孤独

 「坂田さん、今日は具合悪いの?」

休憩で交替の引継をしていると藁谷さんが心配そうに聞いた。

「さっきも両替回収の時、珍しく間違えたでしょう、いつもと様子が違うかな、と思って」

「昨日ちょっと寝不足で。頭が回ってないのかな。しっかり仕事しなきゃ、って思っているのだけどボーっとしているのかもしれない」

実際、寝不足だった。昨日、裕さんは電気店のトイレから出た後、一言も話すことなく家に帰ると布団に入ってしまい、昼食も夕食も食べなかった。今朝私が仕事に出る時も呼びかけに目さえ開けなかった。

 仕事をしていても、手の空いた瞬間に、ふっと支離滅裂に怒る裕さんの姿を思い出してしまう。裕さんとは付き合い始めてからもうすぐ十五年になるけれど、怒った姿は数回しか見たことがない。それも、私だったら感情的にブチ切れるところを、裕さんは論理的に説明し自分の思い通りの結果を得るために必要なだけフリで怒る、という感じだった。我を忘れて、周りも見えなくなるくらい怒るなんて裕さんはどうしてしまったのだろう。病気が治ったら元の裕さんに戻るのだろうか。

 遅番の時の食堂はとても空いている。私は早番シフトが基本なので、この時間に食事をすることは月に一、二回しかない。どの席に座ろうか見渡していると田中主任と目が合った。

「お疲れ様」

「お疲れ様です」

声をかけられたのに離れて座るのも気まずいので、斜め前の席に立ち『この席は空いていますか?』と尋ねると主任は慌てて『どうぞ、どうぞ』と立ち上がって席を勧めてくれた。

「大丈夫?体調悪いんじゃない?」

主任にも言われるとは思っていなかった。

「あ、いや、こういう聞き方ってセクハラだって言われかねないよね、ごめん、ごめん」

意外と思っていたのが顔に出たのか、何も言っていないのに謝られる。

「なんかね、いつもより元気なさそうだったから、詮索するつもりとか悪気とか全然ないから」

「すみません、睡眠不足なだけです。ボーっとしていましたか?」

「いや、いや、大丈夫。坂田さんは仕事しっかりやっていると思うよ」

「そうですか? だったらいいですけど」

主任と仕事以外の話をほとんどしたこともないうえに、加藤さんから食事会の話がその後どうなったかを聞いていないので気まずい。私は親しくない人と話をするときは口元を見て話すのだけど、逆にそれが禿げている部分を見ないように視線を避けていると主任が勘違いするのではないか、などと心配になる。

「さすがにこの時間になるとお腹空きますね」

何を話していいのかわからないので、とりあえずそう言って弁当を開くと、主任も食事を再開した。主任も気を遣っているのだろう、新商品の売れ行きなど適当に話をしてくれる。

「何か、悪かったね」

丁度お茶を足していた時だったので、お茶くみに対して気を使ったのだと思った。

「加藤さんは良い人だけど少しおせっかいだよね」

お茶ではなく、主任が食事会の話をしているのだと気付いた。

「俺が結婚しないことを心配してくれていて、それは有難いんだけど、わかっていないんだよね。俺みたいなのと結婚したい女性がいる訳ないのにさ。俺の為にはりきっているのに強く断れるのも悪いし、どのみち断られるのは目に見えているから、と思っていたら、坂田さんにも声かけたって聞いてびっくりしたんだ。悪かったね」

「加藤さん、主任のこと性格が良いって誉めていました」

「ハハハ。俺、おばちゃん達からの評価は悪くないんだよね。加藤さんは今どきの若い子は見る目がない、とか言ってくれるけどさ、やっぱり顔でしょ? 付き合う人と結婚する人は違う、とか、外見より中身、なんて言うけどさ、俺二十代から禿げてて全然モテないし、合コンとかお見合いしても断られるし、駄目なんだよね」

「いえ、そんなことないと思いますけど・・・・・・」

「とにかく、食事に行くことは有り得ないから。俺のことで気を遣わせてしまって悪かったね」

そう言うと主任は席を立ち、現場へと戻っていった。こうして話してみると加藤さんが言うように主任は良い人っぽかった。


 休憩で昼食を取ると少し気分も良くなり、レジが混んだため物思いにふけることもあまりなくミスもしなかった。でも、勤務を終えて家に帰らなきゃと思うと気が重く必要もないのにスーパーへ寄り道をした。

裕さんは用意した食事をちゃんと食べただろうか? 調子の悪い時は一、二日間ほとんど食事をとらないので、食べずに寝ているかもしれない。買い物カゴを持って三十分近くうろうろしたものの、結局、安売りしていた鶏肉とウィンナーだけを買う。

