第93話 土の違い。水の違い。


 昼過ぎの二時頃に家に着いてお互いにシャワーを浴び終えると、二時半を少し回った時間に、途端、やることがなくなりダイニングの椅子に腰掛け、棚に収まっていた缶に入ったクッキーを当てにして、ずずとお茶をすする音だけが部屋を満たしていた。


 由利亜先輩あたりなら、開け放たれた俺の部屋にあるテレビの電源でもつけてながめ始める頃だろうか。


 別に緊張しているというわけではないのだが、これといって話すことがない。かといって、いつも通りに読書を始めるのもなんとなく不作法な気がして、鞄に手を突っ込むことにも躊躇した。


 あの先輩達になら、こんな気は絶対に回さないのだが……。


 三好さんの湯飲みが置かれる。空になっているのをみて注ぎ足してしまう。いつもの癖だ。


 「あっ」と、口を開ける三好さんに、俺は少し不安になった。


「ごめん、いらなかった?」


「え? ううん、違うよ。これ、ほら」


 俺の疑問に否定を返し、見せてきたのは湯飲みの中だった。


「茶柱って、これのことかな?」


 初めて見るんだけど。と続けた。


「本当だ、すご、俺も初めてかも」


 本で見たことくらいはあるけど、こうして間近で見るのは初めてかもしれない。


「へぇ~、なにかいいことあるのかなぁ~」


 ずずっとすすってはふ~と息を漏らしていた。


 だいぶ、和んでいる。


 この部屋には部屋の主以外の人間を和ませる呪いでもかかっているのだろうか。これ以上住人は増やせないのだが、三好さんまで住むとか言い出さないだろうな?


 そんな俺の不安は杞憂に終わり、三好さんはなんの気なしのお茶請け話として、自分のことを話し始めた。


「良いことと言えばさ、うちの親の給料が上がるらしい」


「お~、良かった、ね?」


「当然良いことよぉ。でも、それで別にお小遣いが増えたりはせんのよ」


「そういえば、バイトしてるよねファミレス」


 うんうんと首肯し。


「あそこともう一軒。家の近くの所でもやってるんだ」


「何か欲しいものでも?」


 何気ない質問。だが、三好さんには結構重大な物だったらしく、考え込むような仕草を見せる。


「言いたくなかったら、別に無理に言うことないよ。雑談だしさ」


 ふるふると首を横に振り、「あのね……」と、顔を上げた。


「私、獣医になりたいの」


「獣医って、あの、動物の医者の?」


「そう」


 一つ頷いて答えると、お茶をすすった。


 獣医というと、かなり学力重視の大学に行かなきゃならないよな。獣医の学部のある大学なんて国立しか知らないし。


 ……そういや、三好さんて結構残念な子だったよな?


 俺も一口お茶をすする。


 確かに、うちの高校の大学進学率は高いって聞くけど、でも、


「だとすると、前に見せて貰ったテスト結果的に、もうちょっと勉強した方が良いんじゃない?」


「うっ……。わ、分かってるんだけど、勉強しても結果が付いてこないの」


 ぎくりと目をそらす三好さんの額にはうっすら汗が滲んでいる。


 まあ、学力の方は今は良いか。


「何か、切っ掛けがあったの?」


「へ?」


「獣医になりたいと思った切っ掛けが、あったのかなって」


「あ、ああ、切っ掛けね、うん。あるよ。ていっても大した物じゃないんだけどね?」


 何かおかしなことでも聞いたかのようなその反応に少し以上に不信感を感じたが、きっと三好さんが待っていた言葉と違ったのだろう。


 俺は改めて三好さんの言葉を聞く姿勢に入った。


「小学校の低学年くらいの時に、捨てられてる猫をね拾ったの。でも家に連れて帰ったときにはもうかなり衰弱してて、一週間もしないうちに死んじゃった。それで動物の病気を治せるようになりたいなって、思うようになったの」


