不安
月曜日、私が仕事に行く時間になっても裕さんは起きてこなかった。きっと昼頃まで寝ていたのだろう。でも、用意した昼食は全部食べられていたし、私が帰ってきた時には上がTシャツだったので外に出たのだと思う。ただ、裕さんが何も言わないので何処に行ったのかはわからなかった。コンビニかもしれないし、マンションの集積場所へ、ごみを捨てに出ただけかもしれない。
火曜日は昼過ぎに起きて床屋へ出かけ、夕方遅くまで帰ってこなかった。本屋と図書館に寄っていたという。借りたのか買ったのか何冊か本を持っていたけれど、袋に入っていて何の本かはわからなかった。
明日、水曜日はいよいよ上司との面談で、診断書を提出して休職を三ヶ月延長してもらえるよう頼む予定になっていたけれど、裕さんは勝手に退職願を出してしまったりはしないだろうか?
夕食の時、『辞めないよね? 休むだけだよね?』、と確認したかったけれど、どうしても口にすることが出来なかった。裕さんは始終無言で、手早く食事を済ませると『I am going out at 8 o’clock tomorrow.』とだけ言って、また書斎にこもってしまった。
翌朝、裕さんは七時に起き支度を始めた。スーツ姿の裕さんを見るのは久しぶりだった。髪が長くなり少し雰囲気は違うけれど、やはりパジャマやTシャツの時よりずっと恰好良かった。普通のサラリーマンに見えた。でも、外見はそうでも中身は違う。緊張しているのだろうか? 睡眠不足かもしれない。顔つきがキツイ。食欲がないのかコーヒーを飲んだだけで、玄関まで見送る私には一言も口を利かずに出て行ってしまった。
裕さんのことが気になって仕事に集中が出来なかった。多分、時々ボーっとしていたのだろう、交替の時に石原さんから、『昨日は仕事の無い日だから何処かに出かけたの?遊び疲れ? 若い人は良いわね、昼食後はしっかりしてよ』と嫌味っぽく言われてしまった。
休憩室のロッカーから携帯を取り出し名札を外す。店の裏の歩道にある電話ボックスの中に入り家にかける。店の従業員や顔見知りの客に万が一話を聞かれたら嫌だった。
四回の着信音のあと留守番メッセージが流れる。予定なら帰っているはずだ。ピーッという発信音の後に呼びかける。
「Yu san, I am Asuka. Are you there? Please answer the phone.」
少し待って再度呼びかける。
「Yu san? How about the interview?」
応答は無く、プー、という電子音の後電話が切れる。電話に出たくないのだろうか? それとも家にまだ帰っていないのだろうか。携帯にかけてみると、『電波の届かない場所にいらっしゃるか、電源が入っていない・・・・・・』というアナウンスが流れた。仕方ないのでSMSでメッセージを送る。『How did the interview go?』
食堂に戻ると加藤さんが隣に座るよう手招きした。
「遅かったじゃない、どうかした?」
「あ、ちょっと用事があって電話したりしていて……」
「あら、そうなの? それより少し急で悪いのだけど、この土曜日の夜、大丈夫?」
(土曜日の? 何だっけ?)思い出そうとするけれど頭が思うように働かない。すると、加藤さんが周りを確認した後、私の耳元に小声で囁いた。
「ほら、前にお願いしたでしょう。主任と内田さんを食事に連れていくって」
確かにそうだった。でも、主任から食事に行くことは無いと言われていたし、その後加藤さんから何も言われなかったので自然消滅したと思っていた。
「あ、えっと、ちょっと待ってください」
スケジュールを確認すると空白だった。前から加藤さんと約束していたし、予定が入っているわけでもない。断る理由は・・・・・・ない。
「どう? 大丈夫?」
面談の終わったはずの裕さんと連絡が取れないのが気になった。会社で何かあったかもしれない。大丈夫だろうか?
