家族

 「主任と内田さん、今度二人で食事に行くそうよ」

加藤さんは食堂に入るとすぐ私の隣に座り、耳元で囁いた。

「主任がね、観たい映画の話をしたら、内田さんが私もそれ見たいと思っていたんです、って。それで一緒に見に行って食事でも、って。付き合うとかそういうのではないけれど、加藤さんのお陰で少し親しくなりました、って主任が恥ずかしそうに教えてくれたの」

加藤さんは嬉しそうだった。

「坂田さん、ありがとうね」

「いえ、私は一緒に食事しただけで何もしてないですし、それに、食事会は私も楽しかったですよ」

「主任は本当に良い人だから、友達でも少し付き合えば、きっと内田さん分かると思うのよ。いずれ結婚になると良いのだけど」

「それはちょっと気が早すぎませんか?」

「そうね、でも、そうなって欲しいわ。とにかく、この事はこれからも内緒よ。もちろん、婚約にでもなれば別だけど」

加藤さんは『ふふふ』とほほ笑むと、ようやくテーブルに弁当を広げ始めた。




『ガチャ』と玄関から音がした。

「Hi, how was class?」

「Nothing.」

裕さんは目も合わさない。

「Anything you want to eat?」

「No, I do not feel like eating.」

「Have you already had something?」

裕さんは返事をせず、逃げるように書斎に入ってしまった。


裕さんは今日から四日間の集中英語コースの受講だった。

 昨日は夜遅くまで勉強をしていたようなのに、朝は六時の目覚ましと同時に起きてきた。そして、七時半の電車に乗れば十分間に合うはずなのに、トーストをコーヒーで流し込み六時半に家を出て行った。

 それでも、緊張している様子はなかったし、『Take it easy, have a good day.』と声をかけると、『OK, see you.』 と返してくれた。

パンフレットや裕さんの説明によれば、授業は九時に始まり、一つのレッスンが五〇分、一〇分の休憩と昼休み一時間を挟んで一日八レッスン、午後五時五十分までその名のとおり文法、聞き取り、書き取り、会話、討論にプレゼンテーション、と集中的に英語を勉強する。定員は八名、日本語は禁止。

 私の場合はマンツーマンなので状況は違うけれど、たった四十五分のレッスンでも英語で会話するのはとても疲れる。裕さんはもともとある程度英語が出来るとはいえ、丸一日となると当然ながら疲れたのだろうと思う。


 翌日は目覚ましが鳴っても裕さんはなかなか起きてこなかった。スヌーズ機能がついているので五分おきに目覚ましが鳴り響く。

宿題があるとは聞いていなかったけれど、夜遅くまで書斎の明かりがついていたので勉強をしていたのだろう。

六時半を過ぎたので声をかけると、七時になってようやく起きてきた。トーストには口をつけず、コーヒーだけ飲むと結局一言も話さないまま出て行った。


仕事は辛いことも多いけれど、悩みがある時は一時的に忘れられて気分転換になることも多い。特に特売でレジが混雑すると、あっという間に時間が過ぎる。

でも、着替えて守衛さんの前を通る頃には再び気が重くなってくる。夕食は何を作ろう。裕さんは昨日みたいに食べないかもしれない。トーストでさえ朝重いのであれば、シリアルを買っておこうか。

 大好物の豚の生姜焼きの材料と、ロールパン、シリアルをカゴに入れ、夜食用にプリンとカップラーメンを足して長く伸びたレジの列に並ぶ。

 会計まであと二人、というところで列から出る。仕事が終わってからずっと感じていた嫌な感じが急に強くなった。梅酒、ビール、栗蒸し羊羹、イカフライをカゴに足す。私の精神安定剤。きっと裕さんは今日の夜も話をしてくれないだろう、その時に空っぽな心を食べ物で満たしてあげるのだ。


 予想通り、裕さんは帰るなり書斎に入ってしまい、ほとんど口を利いてくれなかった。私は夕食を作る気になれず、残り物で軽く夕食を済ませると、イカフライをつまみにビールを飲んだ。イカフライは全部食べるつもりだったけど、二枚で油っぽさを感じ保存袋に入れて片づけた。

