すれ違い

 あと三ヵ月は休職して療養が必要、と診断書を書いてもらえないでしょうか?」

八月も終わりが近づいていた。 「先週、会社から電話があって今後のことを聞かれたのですが、まだとても出社出来そうにありません。自分では正直、悪化の一方だと感じています」

私は白い壁を見つめ、裕さんと主治医のやり取りを聞いている。

「そうですね、休職すれば三カ月くらいで症状が治まる方が多いのですが、抑うつ、不安気分が強いですし、会社が認めてくれるのであれば、もう少し休んでも良いかもしれませんね。診断書は問題ないですよ、書いておきましょう」

「先生、私は本当に良くなるのでしょうか? すみません、不安で仕方がないのです。このまま駄目になり野垂れ死ぬイメージしか持てないのです」

「坂田さんのように仕事が原因の場合、休職して会社や仕事から離れれば症状が六カ月以上は持続しないのが一般的です」

「そうですか……」

「では、お薬は四週間分でいいですか?」

裕さんは話し足りないようだったけれど、『はい』と答えただけだった。


裕さんは普段より激しい貧乏ゆすりをしながら、薬局の待合椅子で診断書の入った封筒を何度も表裏ひっくり返していた。先生は説明で、病名は適応障害で、さらに三カ月の休職療養が必要と思われる、と書くと言っていた。けれど、違うことが書かれていないか不安なのだろう。裕さんは時折電気の光に翳して中に書かれている字を読みとろうとしていた。

「開封したら無効かな?」

「多分ね」

「上手く開けることが出来ないかな?」

「封緘してあるから難しいと思う。止めた方が良いと思うよ」

納得出来ないのか、返事は無い。私はテレビの画面を見つめながら裕さんの次の言葉を待つ。音が出ないように設定されていて、DVDだろうか? 外国の街並みが映し出されている。

「俺の病気、本当に適応障害かな?」

「私には判らない。でも、会社休んで薬飲んでも良くなっている感じがしないから、別の病院へ行くことをこの前相談したの。転院を勧めているわけじゃなくて、セカンドオピニオンを受けるだけでも良いかな、と思って」

「来月、会社に行って診断書渡して、無事に休職出来ることになったら考えてみてもいいかな」

「無理してない?」

「ううん、ただ、どこの病院が良いかわからないから一緒に探してくれるかな?」

「もちろん」

「問合せとか予約の電話もしてくれる?」

「うん」

「会社への電話とか、上司との面談も明日香に代わりにお願い出来たらいいのになぁ・・・・・・」

「代わろうか? どうしても辛くて駄目なら会社に相談してみても良いよ」

「ううん、頑張る。でも、今から気が重い。会社、行けるかな?」

「きっと大丈夫だよ」

安心させようと膝の上に置かれた裕さんの左手に手を添えた。裕さんは握り返してきて、薬剤師から呼ばれるまで手を離さなかった。迷子になった幼児のように、口に力を入れて不安に堪えているようだった。(男の子だもん、泣いたら笑われる、強くいなくっちゃ) 裕さんの声が聞こえたような気がした。


「Are you awake?」

返事は無いけれど目が明いたので起きていることは判った。

「Do you have a lunch?」

裕さんは首を少しだけ横に振る。

「I am going out a little later. Do you remember? I meet my friend.」

「I know.」

「If you don’t have a lunch, don’t forget to take medicines. I will buy something for dinner and come back home around 7 o’clock.」

裕さんは再び目を瞑る。会社に行き上司と会わなければならない事が辛いのだと思う。眠って現実から逃げているのだろう、先週、会社から電話があって以来、一日のうち十六時間以上を眠っているかうつらうつらしている。トイレにも行かずに十時間以上眠ることにびっくりした。

シャワーを浴びるのも億劫らしく、浴びても面倒で髪を洗わなかったりする。せめて下着くらいは毎日交換して欲しいと思うけれど、「わかった」と言うのになかなか着替えてくれない。冷房を入れているとはいえ、寝室は少しモワっとして、こもった匂いがする。

医学的にどうなのか、は分からないけれど、ある患者のホームページで抑うつの時に風呂に入りたくなくなることについて書かれていた。もちろん億劫というのも理由らしいのだけど、自分の匂いにより自分の存在を確認して落ち着くので、風呂に入らず体臭が強くなれば、より落ち着くというのだ。

