第1章 4話:ありがとうと弱さと

 手にしていたズボンをすばやく履き、きれいとは言い難い川の水を吸ったブラウスを脱いで体操着に袖を通す。

 もちろん体操着は使用済みだけど、今日は寒かったからほとんど汗をかいていない。それだけは不幸中の幸いだった。

「お、終わりまし……へっくち」

 私の報告はくしゃみに遮られた。

 先輩は少しだけ赤くなった顔を恐る恐るこちらに向けた。

 意外とうぶな反応。もう女体なんて見飽きたから猫に執心っていう説は信憑性がなくなってしまった。

 なんて思っていたら、先輩が自分のブレザーを脱いでこちらに投げてきた。

「羽織っとけよ。風邪引くぞ」

 私はキャッチしたブレザーをまじまじ見てから視線を先輩に戻した。そして甲子園の優勝投手並みに大きく振りかぶると、ブレザーを力いっぱいバックホームした。

「こんなことしたって動画は消しませんよ」

 ブレザーを受け取った先輩は呆れたように頬を引きつらせた。

「お前なぁ……」

「なんですか。スカートも投げて欲しいんですか」

「いらねえよ! 変態か俺は!」

 先輩はツッコミを入れてから段差を飛び降りた。

「そういうのどうでもいいからとりあえず着とけよ」

 言いながら再びブレザーを押し付けてくる。

「嫌です。先輩に施しを受けるくらいなら舌を噛んで入水自殺します」

「オーバーキルだなおい!」

 なんなら川底に沈みながら手首も切る所存。

「先輩なんかに弱みは握らせません」

 私が寒さに微かに唇を震わせながらも毅然として言い張ると、先輩は困ったように頭をかきむしってから大きくため息をついた。

「じゃあこう言えばいいか? 頼むから着てくれ」

「……はい?」

「お前のために着ろと言ってるんじゃない。このまま放っておいて風邪引かれると寝覚めが悪いから俺のために着ろと言ってる」

「先輩のために……」

 私は先輩の言葉を反復しながら少し考え込み、大きなため息をついてから先輩に向けて微笑んだ。

「――もっと嫌です」

「どうしろってんだよ!」

 先輩が叫んだ。なかなか悪くない画だ。完璧超人めいた人が余裕を失い隙だらけになっているところほど見ていて落ち着くものはない。

 これで下着姿を見られた屈辱に関しては少し溜飲が下がった。いやまあ、ただのやつあたりなんだけど。

 私は先輩を真っすぐに見つめながら、握手するように手を差し出した。

「わかりました。私も体調を崩すと厄介なのでここは一時的な互恵関係を認めてその申し出を受け入れましょう」

「なんかもうちょっと素直な言い方できないのか……」

 言いながらも先輩は差し出された私の手にブレザーを渡してくれた。

 羽織ってみると、なんだか少しいい匂いがした。

「で、なんで先輩がここにいるんですか?」

「え? ああ、いや……」

 一瞬唇を歪めて言いよどんだ先輩は、すぐに観念したように息をついた。

「もうお前相手に隠してもしょうがないか。上流の方の橋の上でそこの猫と……その、遊んでたんだよ。そしたら急に野良犬が来て、すっごい勢いで吠えだしたんだ。それでその猫がびっくりして川に飛び込んじゃって……。助けようと思って追いかけてた」

「ふーん」

 どんだけ猫好きなんだろう。猫であれ人であれ、何かにそんなに夢中になる気持ちは私にはわかんないなぁ。

「だからその……なんだ、ありがとうな」

 私が火星人でも見るような目で先輩を見つめていると、先輩は突然ぎこちない調子で私にお礼を言いだしていた。

「は? 今なんて?」

 聞き返すと、先輩は少し恥ずかしそうに舌打ちした。

「だから! 俺の代わりにその猫を助けてくれてありがとうって言ってんだよ!」

 私は思わず口を半開きにして、冥王星人でも見るような目で先輩を見ていた。

 ――え、なんで私が先輩にお礼を言われてるんだろう。

 先輩が突き落としたわけじゃないんだよね? 別に飼い猫ってわけでもないんだよね? それだけ猫が好きってこと? 私なんかに思わずお礼を言っちゃうくらい、猫が助かることが嬉しいと?

 ……っていうか、「ありがとう」なんて言われるの何年ぶり? 15年ぶり初? 

 いやそれただの初だよ。

 そもそも言われたことあった? 

 なんで……なんで? なんか妙に顔が熱いんだけどなんなのこれ。

「……か、川で遊んでたらたまたま流れてきただけなので」

「この寒い中制服で!?」

「先輩だって夏にカレー食べたくなりますよね? ねっ?」

 私は無理やり押し切るように先輩に同意を促す。

「ま、まあそれはあるけど……」

「私のもそういうやつです。反論は認めません。それが真実です」

「お、おう……」

 先輩は私の勢いにたじろぐように一歩下がってうなずいた。私は一歩踏み込んで言う。

「だから感謝とかやめてください」

 精一杯、先輩への敵意を剥き出しにして繰り返す。

「……本当、やめてください」

 駄目だと思う。この気持ちは駄目だと思う。私を弱くする気持ちだ。

 照れるとか、恥ずかしいとか、そういうのはみんな、見せてはいけない部分をみせたときの反応だ。弱みを見せるときに湧き上がる感情だ。

 不意打ちで不覚を取った。顔の火照りは私の弱さの証だ。今すぐ冷まさないといけない。それにはこんなものを着ていちゃいけない。

「これ、お返しします」

「え、なんだ急に」

 脱いだブレザーを差し出すと、戸惑いながらも先輩はそれを受け取った。

「では、失礼します」

 私はそれだけ言うと、先輩の返事も待たずに段差を登ってその場をあとにした。

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