すれ違い

 土曜日、裕さんは登録料五万円を持ち、予約時間は六時なのに二時過ぎに家を出て行った。大型書店に寄ったり、専門店で留学に必要な物を下見したりしたいということだった。機嫌が良くてテンションが高い。まるで遠足前の子供のようだ。今まで私が知らなかった裕さん。新婚旅行の時でも、これほどテンションは高くなかった。

一人の時間が出来たら、あれもしたい、これもしたい、と思っていたのに、実際に一人になると何もする気にならなかった。夕食の用意も必要ないし、映画を見に行ったり買い物したり、気兼ねなく出来るのに、どちらかというと気が重くて億劫だった。何となく寂しいので見るわけでもないのにテレビをつけ、チビを撫ぜたり、リビングで横になったりし、ボーっとしたり、うとうとしたりした。


いつの間にかぐっすり眠ってしまっていたようだ。目が覚めると部屋は薄暗くなっていて、テレビは夕方の音楽番組を放送していた。

すぐに食事の約束を思い出し慌てる。時計を見ると六時十二分だった。良かった、間に合う。急いで着替え、支度を整えて家を出る。

約束の時間の十分前に着くと、もう田中主任が店の前で待っていた。気付かれてしまったので会釈で挨拶をする。

「お疲れ様です」

「坂田さん、休みなのに悪いね。しかも土曜日に。本当に悪いね」

「全然問題ないです、一度入ってみたいと思っていた店だし、とても楽しみにしていました」

主任が本当に申し訳なさそうに言うので、つい少しオーバーに言ってしまった。

「早く来すぎたかな、加藤さんも内田さんもまだなんだ。先に入るのは失礼だよね、悪いけどもう少し一緒に待ってもらっても良いかな?」

「もちろんです」

主任がとても緊張しているのが伝わる。

「主任こそ、大丈夫ですか?」

「え、大丈夫って、あ、ごめん、何が?」

「社員さんは土日特に忙しいでしょう?」

「あ、うん、でも早番シフトにしてもらったから。この時期は大して忙しくないし、バイトの病休も無かったし、あ、……」

主任が会釈をしたので、視線の先に目をやると加藤さんと内田さんの姿が見えた。四人が揃いお互い挨拶をする。初対面の内田さんは背が高くて、加藤さんから聞いて想像していたより明るい雰囲気だった。

加藤さんの誘導に従い主任の前の席に座る。隣は内田さんで、主任と内田さんが斜めに向かい合うようになる。もう一度挨拶を交わして乾杯する。

「主任、今日は雰囲気が違うわね」

加藤さんが内田さんに話しかける。

「そうですね」

内田さんは頷き相槌を打つけれど、それだけだ。人づきあいが悪いというよりも、話すのが苦手なタイプのようだ。

「なかなか素敵よ」

加藤さんが主任に笑いかける。

「え、いや、その、イタリアンって聞いたから、あまりラフな格好は駄目かな、と」

恥ずかしそうに俯く主任、無言の内田さん。気まずい雰囲気を避けようと私も会話に加わる。加藤さんから求められた役割を最低限果たさなければ。

「私は制服姿しか知らないですけど、普段はどういう服を着ているんですか?」

「職場には一応スーツかな、夏はワイシャツだけでネクタイもしないけど」

「意外です、制服があるからカジュアルな私服で通勤していると思っていました。ちゃんとしているんですね」

「接客業だからね、営業もあるし」

「大変ですね、私なんて大抵ジーパンなのに」

隣を見ると、内田さんが相槌を打っている。

「主任はね、本当に真面目なのよ、社員でもロッカーにスーツを入れてTシャツで通勤する人もいるのよ。立ち回りは上手くないかもしれないけど誠実で良い人なの」

「あ、いや、そんなんじゃないです、ただスーツがラクなだけですよ、朝何を着るか悩まなくて良いですから」

主任は照れて更に深く俯いてしまった。


最初はぎこちなくて、ほとんど加藤さんが話していたけれど、メイン料理になる頃には少し酔いも手伝ったのか場に慣れたのか、会話も少しスムーズになってきた。内田さんも質問されれば少し答えるようになっていた。