確かに子供の頃は自分のヨダレや汗の滲みついた象のぬいぐるみを鼻に押し当てると心が落ち着いた。祖父母の家に遊びに行くときには着替えと一緒にカバンに入れて持って行かないと良く眠れなかった。

光があれば影が出来るように存在するものには相対するものがあるという。不安な現実から逃避し死を甘美なものに感じる一方で、生にしがみつき自己の存在を確認して安心するという複雑さ。絶望と希望。

以前、『気分が良くなったり悪くなったり、まるでジェットコースターに乗っているみたいなんだ。徐々に気分が良くなった後に調子が悪くなることもあれば、良いのと悪いのが波みたいにやってくることもある。調子が良かったのが突然フリーフォールで一気に落ちるように絶望的な気分になることもある。自分ではコントロールが出来ないんだ』と言っていた。

「Have a sweat dream.」

再び眠ってしまったらしき裕さんへ声をかける。現実がそれほど辛いなら、せめて悪い夢をみませんように。



保健師さんから紹介してもらった家族の会は市の公民館で二カ月に一度活動しているということだった。入口の案内を見ると「こぶしの会/2階203会議室」と書かれていた。

階段を上がり扉の小窓から覗きこむと七、八人の人がいた。代表の乾さんらしき人を探していると、私に気付いた小柄な中年女性が茶色のブラウスを着た高齢女性へ声をかけてくれた。

「坂田さん? 代表の乾です」

「坂田です、保健師の高橋さんにお願いして見学に来ました。今日はよろしくお願いします」

会釈すると、柔らかい笑顔で『よろしく』と返してくれた。緊張していたので親しみやすい雰囲気に少しホッとした。乾さんは六十代だろうか、私の母より年上に見えた。一方、高価ではなさそうだけど皺の無いブラウスに膝下丈のスカートをきちんと着ていて、背筋の伸びた品の良さが感じられた。

「この会が発足してもう二十年位になります。会には半年毎に精神科の先生が同席して下さっていて、高橋さんも時々同席して下さるのですけど、今日は家族だけなので気兼ねしないで下さいね。高橋さんから聞いていると思うけど、統合失調症の患者の家族、主に両親で構成されている会だから、坂田さんの役に立つかどうか……。でもね、病気は違っても家族の気持ちは似ていると思うのよ。あなたも色々と大変でしょう?」

思わぬ時に思わぬ人からの優しい言葉、私は思わず涙ぐんでしまい、自分でもびっくりした。

「大丈夫よ」

乾さんは乾いた手で私の肩を軽く叩いてくれる。手の温もりが肌に伝わる。

「ありがとうございます」

裕さんの病気のことは大概の人に内緒にしていたので、こんな風に優しい言葉をかけてもらったことが無く、私は堪え切れず涙をこぼしてしまった。慌ててハンカチを取り出して拭う。

二時半になり、乾さんが見学者である私を会員に紹介し家族会が始まった。挨拶をすると大半が笑顔で軽いお辞儀をしてくれた。

内容はまちまちで、新しい薬についてだったり、妄想が強くなった時の家族の接し方だったり、近況報告だったりした。

「先月、主人が入院しましてね、あまり状態が良くないのです。息子は今のところ安定してきていて支援センターに通って清掃などしていますけどね、私たち親はだいぶ歳をとりましたし、将来のことを考えると不安で・・・・・・」

「大木さんの息子さんは四十代でしたか?」

「ええ、四十八です、十九で発症して、かれこれ三十年になります。主人が退職してからは年金で何とか生活してきましたが、入院して医療費もかかりますし、主人が亡くなったら年金も減りますし、うちは一人っ子ですので、他に頼れるところがありませんし、考えれば考えるほど、どうしたら良いかわからなくて」

「兄弟姉妹がいても同じですよ。嫁いだ娘に負担をかけるわけにはいかないですからねぇ」

「私もね、定年になって少し焦る気持ちがあるんですわ。仕事していた時は嫁に任せっきりでしたが、今は息子と接する時間も増えたでしょう、余生が長くないと思うと、ついつい不安や焦りから余計なことを言ってしまったりしてねぇ。男だし、しっかりしてもらわないと、って思う気持ちが強くてねぇ」