 淡々と、台本を読むかのように三好さんはそう言った。


 親にも、教師にも、同じような説明をしてきたのだろう。


 素直なことを言えば、三好さんに獣医は無理だ。圧倒的に学力が足りない。そのために獣医になるための大学に入ることが出来ないのだ。


 勉強しても付いてこない。そんなことを言ってる時点で不可能。


 きっと、中学の担任にも親にも、言われてきたことだろう。


 だけれど、反骨精神の塊、反抗期の権化である俺はあえて反対のことを言った。


「良いじゃん。なりなよ、獣医」


 ただ、そんな反発意識をなしにしても、俺は想像して、思ったのだ。


 誰にでも優しい彼女に、似合った職業だな。と。


 そんな俺の言葉には、返事がなかった。あったのは、口元を抑えた少女の、微かな嗚咽。


 一つ二つと涙は彼女の頬に道を作り、俺は確かに聞いたのだ。「うん」と、そういう彼女の声を。








「でもさ、バイトして学力足りてないなんて、本末転倒じゃね?」


「私の涙を返してよぉぉ………」


 三好さんが泣き止むのを待って、お茶を注ぎ直すと俺は現実を突きつけた。そればっかりはどうしようもないから。


「大学行けたらにしても、うちお金無いから自分で稼がなきゃいけないんだよぉ……」


「そんなの奨学金でまかなえば良いじゃん。獣医になるならボロ儲け間違いなしだし、奨学金で破産することは無いと思うよ?」


「私たち一般人は、山野君みたいにテストで狙った点数がとれるようには出来ていないので、予防線を張っておかなければいけない生き物なの!」


 何故か、俺が一般から隔離された存在になっている。


「人聞きの悪いことを言わないでもらおう。俺は人一倍一般的だ」


 ので、しっかりと訂正しておいた。


 のだが、「あーはいはい」と流されてしまった。最近の女の子はよく分からん。


「価値観は人それぞれだよね」


「なんで今それを言う?」


 何かを誤魔化すようにズズっと音を立ててお茶をすする三好さん。わざとらしさを隠すつもりは一ミリもないらしい。


「俺のことは良いんだよ。バイトはじゃあ学費のために稼いでるってこと?」


「うん。あとお小遣い稼ぎ。お母さんからもらうお小遣いだけだと全然足りなくて」


「ちなみに、いくらもらってるの?」


「一月五千円」


 俺は親から自由に使える金を一円たりとももらっていない。食費は月一万五千円。服は中学までのものを多く流用している。それを思うと、五千円も、と思わなくもない。


 兄からのバイトは、そういう意味ではありがたい。あの男はやたら俺を過大評価しているので、何かというと確定申告が必要なくらいの金額を俺の口座に振り込んでくる。


 だがまあ、その金がないと服も買えないと思うと、確かにおしゃれを頑張る女子高生としては五千では足りないのだろう。


「山野君はお小遣い貰ってる?」


「貰ってない。兄さんからバイト斡旋されて、それで生活してる感じ」


「おにいさんて、確か”山野一樹”だっけ」


「そうそう。高校卒業まで活動が派手だった山野一樹だよ」


 大学入学とともにメディアに露出しなくなり、学会で暴れるようになったから、今の小中学生には認知もされていないあの山野一樹。


 心の中で小馬鹿にして、お茶を飲む。


「私、調べたよ。凄い人だよね」


「まあ、凄い人、だね」


 それ以外に偉業に対しては言い表しようもない。


「教育医学考古学、いろんなことで成果を出してて、獣医の世界でも名が知れてるって書いてあったよ」


「そっか、考古学にも名前があったのか……」


 不意にもたらされた情報に頭が思考を開始して、三好さんとの会話が止んでしまう。が、掴みかけている何かが、何なのかが分からないもどかしさが思考を止めさせない。


 ローマのバチカン、確かキリスト教の聖地だ。そこの司祭。加えて呪術師のなんとかって友人。


 そこに考古学が加われば、はっきり言って友人関係に亀裂が入るどころか、嫌われない理由がみつからない。神を信じる者達に、神の存在を考え直させるような学問を突きつけているのだ。


 そもそも、ローマに伝わっている神話と言えば、古代ギリシャのギリシャ神話と酷似したローマ神話だ。一神教とあがめるには、この神話は登場する神が多すぎる。


 信じる物をすり替えられていると言っても過言ではない。


 まあ、そんなことを考え出せば、スパルタスやトルコにまで思考を及ぼさなくてはならないし、そもそもエルサレムはユダヤ教の聖地だった物をキリスト教とイスラム教が後追いで設定している。同じ経典を元に信仰が別れることは少なくないが、一神教はいつの時代も過激すぎる。


 神に仕える人間と、神に祈る人間。


 そして、「神を堕ろす人間」か。


 十月一日。


 今日から日本では、神様は出雲に出張だ。そう考えれば、あの男も、先輩も、なにもかもが結びつく。


 だが、今俺の考えている通りなのだとすれば、今月中に十個のお葬式を上げることになりそうだと、俺は一つ息を吐いた。




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