第1章 5話:大きな背中
事件は先輩にパンツを見られた翌日に起こった。
4時間目の体育から戻ってきた私は、着替えるときに外したネックレスが鞄の中からなくなっていることに気がついた。
祖母にもらった、猫のチャームがついたネックレスだ。昼休みになってからもしばらく探してみたけど、更衣室のどこにもなかった。
正直に言って、大切にしているという自覚はなかった。だから運動するときは邪魔になるし外していた。
当時の祖母はもうほとんどまともな思考能力を失っていた。あれだって深い意味はなかったんだと思う。形見だということなら多少は違ったかもしれない。でもあれはどう見ても新品だった。
別に誕生日でもなんでもない日に贈られた、特別好きでもない猫をかたどったアクセサリー。そこに何か思い入れを持てという方が難しい。
だから私は、自分がこんなにも力強く廊下を踏み鳴らしながら教室に向かっていることに心の底から驚いていた。
勢いよくドアを開け、自分の席の横に立って後ろの席の女子生徒に詰め寄る。
「里崎さん、私のネックレス知らない?」
のんきに弁当を食べていた里崎さんは面食らったように私を見上げた。
「は、は? 知らないし」
「でも今日川野さんと体育サボってたよね? 川野さんの方?」
教室の真ん中に座る女子に鋭い視線を送る。川野さんは少しひるんだ。
「どっちでもいいから知ってるなら答えて。別にさっさと返してくれたらことを荒立てたりしないから」
私が冷たく言い放つと、里崎さんは盛大に舌打ちした。
「何、私らのこと疑ってんの?」
「当たり前でしょ。いつもいつも飽きもせず。それとも日ごろの行いも振り返れない鶏レベルの頭なの?」
本当に自分でも驚いている。こんなに攻撃的な言葉を発するのは初めてのことだ。
それは里崎さんの方も同じなようで、少し引きつった顔で私をにらんでいる。
「……お前さ、何調子乗ってんの」
「あ、もういいです。日本語通じないみたいなので」
踵を返して川野さんの方に向かおうとしたそのとき、私の顔に何かが飛んできた。
びしゃっと音を立てたのは、里崎さんがペットボトルから撒いたカフェオレだった。
私は茶色の液体を髪とあごから滴らせながら、カフェオレまみれになった制服を見下ろしてから里崎さんをにらみつけた。
どうして食べ物を粗末にできるんだろう。この人もに、気を失うくらい思い切り蹴り飛ばされてみれば、少しは不自由ない生活のありがたみというものがわかるだろうか。
まあ、こんな人のためにそんな手間かけたくないけど。いくら鶏以下の頭が相手でも真摯に接しなくちゃいけない先生には、つくづく頭が下がる。
「何そんなにキレてんの? キモ」
私は黙ってゴミを見るように里崎さんを見下ろす。里崎さんはますます嫌悪感を強めて言う。
「そんな大切なものなら肌身離さず持っとけばいいじゃん。それで失くしていきなり私たち疑うとか頭おかしいんじゃないの」
――ああ、まったくその通りだ。
私は思わず、自嘲するように笑っていた。
私はおかしい。まともに生まれてこなかったし、まともに育てられてこなかったし、まともに生きてこなかった。
だから自分の大切なものに、自分の中にある大切な気持ちにすら気づけなかった。こんなことになるまで、自分が祖母にどんな気持ちを向けていたのかにすら、気づくことができなかった。
きっと祖母は私を愛してなんていなかった。昨日私がきまぐれに猫を助けたように、祖母もまた私という捨て猫を拾った。
祖母にとって私はどうでもいい存在だったかもしれない。でも私にとって祖母は、何より欲しくて何より遠くにあった平穏を与えてくれた、神様のような人だった。
そして私のあこがれの人でもあった。誰に何を言われようと、後ろ指をさされようと、どんな嫌がらせを受けようと、まるで動じずに自分の道を行く強さ。私はそれにあこがれていた。
だから私はそんな、神様とか、誰かに縋るような弱い気持ちは押し込めて生きてきたんだ。そうしないと祖母のようになれない。強くなれない。独りで生きていけない。
誰かに感謝するということは、弱みの存在を認めるということだ。誰かを好きになることは、弱みを作ることだ。
でも今ならはっきりとわかる。私は祖母に感謝していた。祖母のことが好きだった。
だから深い意味なんてなくても、そのときもう祖母が壊れてしまっていたんだとしても、それは唯一祖母が私にくれた物。祖母が私を救ってくれたのだということを象徴し、祖母の存在を証明する唯一の物だった。
そんなことにすら気づくことができなかった。
大切な、本当に大切な、たった一つの宝物だったのに――。
ああ、最悪だ。目の奥が熱い。涙がこみ上げてくる。泣くなんて絶対駄目なのに。
おばあちゃんは絶対に泣いたりなんてしなかったのに。
涙なんて、私は弱者ですと世界中に喧伝するような、この世で一番憎むべきものなのに。
下を向き、必死で歯を食いしばる私の涙腺が決壊しそうになったその瞬間、私の前にその人が現れた。
「何してくれてんの、お前」
顔を上げると、そこには昨日猫と戯れていた背中とはまるで違う、大きな大きな背中があった。
「――甲斐先輩……?」
つぶやいた私の声には応えず、甲斐先輩は里崎さんの方を向いたまま舌打ちした。
「言ってなかったかもしれないけど――」
先輩が言葉を放った瞬間から、騒然としていた室内から音が消えていた。一瞬で場を支配してしまう存在感。王子というより、もはや王様と言っていいくらいの風格だった。
「あのさ、こいつ俺のしもべなんだよね。だから俺以外のやつにいじめられると困るんだけど」
私は耳を疑ったけど、「しもべ」なんていう浮世離れした単語すら、現実離れしたこの王子の口から出る分にはそれほどおかしくもなかった。
ああ、でも本当にこの人は何を言ってるんだろう。しもべなんていう立場、どちらかといえば動画の件で脅されていうこと聞かなくちゃいけない先輩の方が近いはずなのに。
いきなりこんなところに現れて何をしてるのか。何がしたいのか。さっぱりわからないし、人をしもべ呼ばわりしたこの人のことは大嫌いだ。でも――。
でも、私以上に混乱しているクラスの人たちを見るのは最高に楽しかった。
「鈴井、ちょっとジュース買ってきてよ」
言って私に千円札を差し出す。
本当にわけがわからない。わけがわからないけど、おかげで私は普段の自分を取り戻せた。それなら私が口にするべき答えは1つだ。
私は誰にも弱みを見せない。私は誰にもかしずかない。特に、こんな腹立たしいほどに恵まれた人なんかには絶対に媚びない。
だから私は笑って言った。
「え、嫌ですけど」
先輩はフッと薄く笑って千円札を引っ込めた。
「お仕置きが必要だな。ついて来い」
そして私の手首をつかむと無理やり引っ張って、凍りついた教室から私を連れ出した。
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