涙
結局、裕さんは九月十五日付で退職した。
私が仕事から帰ると、裕さんは部屋で職場から持って帰った私物の片付けをしていた。十四年も務めたのに送別会もなかった。花束も色紙も何も無い。私は寂しいと思ったけれど、裕さんは『上司がね、留学から戻ってきたら顔を出して、ってさ』、とすぐ復職するつもりで気にしていない様子だった。
退職金は約百五十万だった。大きな会社ではないので貰えただけ良いのかもしれない。 自己都合の退職で来月からは留学なので失業給付金は望めない。でも、何もかもが予定どおり上手くいけば、来年早々復職して元の生活に戻れるだろう。ただ、私にはそのイメージを描くことが出来なかった。
せめて私だけでもお疲れ様会をしてあげたいと思った。
「Are you tired? Do you want to eat out tonight?」
「I feel like having a drink at Izakaya.」
駅前のいつも比較的空いている居酒屋に行くと、奥の角の席に案内された。時間が早いせいか廻りのテーブルは空席で、私たちのいる一画は貸し切り状態だった。
とりあえず、でビールを頼むとお通しと一緒にすぐ運ばれてきた。
「お疲れ様でした」
「うん」
カチっとジョッキを鳴らし乾杯する。裕さんは一気に半分ほど飲み干した。
芝エビの唐揚げ、茄子の浅漬け、焼き鳥盛り合わせ、メンチカツを食べ終わり、追加で中ジョッキを二つ、ピザとシーザーサラダを注文する。私は二杯目、裕さんは四杯目だ。ピッチの早い裕さんは少しずつ口数が増えてきた。六時を過ぎて店も混んできて、隣に女性三人組が座った。
「ありがとう」
新しく運ばれたビールを一口飲んだ裕さんから意外な言葉が出たので驚く。
「え?」
「心配しているよね、色々。でも、留学したら環境が変わって病気も良くなるし、英語が話せるようになれば今まで以上に仕事でも成果を上げて昇進もするし、大丈夫だから」
「・・・・・・」
「もしかしたら四十前に部長になるかもしれない、課長になるのも異例の速さだったけど、三十代の部長は今までいないからね、社内初で社報に載るかもね」
裕さんは酔っているのか妙にテンションが高い。
「海外支店とかに転勤もいいかも、東京と違ってのんびり暮らせるよ。でも、そうなると明日香も英語が話せた方がいいな、一ヶ月でも留学すると違うと思うな、やっぱり一緒に留学しようよ」
私は困って首を横に振る。『日本がいい、海外に住みたくなんかない』と心の中でつぶやく。
隣では女性三人組が職場の上司の愚痴を言いながら大声で笑っている。裕さんが眉間に皺を寄せる。
「うるさいな。他にも席が空いているんだから、店の人も気を使って別のところに案内してくれれば良いのにさ」
小声でそういうと、ちょうどシーザーサラダを運んできた店員に、『あっちの席に移ってもいい?』と聞いた。すると店員から『あちらは予約席なので』と断られた。
さっきまで機嫌がよかったのに、口数が減り黙々と食べる。すぐ皿が全部空になってしまった。
「予約のプレートは置いてないよね、本当に予約入っているのかな?」
「さぁ……」
「ピザはもう少し時間がかかるよね、トイレ行くついでに確認してみるよ」
「うん……」
裕さんの背中が奥に消えると、溜息が出た。隣の席から笑い声があがる。冷めた頭で『ずいぶん盛り上がっているな』と思う。手持ち無沙汰なのでメニューを見ているふりをしながらビールを一口飲む。苦いだけで美味しくない。
さっさとピザを食べて家に帰りたいな、と思いながらビールをもう一口飲むと、トイレから裕さんが出てきた。レジの近くで店員と何か話している。隣がうるさいので何を言っているかは全然わからないけれど、表情から怒っていること分かる。
「大丈夫?」
席に戻ってきた裕さんに訊ねと、目つきが険しくなった。発した言葉が合っていないのは言う前から分かっていたけど、他に言葉がみつからなかったし、無言も避けたかった。私は何と言うべきだったのだろう?