 玄関を開けると人がいて飛び上がる。驚いて声も出なかった。

「おかえり」

電気もつけず、裕さんが玄関マットの上に正座していた。

「ただいま」

無意識に返事をした後で、裕さんが日本語で話したことに気付いてもう一度驚く。

「どうしたの?」

「明日香が帰ってこないんじゃないかって不安で堪らなくなったんだ」

「帰ってくるよ、私の家だもん」

まるで帰るのが重荷に感じたことが伝わってしまったようで焦った。

「でも俺、普通じゃないだろ? おかしいだろ?」

「それは病気だから・・・・・・」

「良くなるのかな? 元に戻れるのかな?」

「先生は薬を飲んでしっかり休息を取れば大丈夫だって」

病状がだんだん悪化しているようで、正直、私も不安に感じていたことだった。鬱病だと思っていたのに診察を受けた医師からは診断書に適応障害と書かれ一カ月以上の休息が必要との見解が添えられていた。でも、もうすぐ受診して二カ月になるのに改善がみられず、どちらかというと症状が重くなっているように感じていた。診断は正しいのだろうか? 薬は合っているのだろうか? 疑う気持ちが芽生えていた。

「仕事に戻れる気がしないんだ、ホームレスになって野垂れ死ぬんじゃないかと思うと、不安で堪らないんだ」

そう言う裕さんの目からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出た。

「私がついているから大丈夫、ホームレスなんかにならないよ」

「でも、小学校の担任が俺は三十代で死ぬ、って言ったんだ!」

泣きじゃくる裕さんを寝室へ誘導しベッドへ寝かせる。右手で裕さんの手を握り、左手で肩の下をゆっくり軽く叩く。

「怖いんだ」

しゃっくりが出るほど激しく泣いている。私は、わかっているよ、という合図に手を一瞬強く握る。

「少し寝た方が良いよ、眠れるまでここに居るから」

「うん」

ようやく安心したのか、しゃっくりが小さくなった。そして五分も経たないうちに眠りに落ちた。私は手を握ったまま、しばらく寝室にいて考えていた。

白い診察室でのやり取りを思い出す。 

「主人は幼少期から辛い思いをして育ったらしいのです、発症したのは家庭環境にも原因があるのでしょうか?」

「奥さん、現在の精神科では原因探しはしないのが基本です」

「でも、一番の原因は仕事だとはっきりしています」

「では、原因が判ったとしてどうなりますか? 会社や上司を訴えますか? 原因を排除する為に人事異動をお願いしますか? それとも退職なさりますか?」

そんなこと出来る訳がないし、望んでいない。

「仮に御主人が不適切な養育を受けていたとして、ご両親を責めればご主人は会社に行けるようになりますか? 過去を変えられますか?」

責めても仕方ないし過去は変えられない。そんなことは判っている。

「無意味ですよ」

そうかもしれない、でも、本当にそうだろうか?

「しばらく会社を休んで体調を整えたら、後は薬を使いながら環境に慣れることです」

そう言うと先生は時計を見て『では、次の患者様が待っていますので』と面談の終わりを告げた。

眠っている裕さんの寝顔を見る。まだ目じりに涙を溜めているが安らかな顔だ。最近、嫌な夢ばかり見る、と言っていたけれど今は悪夢を見ていない様子だ。

違う病院を探そう。裕さんが反対しなければ、少し遠くても良いから患者とその家族の話をちゃんと聞いてくれる病院に移ろう。



〈ジャイママ、元気ですか? 久しぶりです、色々あってメールでは説明しにくくって。それにジャイママさんの意見も聞きたいので今度直接会って話を聞いてもらいたいな〉

〈Re:チビママ、大丈夫? 大変だと分かっているから敢えてメールしなかったけど、ずっと心配していたよ。メールもらってホッとした。ダンナ様を置いて家を出られる状態? かなり精神的に追い込まれているみたいだね。私で良かったら幾らでも話聞くよ。日曜は予定入ってしまっているけど土曜日なら大丈夫、午後はどう?〉

〈家族の会を見つけてね、土曜日はその集会に出てみようと思っているの。四時に終わるから五時過ぎでも大丈夫? 夕食の用意があるから一時間くらいしか話せないと思うけど〉

〈Re:私は大丈夫だよ、外じゃ話しにくいだろうから家においでよ、駅に着いたらメールして〉

〈ありがとう、お邪魔させてもらうね。〉


うさぎ友達の千絵さんは、歳が一回り離れていることもあって、お姉さんのように頼れる存在で裕さんの病気のことも当初から相談していた。ジャイアントうさぎのジャイアンを飼っているからハンドネームはジャイママ。ジャイアンに初めて会った時はびっくりした。7kgもあるので小型犬より大きく存在感が半端なかった。しかも雄で暴れん坊。アニメのキャラクターの名前がぴったりだった。千絵さん以外にも何人もオフ会で出会って仲良くなったけれど、家を行き来するほど仲が良くなったのは千絵さんと光さんの二人だけだった。