「都合悪い?」
心配そうに、残念そうに加藤さんが聞く。土曜の夜に少し外出するくらいなら平気だと思った。私だってたまには外で食事でもして気分転換したい。
「あ、いえ、大丈夫です。多分……」
「あー、よかった!」
加藤さんは嬉しそうにそう言うと、再び声を落として囁いた。
「実は主任が消極的でなかなか大変だったのよ。」
そう言って眉間に少し皺をよせるけど、何だか自慢げに見えた。
「店はオシャレな方が良いわよね、イタリアンあたりが無難と思うのだけど、内田さんの希望で決めてしまって良いかしら? 堅苦しくない雰囲気で高くないところにするわね。詳しいことが決まったらまた教えるということで」
カジュアルなイタリアン。場は加藤さんが盛り上げてくれるだろう。裕さんは私に相談もせず転職を考えているのだ。だったら私が職場の人と食事に行くことくらい何でもない。
「わかりました、それで大丈夫です」
私の返事を聞くと加藤さんは満足げにお茶を飲み干すし立ち上がった。
「じゃ、一応土曜日の夜七時に店の前で待ち合わせ、ということで。坂田さん、今週金曜日のシフトに入っていたわよね、遅くてもその日までには店の場所を知らせるわね」
休憩時間が終わるまでに裕さんから電話もメッセージも来なかった。夕方四時に仕事が終わると、真っ先に携帯をチェックしたけれど、留守録も未読メッセージも無かった。心配している私を無視しているような裕さんが腹立たしかった。
店から少し離れたところで裕さんの携帯にかける。でも、昼と同じアナウンスが流れるだけだった。家にかけても留守録だった。きっと寝ているのだろう、寝室はドアを閉めると携帯の電波が届きにくい。とにかく家に帰ろう。
玄関に裕さんの靴は無かった。念のため部屋を確認してみたけれど、帰った気配は無い。もう一度携帯にかける。でも、今回も留守録だった。何かあったのだろうか? さっきまでの怒りは一瞬で消え、不安で胸が押しつぶされそうになる。
電車に乗れず、あるいは途中で気分が悪くなるなどして会社に行けなかったのかもしれない。でも、救急搬送されれば私に連絡が来るはず。
会社には行き上司と話が出来たものの、休職のことで希望が叶わなかったのかもしれない。落ち込んでどこかに座り込んでいるのだろうか。
まさか、変なことを考えていないだろうか? そう思うと居ても立ってもいられなかった。ずっと元気がなかったのに週末は元気だったことも気になった。少し良くなったころの自殺に注意が必要と本に書いてあった。本を処分したのだって身辺整理といえるかもしれない。裕さんの今回の様子は自殺の兆候に当てはまるのだろうか?
会社に電話することを考える。でも、何もないのに騒いで裕さんの復職の妨げになってはいけない、と思い留まる。裕さんに仕事上の付き合いはあっても個人的な付き合いは皆無といってよかった。私の知る限り友達はいない。身内は一応いるが何年も音信不通の状態だった。私の実家に単身で行くことも考えられない。裕さんが困った時に頼りそうな人を誰も思い浮かべることが出来ないことが寂しかった。
何か手がかりでもないかと書斎に入る。片付いていて日曜日に見たプリントは机の上に見当たらなかった。ファイルしたのかもしれないし、今日持って出たのかもしれない。
心配で不安で堪らない気持ちだったけれど、本棚や引き出しを漁ってノートなどを見ることは我慢した。机の上などに見えるように置いてあるなら、それは見られても良いと思っている、ということ。でも、盗み見なんかしたら裕さんと私との信頼関係が壊れてしまう。
落ち着かなくて夕食の用意をする気持ちにもなれず、テレビをつけチャンネルを次々変えて気を紛らわせる。そうして三十分くらい経った頃だろうか、ガチャとドアが開く音がした。急いで玄関に向かう。
「Why did not you contact me? I was so worried.」
「Sorry, but my phone died.」
「Why do you come back home late? I thought you would come back home about noon.」
「Well, after the meeting I went to the psychiatric clinic in Aoyama, and the study abroad agent office.」
「What are you talking about? You did not mention at all. I have no idea !」
外国という言葉に頭がクラクラした。留学? 青山のクリニック? 意味不明! 全然理解できない。感情を抑えられずヒステリックに叫んでしまいそうで、裕さんから離れトイレに入り鍵をかける。
裕さんがわからない。少しずつ、でもどんどんわからなくなっていく。こんなに一生懸命なのに、どうして上手くいかないのだろう? 二人の距離は広がるばかりだ。どうして? どうして? どうして?