「こんな店、もう二度と来てやるもんか、客への対応がひどすぎるよ」
「帰る?」
「ピザ食べたらね。今帰ったら負けたみたいで嫌だ」
「そんなことないよ……」
空のビールジョッキを睨むだけの裕さんに、私は何を言って良いのかわからず、時々ビールを流し込む。きっとカップルが喧嘩しているように見えるのだろう、隣から笑い声の合間に興味本位な視線が送られているのを感じる。
ようやく、『おまたせ致しました』とピザを運んできた店員に、何もないように軽く会釈をする。そして、すぐ一切れずつ皿に取り分ける。
「タバスコかける?」
裕さんは、黙って首を横に振り食べ始める。私も黙って食べる。味がしない、一口を飲み込むだけで一苦労だ。
「おぉ、ぐぅおぉ・・・・・・」
くぐもった音に顔をあげると、裕さんが顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「どうしたの?」
「う、う、う、おぉ、・・・・・・」
裕さんが、というより、大人がこんな風に泣くのを初めて見て、私は動揺し、どうしてよいかわからなかった。涙が次から次へと溢れては頬を伝って落ちる。
隣を見なくても視線が注がれているのがわかる。
「変なんだよ、おかしいんだよ」
裕さんが絞り出すように呟いた。
私は、『助けて!』という裕さんの叫び声を聞いた。実際には何も言っていない。でも、縋るような目は、確かにそう言っていた。必死な目だった。
「帰ろう」
私はカバンからポケットティッシュを取り出すと裕さんの前に置き、伝票を持って立ち上がった。
涙を拭い、俯きながら後ろをついてくる裕さんを、レジのところで先に出るように促す。
店員は無表情だ。意外に酒に酔って泣く客は珍しくないのかもしれない。
会計を済ませ、店を出ようとすると、『ありがとうございました、またのお越しを』と威勢の良い掛け声が後ろから聞こえた。きっとマニュアルにそう書いてあるのだろうけど、こんな時は、小さめの声でありがとうございました、だけにしたって、店長は怒らないだろうに、と思う。
「大丈夫?」
エレベーターの前に俯いて立っている裕さんに声をかけると、静かに頷いた。私はもう一度『帰ろう』と言い、裕さんがこくりと頷く。
「僕、狂ってるよね、周りが僕を気違いのように見ているってことに気付いているし、自分でもわかるんだ」
「狂ってなんてないよ。ただ、疲れすぎて今までのように考えたり行動したりできないだけだよ」
「いいんだよ、嘘つかなくて」
「嘘じゃないよ」
「もう、僕の人生は終わったんだよ」
「そんなことないよ、本当に狂ってなんてないよ。嘘じゃないよ」
私は裕さんの顔を見て強く言った。確かに普通じゃないことも多いけど、治療すればもとの裕さんに戻ると思っていた。
でも、裕さんは私の方は見ず、険しい顔で私には見えないどこかを睨んでいた。
『ごめんね』、私は心の中でつぶやいた。『私がお疲れ様会をしようなんて言わなければ、こんなことにならなかったのに』
無言で歩く裕さんの顔を斜め下から見る。頬の部分に、涙が渇いて少し白くなっている部分があった。
さっき、泣きじゃくるようにして涙を流していた裕さんが思い出された。何がどうなっているのだろう? 私は不安で孤独で、そして、とにかく哀しかった。私も泣き叫びたかった。
裕さんは次の週も体験レッスンを受けに行ったけれど、帰ってくるなりアメリカ人の先生でないなら行っても無駄だ、来週は行くのを止めようと思う、などと不機嫌な顔で話した。
そして、留学前の準備なら、四日間通う集中英語コースだけで十分だ、どうせ留学したら朝から晩まで毎日英語漬けなんだから、と家で英語の勉強をするのも止めてしまった。
私は居酒屋の日から、裕さんにばれないように、見つけた無料相談に次々と電話をしていた。
でも、電話をすればするほど訳がわからなくなった。適応障害とは思えないから他の病院に連れて行きなさい、と言われたり、本人の様子を実際に見られないので確かなことは言えない、と言われたり、私は同じことを話しているはずなのに相手の回答は見事に様々だった。心の病はそういうものだから心配しないで、と大丈夫、大丈夫、と慰めるだけの人、奥さん、あなたがしっかりしないでどうするのですか、と叱咤激励する人、自殺する可能性を示唆し不安を煽る人。
無料で面接相談を受けられるところを探したが、都内に数カ所しか見つからず、そのうえ予約は数か月から半年先の見通しだった。
