障害物3 姉 麗(うらら)

「大丈夫か、勘太」


 俺がコンビニを目指し財布を持って部屋を出ると、廊下で声をかけられた。

 振り返ると、姉の麗(うらら)が自分の部屋から半分だけ身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。


「麗ねえ。ごめん、騒がしかったかな」


 太陽の光が横から差し込むほどの早朝に妹や幼馴染と部屋で騒いでしまった事を俺は姉に詫びた。


「いや、謝る必要はない。勘太にもしもの事があったらと思うと心配していただけだ」


 姉はそう言いながらゆっくりと廊下を歩き近づいてくる。一歩歩くたびにサラサラとした長い黒髪が朝日を反射して美しかった。


 姉は自分では謙遜しているものの、弟である俺の目から見ても美人な顔立ちの方だと思う。

 今年の春から大学生になった姉は年相応にメリハリのある体つきをしていて、ニットのセーターが胸の形に添うようにたわみ膨らんでいた。それがたぷんたぷんと揺れながら近づいてくる。


「何か困ったことがあったらいつでも私を頼ってくれ」


 セーターの袖から半分だけ出した手を俺の頬に添えて姉は心配そうに覗き込んできた。姉が好むサンダルウッドの爽やかな香りにふわっと包まれる。

 姉は何故か俺に対して異常なまでに過保護だった。俺がちょっとした事で学校へ行きたくなくなってしまった時には、無理に学校へ行かせようとした両親に猛反対してくれた。


「ありがとう、麗ねえ。今は大丈夫だよ」

「そうか。なら良い。……ん、どうしたんだ? 財布なんて持って」


 姉は俺が手に持っていた財布に気付いて首をかしげる。


「あぁ。ちょっとコンビニに行ってくるん……」

「ダメだ!」


 言葉を遮られた。


「勘太、考え直してくれ。外は危険でいっぱいだ! 車も走っているし飛行機も飛んでいる。隕石だって降ってくるかもしれない! 勘太にもしもの事があったらと思うと、私は、私は……!」


 ぎゅううっと両手を胸の前で祈るように組み合わせて姉は激しく訴えかけてくる。


「勘太。何か欲しいものがあるんだったら私が買ってくる。直接頼み辛いものだったらメモを渡してくれてもいい。お金の心配もない。勘太は家にいて私に命じてくれるだけでいい!」

「麗ねえ……」


 姉がこんな風になってしまったのはきっと俺のせいなんだろうと思った。

 俺は無力に引き籠ってばかりいて、部屋の中で何をしでかすか分からず目も離せない状態だった事がある。

 ……今でもそうかもしれないけれど。

 その時ずっと付き添って世話をしてくれたのが姉だった。

 きっと姉には俺がとても壊れやすいガラス細工か何かのように見えているのだろう。

 だからこそ、俺は姉の助けが無くても立ち直れる所を見せなくてはならない。

 行かなければ。コンビニに。



「麗ねえ。俺、自分ひとりでコンビニに行きたいんだ。何かが欲しいわけじゃない。そこに行きたいだけなんだ。自分で行かなきゃ意味が無いんだ。だからごめん、出かけてくるよ」


 震える姉の肩を抱き、そう告げた。

 そして、姉をその場に残して1階へ降りる階段へと向かう。


「どうして……分かってくれない……」


 喉の奥から絞り出すような声が聞こえた。


 どんっ!


 振り返る間もなく俺は姉に手を取られ、廊下の壁に体全体で向い合せになるように押し付けられていた。

 その柔らかい感触を押し戻す事はできそうになかった。今となっては姉の方が脆く壊れてしまいそうで。


「う、麗ねえ!」

「勘太。私は、言っただろう。私は君の味方だと。思い出してくれ、君には私が必要なんだ。私がいれば君は何だってできる。何も怖い事は無い。悪いようにはしないから、頼むから私の言う事を聞いてくれ……」

「麗ねえ、俺は……!」

「勘太。あぁ、勘太、勘太、勘太。君が分かってくれないなら、もう、こうするしかない……」


 姉はどこから取り出したのか手錠を掲げ、ゆっくりと甘い溜息をつきながら俺の右手に嵌めた。片方の輪は姉の左手につけられていた。


「はあぁ……。ほら、勘太。私と君が繋がってしまったよ。こうすればもう、私の目の届かない所には行けないね……これからは私も家に残ろう。ずっと一緒だよ」


 姉は焦点が合っていない。もしくは、彼女が夢想する姉弟像をしっかりと見据えている様だった。

 正直に言って、歳の差や日頃の不摂生はあっても筋力で姉に負けるとは思っていない。突き飛ばし、手錠を外させることはできたはずだ。

 でも、俺はそれをしない。

 否、できない。

 姉は姉で俺を思い遣ってこんなことをしているのだと俺は分かっているのだから。



「麗ねえ。俺には麗ねえが必要だよ」


 俺は姉を突き飛ばしたりせず、自由になる左手を姉の背中にまわし抱き寄せた。


「か、勘太!」


 姉は頬を真っ赤にして焦るが、俺は力を緩めずに弾力のあるしなやかな体を自分に押しつけながら言う。


「麗ねえにお願いがあるんだ。聞いてくれるかい」

「あ、あぁ! 聞くとも!」

「麗ねえには、家で待っていて欲しいんだ。俺がコンビニに行って、帰ってくるのを」

「でも……それじゃ」

「麗ねえは、俺が帰るべき場所なんだ。帰るべき場所であって欲しいんだ」

「ダメだ。外は危険すぎる! やはり私が代りに!」

「俺は麗ねえに『おかえり』って言って欲しいんだ。その為には、ね。俺が行かないと」

「……勘太」


 姉はほろほろと涙を流し、やがて力無く座り込み、手錠を外してくれた。


「勘太の頼みなら、聞かないわけには行かないな!」


 姉は顔を伏せながらも気丈に告げ、セーターの袖で涙を拭いながらやがて顔を上げた。


「麗ねえ。行ってくるよ、コンビニに」

「あぁ、いってらっしゃい。勘太」


 だいぶ攻略パターンが読めてきたと俺は思った。

 まさか姉がセーターの萌え袖の中に手錠を仕込んでいるとは思わなかった。

 次からは手元に注意して拘束されないようにしなければ。

 ……あのやり取り、もう5回目である。俺が何かひきこもり以外の事をしようとすると、ああして過保護に引き留めようとしてくる。

 姉の気持ちも分かるから、無碍には出来ないけどね。


 俺はコンビニに向かうべく、まずは自宅の1階への階段を一歩一歩確かめるように踏みしめた。


 

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