第1章 8話:陽だまりの匂い
「失礼しました」
先輩にぶつかった私は、つぶやくように言って一歩下がった。そのまま黙り込んだ2人の間を静寂が満たす。いたたまれなくなった私が先に口を開いた。
「なんでこんなところにいるんですか?」
「言ったらお前怒るだろ」
「怒られるようなことしないでください」
うつむいて言う私の憎まれ口に、先輩は何も応えなかった。
さすがに怒ったかもしれない。この人は嫌いだけど、私のために今ここに来て貴重な時間を割いてくれているのは間違いない。勝手に来たんだから感謝する気はないけど、わざわざ悪態をつくことはなかったかもしれない。
「――ぷっ、ふふふふ」
まったく想像していなかったものが耳に届いて、私は弾かれたように顔を上げた。
先輩が吹き出していた。せっかく私が少しだけ、すこーしだけ反省の色を見せ始めたのにもかかわらず、あろうことか先輩は口元を押さえて大笑いしていた。
「はは、あはははは」
「なっ、何がおかしいんですか! 校庭を這いずり回る私がそんなに無様ですか!?」
私は思わず勢い込んで叫んだ。最低な人だとは思っていたけど、まさかここまでとは思わなかった。私もまだちょっと甘かったかもしれない。
「違う。逆だよ、逆」
「……どういうことですか?」
笑いの余韻を残しながら手を振る先輩に、私は眉根を寄せた。
「君は本当に強いな、ってことだよ」
またしてもまったく予想の範囲外の言葉をぶつけられ、私は困惑に表情を険しくする。
「私をからかうの……そんなに楽しいですか?」
「いや、からかってるわけじゃない。他意のない本音だ」
言いながら先輩は、さっきまでの笑みをしまって真剣な顔つきになっていた。
「俺はさ、君の強さが羨ましいんだ」
「はあ?」
思わず、裏返り気味の声と過去最高にガラの悪い顔で聞き返していた。その辺のヤンキーでももう少しまともな顔をしている。しかし先輩はそれに構わず続けた。
「結局、俺は人とぶつかるのが怖いんだ。だから孤高を気取ってやり過ごしてる。本当はただの弱虫なんだよ」
自嘲するように笑って言う先輩の様子に、ふざけたようなところはなかった。それを察した私は、真顔になって静かに耳を傾けることにした。
「だけどお前は違う。誰にもひるまずぶつかっていける。昨日の昼休み、初めて会ったときもそうだ。今の俺にあんな風に食ってかかってくるやつは1人もいなかった。今日だってそう。陰湿ないじ……嫌がらせにも屈さず、1人でぶつかっていった」
今日のは怒りで少し理性を失っていたところがあるからちょっと違うけど。でも冷静だったとしても泣き寝入りはしていないか。
「今だって、あんなに怒るほど大切なものを一緒に探してる俺にその態度だもんな」
そう言って先輩はくしゃっと笑った。
……ほんのちょっとドキッとした。
それから今度はまた真剣な、だけどどこか優しげな眼差しで私をじっと見据えた。
「強いよ、お前は。本当に強い。この前はかわいそうなやつとか言って悪かったな」
そして先輩は、静かに頭を下げた。
「この通りだ。許してくれ」
私はただ、戸惑いながらその場に立ち尽くしていた。
……何が、何がこの人の目的なんだろう。
これは本当に先輩の本音なの? そうじゃないならこんな迫真の演技をしてまで私を騙したい理由は? 私をおだててどうしようっていうの? 先輩になんの得があるの?
わからない。まったくわからない。
――いや、本当はわかっている。
これはきっと先輩の本音だ。先輩はただ、馬鹿みたいに誠実なだけなんだ。先輩は私を怒らせたと思った。その理由をちゃんと考えて、私なんかと真面目に向き合って、とことんまで真摯に謝罪の言葉を紡いで頭を下げた。
それが私を傷つけたことの代償だとてもいうように、決して口先だけでないという誠意を証明するために、わざわざ自分の弱みまで晒して先輩は私に謝っている。
「そんな――」
そんな、そんなの、どうしたらいいの? 許せばいいの? どんな顔で?
それともいつもみたいに怒ればいいの? あなたが頭を下げるほどの価値は私にはないって、あなたは私に関わるべきじゃないって、私がみじめになるから関わらないでほしいって、無様にわめき散らして逃げ出せばいいの?