心療内科などでカウンセリングも実施している病院も複数あったけれど、まずは受診が必要で、どこも混んでいて、初診の予約は数週間後、カウンセリングはさらにその数週間後になるでしょう、という説明がされた。
私は今、相談したいのだ。どんなに遅くても裕さんが留学する前でないと意味がない。
仕方なく有料のカウンセリングを探してみたら、たくさんありすぎて困った。絞るのに、一応資格を持っている人、と思ったけれど、民間の資格は種類が多く曖昧で、加えて海外の資格を上げているところが多かった。その反面、経験についての情報はほとんど得られなかった。
ホームページが薄いピンクで優しい雰囲気のところに思い切って電話をしてみた。予約の方法などを知りたいのですが、と聞くと、いつでも大丈夫、明日の午前中はいかがですか? と言われ、適当にごまかして電話を切った。全く予約が入ってないようなところには相談したくなかった。
次のところは、英語と日本語とどちらを希望されますか? と質問された。帰国子女で大学院卒業までアメリカに暮らしていたと聞き、世界が違うというか、気が引けてしまった。
結局、少し遠いし、担当は男性になってしまったけれど、五年前から開業していると謳っている三十分五千円のところに予約を入れた。
予約を入れた土曜日、裕さんには友達と会う、と嘘をついて出かけた。
裕さんは、私が仕事に行こうが友達と会おうが、全く興味がないようだった。『そう』と呟いただけで、誰と? とか、何時に帰るの? とも聞かなかった。『何か食べるものはあるの?』とだけ聞かれた。外に出るのが嫌なのだろう。冷凍庫にナポリタンスパゲッティがあること、戸棚にカップラーメンがあることを伝えると、『わかった』とだけ返事があった。
もし、これからカウンセリングに行く、と話したとしても、同じように『そう』と気の無い返事が返ってくるだけかもしれない。
私は裕さんのことを相談に行くのに。
何度か利用したことのある駅だったけれど、店が多く賑やかな北口しか下りたことがなかった。南口を出て少し歩くと住宅街で、地図に記された場所は小さな一軒家だった。「山本」の表札の横に小さく「長谷川Cルーム」と書かれたプラスチックボードが貼ってある。
呼び鈴を押すと、五十代くらいの男性が出てきて、『長谷川です』、と挨拶した。そして、『ここは妻の実家なので、表札が山本なのです』、と説明した。それから昔で言う自宅の応接間に通された。イメージと違い過ぎて、促されるままにソファーに腰を掛ける。
カウンセリングルーム、という響きから、勝手に無機質な場所をイメージしていた。でも、ここは生活感に溢れている。実家、ということは、ご両親や奥さんが奥の部屋か二階にいるのだろうか。声が聞こえたりしないのだろうか。
テーブルの上に麦茶の入ったグラスが置かれた。
「では、始めましょうか」
「あ、はい」
ちょっと待ってください、とも、止めます、帰ります、とも言えず、心の準備も出来ないままカウンセリングが始まってしまった。
「まず、最初にあなた自身のことを教えてください」
まず、住所、氏名、年齢、連絡先、出身地、家族構成を聞かれた。そして答えるとメモをとっていく。
「では、学歴は?」
「専門卒です」
「どのような分野ですか?」
「調理師です」
「職歴は?」
さっきから私個人に関する質問ばかりだ。
「あの、先生、主人に関することを相談に来たのに、私の職歴が必要ですか?」
「私は先生ではないので、名前で呼んで下さい。悩みをかかえて相談に来ているのは坂田さん、つまり、ご主人ではなく奥様、ですよね。職歴が、というのではありません。色々なバックグラウンドを知ることが重要なのです」
「それは、私に原因がある、ということですか? 私の育った環境や過去から、原因を探すということでしょうか?」
「原因探しが目的ではありません」
「以前、主人の主治医からも原因探しは良くないと言われました。でも、それなら過去を話す意味があるのでしょうか」
長谷川さんは麦茶をゆっくりと一口飲んだ。
「少し緊張されているようですね。」
それから、少し考えてからペンを置き、メモを伏せた。
「それに、少し誤解されているように思えます」
「誤解、ですか?」