考えがまとまらない。色々な感情が溢れ、涙が滲んでくる。もう裕さんは以前のように私を愛していないのかもしれない。病気がきっかけで人が変わってしまったのかもしれない。
「Asuka? Are you OK?」
十分くらい経っただろうか?ノックの後、心配そうに尋ねる裕さんの声が聞こえた。
「I want to talk with you. I want to explain.」
「No.」
私は思い切って言う。
「I cannot speak English well. I want , but I cannot!」
聞きたいことが沢山ある。でも、英語じゃ無理だ。
「わかったよ、今日は日本語で話すよ。だからトイレから出てきてよ」
暫くの沈黙の後、裕さんは約三ヶ月ぶりに家の中で日本語を話した。
「会社辞めないと駄目だって。上司が留学しても良い、って言うからその気でいたのに、人事部に確認したら出来ない、って。おかしいだろ? 腹がすごく立ったけど、再雇用してくれるって言うのに文句は言えないから『判りました』って言って帰ってきた」
「休職期間を延長する相談の話しか聞いていないけど、私に内緒で上司に留学を相談していたの?」
「いや、違うんだよ。最初はね、回復が思うようにいかないから復帰まで猶予が欲しい、もう三ヶ月休職したい、ってメールで相談していたんだよ、本当に。でも考えれば考えるほど留学が一番良いかな、って思って」
「留学が一番って、ちょっと旅行するのとは全然違うよ、そんな重要なことなのに、私に相談しないなんて……」
「だってさ、どうなるかわからないのに説明出来ないし、言って反対されたら嫌だし」
「だからって、ひどいよ」
「ほら、やっぱり反対するじゃん」
「反対とかじゃなく、ただ裕さんが嘘をつくから・・・・・・」
「嘘じゃないよ、言わなかっただけで、嘘はついてないよ」
事実や真実を正直に言わないことは、嘘をつくのと同じだ。何も言わなければ嘘をついていない、と裕さんは主張するけれど、そんなの子供の言い訳だ。大人の言う事じゃない、誠実じゃない、思いやりがない。
裕さんの説明は時系列が無かったり、主語が無かったりで分かりづらかった。以前は話が上手く、順序立てて簡潔明瞭で会社では会議の司会をするほどだったのに、今日の裕さんは時々小学生のような言い訳じみた話し方をした。
「本当だよ、ある程度決まったら相談するつもりだったんだ」
「ある程度って、どの時点で言うつもりだったの?」
「いや、実は今日言うつもりだったんだ。嘘じゃないよ、本当だよ」
違う、裕さんは分っていない。嘘とか本当とか、言うつもりだったとか、そういうことじゃない。
「もちろん会社だって明日香が良いって言ってから辞表を出すつもりだし」
「どうして会社を辞めるの? いきなり辞表を出すとか言われて、良いよ、って言えるわけがないじゃない。休職の話は何だったの? 私、裕さんが言っていること、全然分からないよ」
「家で寝ているだけじゃ全然回復しないからだよ。意味がないし時間の無駄だよ。英語力は今後仕事で絶対必要だし、外国で暮らせば気分転換にもなるし」
「前にも勧めたけど、英会話学校じゃ駄目なの?」
「全然違うよ、誰かに会わないかと人目を気にする必要がないし、朝起きてから寝るまで全てが英語の環境は全く違う」
「だって治療はどうするの? まずは先生に相談が必要でしょう?」
「いや、実は主治医には相談した」
「え? いつ? だって、この前一緒に行ったときは診断書をもらっただけで・・・・・・」
「実はあの後、別の日に一人で行ったんだ」
いつ行ったのだろう? 私が仕事の時だろうか。
「先生が、環境を変えたら症状が改善されるケースがある、って」
「でも、それは一般論として、でしょ。裕さんが留学するのに賛成って言ったの?」
「いや、はっきり賛成と言ったわけじゃないけど、でも、肯定的というか」
「だって、留学中の治療はどうするの?」
「それは大丈夫、三ヶ月分までなら出せる、って」
