張り詰めた糸
金曜日、私が仕事や英会話教室で留守にしている時間のことは分からないけれど、家にいる間のほとんどを裕さんは寝室で寝て過ごしていた。
土曜日、二週間ぶりの通院の日だった。薬が無くなるのは困るのだろう、起こさなくても予約時間の少し前に起きて裕さんは出て行った。
日曜日、裕さんは昼前と夕方の2回だけ寝室から出てきた。トイレに行って、冷蔵庫の残り物をつまみ麦茶を飲んだ。木曜日からシャワーにも入っていない。十月とはいえ日中はまだ暑い。裕さんから籠った汗の匂いがした。私は図書館から借りている本を読んだり、なんとなく寂しくて点けっ放しにしているテレビを眺めたりしながら、長い一日を過ごした。話し相手はチビだけだ。
こうして、裕さんはほとんど寝室で寝て過ごしてはいるものの、特に何も無く数日が過ぎていった。
私は何事も無いかのように職場で振る舞い話を合せて笑った。実際、家にいるより仕事場にいる時の方が気持ちは楽だった。時々、裕さんが家で一人大丈夫か心配になったけれど、客の対応に追われて長く考える時間は無かった。
水曜日、昼休みに珍しく藁谷さんからお茶に誘われた。加藤さんと石原さんも一緒だという。私が家を出る時はまだ眠っていたけれど、裕さんは四時から留学の手続きがあり、帰りは七時頃の予定だった。お茶をしてから帰っても夕食の準備には充分間に合う。付き合いでも良いから私は誰かと話をしたかった。『職場の人とお茶してから帰ります』と送ったメールに裕さんから返事は無かったけれど、皆とお茶をしに行くことにした。
「あー、疲れた。それにしても加藤さんは偉いわよ、何だかんだ言って、食事の準備もしっかりするし」
「石原さんだって、そうでしょう?」
「いやいや、私は今ストライキ中。食事は自分の分しかしないのよ」
「あら、そうなの? 何があったの?」
「実はね、主人がね、・・・・・・」
普段は馬鹿馬鹿しいと思っている会話も、今日は聞いているだけで気持ち良かった。藁谷さんも実家のお母さんが子供と出かけているということで、久しぶりにのんびり出来る、と普段よりおしゃべりになっていた。
一時間くらい、のつもりが、あっという間に2時間経っていた。
駅ビルへ寄って、唐揚げとスモークサーモンのサラダを買う。裕さんの好物だけど、食べてくれるだろうか。あとは、味噌汁を作って、惣菜の残り物を出せば量は十分だと思う。
玄関を開けるとリビングの明かりが点いていた。思ったより早く帰って来られたようだ。
「どこに行ってたの?」
「お茶のあと駅ビルで買い物を・・・・・・少し遅くなったけど、でもメールしたでしょう」
いきなりの質問に驚いて答える。そして、日本語だ、と気づく。
「誰と?」
「え? パート仲間だけど」
冷蔵庫に買ってきたものを仕舞いながら答える。
「パートの人だけ?」
「あ、正確にいうと契約社員の人もいるけど・・・・・・」
「この前、一緒だった人?」
「え?」
「ひょろっとした奴」
一瞬、裕さんが何の話をしているのか分からず戸惑った。主任と一緒の時に見かけたのは、やはり裕さんだったのだ、と気づくまでに暫くかかった。
「主任のこと? ううん、違うけど」
「ふん、どうだか?」
裕さんが皮肉っぽく笑った。
「僕がいないと『職場の人』と総じて出かけているみたいだから」
私が嘘をついている、と言いたげだ。裕さんが病気になってから極力外出を控えているのに、全然わかってくれていないのだ。嫌味な態度に腹が立った。
「そんなことない。職場の人と行くときは職場、って言っているし、友達の時は友達、ってちゃんと言っているよ。この前一緒だったのは主任で、今日一緒だった契約社員の人。誘われて食事に行ったの」
「で、僕が留学したら、時々二人で食事するつもりな訳だ」
「は?」
裕さんの攻撃的な態度に、普段は病人だから、と言葉を選び、感情を抑え込んでいたたがが外れた。
「二人で食事に行く訳ないでしょう? 私の事、そういう風に見ているの? 私を何だと思っているの? 馬鹿にしないでよ!」
叫ぶように言い、それでも気持ちが治まらず、私は目についたテーブルの上の新聞を裕さんに向けて投げた。新聞は裕さんまで届かず、足元に落ちた。当たらなかったことが悔しくてティッシュ箱を続いて投げると、裕さんの胸に当たって落ちた。
裕さんは動かず、落ちたティッシュを無表情に眺めていた。