話を聞き皆が自分のことのように頷いている。参加している人は五十代から七十代、病気のわが子を残して先立つ不安は皆同じなのだろう。


私の体は会議室に在り、会員の話を聞いているのだけど、一方で意識は別のところに離れていく。

こころの病気は複雑で、個人差が大きいらしい。同じ病名でも病状や回復状況が違うことも多いらしい。裕さんはあと少し会社を休めば何事も無かったように毎日出社し朝から晩までバリバリ働くのかもしれない。でも、会社に戻れず病状も重くなって、社会に適応できず引きこもってしまうかもしれない。慢性化すると十年以上症状が改善されない場合や、稀に適応障害を引き金に他の病気も発症して重い状態になることもあるという。

裕さんは複雑な幼少時代を過ごしたらしい。家族はいるようだけれど私は会ったことがない。裕さんは一応住所を知っているようだけれど、連絡を取ったり会ったりしている様子は全く無かった。辛い思い出しかないらしく、付き合っていた時も、結婚してからも、子供の頃の話、特に家族についてはほとんど語らなかった。結婚式も挙げなかった。せめてウェディングドレスが着たい、という私の要望で写真だけ撮り、記念に二人でホテルのレストランで食事をしただけだった。今回、仕事のストレスがきっかけで病気を発症したものの、私は何か根深い問題を裕さんが抱えているに違いない、と感じていた。担当医に話しても、まだ治療を開始して三ケ月余りで結果を急ぎすぎる、私が不安のあまり神経質になり過ぎている、そんなことではご主人の治療にも良くないですよ、と、全然相手にしてくれなかった。でも、裕さんが過労死しそうなほど、見えない何かに追われているかのように働いていた頃から違和感を覚えていた。回復して昔と同じになるのは大変なこと、もしかしたら、昔と同じなんて無いのかもしれない・・・・・・と確信に近い思いがあった。

例えば社会復帰に三年かかったとしたら? 私がフルに働いたとして、ローンの返済が出来るだろうか。マンションを購入する際、頭金でほとんどの貯金を使ってしまっている。だいたい、大して経験もなく専業主婦を何年もしていた私が、正社員として採用してもらえるのだろうか。免許があるから何かしら仕事は見つけられるかもしれないが、調理スタッフの給与は低い。貯金を崩しながらの生活を何年続けられるだろう? 残高を思い浮かべ大まかに頭で計算をする。二年が限界かもしれない。やっと手に入れた夢のマイホームを手放さなければならないかもしれないと考えたら切なかった。でも、手放したら手放したで、家賃を払えるのか、と不安になる。勤務年数が短いと貸し渋りされると聞いたことがある。不安定な身分で部屋を借りることができるのだろうか。

二、三年なら踏ん張れる可能性がある。でも、十年かかったとしたら? 病気の裕さんは家事もままならないだろう。病状の重い時は自殺の可能性が拭えない。そんな裕さんを家に置いて朝から晩まで働き、帰宅すれば家事や世話に追われる追い詰められた生活に、今まで大した苦労もせずに生きてきた私は耐えられるだろうか。

それに、・・・・・・。私は天井を見上げる。本当は考えているのに受け入れまいと無視し続けてきた想いが溢れ出る。きっと家族の会で母親の気持ちに囲まれているからだ。それぞれが大変な悩みや辛さを抱えて必死でいるのだけれど、産まなければ良かった、という声は出ない。我が子って母親にとってどんな存在なのだろう? 私は将来、母親になれるのだろうか?

裕さんの回復に時間がかかった場合、金銭的な理由から子供を作るのは難しい。私は働かなければならないし、子供を育てるというプレッシャーは不安を増加させ病状を悪化させるに違いない。それに、遺伝のことを考えると子供が欲しいから産む、というのは傲慢なのではないか、と感じてしまう。病気は遺伝要因よりも環境要因が大きいというけれど、ストレスに弱い親、という養育環境で育つ子供は果たして幸せになれるのだろうか?