「三ヶ月・・・・・・」
ずいぶんと具体的な話までしていることに驚いた。そして先生に失望した。
いつも診察に付き添っているのに、前回も前々回も、先生は何も言わなかった。もちろん、先生は裕さんの主治医だから守秘義務があるのはわかるけれど、夫婦で話し合ったか確認するとか、話し合うよう助言するべきだと思った。
だいたい、会社を三ヶ月も休んでいるのに、まだ行けない、という患者に対し、留学するなら三ヶ月分の薬を出すなんて信じられない。そんなのは治療じゃない、治療放棄と同じだ。家から近く裕さんが通いやすそうというので受診したものの、最初から何か違和感があった。直観を信じて裕さんを説得し転院してもらっておけばよかった。そもそも、最初に違う病院に行っていれば、三ヶ月も経たずに回復して会社に戻れていたかもしれない。
「実は反対されたり、薬を出してもらえなかったりした場合を考えて、病院の口コミサイトなんかを随分見て転院のケースも考えていたんだ。無駄に終わったけど。とにかく、会社を辞めるって言っても書類上のことで、病気が治って留学から戻ったら再雇用してくれる、って言うから大丈夫だよ」
「再雇用するくらいだったら辞めなくてもいいんじゃないの?」
「それが駄目なんだよ。さっきも言ったけど上司は最初大丈夫って言ったんだ。でも人事部に確認したら病休で留学は認められないって。普通に休暇をとって留学なら上司の許可で可能だけど、有給の残りが二十日しかないから、せいぜい一カ月しか留学できない」
「だったら一ヶ月の留学でいいじゃない」
私には裕さんの主張が理解できなかった。休息が必要なのに留学なんてしたら病気が悪化するに違いないのに、その上会社を辞めるなんて。リスクが高いとかのレベルじゃない、現実逃避、自暴自棄な行為だ。
「一ヶ月なんて短すぎて意味ないよ、英語も上達しないまま帰国して仕事に戻るなんてありえない。最低三ヶ月は絶対に必要だよ」
裕さんが語気を強めて言った。何で分からないかな? という表情だ。裕さんが最高に良いと思っているプランを理解できない私に腹を立てているようにも見えた。
「でも、再雇用してもらえなかったらどうするの? 病気が良くならなかったら?」
「病気は環境が変われば絶対に良くなるよ。そもそも仕事のストレスが原因なんだから」
「だったら、再雇用してもらうより転職した方が良くない?」
私は書斎にあったA社の求人要項プリントを思い浮かべる。
「いや、今はまだ転職は良くないよ。今より条件の良いところじゃないと転職する意味が無いからね。タイミングがとても大事なんだ」
「だけど、再雇用が保証されているわけじゃ無いのにリスキーじゃない?」
「さっきも言っただろう、保証はあるよ。いや、あると言っても口約束だけど。でも、そこはね、上司が最初の話と違ってしまった以上、責任もって再雇用に尽力してくれる、って言うから大丈夫だよ」
私は呆れて返事も出来なかった。裕さんの言っている上司は人事に決定力を持つ人なのだろうか。会社ってそんなに温かいところだっけ? いくら今まで仕事が出来たとえはいえ、病気になって突然長期休暇を取られ、部内は大変な思いをしているはずだ。さらに三ヶ月の病休を相談され扱いに困っていたに違いない。病休では人手が足りなくても誰かを雇うわけにもいかないはず。もしかしたら、これで裕さんを辞めさせることが出来るかも、とほくそ笑んでいるかもしれない。上司を信用して大丈夫なのだろうか。
こんな風に考えるのは、私がネガティブすぎるのかもしれない。実際、色々な事が気になるし心配性だと思う。
「とにかく、まずは留学のパンフレット見てくれない? 今日説明を受けて色々もらってきたんだ」
裕さんは私が黙り込んだのを、肯定と受け止めたみたいだった。再雇用の将来があって、留学すれば病気も治り語学力のレベルアップも出来るのに反対するわけが無いと思っているようだった。