「どんなに一生懸命やっても駄目なことが、どれほど辛いか・・・・・・」
涙が込み上げてくる。
「裕さん、私の事を怒っているんでしょう? 私が裕さんの為を想って頑張っても、無意味なんでしょう? 何も・・・かもが・・・不満・・・なんで・・・しょう・・・・・・」
しゃくりあげてしまい、上手く話すことが出来なかった。涙が次から次へと溢れ出る。こんなに泣いたのは何時以来だろうか。あぁ、私は長い間、悲しかったんだ、自分でも気づかないほど、こんなに我慢していたんだ。
「裕さんは・・・、私だって・・・・・・」
言いかけた言葉を呑み込み、裕さんに背を向け、呼吸を整えた。そして、冷蔵庫から缶ビールを二本取り寝室へ向かった。
泣きながらビールを飲むのは難しかった。時々むせながら、それでも早く酔いたくて一本をあおった。
まだ、しゃくりあげが止まらない。それでも、ビールのせいで頭の芯の方が少し鈍くなったような感じがした。洗面所からティッシュを取ってきて、顔を拭き、鼻をかむ。一瞬少しすっきりした気がしたけれど、洗面所に入る時に目に入った裕さんの背中を思い出すと、また涙がこぼれた。
二本目のビールを飲み干すと、さすがに酔いが回り、泣き疲れたせいもあって眠くなった。布団に横になりながら、どうしてこんな事になったのだろう、と薄れゆく意識の中で記憶を遡る。一年前は幸せだった。裕さんは仕事が忙しくて、休みに家にいても疲れてゴロゴロしてばかりだったけれど、買い物に出かけたり、食事に行ったりしていた気がする。
あぁ、でも、と思う。朦朧としながら、一年前から夜の夫婦生活は無かったな、と考える。疲れているのだろう、と思っていたけれど、私への愛情が無くなっていたのかもしれない。
涙が一筋頬を伝う感触があった。でも、体が重くて涙を拭おうとするけど手が動かなかった。このまま眠りに落ちるような、体が沈んでいくような感覚がした。
目が覚めると目覚まし時計が九時二十分を表示していた。ずいぶんと眠ったんだな、と思った。
重たい気分で寝室を出ると、玄関に裕さんのスリッパがあった。出かけたのだろうか?リビングに入るとチビが餌の催促をしてきた。書斎も空だ。チビに餌をあげながら、裕さんは昨夜のうちに家を出たのかもしれない、と考える。台所には唐揚げが昨日置いた場所にそのままの状態で置いてあったし、うつらうつらとしていた時、玄関のドアチャイムが鳴ったような気がした。
夕食を食べていなかったので、さすがにお腹が空いていた。トーストに昨日買ったスモークサーモンのサラダを食べ、唐揚げは処分した。
何もしたくない気分だったけれど、シャワーを浴び、続けて洗濯だけでも、と洗い物を洗濯槽に入れ始めた。
靴下を裏返し、シャツやズボンのポケットを確認していると紙が出てきた。見ると性感マッサージ店のクーポンだった。
頭に血が上る、という感覚は初めてだった。
店は留学センターのそばだ。
職場の付き合いで主任と食事しただけの私を、しかも、話そうとしているのに聞かなかったのに、それを浮気しているみたいな責める言い方をしておいて、自分はマッサージへ通っているなんて。
『あんまりだ・・・・・・』
玄関の内鍵をかけた。考えたのでは無かった。気がついたら体が勝手に動いていた。
強くもないのに赤ワインを一気に二杯、流すようにして飲み、うつらうつらしながらテレビを眺めた。ふと目が覚めると昼過ぎで、またワインを二杯飲み、昼食代わりにチョコチップクッキーをつまんだ。自分が自分じゃないような感覚だった。涙も出ないし、かといって怒りが込みあげてくる、という訳でも無かった。テレビの中で司会者が笑ったり、首をかしげたりしているけれど、何が可笑しいのか不思議なのか分からなかった。酔っているからか、全てがぼやけていた。
情報番組からサスペンスドラマに変わったのは朧げに覚えている。でも、次の瞬間、気付くとテレビからはニュース番組が流れていた。時計を見ると六時を過ぎていた。
部屋は薄暗く静かだった。裕さんは帰ってきたのだろうか? ベルが鳴れば気付くはずだけど、酔っていたので自信は無かった。
ボトルに残っていたワインを全てグラスに注ぎ、まだ酔いの覚めていない体に流し込んだ。そして、少しふらつきながら、チビに餌をあげる。頭を優しく撫でると、噛む動作が頭を通して手のひらに伝わってくる。
