が出やすいので、朝から日が暮れるまで外に出て、散歩したり日当たりの良い場所で過ごしたりしていたそうだ。

 まだ風の冷たい季節なのに、なんという苦行だろうか。

「きちんと掃除をしたので、もう咳は大丈夫だと思います。

 そして出来れば、屋内でお湯を沸かせて湿気を足した方が、今の乾燥した季節では過ごしやすいですよ。

 風邪予防にもなりますし」

前世で看護師だった身としては忠告をしたくなり、思わずお節介を焼く。

「まあ、そうなの?」

「それはいいことを聞きました」

目を丸くする王美人の隣で、お供の人が頷いている。

 早速お湯の手配をするつもりだろう。


「お掃除本当にありがとう。あなたの名前は?」

「雨妹です」

王美人にお礼と一緒に尋ねられ、雨妹は名乗る。

「そう、雨妹。これはお礼よ」

そう言って王美人がお供の人伝手に渡したのは、蒸しパンだった。

 ちょっとカステラっぽい香りが夕食前のお腹を刺激する。

「貰っていいんですか?」

「もちろん。言ったでしょう? お礼だって」

掃除は雨妹の仕事であって、お礼を言われるものではない。

 だがそれを当然と思わない王美人の気持ちが嬉しかった。

「では、いただきます」

おやつが手に入って思わずにやける雨妹に、王美人は微笑んだ。

「私の事以外にも、この建物がまた以前のように綺麗になったのが嬉しいの」

どういうことかと目を瞬かせる雨妹に、王美人が語る。

「ここはね、私の前にも美人が住んでいたの。とても心優しい方だったと、いつか陛下に伺ったことがあるわ」

雨妹の胸がドキリと鳴る。

 まさかとは思うが、その美人とは母の事ではないだろうか。

 過去形で語られているということは、今は後宮にいないということだ。

 美人の位の女は他にもいるはずだが、追い出された美人がそう多いはずもない。

 母は早くに後宮を追い出され、美人として過ごしたのはほんの短期間の計算だが、可能性はある。

 そうだとすると、雨妹はここで生まれたのだろうか。

 出生については話半分だと自分に言い聞かせていたのだが、この「もしかして」はなかなか消えそうにない。

 ――実家(仮)を発見、ってとこか。

「呼んでいただければ、また掃除に参ります」

雨妹はそう告げると、一礼してこの場を去った。

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