「海外ってクリスマス休暇があるだろう? あ、いや、明日香は知らないかもしれないけど、あるんだ。三ヶ月の留学は、つまり十二週で、休暇のことを考えると二十七日に入学するのが一番良くて、急げばギリギリ間に合うんだ、出発まで一ヶ月切ってるから手数料が少しかかるらしいけど、ビザは不要だし、何とかなるらしい」
「二十七って・・・・・・今月の?」
「そう、で費用だけどだいたい百五十万」
「百五十万!」
「あ、でも学費と生活費だけなら百二十万くらいだよ、ただね、時期からして帰りの飛行機代がどうしても高くなってしまうんだよ。それにさ、せっかく行くなら授業のない週末には旅行も少ししたいし、クラスメートとかと美味しいものも食べに行きたいし」
裕さんは饒舌だった。とても嬉しそうだ。私はこんなに狼狽えているのに。
「行き先はね、ニュージーランドが一番だと思うんだ」
パンフレットを開いて私の前へ置き、赤でハナマルの印をつけたコース番号のところ指差した。
「フィリピンとか安いけど環境がね。カナダは寒いし。南半球はこれから夏で過ごしやすいんだ。サマークリスマスが特別で、サンタクロースが水着だったりするんだ、日本じゃ絶対味わえないよね。ただ、オーストラリアは日本人留学生が多すぎる、って口コミが多いんだ。クラスの大半が日本人と韓国人で、授業中も日本語で話したりして会話が全く上達しなかった、とかさ。その点、ニュージーランドは全体的なバランスが良いんだよ」
「・・・・・・」
嬉々として話す裕さんに、何を言ったら良いのかわからなかった。それに、あまりにも突然の話に頭が混乱して自分自身の考えや気持ちも整理できなかった。
「貯金あるよね? 通院とか色々と使ったけど、でもまだ二百万くらい大丈夫だよね?」
「あるけど・・・・・・、でも、だいぶ減ったから三百万は切ったよ」
「うん、百五十万で十分だから」
「でも、・・・・・・」
「何、駄目なの? そりゃ二人のお金だけど、僕が一生懸命働いて稼いだお金でもあるわけだよね、半分は使う権利があると思うんだけど、何か間違っているかな? 明日香は留学に反対ってこと? ずっと家で寝て過ごせと言うの? 僕の病気が治らなくてもいいの?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、貯金が無くなってしまうと不安だな、と思ったの。ローンもあるし、少しは貯金が無いと怖いな、って」
「だからさ、さっきから何度も説明しているだろ!」
裕さんが語気を荒げたので私はビクリとした。
「ごめん、ごめん。怒っている訳じゃないよ。とにかく、パンフレット置いておくからさ、じっくり見てよ。パンフレットにも書いてあるけど、まずは登録料五万円を払わないといけないんだ、土曜日打合せの予約をしたから、その時に払いたいんだけど、お金あるかな?」
「土曜日? 何時?」
「六時から。あ、夕食要らないからね」
「わかった、明日ATM行ってくる」
「うん、お願いするよ。僕は明日香が理解できるように、今から簡単な資料みたいな物を作るから」
そう言って裕さんは立ち上がろうとした。
「夕食は? 食べる? これから用意するけど」
「あー、そうだな。時間が勿体ないからカップラーメンで良いよ、とにかく明日香はパンフレットを読んで」
「うん、・・・・・・。 あ、土曜日私も出かけていいかな? 職場の人に食事に誘われていて」
「いいじゃん、行けば。 じゃ、資料ちゃんと読んでね」
裕さんは書斎に籠り私は一人リビングに取り残された。言われた通りパンフレットを読む。でも、目は字を追っているのに頭の中に内容が全然入っていかなかった。同じところを二度も三度も読む。
絶対に反対、と言ったら裕さんは諦めてくれるだろうか? 退職して留学なんて馬鹿げている、向こう見ず過ぎる。一番身近な存在の私が、裕さんを正しく導かなければならない。でも、私が反対して留学せず、回復が思うようにいかなかったら、裕さんは私を恨むかもしれない。その時、私は正しい選択をした、と自信を持って、裕さんからの非難に耐えられるだろうか? そもそも、私が正しいかどうかは留学しなければ証明できない。