子供を諦めるだけならまだしも、万が一、会員の息子さんのようになったらどうしよう。三十年後といえば裕さんは六十六、私は六十三だ。老老介護、という言葉を最近耳にするようになったけれど、私は女ざかりの四十代からずっと、一生裕さんの世話をして老いていくのだろうか。あまりにも途方に暮れる想像に、無意識に拒否反応が出ているのか、全く現実味を感じられない。ただただ、言いようのない重さが胸にのしかかり苦しい。


「では、今日はこれで終わりにしましょうか」

突然、声が届いて我に返る。一瞬、状況が理解できずに戸惑い、周囲を見渡すと『お疲れ様でした』と会員同士挨拶をしている。

「坂田さん、どうでしたか?」

乾さんが近づいてきて少し心配そうに聞く。きっと私がボーっとしているのに気付いたのだろう。

「色々なことが聞けて、私だけじゃない、と思えました。良かったです。ありがとうございました」

「それは本当に良かったです。もし、また出席したくなったら遠慮なく開催日を高橋さんに問い合わせて来てくださいね。」

私は深くお辞儀をし、様子を伺っていた会員達と会釈で挨拶をし合い会議室を出た。階段を降り、公民館を出る。残暑が厳しく熱気が押し寄せた。四時でも照り付ける太陽が眩しい。一瞬立ち眩みのようなものを感じたけれど、立ち止まらずに駅に向かって早足で歩く。色々な感情が押し寄せて胸が苦しい。必死で歩いていないと涙が出そうだった。


千絵さんのアパートに着く頃にはようやく少し気持ちが落ち着いた。玄関で挨拶をしていたらジャイアンが膝に跳びかかってきて、駅前で買ったチョコレートケーキを落としそうになり大笑いする。

「ジャイアンは本当に女好きだから困るよー、大丈夫?」

千絵さんが私の足にマウンティングしているジャイアンを引き離し、『重―い』と笑いながら抱きかかえる。

「少し痩せた? 私は仕事でイライラしてつい食べるからまた太ったよ。細くて羨ましい。大変そうだけど顔が見られて良かった、とりあえず安心した」

本当は気を使っているのだと思う。でも、気を使っていないように接してくれるのが嬉しい。興奮気味のジャイアンは床に降ろされると、ソファーに飛び乗ったり下りたり、部屋を回ったり、と忙しい。

「お、この店のチョコレートケーキ美味しいよね。紅茶で良い?」

頷く私に、適当に座ってと合図しながら千絵さんはお茶の用意をする。マウンティングされないよう女の子座りすると、ジャイアンが不満そうに鼻を鳴らす。

「ダンナ様はどう? 何時まで大丈夫そう?」

「調子は良くない。家族会が終わった時にメールしたけど、まだ返事も無いし」

「そっか」

「メールしたように、六時の電車に乗って帰ろうと思う」

「うん、駅まで送るよ。買い物あるから。で、家族の会はどうだった?」

私は家族の会のこと、裕さんが更に三ヶ月休職の予定となったこと、転院を考えていること、などを説明した。千絵さんは相槌をうって聞き役に徹する一方、私が話に詰まると簡単な質問をして促してくれた。

「そっかぁ、だいたい分かったよ」

私がひと通り話をすると、千絵さんはそう言って背筋を伸ばした。

「で、明日香ちゃんは、今一番何を迷っているの?」

話したいけど、話しづらくて、時間が無いのに状況説明ばかりしていた私は、千絵さんに背中を押され、思い切って言う事にする。

「自分の対応に自信が持てないの。将来が不安でたまらないし、物事を判断することが怖いの」

千絵さんは無言で頷き、私を促す。

「私と結婚しなかったら裕さんは病気にならなかったのかな、と自分を責めるというか自分が悪いのかも、と思う一方で、このまま裕さんが治らなかったら、子供にも夫にも恵まれなかった私の人生って何だろう、私は罰を受けなければならないほど何か悪いことをした? 理不尽だ、って怒りとか、頭の中がごちゃごちゃで、全然整理が出来ないの。だから判断も出来ないというか、怖くて避けたいだけで一杯いっぱいになってしまうの」

食べ終えたケーキの皿を見ながら一気に言った。視線を上げると千絵さんは柔らかく微笑むだけで、否定も肯定もしない。

「それからね、裕さんがそれほど辛く追い込まれるような会社なら、あと三ヶ月休職なんて言わず、私が無理にでも今すぐ辞めさせるべきじゃないか、と思う一方で、今後の生活を考えたら、それが正しいのか自信が持てないの。怖い。一度落ちこぼれると容易に戻れないって聞くから、歯を食いしばって縋り付いてなりふり構わず会社に残るべきかもしれない、とも思う」

私は一つ大きく息を吐く。千絵さんは見守ってくれている。

「一生かかっても裕さんを支えなきゃ、って思う一方で、共倒れにならないよう、今のうちに離婚するべきかもしれない、とも思う。そう思う自分が嫌でイヤでたまらない。私って卑怯だ、醜い、って思う」