その瞬間、玄関から「ガチャ」という音が聞こえ、緊張で一瞬体が固まった。続いて「ガタン」という音。内鍵をしているなんて予想していなかったから、思いっきり開けようとしたのだろう。その後も何度かガチャガチャと音がしたけれど、内鍵に気付いたのだろう、静かになった。
私は玄関から少し離れたところに立ち、これからのことに身構えていた。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。インターホンで応答をしなかったら、立て続けに二度チャイムが鳴り玄関がガチャっと開いた。
「明日香、部屋にいるんだろ?」
内鍵をして外出できるわけが無い。部屋にいるに決まっている、裕さんは何を馬鹿なことを言っているのだろう。
「俺が悪かったよ、謝るから開けてよ」
悪い、って何が? 何を謝るというのだろうか。
「明日香、もう、いい加減にしてくれよ、謝っているじゃないか」
『いい加減?』
私が裕さんの言葉を復唱するのに合わせるかのように、チャイムが何度も鳴った。
「とにかく開けてくれよ」
私はリビングに戻ると、財布から一万円札を抜きとり、テーブルの上に置いていたキャバクラの名刺を掴み取り、玄関ドアのところまで行った。内鍵をしたまま、ドアを少し開け隙間からクーポンを投げた。
「謝ったら済むことと、そうじゃないことがあるでしょう?」
「え、何これ? あ、その、・・・・・・いや、誤解だよ」
「今日は顔も見たくない、帰って来ないで!」
「でも、僕、お金持ってないし。何処に行けっていうの?」
私は隙間から一万円札を投げた。
「これでビジネスホテルでも泊まればいいでしょう? それか、その店にまた行けばいいじゃない!」
「だから誤解だって」
「じゃ、何で謝ったのよ?」
「それは、その、・・・・・・」
「とにかく、顔も見たくないし、話もしたくない」
私は玄関から離れてリビングの扉を閉めた。チャイムの呼出音を切り、玄関からの音が聞こえないようにテレビのボリュームを上げた。そして、最後に携帯をマナーモードにした。
十分ほどして様子を見に行くと予想した通り裕さんの姿は無かった。弱い、と思う。人目を気にして離れたのだろう。
それにしても、何が『いい加減』なのだろう? それは私のセリフだ。この半年近く、一生懸命頑張ってきた私を非難し、無視して・・・・・・。病気だったら何をしても良いと勘違いして、いったい何様のつもりなのだろう?
私はもう、これ以上裕さんと英語で話すことも、裕さんの病気を隠すことも、裕さんの家族と連絡を取らないことも、『いい加減』うんざりだ。私は病気じゃないけど、だからといって、したいことを我慢して、したくないことをしなければならないなんて、不公平すぎる。
お腹が空いているわけではなかったけれど、気を紛らわせたくて柿ピーをつまみに焼酎を飲み、冷凍の焼うどんを電子レンジで温めて食べた。
重たい頭と胃を感じながら、横になってお笑い番組を観る。何が可笑しいのか全然わからない。かといって、体を起こして番組を切り替える気にもならなかった。
ふと、目が覚めると猛烈に気分が悪かった。胃から込みあげる物を感じてトイレに駆け込むと、柿ピーとうどんが出た。頭がガンガンする。続けて何度か吐く。最後の方は黄色い液体が出るだけだった。完全に飲み過ぎだ。馬鹿さ加減に呆れている自分が、涙目で便器を前にうずくまる自分を眺めていた。
『馬鹿ね、何をやっているの?』
『どうせ馬鹿よ』
『そうやって開き直りますか』
『開き直りでもしないと、やっていられないのよ』
『しっかりしなさいよ』
『責めないで助けてよ、頑張っても、頑張っても上手くいかなくて、もう、どうしたらいいか分からないのよ・・・・・・お願いだから、助けてよ』
目が覚めると七時を少しまわったところだった。トイレからベッドに移動し着替えずにそのまま横になったのを覚えていた。あのまま深く眠ったようだ。
まだ少し頭が痛かったし、胃も重たかったけれど、歯を磨いてシャワーを浴びるとだいぶましになった。仕事があるので無理矢理トーストをミルクティーで流し込んだ。
部屋を軽く片付け、ちびと触れ合って気持ちを落ち着かせた後、大きく深呼吸をして家を出た。私が家を出ている間に裕さんは帰ってくるに違いない。もしかしたら、内鍵をかけられるかもしれない。
スーパーでの勤務を終え、駅ビルで少し時間をつぶしたあと、英会話教室へ向かった。気持ちが落ち着かず集中できなくて、何度も『Pardon?』を繰り返した。先生から帰り際に疲れているようだね、と言われ、愛想笑いで誤魔化した。
