障害物15 体育教師 そら


「北島くん……どうしてこんな所に……?」


 体育教師の園崎そら先生は保健医のセレナ先生に奪われた一升瓶を取り返そうと、助手席からわざわざ運転席を通ってのっそりと車から這い出てきた。

 その様子はさながら冬眠から目覚めたばかりの飢えた熊。

 園崎先生が立ちあがると、張り詰めた黒いタンクトップが ばるんっ と弾んで存在を主張した。

 学校に通っていた頃は常に野暮ったいジャージを着ている人だったから気付かなかったけれど、意外と胸があるんだなぁ、なんて思った。

 一歩一歩こちらへ歩くたびに大きな胸も揺れ、ピチピチの黒いスパッツが太ももにむちむちと食い込んでいくのも見える。

 まだ寝ぼけているのか、それとも酒が残っているのか、とろんとした目でじいっとこちらを見つめてくる。


 その艶めかしい姿態に騙されて状況を見誤ってはいけない。

 相手は俺の元担任なのだ。

 先手必勝!

 俺はその人の足元に勢いよく滑り込んだ。

 行くぞ。俺が編み出した最大の奥義をお見舞いしてやる!



「すみませんでしたァ!」


 初手、土下座。

 未だこの奥義を真に受けて俺を許さなかったものはいない。伝説の技だ。

 だが……。


「あは! そんな所で寝たら風邪引いちゃうよー?」


 頭上から響いたのは無慈悲な言葉。

 やはり酒のせいで判断力が鈍っているのか、眼の前の状況を理解できていないようだ。


「北島くん、ほら起きて」


 ぐいっと、ものすごい力で引きずりあげられ無理やり立たせられた。


「うわっ、酒臭い!」

「北島くぅん、会いたかったんだよぉぉ」


 園崎先生は汗まみれで生乾きのタンクトップのまま抱きしめてきた。

 酒臭さとは違う、何か本能をくすぐるような匂いが園崎先生の胸元から漂ってきた。

 また、押しつけられた胸は非常に柔らかく、布製の水袋の様に柔軟に俺の右腕を挟み込むように包んでしまった。

 ブラジャーのワイヤーなどが感じられない事から、タンクトップ一枚の下にはナチュラルネイキッドな柔肉が存在しているのだと思われる。

 園崎先生は俺の右腕を取り込んだまま密着し、俺の顔を覗きこむ様に大接近してきている。

 近い。非常に近い。ぷるぷるした唇が目の前にあって非常に目のやり場に困る。そして酒臭い。



「北島くぅん。家からも全然出てこないって聞いてたから、せんせぇ心配してたんだよぉ」

「それは…すみません」

「いいんだよぉぉ、元気な姿も見れたしー。けらけらけら」

「え、えぇ。確かに今は非常に元気になり過ぎて一部お見せできないほどになっていますが」

「うんうん、北島くんのペースでちょとずつまた外に出られるようになればいいからね。せんせぇ応援してるね」

「はぁ、ありがとうございます」

「もーっ、北島くんて、やっぱりとっても素直な子なんだねぇ」


 なでなで。いや、ぐしゃぐしゃと頭を撫で…掻き回された。


「先生ねぇ、北島くんの事、すごいなー、あんなふうになりたいなーってずっと思ってたんだよぉ」

「は、はぁ……」

「だってさぁ、自分がいじめられてた時には全然何にも言わなくて一人で頑張ってたのに、楠木さんがいじめられてたのを見た時にはすぐに先生に助けを呼んでくれたでしょう」

「……そう、でしたっけねぇ。あはは」


 楠木さん、というのは俺の後輩のくゆりちゃんの事だ。

 あの日俺は偶然図書館の二階から、3年生の男子たちによって倉庫に連れ込まれるくゆりちゃんを見かけた。

 どうしていいか分からず、学校中を走り回って結局は園崎先生に助けを求めたのだった。

 自分で助けに行けば最高に格好良かったかもしれないけれど、俺はヒーローになりたかったわけじゃないし、そんな勇気も度胸も無かった。

 ただ……、あの時のくゆりちゃんの、人生全てを諦めてしまったような表情がどうしても許せなかったのだ。

 そんな、よく分からない理由からだったので、どうせ痛い思いをする勝ち目の戦いに行くぐらいだったら、誰かにその責任をなすりつけてしまおうという卑怯な考えをしたのだ。たぶん。

 結局俺は先生に頼って、自分では何もせずに、大人に解決してもらったのだ。

 だから、園崎先生が俺の様になりたいだなんて、あるはずがないのだ。



「ごめんね、北島くん。先生、知ってたんだ。北島くんがいじめにあってたこと」

「それは、もういいです……」

「だからね、あの日、北島くんが先生の所に血相を変えて来た時には、あぁ、今までの事を咎められるのかな、これでもう先生としての威厳も失ってしまうんだなって思ったの」

「そんな……俺はただ……」

「そう、北島くんは自分の為に先生の所に来たんじゃなかった。楠木さんを助けたい、その為だけに、あんなに必死になってたんだね」

「……」

「先生はその時思ったの。自分も誰かの為に必死にならなきゃって。体の芯から火が灯ったような気分だったなぁ」

「そうですか…」

「だからね、それでね、先生も……だけどそのあと北島くんは……うぷっ」

「!?」


 そして唐突に、俺は酸っぱい匂いのするファンタジー物質を頭からかぶったのだった。




 あぁ。先生。

 アンタ……一番の障害物だったよ。

 へへっ、完敗だ。

 まさか自宅まで戻ってシャワーを浴びなきゃならない事態になるなんてね。

 ……でも、いいんだ。

 俺の右腕には、アンタがくれた優しさの感触が残ってやがる。


 俺は負けたんじゃない。

 体勢を整える為に、敢えて原点に立ってみたくなっただけだ。


 俺は諦めないぞ。

 絶対にコンビニに行ってやる……!




 俺は酸っぱい匂いがとれるまで自宅の熱いシャワーを浴びまくり、スッキリした気持ちで風呂場を出た。


「ちょっ、お兄が出てきちゃったよ!?」

「かんたッッ!! ナイスファイトだったッッ!! 感動したッッ!!」

「勘太、こっちへおいで。姉さんが体をふいてやろう」

「あらあらあら、勘太っ。モテモテじゃないかい。カーチャンは誇らしいよっ」

「きゃっきゃっ! おにいちゃんぶらぶらしてるー!」


 脱衣所に妹と幼馴染と姉とカーチャンといとこが詰まっていた。


「なに……してるんだよぉ」


 俺はキュッと両手で前を隠してうずくまり5人を見上げた。


「どいてくれ! 今度こそ見せてやる!」


 がばっと立ち上がった。


「俺だって……コンビニぐらい……!」



 

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