「カウンセリングは初めて、ですか。答えたくない質問には応えなくて大丈夫ですよ。初対面の人に個人的なことを話すのは抵抗があると思います。それから、何か実用的なアドバイスを期待されてきたのであれば、その期待には応えることは出来ない、ということです」
思いがけない言葉に、ショックで一瞬、長谷川さんの顔を見た。そして、ほとんど同時に私は腹を立てた。麦茶に視線を移す。こんな場所でアドバイスをしないのに高額な代金を取るなんて、ほとんど詐欺だと思った。
「カウンセラー、つまり私の役割は、クライアント、つまり坂田さんの現在抱えている問題、それに対する感情、考えを確認し、坂田さん自身の気付きを促すことです。坂田さん自身が答えを出すための、お手伝いをするだけで、私がアドバイスや解決策を提示するというわけではありません。」
私は騙された、と思った。私のパートの時給の約十一倍を報酬として受け取るのに、アドバイスも解決策も無いなんて。悔しい気持ちと、藁にでもすがりたいと思った自分が馬鹿だったと情けなくなった。
「カウンセリングで主人のことを相談しても無駄、ということですね」
問い詰めるような、少しきつい口調になってしまったけれど、別に構わないと思った。私はお客でお金を払っているのだ。
「私はカウンセリングが有益だと思っています、クライアントが無駄と感じられるのは、カウンセラーの力不足、ということだと思います」
長谷川さんは、小さく息を吐き出し、姿勢を正した。
「残念ながら、ご主人の問題はご主人にしか解決できません。そして、ご主人のことで悩まれるのは、坂田さんの問題、です。ご主人がこころの病になられて、退職される、そのことで坂田さんが悩み苦しまれている。その気持ちを確認したり、寄り添ったりすることで、坂田さんの辛さを少しでも軽く出来るよう、寄り添うのがカウンセラーの役割です」
最近はカウンセリングを受ける人が増えていると聞いていた。相談してもアドバイスが得られるわけでもないのに、お金を払って受ける人がいるなんて信じられない。普通は、他のところは、夫の話を聞いてくれて、どうすれば良いかアドバイスしてくれるのではないだろうか。
「つまり、家族の私がカウンセリングを受けても、夫の問題は解決もしないし変化もしない、ということですか?」
「いえ、変化はあると思います。坂田さんに気持ちの変化や心に余裕が出来れば、それは行動に表れます。そして、ご主人にも何らかの影響を与えるはずです」
そういうものだろうか、何だか釈然としない。途方に暮れた気分だった。レースのカーテン越しに窓の外を見る。部屋の中は薄暗いけれど、外は日差しが強く明るそうだ。
「誤解が生じたということで、キャンセルにしましょうか?」
意外な申し出に驚いた。
「ご本人が希望されている場合、話をすることは、気持ちを整理し軽くもします。自ら解決策を見出ことさえあります。しかし、無理に話すことは負担でしょう」
私は戸惑って返事が出来ず、長谷川さんを見つめた。
最初は相手が言っているのだから遠慮なくキャンセルにしてしまいたい、という気持ちだった。でも、家族にも友達にも言えないことを誰かに聞いてもらわないと、自分自身に押しつぶされてしまう。誰でも良いから話し相手が欲しい、とも思った。
長谷川さんは私が友達になりたい、仲良くしたい、と思うタイプではなく、話しにくい苦手なタイプだった。でも、またカウンセリングを探すことを考えるとしんどかった。次のカウンセラーが経験を積み、また、私と相性が良いかどうかも分からない。
「今日はここまでにしましょう。料金は頂きません。心や気持ち、は目に見えないので、伝えあうこと、理解しあうことは難しいですよね。特に、相手がご主人のように悩みを抱えこんで口に出さない状態だと尚更です。後日、坂田さんがカウンセリングを受けたいと思われたら予約の電話を入れてください」
急な展開に、まだ判断が出来ない私は何も言えず、答えを求めて長谷川さんの顔を確認した。でも、長谷川さんは『では』と立ち上がり玄関の方へと向かったので、私も立ち上がり後に続いた。
「疲れたでしょう。お気をつけてお帰りください」
「ありがとうございました」
玄関を出たら、思わず大きな溜息が出た。まとまらない頭を整理しようとしたけれど、重くて鈍くて全然駄目だった。
ただただ、ひどい疲れを感じていた。
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