共通点の仕事の話のほか、趣味などについても話題が広がっていた。

「俺の場合、休みの日は洗濯したり、庭で盆栽の手入れをしたり。あ、その、父が好きだったものだから、枯らさないように自己流でね、全然上手くはないですけどね」

「主任は料理や掃除も得意なのよ、うちは駄目、一切しないのよ、やっぱり結婚する時が肝心ね、食べ終わった皿を運ぶことさえしないのだから・・・・・・。まぁ、時代もあるのでしょうけど。ほんと、主任の奥さんになる人が羨ましいわ」

「いやー、別に上手いわけじゃないですよ。家事してくれる人がいないから仕方なく自分でしているだけで・・・・・・。俺だって出来ることなら奥さんの料理が食べたいですよ」

主任が苦笑いし、加藤さんが大きな笑い声をあげる。

「主任は一人暮らしですか?」

庭で盆栽、というと一軒家だろうか。気になって、つい質問してしまった。

「あ、いや、母と一緒です、父はだいぶ前に亡くなりまして」

「あ、すいません、余計なことを聞いてしまって」

主任の歳で親を亡くすのは、かなり早い。しかも、内田さんが今までになく主任に視線を向けたので、余計申し訳ない気持ちになる。

「いや、いや、気にしないで下さい、本当にだいぶ前のことですから」

「実は・・・・・・、ね、」

加藤さんが同意を求めるように主任に話しかけ、私と内田さんの方を見た。

「主任のお母様は少し具合が悪くてね、だから主任がほとんどの家事をしているのよ。まぁ、顔は二枚目とは言い難いけど、仕事は真面目だし、優しいし、バカ息子に爪の垢を煎じて飲ましたいわ」

「もう、加藤さんは何を言っているんですか。あ、いや、家事っていっても見様見真似で、本当に全然駄目ですよ。ただ、母は腰が悪くてね、あと狭心症も患っているから無理は出来なくて」

「・・・・・・」

みんなが沈黙する。何か言わないと、と焦るけれど言葉に詰まる。人それぞれ色々大変なのだな、と思う。職場では、そんな事情があるようには全然見えなかった。

「あ、いや、困ったなぁ、しんみりしちゃったじゃないですか。話題変えましょうか」

困ったように主任が視線を上にあげる。何か適当な話題を考えているのだろう。

「・・・・・・優しいんですね」

声を出した内田さんを三人が見る。

「私、家事の手伝いなんてしたことがないから・・・・・・」

それまで自発的に話さなかった内田さんが話している。でも、私はそれ以上に内田さんの話した内容に驚いていた。職場では家事手伝いをしていると聞いていた。本人から直接聞いたわけではなく、人づてで聞いたのだけど、家の事情で土日しか働けないということだった。家事をしていないのなら、平日は何をしているのだろう?

「お父様の遺した盆栽を大切にしたり、お母様を気遣ったり、家族想いで素敵だと思います」

「そう、そう、そうなのよ」

加藤さんが大きく相槌を打つ。主任は恥ずかしそうだが、少し嬉しそうにも見えた。

「加藤さんが言うように、主任の奥様になる人が羨ましいです」

「え、あ、そうですか、いや、あの、でも、奥さんの前に彼女もいないので、いや……」

予期せぬところで、お見合いっぽい雰囲気になった。

「内田さんは、どういう人が好きなの?」

加藤さんがここぞとばかりに聞く。内田さんはすぐに答えず考え込む。

「・・・・・・そうですね、明るい人がいいですね、よく話す人がいいかな……」

三人が頷く。でも、こころなしか主任は難しい顔をしていた。

「あとは、そうですね、リードしてくれる人に憧れます」

「うん、そうよね、やっぱり女は、そういうのに憧れるのよね。ところで主任は? 好きなタイプとかやっぱりあるでしょう?」

加藤さんに振られて、主任はしどろもどろだ。

「え? あ、いや、俺は、その、タイプとかそんな・・・・・・」

「じゃ、私みたいなおばさんでも良いの? だったら私、主人と別れて主任と再婚したいわ。」

「えー、それはちょっと……」

主任が本気で困っているので加藤さんと私は大笑いしてしまった。隣で内田さんも声は出さずに笑っている。


 「楽しかったわ、たまに若い人たちと食事すると気分が若返るわ。是非また付き合って欲しいわ」

加藤さんの言葉に主任と内田さんが頷く。頷くだけで二人から言葉は無い。

「私も楽しかったです。なかなかこういう機会はないから、呼んでもらってありがとうございました」

私は本当に思ったより楽しかったのでお礼を言った。緊張もしたけど、何を話そうかと気も使ったけど、でも、ほんの短い時間だったけど裕さんのことを忘れることが出来た。私が知らなかっただけで、主任も色々な事情や悩みを抱えているのだと思ったら、昨日までの孤独感が、ほんの僅かだけど薄れた気がした。きっと加藤さんも内田さんも同じだろう、悩みが何も無い人なんていないはずだ。