 何だかとても疲れていた。軽くシャワーを浴び布団に入ると、酔いも手伝ってかすぐに睡魔が襲ってきた。


昨夜も遅くまで勉強したのだろうか。寝不足なのか裕さんがやつれて見えた。目の下にはっきりとした隈が出ている。

「Good morning.」

「・・・・・・」

「Do you have a coffee?」

「・・・・・・」

返事は無いけれど、食卓にコーヒー、ロールパン、バナナを並べる。

「Are you OK? You look so tired.」

「・・・・・・」

何を言っても返事は無く、コーヒーに口もつけず、時間ぎりぎりまで見るともなくテレビを眺めていた。

二度呑み込んだ、『間に合わなくなるよ』という言葉を口にしようとした、ちょうどその時、裕さんは立ち上がり、重そうな体を玄関へ運んでいった。曲がった背中を見ていると『Take it easy.』とも言うことができず、心の中で『行ってらっしゃい』ということしか出来なかった。


昨日に続いてチラシの影響でレジは混雑したけれど、集中できずにミスを連発した。客に嫌な顔をされたり嫌味を言われたりして、その度に落ち込んだ。でも、ようやく仕事が終わっても家に帰りたくなくて、疲れているのに本屋やスーパーを何軒もハシゴした。

結局、二時間以上もぶらぶらし、家に帰った。一度座ると立ち上がれそうにないので、生姜焼きと味噌汁を作り、デパ地下のポテトサラダと在りあわせの野菜を盛り付けた。

夕食の支度が終わり、裕さんが帰ってくるまであと少し、と椅子に腰を下ろしかけた時、電話が鳴った。時計をみると七時に電話が鳴った。

「もしもし」

「もしもし、あ、坂田です。明日香さん?」

聞き覚えがあるような気がしたものの、相手が誰だか判らなかった。

「幸一です」

「あ、お義兄さん。ご無沙汰しています」

結婚する時に一度会ったきり、電話で話すのも何年振りだろうか。話したと言っても挨拶だけだったし、記憶に無いくらい昔だ。

「こちらこそ、不義理してしまって・・・裕二は?」

「すいません、まだ帰って来ていなくて」

「そっか、そうだよね、仕事忙しいよね」

「・・・・・・」

お兄さんは裕さんが仕事を辞めた事を知らない。

「明日香さん、悪いんだけど裕二が帰って来たら伝えて欲しいことがあるんだ」

「あ、はい」

「実はね、父が亡くなってね」

「え?」

「急なことで驚かせてしまって悪いね、心臓発作らしくてね、本当に突然で。裕二が帰って来たら、父の事を伝えて私の携帯に電話してくれるよう話してくれないだろうか」

「判りました」

「すまないね、よろしく頼むよ」

「いえ、そんな・・・・・・。それより、お義母さんとか、皆さん、お義兄さんも大丈夫ですか?」

「うん、とにかく突然なのでね、大変だけど何とか。うん、大丈夫だよ」

「そうですか」

「じゃ、よろしくね。明日香さん、裕二のこと、よろしくね」


義父に会ったのは結婚式の時、たった一度きりだ。当時、義父は義母や義兄とは別の所で暮らしているということだった。だから、亡くなったと聞いても実感は湧かなかった。

でも、裕さんは父親の突然の死に、きっと大きなショックを受けることだろう。どう伝えたら良いだろうか。


考え込んでいたのだろう。玄関が開く音には気づかず、リビングの戸がガチャリと開いて裕さんの帰宅に気付いた。

「お帰りさない」

思わず日本語が出てしまった。

「・・・・・・」

裕さんは相変わらず何も言わない。ただ、『日本語!』と注意するかのように私の方をちらっと見た。

「Are you hungry? I made Shouga―yaki. There is potato salad, too.」

「No.」

「Yu san!」

書斎へ向かおうとする裕さんを止めようとして、つい、大きな声が出てしまった。裕さんが怪訝そうな、それでいて少し怒っているような顔で私を見る。

「Well, There was a phone call from your brother.」

一瞬にして裕さんの顔が強張った。

「He said that your father pass away.」

「So what?」

「He wants you to call back.」

渡した電話番号のメモを裕さんは睨みつけるように見た。冷たい、怖い顔をしていた。


数十秒の間、動きもせず無言でメモを見ていた裕さんが、突然受話器を手にし、メモの番号を押し始めた。

「あ、兄貴。オレ、裕二。前にも言っただろ、もうウチに電話しないでくれないかな」

裕さんが天井を見上げ、足踏みをしながら話している。落ち着かない様子だ。

「知らないよ、・・・・・・葬式? いや、行く気は無いから・・・・・・、借金は? あ、そう、なら良かった」

抑揚のない機械的な話し方だった。

「母さん? 可哀想だとは思うけど自業自得だよ、・・・・・・とにかく、もうウチには電話しないでくれないか。・・・・・・そう、そうだよ、例え母さんが死んでも、だよ。オレにはもう関係ないから。・・・・・・うん、じゃ」