皿の上のフォークの先を見つめ集中しようとするけれど気持ちを整理することが出来ない。取り止めなく頭の中に想いが浮かぶ。

「普段は全然神様仏様なんて考えないの。裕さんの病気のことで先祖供養とか除霊とか言われて、馬鹿馬鹿しい、って思うし、水子のこととか聞かれて腹も立つのに、どこかで、神様の試練? とか。前世の罰を受けているのかな? と思っている自分がいる。お参りするだけで良くなるのなら、やってみた方がいいかな? と思う自分に呆れたり、弱いな、情けないな、って思ったり」

一瞬目を閉じ、息を吸って気持ちを押し出す。

「こうしてね、悩みというか弱音を吐いている自分もすごく嫌。愚痴を言うと嫌われる、って思う」

千絵さんが静かに首を横に振る。

「私は思わないよ。むしろ私は、明日香ちゃんは、やっぱり弱音を吐かないなぁ、と思った」

「そうかな?」

「うん、今までに比べたら言っているけど。でも、もっと言っても良いと思うよ」

これだけ話したのに、弱音を吐いてないと言われて意外だった。

「まぁ、性格だからね。無理してまで言わなくても良いし」

かなり無理して思い切って言ったのに、これ以上何を言ったら弱音になるのかな? 私は首を傾げて少し考える。

「そういうとこ、真面目というか、明日香ちゃんらしいよね。いつも真正面から向き合うよね。今日話を聞いてね、大変なのは良くわかったけど、明日香ちゃんは大丈夫だな、と思ったよ。」

「でも、自分では逃げていると感じていて、全然大丈夫と思えないのだけど」

「大丈夫じゃない、って言えているうちは大丈夫だよ。私は大丈夫じゃなかった人を何人か知っているから少しは分かると思う」

「そうなのかな?」

「うん、今の明日香ちゃんなら大丈夫」

納得は出来なかったけど、しっかりものの千絵さんが『大丈夫』と言ってくれたのは嬉しかった。大丈夫かもしれない、と少し思えた。

「じゃ、ダンナ様が待っているだろうから、そろそろ行こうか? 駅まで何か楽しい話題を話そう!」

千絵さんはそう言うとジャイアンを抱えケージに入れた。不満なジャイアンが激しく足ダンをする。可愛くて二人で笑った。


 駅ビルで夕食の惣菜を見ていると秋のメニューが新商品として並んでいた。舞茸のおこわが美味しそうだな、と思う。感情を外に出したことで少し気持ちが軽くなったのかもしれない。珍しくあれもこれも美味しそうに見えて、沢山購入してしまった。


 玄関を開けると珍しく明かりが点いていた。昼間家を出る時は元気が無く、メールの返事も無かったので心配していたけれど、気分が良くなったのだろうか。

「I’m home.」

リビングの扉を開ける。すると、大量の本や雑誌が散乱していた。

「I do not need them anymore.」

書斎から本を抱えて出てきた裕さんが私に気付いて言う。

「I will take them to the garbage collection point at midnight.」

「I do not mind that. I just think you do not need to throw away. You can keep them.」

ずっと大切に保管してきた大学の教科書や専門書を、突然捨てようとしている。死ぬ前に身の回りを整理する人がいる、という話を思い出す。一瞬思考が止まる。

「I am hungry. For now, shall we have a dinner?」

裕さんから久しぶりにお腹が空いたという言葉を聞いて慌てて支度をする。湯を沸かし惣菜を載せる皿を食器棚から取り出す。

「I am thirsty. Could I drink beer?」

昼と帰宅後の裕さんがあまりにも違い過ぎて動揺する。返事に戸惑っていると、『Just a can of beer.』と裕さんが笑いかける。今月になって笑う顔を見たのは初めてだ。前回、裕さんが笑ったのはいつだったろう? そんなことを考えていたら、『Once in a while.』と裕さんが拝む振りをするので、私は反射的に頷いてしまった。飲んでいる薬や病状を考えるとアルコールは控えた方が良いけれど絶対に飲んではいけない、とは言われていない。

相変わらず言葉少ないものの、喉を鳴らしてビールを飲み、豚肉と玉ねぎの串カツを頬張る。特に舞茸のおこわは好評で、『It is delicious.』と、あっという間に無くなった。食欲旺盛な裕さんが次々と食べ、多めに買った惣菜は少し足りないぐらいだった。