デザートを食べ終え、精算する。割り勘で端数だけ加藤さんが多く負担してくれた。

 途中まで四人で歩き、大通りに出たところで加藤さんと内田さんと別れ、主任と駅の方へ向かう。

「土曜日の夜に付き合せて本当に悪かったね」

主任が会った時と同じ事を言う。

「そんなこと本当に無いです、楽しかったですよ」

「でも、その、・・・・・・ご主人、体調が悪い・・・・・・って聞いていたから」

驚いて主任の方を向くと、いつも以上に申し訳なさそうな表情をしていた。

「俺も一応、主任とはいえ社員だからね。店長から従業員のことはある程度報告されるんだ」

「あ、そうですよね、当然ですよね」

以前は人手が足りなくて、と頼まれれば日曜などに出勤していたこともあったので、融通を利かせることが難しくなったことを店長に話したのだった。詳しい病名などは話さなかったけれど自宅療養をしていることを伝え、場合によっては急遽早退しなければならない場合もあるかもしれない、と示唆したので、それなりには病気が深刻だと捉えてもらっているはずだった。

「何かあったら相談して、あ、その、仕事のシフトのこととか、例えば店長に言いにくいことがあったら、って意味で、いや、その、今回のお礼、というのではなくて、いや、何て言ったらいいかな……」

「ありがとうございます」

何を言っているのか分かりづらかったけれど、主任が心配してくれていることは伝わった。

「今まで黙っていたんだから言わない方が良かったね、なんか悪かったね」

私は首を振る。

確かに少しびっくりした。でも、店長以外にも知っている人がいる方がシフトの相談もしやすい。

「色々とありがとうございます」

赤信号になった交差点で止まり頭を下げると、主任も頭を下げる。ふと、客観的になり、交差点で何をやっているのだろう、と思ったら何だかおかしくて笑ってしまった。主任も笑っている。

主任は本当に良い人だ。主任のような人と付き合ったら幸せだろう、と思う。でも、私が好きになるタイプではない。残念ながら女性は優しいだけ、だと物足りないと感じてしまうのだ。

 内田さんは主任のこと、どう思っているのかな?などと考えていたら、交差点の向かい側に裕さんの姿を見つけ、手を振る。

「知り合い?」

「あ、はい、主人です」

「え、あ、そうなの、ちょうど話している時に偶然だね」

ところが、裕さんと思った人は何のリアクションも無く家とは別の方向に横断歩道を渡っていってしまった。

「すいません、違ったみたいです。良く似ていたので、てっきり主人と思ってしまいました」

「俺もたまに人間違えして恥ずかしい思いをすることあるよ、その、ほら、挙げた手をそうっとおろして・・・・・・、あれ、気まずいよね」

主任が振った手を、背伸びしているだけ、みたいに繕う仕草をして笑う。可笑しかった。

信号の変わった横断歩道を渡りながら、裕さんに似た後姿を横目で追いかける。やはり見間違いだったのだろうか。距離があるとはいえ裕さんに違いないと思ったのに。

 

交差点を渡ったところで主任と別れると、現実に引き戻され、気持ちが一気に暗くなった。留学について裕さんと話をしなければならない。

 これからの事を考えたら不安しかなかった。


 三十分ほどして裕さんが帰宅した。交差点で見かけたことを話そうと思ったけれど、英語でどう表現して良いかわからず、また、裕さんは機嫌が悪そうだったので、躊躇しているうちに話す機会を失ってしまった。