食事を作る気力もなく、混んでいるスーパーに寄るのもしんどくて、駅前でミニ親子丼を食べて帰ると、意外にも裕さんは居なかった。帰って来た様子もなかった。何だかとてもホッとした。
鍵をかけ、内鍵をかけるかどうか一瞬戸惑った。
腹は立っている。すごく立っている。でも、だからといって締め出すのは違うと思った。昨日はショックのあまりに追い出してしまったけど、でも、このマンションのローンを組んだのは裕さんなのだ。
いつ裕さんが帰って来るか、と思うと落ち着かなかった。
十時を過ぎ、きっと裕さんは怒っていて、今日は帰らないつもりかもしれない、と思いシャワーを浴びてリビングに戻ったら裕さんが座ってこちらを見ていて、思わず悲鳴をあげそうになった。
「I want to talk something with you.」
「・・・・・・」
「Please.」
「英語なら話さない」
「わかったよ、日本語でいいよ」
裕さんから少し離れて、チビのケージ近くに座る。
「本当に誤解なんだよ」
私は裕さんの方は見ずにチビを睨むように見つめた。
「道でもらったのを捨てるのを忘れただけで・・・・・・」
暫くお互いに無言の時間が流れた。
「悪かったよ、今思い出したんだけど、その時はわざと捨てなかったんだ。でも、もらったことも、捨てなかったことも、全部忘れていたんだ、病気のせいかな、記憶が抜けたり入れ替わったり、ってことが時々あるんだよ」
何を言っているのか全然理解できない。裕さんが言ったことを頭の中で繰り返し、私は首を傾げた。
「意味わからないよ」
「わからないか。あ、でも、うん、そうだよね、わからないのも当然か。明日香が職場の人と仲良く話しているのを見て腹が立ってさ、ほら、食事に出かけただろ。で、その、心配というか、それで、ちょっと名刺でも見たらどう反応するかと思って捨てなかったんだけど、そのまま忘れていて、その、タイミング悪く見つかったというか・・・・・・」
「だって上司だよ、というか、職場の人だったら上司でもパート仲間でも気を使うのが当然で、愛想笑いだってするでしょう? 裕さんは本気で私が浮気でもすると心配したの? 私のこと信用できないの?」
キャバクラに通ってなかったんだ、という安堵と、浮気すると思われた悔しさと怒り、切なさ、バラバラの感情に心が悲鳴をあげて涙が込み上げる。
「本当にごめん、自分がおかしい、って分かるんだよ、でも、昔みたいに普通でいることが出来ないんだ、後でおかしいことに気付くことは出来ても、その時は分からないんだよ」
ちびから顔を移すと、裕さんは首が折れそうなくらい頭を下にうなだれていた。
「明日香が一生懸命やってくれてて、それは分かっていて感謝をしているんだけど、でも、本当に・・・・・・怖いんだ」
裕さんが激しく貧乏ゆすりをしている。振動が微かに床から伝わってくる。
「怖いって何が?」
「分からない。いや、全部、何もかもが怖い。結局、皆から嫌われて最終的には独りになるんじゃないか、と不安なんだ」
「でも、離婚してでも留学するって自分から言ったでしょ」
「言った自分は別の自分というか、説明が難しいんだけど調子の良い時は、怖くないんだよ。でも、調子が悪いと絶対無理と思う。本当に辛いんだよ。自分の意志とは関係なく気分が上がったり落ちたり、まるで永遠とジェットコースターに乗って降りられない悪夢みたいだ」
頭の芯が重い。現実に裕さんと話をしていているのだけど、何だか夢の中のような感じだ。目の前に裕さんがいて話をしているのだけど、私の知っている裕さんではない気がしてしまう。良く似ているんだけど違う、裕さんには一卵性双生児の兄弟はいないけど、もしかしたらこれはその兄弟で演技をしているから違和感を覚えるのかもしれない、などと突拍子もないことを無意識に考える。
「信じて、風俗どころかクラブもキャバレーも行ってない、だいたい、そんなお金もないって知っているだろう? 気分が沈んでそんな気さえおこらないよ」
じゃあ、お金があったら行くのだろうか? あるいは、離婚して留学するくらい強気で気分が良い時は? 私を邪魔と思い冷たく扱う裕さんと、独りにしないでと泣きつく裕さんは、本当に同じ裕さんなんだろうか? 本当に病気が原因なのだろうか? 優しさは偽りで冷たいのが本性なのだろうか?