「Do not you attend his funeral?」

「No.」

「Why not?」

葬式に行かないという裕さんが私には全然理解出来なかった。しかも、お義兄さんに、お義母さんが亡くなっても、と言っていた。

「That is not our business.」

「But he is your and also my father. I want to attend his funeral.」

「Do not go!」

裕さんが叫ぶように言った。

私は驚いて、裕さんを見た。つーっと涙が溢れて、慌てて手の甲で拭う。

「Do not go, please.」

裕さんは気まずそうに、でも、怒った顔で言った。



付き合っていた頃から、ほとんど家族の話は裕さんの口から出なかった。というか、知り合う前の話さえ、ほとんど話さなかった。結婚前に一度だけ実家に連れて行ってくれて、その時に義父、義母、義兄と顔を合わせた。義父はほとんど口を利かず、しかも途中で用事があるので帰る、と席を立ってしまった。義母が詫び、義兄が場を取り成すように地元の話をした。居たのは三十分くらいだろうか。『じゃ、行こうか』と裕さんに促され、小さい頃の思い出話も聞けずに実家を後にした。

裕さんが帰りの電車の中で、家族に色々事情があること、例えば籍は残っているけれど、何年も前に義父が家を出ていること、今回会えなかった義弟とは、裕さんも実家を出て以来、一度も会えていないこと、を話してくれた。

そして、『複雑な事情があってね、結婚式には家族や親戚を呼べないんだ』と絞り出すように言った。だから私は式を挙げないことにした。両親は少し寂しそうな顔をしたし、職場の先輩はウェディングドレスを着なかったら後悔すると忠告したけれど、友達が小さなパーティを開いてくれたし、裕さんの同僚が飲み会を開いてくれたので、それで十分だった。

結局、結婚後、裕さんは一度も実家に帰らなかった。ただ、義兄さんは一度新居に遊びにきてくれたし、年に一、二度電話をかけてきてくれた。


五年くらい前、だっただろうか。裕さんは義兄と電話で口論していた。内容はよく分からなかったけれど、お金の話のようだった。

「わかった。何とかするよ。・・・・・・あぁ、・・・・・・うん、だけどさ、これが最後だから。もう、二度とウチには電話してこないで・・・・・・、そりゃ、兄貴のこと気の毒だと思うよ。でもさ、オレにはオレの人生があるんだよ、もう、沢山なんだよ。・・・・・・兄貴だってそうだろ?」

受話器を置いて暫く経ってから、裕さんから『話がある』と言われた。

「最初で最後だから、何も言わないで協力して欲しい。事情があってね、実家でお金が必要なんだ。五十万円送りたい」

「・・・・・・」

マンションの頭金に貯金のほとんどを崩してしまっていたので、通帳の残高は六十万くらいだった。夏休みに旅行することを諦めなければならない。

「実は、今までも少し送っていたんだ」

裕さんのお小遣いは月三万円だった。昼食代も含めてなので、決して余裕のある金額では無い。

「実は出張とかに行くと、正規の料金と格安チケットの差額代とか、少し小銭が入るんだ。時々だけど二万とか三万とか送っていたんだ」

びっくりして何も言えなかった。

「二年前くらいかな、兄が怪我をしてね、仕事が出来なくなってね。助けてくれ、って言われてね」

「言ってくれれば良いのに……」

「ごめん、悪くて言えなかったんだ」

「また、お義兄さん、怪我したの?」

「いや、弟が・・・・・・」

「義弟さん?」

「うん、いや、その、複雑でね。・・・・・・さっきも言ったけど、悪いけど何も言わないで協力して欲しいんだ。もう、家族とは縁を切る。兄にも、お金を出す代わりに二度と電話をしないようにお願いした」

「・・・・・・」

事情も分からないまま五十万を出すのは納得出来なかった。でも、半分は裕さんが働いて得たお金なのだから、しかも、裕さんの家族に払うお金なのだから、私が反対するのは間違っているように感じた。