裕さんの希望通り留学して駄目だった場合、裕さんは納得するだろう。でも、状況は今よりはるかに苦しくなってしまう。病状が悪化し、収入が足りなくてローンが払えずマンションを手放さなければならなくなるかもしれない。もしかしたら、明日香が反対してくれていれば、と恨まれるかもしれない。
私は心配しすぎなのだろうか? ケセラセラ、人生はなるようになるのかもしれない。
裕さんは留学して病気が回復し、再雇用されて今まで以上にバリバリ働いて稼いで出世、昔はあんなこともあったね、なんて笑い話になるのかもしれない。
学費とホームステイ費用七十六万。平日は朝夕の食事だけど週末は三食。一人部屋追加料金の所に赤丸で印がされていて週五千円が追加。この他、空港送迎五千円、入学金二万、教材費一万。余白には裕さんの字で、マックセット七百円、スタバ三百円、往復航空機全日空二十二万(韓国経由十五万、乗継八時間)、海外旅行保険料五万円、その他ホームステイ~学校の交通費(学割定期アリ)など、と走り書きがされていた。オークランド校の一週間のスケジュールサンプルを見ると、金曜日はクラスメートとシーフードのディナーに外出、土曜日はオリエンテーションで近くの島までショートトリップ、日曜日はホストファミリーとバーベキューと書かれている。イメージ写真の学生達の笑顔は眩しく、海や山が美しい。
私がようやくパンフレットにひと通り目を通した頃、裕さんは書斎から出てきて会社のプレゼンで使うような資料をテーブルに並べはじめた。
「明日香も一ヶ月くらい行く?」
「え?」
驚いて思わず大きな声が出てしまった。
「いいと思うけどなー」
そう言いながら裕さんは台所へ行き、ポットに水を足しスイッチを入れる。
「無理だよ、仕事あるし」
「辞めればいいじゃん、パートなんだし。貯金崩しても、また貯めればいいんだから」
裕さんは何を言っているのだろう? 本気で言っているのだろうか? 顔色を伺うけれどわからなかった。裕さんは棚から出したカップヌードルをテーブルに置く。
「冷凍のピザがあったよね? 今日は動いたから、さすがにお腹が空いたよ、ビールでも飲もうかな、明日香も飲む?」
「ううん、今は要らない」
ご機嫌の裕さんと違い私は食欲が無かった。アルコールを飲みたいとも思わなかった。今日は心配してやきもきしたり、腹を立てたり、茫然としたりで胃が重い。
裕さんはビールを片手に手作りの資料で説明を始めた。都市の月別平均気温や事件発生件数、日本人比率や授業料を指さしながら、予定している学校がいかに良いかをアピールする。
「少し高いけどケンブリッジと提携していてメソッドが、とてもしっかりしているんだよ。明日香も行くと絶対良いよ。国際化はどんどん進む一方だから英会話が出来て損は無いよ。ちょっと見てみてよ」
そう言ってパンフレットをもう一度手元に寄せ、四週間コースの金額が掲載されたページを開き私に見せる。
私は行く気は全くないけれど、無視することも出来なくて仕方なく見る。二十七万円。飛行機のチケットや諸費用を加えたら五十万くらい必要になるのだろうか。めまいがしそうだ。
裕さんはそんな私の様子に満足げだ。席を立ち冷凍のピザをレンジにかけ、カップラーメンに熱湯を注ぐと、冷蔵庫から出した新しいビールを飲み始めた。たちまち独特の強い匂いが立ち込める。
「チビの世話もしなければならないし、私はいいよ、行かない」
何だか気分が悪かった。空腹に強い匂いを嗅いだせいかもしれない。
「少し出かけてもいい? 心配で仕事からまっすぐ帰って来たから明日の買い物が出来なかったの」
「あ、うん、別にいいよ」
財布を入れたバックを持ち玄関を出ると大きな溜め息が出た。目を閉じ大きく息を吸うと少し気持ちが落ち着いた。喉が渇いていたことに気付き通りの自動販売機でホットミルクティーを買う。明るく人通りのある駅とは反対へ曲がり、閉館した図書館の前にあるベンチに座る。周りに人はなく、でも不安を感じないくらいに明るくて少し先の歩道には帰宅を急ぐ人々が行きかっている。