どうすればいいんだろう。なんでこんなに胸が苦しいんだろう。
こんな気持ちは知らない。だって、こんな風に私を見てくれる人なんて今までに1人だっていなかったんだから。世界はみんな敵で、ただの障害物で、利用すべき道具で、私は私の心と体が平穏ならそれでよかった。
なのに目の前のこの人は私なんかを嫌な気持ちにさせたことを悔やんでいて、先輩がそうやって心を痛めていることに、なぜか私まで胸が苦しくなっている。
どうすれば、どうすれば私は、先輩に顔を上げてもらえるんだろう――。
「――あっ」
私が再び口を開く前に、先輩が突然声を上げた。
先輩は頭を下げた状態からさらに腰を折って、地面から何かを拾い上げた。持ち上げられた先輩のきれいな指先から、砂埃にまみれた銀色のネックレスが垂れていた。
その端には、猫のチャームがぶら下がっていた。
「あ……」
私の口から、驚きと安堵の入り混じった情けない声が漏れた。
そしてその瞬間、私の中で私をがんじがらめにしている鎖が、ほんの少しだけ緩んだ。
……あーあ、先に見つけられちゃった。
しょうがない。それじゃあしょうがないよね。
「おい、これか!?」
自分のことのように嬉しそうに、興奮気味に問い詰めてくる先輩。それを見ただけでさっきまでの胸の圧迫感が嘘みたいに消えて、代わりに温かい笑いが込み上がってくる。
私はその弱さの衝動に逆らわなかった。
「はいっ!」
私は大きくうなずいて、先輩の手からネックレスを受け取った。
おかしいな。こみ上げてきたのは笑いだったはずなのに、なんで目が熱いんだろう。なんで頬が熱いんだろう。なんで唇が震えるんだろう。
「あ、その……ありがとう、ございます……」
霞んだ視界で先輩が困惑していた。
嫌だな、こんなところまで見せるつもりじゃなかったのに。ただ「ありがとう」と、今回はあなたに助けられたと、自分の弱さをほんの少し認めるだけだったはずなのに。
なんでこんなに涙がこみ上げてくるのかわからない。
大切なものが見つかったから?
先輩が見つけてくれたから?
先輩が笑ってくれたから?
どれも違うのかもしれないし、その全部なのかもしれない。
それを私が理解できるようになるには、もっともっと長い時間が必要なんだと思う。もしかしたらこんな生き方をしてきてしまった私には、一生かかってもわからないのかもしれないけど。
内心でそう自嘲した瞬間、小さな衝撃が私の体を襲った。
最初は何が起きているのかわからなかった。
真っ暗になった視界、体を包む温かさ、そしていつか嗅いだブレザーの匂い。
そこまで認識して初めて、私は先輩に抱きしめられているんだと理解できた。
驚きのあまり、そのまま十秒くらい声が出せなかった。
「え、あ……先輩?」
ようやく私が我に返って声を上げると、先輩は慌てて私を引き離した。先輩は目を丸くして、自分で自分の行動が信じられないとでも言いたげな顔をしていた。
「す、すまん、俺……」
「い、いえ……」
真っ白になった頭では、それだけ言うのがやっとだった。
2人の間に気まずい沈黙が横たわる。先輩は自分の腕と手を不思議そうにながめてから、その手を頭に持っていってボリボリと後頭をかいた。先輩の頬は少しだけ赤かった。
「え、えっと! 見つかってよかったな!」
妙な雰囲気を吹き飛ばすように、先輩が裏返る寸前の声で言った。
「そ、そうですね。でもすっかり暗くなっちゃいました……」
「あ、そうだな。その……送っていくよ」
しまった。「いい天気ですね」みたいな無難な世間話のつもりで考えなしに口にした一言だったけど、これはどっちかというと「終電なくなっちゃったね」的な誘い文句に近いやつだった。
「い、いえ、そんなの悪いですよ。うち近いので大丈夫です」
「いや……」
「本当、気にしないでください」
「それはさすがに無理だ。そんな、泣いてたのバレバレの顔した女子が独りで夜道を歩くなんて絶対に許さん」
少し強い口調で言われてしまう。
うぅ……そんなにひどい顔してるかな、私。
私が強くありたいと思っていることを理解している先輩にそこまで言われてしまうということは、今の私はそれほどまでに弱く見えてしまっているということなんだろうか。
それなら、もう見られてしまった先輩の影に隠れて帰った方が、他の人に見られないだけましかもしれない。
「……わかりました」
お願いします、と言わなかったのは私に残った最後の意地だった。
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