「明日香?」
「・・・・・・」
「あのさ、実はさ」
裕さんがさらに激しく貧乏揺すりをした。首まで揺らしている。駅とかで時々見かける変な人のようだ。関わり合いにならないように、何気ないふりをして距離をとらなければいけない、と思わせる人。もし、今の裕さんと同じような人が同じ車両になったら、私は隣の車両へ移動するだろう。
「その、あの、・・・・・・本当に無理なんだ」
「何が?」
私は睨むように裕さんを見ていた。少し怖かった。
「だから、その、留学」
「え?」
「行けない」
「行けない、って、どういう意味? 全然わからない、この間集中コースに通って今月には出発で…」
「通ってない」
裕さんの声が私の疑問の言葉を遮った。
「二日目の途中で中断したんだ。英語、話せない。聞けない。無理」
頭がくらくらする。裕さんの揺れる足を見ながら今聞いた話を整理する。集中コースを休んだ日があることは分かっていたけれど代講を受けていると思っていた。
「つまり、留学しない、ってこと?」
「そう」
「え、でも、費用は?」
「一か月をきっているからキャンセル料が五十パーセントかかる。あと、登録料と入学金は戻らない。チケット代は手数料を引かれた差額が戻るって」
裕さんが既にキャンセルに関することを聞いて理解していることを知って驚いた。既に行かないと決めて調べていたなんて。
「ごめん」
謝るんだったら、予定どおり行けばいいのに、と思った。相談もしないで勝手に何でも決めるなんて。私の事を何だと思っているんだろう。馬鹿にしている。
今さら留学しないなんて有り得ない。普通じゃない。
そう、裕さんは全然普通じゃない。
翌日、裕さんと一緒に留学エージェントの事務所に行き手続きをした。初めて会う受付の人は親切だったけれど、何となく好奇の目で裕さんや私を見ているように感じた。実際、裕さんは説明されたことを質問したり、どう答えていいのか、意味がわからない質問をしたりした。目線が定まらなくて、場違いなところで笑ったりして落ち着きがなかった。
机の上に広げられた明細を見ながら、消えたお金のことを思った。頭でざっと計算しただけでも五十万以上だ。何かを買ったわけでも、特別なことを経験したわけでもない。いや、特別な経験だ。こんな経験、誰もしないと思う。こんな風に、お金を消費するなんて。
以前だったら、大したことない、と気分を変えることが出来たと思う。でも、自己都合で退職した裕さんには最低でも三ヶ月失業保険が入ってこない。今の状態では復職は相当難しいだろう。病状が安定しなければ復職どころか、求職活動も難しいだろう。求職活動が出来なければ給付を受けられない。収入が断たれた今、これから先、どうしたら良いのだろうか。考えれば考えるほど途方に暮れるしかなかった。
とりあえず、英会話は今日にでも電話で次回を最後にしてやめると伝えよう。そして、月曜日に早速店長に勤務日数や時間を増やすことが出来るか相談してみよう。
事務所を出た時に「ありがとう」と小さく呟くように言ったきり、裕さんは家に帰るまで一言も話さなかった。そして、帰ってからも大半の時間を横になって過ごし、食欲が無いと言って食事もほとんど取らなかった。
翌日、珍しく起きたら十時を過ぎていた。目が開いても布団から出るのがしんどく感じた。このまま横になっていたい。私も鬱になっているみたいだ。
暫くぼーっとして横になっていたけれど生理現象には勝てなかった。重く感じる体を起こしトイレに行った。
牛乳でも飲もうとダイニングに行くと、本や雑誌が山積みになっていた。全て英会話や留学に関するものだった。まだ寝ているだろうと思っていたのに、裕さんは何時間も前に起きて作業をしていたようだった。
「本とかどうするの?」
「全部捨てる」
「勿体ないじゃない、別に捨てなくても片づけるだけでもいいでしょう」
「もう要らない」
(ふざけるな、その本を買うのに幾らかかったと思っているの?)
どうせ言い返しても無駄だ、裕さんは普通じゃない、分ってくれない、と思ったら口にする気力が消えてしまった。
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