「二十七日入学は厳しい、って言われた。ったく、この前と話が全然違うんだよ」

「・・・・・・」

カバンを床に置いてラグに胡坐をかくと裕さんは一方的に話し始めた。

「英語だと明日香は理解しにくいだろうから日本語で説明するよ」

「うん」

「十五日付で会社辞めて二十七日から留学のつもりだったけど、留学は来月二十五日の出発にしようと思うんだ」

「そう」

「まぁ、今さら会社辞めるのはもう少し後で、なんて言えないから、とりあえずし、退社日は十五日として・・・・・・」

裕さんはカバンからパンフレットの束を取り出し、付箋のついたページを開いてテーブルに置いた。

「家にいても仕方ないから、まずはこの集中英語コースに通おうと思うんだ・・・・・・」

英会話学校のパンフレットを指さす裕さんの指を見ながら、やっぱり退社するんだ、と思う。

「九万はちょっと高いんだけどさ、丸四日間英語漬けなんだ。たった四日って思うかもしれないけど、週一回四十分のレッスンを受けると換算すると一年分に相当するんだよ」

「そう」

「あとね、こっちは無料だから安心して。毎週水曜日に留学体験レッスンがあって、それって本当は体験だから一回だけ、なんだけど、二十七日に入学出来るって言ったのに出来なかったのは業者の責任だろ、だからお詫びとして毎週受けても構わないって言ってもらったんだ」

「そう」

「まぁ、それくらい当然だよね」

「・・・・・・うん」

「とりあえず来週参加するから」

「うん、わかった」

話し続ける裕さんの声が遠い。

「あと、明日集中英語コースを申し込んでくるから。カード払いでいいよね」

私は相槌をうちながら、考える。裕さんが本当に退職してしまう。そして留学してしまう。病気なのに一人海外で生活して大丈夫なのだろうか。裕さんが言うとおり、元気になってニュージーランドから戻り、職場に復帰できるのだろうか。大丈夫、と信じたいけれど、とても不安だ。怒られても、離婚すると言われても、止めるべきだろうか。

「ねぇ、明日香、ちゃんと聞いてる?」

「うん、聞いているよ」

ちゃんと聞いてはいる。ただ、きちんと理解できているかどうかは不安だったけど。私も病気かもしれない。裕さんが話していることが理解できないのは、私自身に問題があるのかも、と不安になる。

「なら、いいけどさ」

裕さんは眉間に小さな皺を寄せた。そして何か言いかけたけれど、結局何も言わずパンフレットを持って書斎に行ってしまった。


夜、寝付けなくてメールをする。裕さんはまだ書斎で何かしているようだ。

〈ジャイママ、こんばんは。起きていますか?〉

(Re:起きてるよ)

(やっぱり退職して留学するそうです、止めるべき? それともついていくべき?〉

(Re:ついていく、って仕事どうするの? チビちゃんの面倒は?)

(両親に事情を話して預かってもらおうか、と)

(Re:そうなの? 大丈夫なの?)

(多分)

(Re:費用の面は? 相当かかるでしょ)

(私が結婚前に貯めた貯金を崩せば、何とか二人分の留学費用は払えるかな)

(Re:上手くいけばいいけど、復職できなかったらどうするの?)

(転職すると思う)

(Re:語学学校に通えなかったら? 回復しなかったらどうするの?)

(回復すると思うよ。先生反対していないから。留学中の薬を出す、って言っているくらいだから、環境を変えたら元気になると思う)

(Re:本気?)

私は『本気』という字をじっと見つめて考える。私の本当の気持ちはどうだろう。賛成ではない。でも、反対する根拠もない。ただ、ただ、不安でたまらない。

(Re:大丈夫?)

返事をしなかったら心配した千絵さんから再びメールが届いた。

(わからない)

私は正直な気持ちを伝える。

(Re:そうだよね)

(ジャイママはどう思う?)

ずるい私は決断から逃げ千絵さんの言うとおりにしようと思う。

(Re:私なら反対する)

即答の返事に私は戸惑った。千絵さんの言う通りにしようと思ったばかりなのに、反対することに抵抗を感じた。

(そっか、ありがとう。良く考えてみる。おやすみ)

(Re:おやすみ)

携帯を枕の横に置き、目を瞑る。

『明日香が僕の邪魔をするなら、このまま一緒には暮らせない』

裕さんの冷たい声が甦る。

私に裕さんの人生を決める権利はあるのだろうか。上手くいかないかも、と思うのは私の性格がネガティブだからであって、私自身の問題なのではないだろうか。反対して裕さんから恨まれても私は耐えられるだろうか。