 自分の実家には帰らないのに、裕さんは夏と正月に欠かさず私の実家を訪れてくれていた。それだけではなく、父の日や母の日、誕生日、バレンタインなど年に何度もプレゼントを贈るように私に言った。

「わかった、週末までに下ろすね」

「ありがとう」

裕さんは少し安心した様子だった。

「家族のことで迷惑かけてごめんね」

ぼそっと言うと考え込むように組んだ手を見つめていた。



書斎の扉を見つめていると、また涙がこぼれ落ちた

一生懸命やっているのに、どうして上手くいかないのだろう? どうして、こんな時にお義父さんが亡くなるのだろう。

裕さんは自分勝手だ。家族を捨て、仕事を辞め、友達から距離を置き、そして、私からも逃げている。卑怯だ。

私は例え何があっても両親や兄のことを捨てられない。もちろん、裕さんを見捨てることも出来ない。血が繋がっているかどうか、じゃない。


病気をしている人が一番辛い、と言われる。それはそうなのかもしれない。でも、看病する家族だって、私だって同じくらい辛いのだ。辛さの種類は違うかもしれないけど、私だって今まで生きてきた中で一番辛いのだ。


一人で生姜焼きの夕食を食べ、心の空白を埋めるように栗蒸し羊羹を食べた。それでも足りず、イカフライの残りも平らげる。ビールと梅酒でかなり酔っているはずなのに、頭の中心は冷たく、妙に冴え冴えとしていた。食べ過ぎている自分を馬鹿みたい、と呆れている自分がいる。片方の自分は胃がパンパンで一杯だと思っている。でも、もう一人が『足りない、もっと、もっと』と言っている。



翌朝、目覚ましで起きると頭が重かった。朝食の支度をしても、裕さんはきっと食べないだろう。頭だけでなく胃も重い。まだイカフライが残っている。仕事が休みなので、もっと横になっていたかったけれど、気力を振り絞ってベッドから出る。

裕さんは六時半になっても起きてこなかった。スヌーズを止めているのか目覚ましの音が聞こえない。

起きない本人が悪い、わざわざ嫌な顔をされる必要も無い、と思う一方で、病気なのだから仕方ない、起こしてあげるべき、とも思った。起こさないのは、話をしてくれないことに対して仕返しをしているようで何だか嫌だった。

「Are you wake up?」

肩を軽く叩くと裕さんは寝返りをした。目は開けないけれど起きたようだった。

「It is 7:00 am. You will be late if you get up now.」

裕さんは返事をせず、布団を引っ張って頭まで包まってしまった。

「Don’t you go to the class today?」

返事はない。でも、体を丸めこみ、布団の中でより小さくなった。

「Are you sure?」

確か代講が受けられるはずだったけれど、本当に休むつもりだろうか。


 結局、裕さんが起きてきたのは正午を過ぎた頃だった。さすがにお腹が空いたのだろう、無言でテーブルに置いてあった完全に冷めた朝食を食べた。食パンくらいトーストすれば良いのに。

 部屋にいる私を無視しているような態度が悲しかった。裕さんは心の奥では私を憎んでいるのではないか、と思う。私と結婚しなかったら、マンションなんて購入しなければ、と考えているのではないだろうか。

 何か声をかけよう、と思っている間に、裕さんは食べ終えて再び寝室へ行ってしまった。また眠るようだ。睡眠薬を飲んでいるわけでもないのに、そんなに長時間眠れるものなのだろうか。もしかしたら夜中はほとんど眠れていなかったのかもしれない。


 午後、買い物から帰ってきても、裕さんはベッドで寝ていた。寝ているふりかもしれないと思ったけれど、注意深く寝息を確認すると、本当に眠っているようだった。

 裕さんは子供のような顔をして眠っている。会社を辞めたことも、感情のコントロールが出来ない事も嘘みたいだ。最近は眉間に皺を寄せている顔しか見ていない気がする。

 リビングのカレンダーを見る。九月も今日で終わりだ。来月、裕さんは留学する。結婚するまで実家にいた私にとって初めての一人暮らしだ。寂しいし、女一人で大丈夫かな、と最初は不安だったけれど、考えてみれば今も一人暮らしのようなものだ。誰かと一緒なのに話をしない方が、一人よりずっと寂しいかもしれない。

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