裕さんは日付が変わる頃まで本棚を整理したり、ごみを出したりしていた。そして、翌日の日曜日は疲れたのか昼過ぎまで寝ていたけれど、その後は何かを調べているのか、書斎にこもって何時間もパソコンを使っていた。時々プリンターから紙を排出する音が聞こえてくる。私は邪魔をしないよう、リビングで本を読んだりイヤホンを使って録画していた映画を観たりして静かに過ごす。

裕さんは家にいる。起きてもいる。でも、私は一人ぼっちだ。気を使ってこそこそしている。何だか無性に寂しかった。調子が良い時くらい、私を気遣ってくれたってよいと思う。『いつもありがとう』って言って欲しい。私なりに頑張っていることを認めて欲しい。温もりを感じたくてチビを撫でたり、抱っこしたりする。

すると夕方、突然『I go to the bookshop in the railway station building.』と言って珍しく一人で外出した。

書斎を覗くと本棚は所々に隙間が出来ていて全体で四分の一くらい空間があった。どういう想いで捨てたのかな、と考えると切なかった。生きていくことに疲れて身辺整理をしているのだとしたら、何とかしなければ。でも、何をしたらよいのだろう。

床の上には沢山のプリントが並べられていた。何気なく一番近い足元のプリントを見る。A社の求人要項だった。下には他社の要項もある。週明けにも休職の延長を上司にお願いしようとしているところなのに転職? その隣は語学留学斡旋会社の概略だった。カナダワーキングホリデー留学。さらにプリントを見ると、都内の病院のホームページの他、退職金、疾病手当金に関することが印刷されていた。人生をやり直すつもりで退職や転職を考えているのだろうか? でも私に一言の相談も無しに?

私はだんだん腹が立ってきた。調子が良いのなら話せないのも仕方がないと思う。でも昨日から元気そうなのに何も話してくれないなんて。

馬鹿にしないでよ! そう思った瞬間、別の考えが頭をよぎった。裕さんは本のように私のことも捨てて人生をやり直したいと思っているのかもしれない。だから存在を無視するような態度をしているのだ。

突然悔しさが込み上げてきた。こんな気持ちは初めてだった。頭が熱かった。一生懸命やってきたのに、私は何も悪くないのに、どうして? こんな仕打ちをされるなんて許せない、だったら別れを切り出される前に、私から別れてやる! これ以上犠牲になんてならない!

床のプリントの文字に焦点が合い、ふと我に返る。無意識に拳を力いっぱい握りしめていた。どのくらいこうしていたのだろう? 十分以上かもしれないし、二分だけかもしれない。一体私は何を考えているのだろうか。支離滅裂だ。犠牲になったと考えるなんて馬鹿みたい、もしかしたら私も病気なのかもしれない。私は見返りを求めて尽くしてきたわけじゃない。裕さんが好きで心配で、ただ一生懸命だったはずなのに、いつの間にこんな酷い醜い感情を抱くようになっていたのだろう。

書斎を出てチビのところに行く。チビはケージに近づき鼻を寄せる。

「ごめん、おやつじゃないよ」

頭を撫でると指が柔らかい毛に埋もれる。

「一生懸命やっても駄目だよ。私は強くないもん、裕さんを支える自信なんてないし、このまま良くならなかったらどうしようかと不安でたまらない。」

チビに言っても仕方ないのはわかっている。

「裕さんの前で泣かないようにするだけで一杯、笑ったりなんて出来ないよ」

でも、言わないと苦しくてたまらない。

「私も壊れてしまうのかな?」

無意識に口に出した言葉が胸に刺さった。怖かった。誰でも良いから守ってもらいたかった。でも、誰に守ってもらえるだろう? 私にはチビを撫でることしか出来なかった。自分を慰め励ますように、窓の向こう側が暗くなるまでひたすら撫で続けた。


裕さんは本屋のロゴの入ったビニール袋を提げて帰宅した。厚みがあったので何冊か買ったのだと思う。でも、そのまま書斎に入ってしまったので何の本を買ったのか分からなかった。転職関係、それとも留学関係だろうか?

夕食の時に何か話してくれるかもしれない、と期待したけれど、裕さんは何も言わなかった。そして夕食後も書斎にこもり、遅くまで何かしていた。

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