ふぅ、と小さく息を吐きミルクティーを飲んだら左目からつーと涙がこぼれた。泣きたいと思っていなかったので自分でも驚き、慌てて左手で拭う。でも、行き交う人は前だけをみているのだろう。奥まったベンチにいる私の存在に気付く人さえいない。そう思ったら両目から一気に涙が溢れ出た。ハンカチで拭うそばから次の涙が溢れ出る。
そうして十分くらい泣いていただろうか。ハンカチが生温く、湿って重くなってきて気持ち悪いな、と思ったら涙が止まり、お腹がくぅ、と鳴った。いつの間にか、重かった胃が少し軽くなっていた。
手鏡で確認すると目が多少赤くなっていただけだったのでスーパーへ行き、明日の昼食用にハムとピーマン、マッシュルーム、そしてレジ横のパンコーナーで目に止まった蒸しパンを購入し、図書館前のベンチに戻る。先ほどと同様、誰もいない。
黒糖味の蒸しパンは甘く懐かしい味がした。飲み込むと、お腹がとても空いていたと気付く。こんな時でもお腹は空いて美味しいと感じるんだなぁ、と思うと何だか切なかった。でも、もう涙は出なかった。
ぬるくなったミルクティーを飲みながら、ベンチで泣いていた裕さんの姿を思い出す。退職して留学しても良い結果は得られない予感がした。それでも漠然と反対してはいけない気がした。反対したら確実に私と裕さんは駄目になる、一緒に人生を歩んでいけなくなる、そう思った。
裕さんを失いたくない。
でも、その為に私はきっと辛い思いを沢山するのだろう、覚悟をしなきゃ。そう思ったら、また涙が出そうになる。堪えるように上を見上げると小さな星が2つ見えた。きっと東京と違ってニュージーランドでは沢山の星が見えるのだろう。
家に戻ると裕さんはリビングで横になり眠っていた。テーブルの上にはビールの空き缶とカップラーメンの容器、ピザの箱がそのままだ。
泣いたことがばれたり、遅くなった理由を聞かれたりしないか心配していたのでホッとした。買ったものを冷蔵庫に入れ、音をたてないように片付ける。
一段落しチビにおやつをあげる。頭を撫でると満足げに横になった。そこからテーブルの下から覗く裕さんの寝顔を見つめる。酔って深く眠っているのだろうか、微動だにしない。寝息が聞こえるほど近いのに、とても遠く感じる。二人で一人と感じた日々があったなんて遠い夢の中での出来事のようだ。
結婚して十年以上、好きとか愛しているとか、そういう感情は薄れ、ときめいたりすることもなくなってしまったけれど、傍に居るのが当たり前の大切な存在には変わりなかった。さっき空を見上げて誓った覚悟を胸の中で繰り返す。今後どうなるかわからないけど頑張って支えていこう。
「Hello, Asuka, how are you?」
「Hello, Mike, I am fine.」
金曜日、いつもの挨拶を交わし英会話のレッスンが始まる。今日のテーマは沖縄の暮らしだ。最初に記事を音読する。読むのも書くのも苦手だけれど、話すのがとにかく一番苦手だ。先生に慣れてきても、まだ緊張する。今日は調子が悪く、特に何度もつっかかった。音読の後は難しい単語や内容の確認をしたり、テーマに関連した余談をしたりする。先生の言葉が聞き取れず何度も聞きなおし、また、回答に時間がかかる。しんどくて時計を盗み見たら、残りがあと二十分もあった。
「You are Japanese, so do you do Tai chi, also?」
「No, I have no opportunities.」
「Why? I do many times. Are not you interested in?」
「Well,……」
太極拳・・・・・・、精神的身体的にとても良いと聞くけど、裕さんが通ったら少しは回復に役立つのだろうか? 世界的に人気があるということはニュージーランドにも教室あるのかな?