でも光さんからは、『先祖供養をちゃんとしてる? お墓参りして除霊でもしてもらったら?』と言われ、距離を感じてしまった。本気でそう思っている人は少なくないし、人間、絶望的になると普段は信じていなくても、藁にもすがりたい気持ちで色々為支度なるのは理解ができるけど私はどうしても苦手だ。私だって風水をインテリアに取り入れるくらいの遊び心は持っているし、盆には墓参りに行くけれど、『チビママ、もしかして流産か堕胎したことないよね?』と聞かれ相談しなければ良かったと後悔した。以来、光さんは私にとって友達から知り合いになってしまった。

現実社会の友達や知人には言いにくいことが、ネット世界の友達や仲間にはしやすい。抱えている問題や悩みを掲示板やネット友達へメールで小出ししてみる。それで受け入れられたら、もう少し具体的な話をしてみる。

裕さんの病気のことは反応が色々だった。肯定的なものが多かったけど、攻撃的で悪意を感じるものや、必要以上の同情、興味本位な質問・・・・・・。

{投稿者:クミ}やばいでしょ、子供いないんだったら即別れるべき

{投稿者:momoko}実は私は十代の頃から解離性同一性障害です、家族とモモがいるから何とか生きています。ダンナ様もチビママさんの支えがないと駄目になってしまうかも、だから頑張ってください

{投稿者:ハヤト}そういう時って、やっぱり夫婦関係なくなるわけ?

{投稿者:ai}こういう質問には答える必要ナシ

{投稿者:ミッキー}家族っつうか奥さんの対応にも問題あると俺は思うけどな。なんとなく様子がおかしいとか兆候が分かんないのって、どうなんだろ?

{投稿者:黄色いハンカチ}私もそうだったから判るんだけど、恥ずかしいって気持ちが強いし、自分の病気を認めたくないし、大切な家族に心配かけたくないって思うから、隠そう、隠そう、ってなる。気付かない家族責めるのは違うと思う

{投稿者:ai}家族責める前に会社責めるべきだよ

{投稿者:竜之介}休職すると元に戻るのは難しいと思うよ、以前、俺の上司が鬱で休職したけど、結局辞めた。居づらいんじゃないかな

{投稿者:ココア}私の会社にも別の部署に復職した人がいるけど、気を遣って大変だ、って同期社員が愚痴ってた

{投稿者:♡@♡}休職中は給料でないでしょ? だいたい1年休職すると退職させられる、って聞くし。ご主人の病気も心配だろうけど、主婦としては将来どうなるかが不安だよね

{投稿者:ハヤト}っていうか、子供もいなくて、仕事で評価されることもない主婦としては、こういうことでしか興味を持ってもらえないから、同情してもらうのが嬉しいんじゃないの?

{投稿者:萌}チビママさん可哀想~~~って思って萌泣いちゃいました。萌だったら絶対無理、耐えられない、うつになっちゃう。

{投稿者:coco}萌さんの“うつになっちゃう”じゃないけど夫婦で病気になって年金もらって生活するのも有りかも。知り合いの知り合いが年金もらって生活している、って聞いた。

{投稿者:ハヤト}働く努力や苦労もしないで税金で生活している奴らってムカつかない?

{投稿者:昭和の母}大変でしょう。自分の娘がそうなったら、と考えてしまいました。頑張って下さい。

{投稿者:地方公務員}自分は公務員なので半年の休職後に何とか復帰できました。でも、夫婦間で溝が出来、妻の両親が離婚を強く希望したこともあり、結局離婚に至りました。自分の病気のせいなので仕方ないのですが妻には理解してもらいたかったです。

{投稿者:chai}私の姉が離婚しました。家系に病気の人が多くて遺伝の要因も大きかったみたいです。結婚前に知らされていなかった姉は、ずっと騙されていた、嘘をつかれていたことが悲しいと泣いていました。

ネットだから何でも書けるのだ、と思おうとしたけど、ネットでも無いものは書かない。想像にせよ、本音にせよ存在しているから書けるに違いない。現実の友達は聞けない、から聞かないだけ。心の中ではこういう風に色々と思っているに違いない。好奇心でいっぱいに違いない。

それに、私が自分の悩みで一杯いっぱいなように、他人もそうに違いないのだ。私の悩みなんて他人には基本的にどうでもよいことで、多少の興味をそそる可能性はあっても、真剣に相談に乗るほどのものではない。例えば私が眠れない、と相談したとして、眠れない私に付き合って起きていてくれる人なんていない。死にたい、と相談したとして心中してくれるわけがない。だって、私がそうだもの。裕さんが何日も不眠に苦しんでも、私は翌日も働かなければならないから眠る。裕さんに死にたい、と言われても私は明日以降も生きていかなければならない。死とか生とか、将来の不安を本気で突き詰めたら病んでしまうことが解っているから、冷たいけれど何処かで切り捨てている。

そう思った瞬間、私には相談できる人がいないことに気付く。そして、言いようのない孤独を感じる。

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