 それとも、千絵さんの言うとおり明らかに反対すべきなのだろうか。迷っている私が愚かなのだろうか。



「明日香、元気? 今少し話せるかしら」

母からの久しぶりの電話だった。

「うん」

「裕二さんは?」

「外出している」

「そう、体調はどうなの?」

「うーん、・・・・・・」

裕さんは体験レッスンに出かけていた。裕さんは着々と留学の話を進めていて、来週退職届を出すことになっていた。あまりにも非現実的に物事が進むので、私は受け入れられないでいた。留学にも退職にも賛成ではないのに、反対出来ないでいた。反対することに自信が持てなかったのだ。もしかしたら、治療には一番良い方法なのかもしれない、それを反対して、もしも病気が良くならなかったら……。責任を持つことが怖かった。当然、両親には何も話せずにいた。

「調子悪いの?」

「ううん、そういうことではないんだけど・・・・・・」

「話したくないなら無理に話さなくていいのよ、二人とも調子が悪くないならそれでいいわ」

それから母は、『実は、』と話し始めた。同居する中度の認知症を患う祖母から絶え間なく吐かれる憎まれ口と介護疲れから不眠になり、体調を崩して病院に通っていること、父と話し合い祖母を介護施設に入所させることにしたこと、待機人数が多く重症でない場合は最短でも一年待ちである、ということだった。

「内科で精神安定剤と睡眠剤を処方してもらって、今はだいぶ具合が良いから心配しないで」

「うん」

「あんまり無理しすぎたら駄目なのね。自分はもう少し強い、と思っていたけれど、過信しすぎていたのね」

「・・・・・・」

「自分がこんな風になってわかったんだけど、裕二さんもね、無理しすぎたから病気になってしまったのだと思うわ。明日香も大変だと思うけど、あまり頑張ったら駄目よ、ほどほどにね」

「私は大丈夫よ」

「それなら良いけど、これからも頑張り過ぎないでね」

「うん、わかった」

それから母は暫く祖母の介護の大変さを愚痴った。時々感情的になり、きつい言い方になったり、涙声になったりした。今の生活が一年以上続くと考えると気分が沈む、と声を落とした。

私は自分のことばっかりで、全然母の不調の前兆に気付かなかった。

「今度手伝いに行くね」

「何を言っているの、明日香だって大変なのに。お母さんは大丈夫よ、心配させてしまってごめんね、手伝いに来なくて良いからね。じゃ、またね」

慌てて電話を切る優しい母。せめて頻繁に電話をして愚痴を聞こう、と思う。

でも、・・・・・・。どうしたらよいだろう、調子の悪い母に更に心配をさせたくないけれど、裕さんのことをこれ以上黙っているわけにもいかない。さすがに退職したら言わなければ。

三十を過ぎてもまだまだ子供の私は母に甘えてばかりだった。大人になって、自分のことは勿論、母のことも裕さんのこともこれからは支えていかなければ。



体験レッスンから帰ってきた裕さんは不機嫌だった。

「She comes from London, so she speaks British English. I cannot understand at all. Why do they prepare an American teacher?」

「I suppose English in New Zealand is similar to British English.」

「That is not so much true.」

「Is that so? Well, I had a call from my mother today.」

母から電話があったことを知り、裕さんはより一層不機嫌に眉間に皺を寄せた。

「What do you talk about? Did you tell her about my illness?」

「No, I have not yet. She noticed me the situation of my grandmother. She is not well very much.」

「Hmm.」

「But I think we should tell your situation to my parents. You quit a job and go to New Zealand. I cannot be kept secret any longer.」

「It is nothing to do with them. I do not trouble them.」

「It is not that kind of thing.」

「Do not tell them. This conversation is over.」

迷惑をかけていない、ってどういう意味だろう。もちろん、私の両親であり裕さんとは血のつながりは無いけれど、家族なのに。これから助けてもらわなければならないことだってあるかもしれないのに。もし二人で留学となれば、チビを預かってもらわなければいけなかったのに。

それに、私には迷惑というか心配をかけているじゃない。それを申し訳ないと思っているなら、両親に事情を話すのが誠意だと思う。

「Are you OK?」

きっと、不服そうな顔をしていたのだろう、裕さんが念を押すように聞いた。

納得できない私は返事をせず浴室に逃げた。そして風呂掃除をいつもより念入りにして気持ちを落ち着かせようとした。

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