「Asuka?」
「Yes?」
「Are you all right?」
「……yes, I am fine.」
先生が私の目をじっと見て肩をすくめた。
「I do not think so, you look hard. I think you are not OK.」
「But……」
何て言っていいかわからなくて、先生の目を避けるように下を向く。
「You would be better to speak out your feeling. It is good for you.」
「Well,……」
「You study seriously. I think it is good to take a break once in a time. You speak out what you think in Japanese to your heart’s content. You know, I cannot understand Japanese, so you can speak freely.」
「But,……」
「Of course I know some Japanese words, Arigatou, Aishitemasu, Daikirai, Otaku, Kimoi.」
先生の茶目っけたっぷりな笑顔につられて私も笑う。オタクきもい、はズルい。
「Honesty, I know some words, but I cannot follow you at all when you speak fast. Well, I am a counselor. I got a license at university. You could confirm it with manager.」
「家族や友達にさえ話さないようなことを数回しか会っていない語学教師に話すのは一大決心が必要です」
思い切って早口で話してみた。その間、先生の顔をじっと見ていたけれど、本当にわからないようで表情に変化がない。
「Be easy. Go ahead.」
先生は嘘をついていて日本語がペラペラなのかもしれない。でも、カウンセラーだというのは嘘をつく理由がないから本当かもしれないと思った。今まで何度かカウンセリングで裕さんのことを相談しようと思ったことがあったのだけど、恥ずかしいという気持ちが強かったし、料金が高くてずっと二の足を踏んでいた。話してみようか。
「We meet many times. I am your teacher but also your friend. So I worry about you. Am I an unreliable person?」
「いいえ、何回か会って先生は嘘をついたり騙したりしないと思っています」
マイク先生が頷いて先を促す。
「夫が病気になりました。病気と言っても身体的にではなくて精神的に。ある朝から会社に行けなくなりました。」
大きくため息をつく。マイク先生は静かに私を見ている。
「不安で、心配で、訳がわからないけれど、私がしっかりしなきゃ、と頑張りました。何が夫を苦しめているのか、どんな気持ちなのか、理解しようと努力しました。それなのに、夫はほとんど話をしてくれないだけではなく、英語でしか話さないと言い出したのです」
声が震えたけれど目を閉じ、話すことに集中する。
「分かりたいのに分からないし、分かって欲しいのに分かってもらえない、それがとても辛いです。」
言葉を飲み込みそうになるのを必死で押し出す。
「病気は本人が一番辛い、というのは分かっているのです。でも、言葉で理解していても感情的には駄目で、自分の辛さばっかりになってしまって、自己嫌悪するし、助けられない無力さに打ちひしがれてしまうし、愛されたい、大切にされたい、って思いは消せないし、何をやっても上手くいかなくて、どうにも苦しくて・・・・・・」
込み上げた感情に、耐え切れずに涙がツーっとこぼれた。
「どうしてこうなってしまったのか、と考えてしまいます。ただ、幸せになりたくて頑張っただけなのに、何が悪かったのか、と・・・・・・。最近、夫から会社を辞めて留学すると言われました。私は反対です。でも、夫の人生なのに反対して良いのか、病気が良くなるためには今はただ見守るべきなのか、何が正しいのか判りません。自分に自信を持てないから選択ができません」
ハンカチで涙を拭っても、次の涙がすぐにこぼれる。
「私の世界は夫を中心についこの前まで幸せで平和でした。それが突然壊れて頑張っても、頑張っても元に戻らなくて……。一人世界から取り残されたような、誰からも必要とされていないような寂しさを感じます。時々、私が消えて無くなりそうで不安になります」
抱えていた気持ちを全部出したような、それでいて、全然出し足りないような気がした。本当のことを話したような、でも嘘をついているようにも感じた。
止まらない涙を拭う。無言の時間が一分ほど続いた。
「Do you want to say anything else ?」
「No.」
「Are you all right ?」
「No. I need a little more time .」
マイク先生がうなずく。それを見てまた涙が溢れる。無言の時間が穏やかに流れ、隣の教室から時折微かに会話が漏れ聞こえる。
「I cannot understand Japanese words, but I can understand your feeling.」
マイク先生が静かに話し始めた。
「We are able to be in sympathy with each other, even though we cannot speak. We can communicate by our hearts.」
私は静かに頷く。もう涙は止まっていた。
「We all want to help one another. Human being is like that. No sense in keeping it bottled up inside. Open your heart. I think you will be OK.」
さっきより強く頷く。
「Are you OK?」
「No, but I will be OK.」
「That is good !」
問題は何も解決していない。でも、少しだけ胸が軽くなった。先生の言葉が嬉しかった。そうだ、きっと私は大丈夫だ。
「I recommend you a cup of hot milk. See you next week.」
「Thank you, and see you next week.」
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