第65話 ここから先は、神隠し。


 弓削綾音というらしい。この学校の女子生徒には珍しく、運動部、と言っていいのかは微妙だが、その名に恥じぬ弓道部所属の見た目も感じも淑やかな女の子だった。


 きっと二度と話すこともないだろうが、今日一日くらいは感謝しよう。そう、挨拶と同じくらいに感謝も大事なのだ。


 よく考えるまでもなく、あんなにも近くに人がいる状況では封筒の中身を確認することも、いったいこれからどうすればいいのか考えてうんうん唸ることもできないということに気づいて、まあもう今日は仕方ないから部室でやろうと諦めたことが、今日の運の尽きだったのかもしれない。 …いや、違うな、世界史の教科書忘れた俺が悪いな、うん。


 やさしさにあふれた隣人のお陰で、世界史の授業を何とか乗り切った俺は、直後の昼休みに飲み物をおごることで感謝を示し、その他の授業では邪魔をしないようにうんうん唸り、放課後を迎えた。


「今日の世界史、教科書忘れて危なかったんですよ」


 なんていうなんとなくの話から、「いやあクラスメイトなんかにも、いい人っているんですね」なんていう締めくくり。


「そりゃ、教科書くらい見せてくれるでしょ」


 先輩は大変に呆れてらっしゃるが、俺の通っていた学校では、そんなことしてくれる同級生はいなかったなあ…


 ふと、そういえば先輩の身の上話ってあんまり聞いたことないなと思う。


「先輩は、中学の時もこういう感じだったんですか?」


 いつも通りに教科書を開いて問題を解いている先輩に聞いてみた。こういう、というのは、美しさのせいで授業には参加できず隔離されていたのかという意味で。


「中学の時もこんなだったよ、二年の途中からだけど」


「一年生の時は普通に授業に出ていたと?」


 なんとなく、その部分が引っかかった。


「うん。私も周りも普通だったよ。お父さんたちもあんなになる前だったし…」


 ペンを持つ手がゆるみ、持っていたシャープペンが机に転がる。


 表情の硬くなった先輩に構う余裕はなかった。


 今更ながらに知ったのだ、自分がこの病気のこと依然に、先輩たちのことを知らないということを。なぜ病気が未知なのか、直し方がわからないのかに捉われすぎて、なぜ病気になったのか、その単純なことにすら目が回らなくなっていた。


 なぜ病気に? いつ発症した? どこで病気をもらった? 中学二年の途中で何があった? いったいどうして、こんな簡単なことを知らないで病気のことを理解しようと出来た……? 天才天才と囃し立てられて、調子に乗ったのか? 自分が何もできない無能だということを忘れていたのか? 




 愚か者は、過ちを繰り返し続けるのだろうか…?




 いや…


「先輩、教えてください。中学二年の途中、なにか大きな出来事はありませんでしたか? その病気になる前は、どこでどんな風に過ごしていたんですか?」


 犯した過ちは、取り消せない。


 だからまあ、ここはいつも通りに諦めて、心のリセットだ。


 仕方ない。俺は愚か者なのだ、だから繰り返すことは仕方ない。次からは気を付けよう。だから今は、やるべきことを、為すべきことを為そう。








「小学校は普通の公立に通ってたよ。みんなと一緒に授業受けて、放課後は遊んだりして、友達も居たんだよ? 多分普通の小学生で、何も変なところはなかったと思う。中学に上がっても別に変なことはなくて、でもあんまり友達は多くなかったかな。なんかね、『お友達』って感じが、なんて言うのかな、肌に合わなかったって感じ」


 不覚にも同士を見つけ体が少し前のめりになるのを、意識して抑える。


 先輩の昔話、聞いたことがあるようなないような。


 持ち直したシャーペンを口元に当てて、先輩は思い出し思い出し話していく。


「一年生の時は本当に何もなくて、多分太一君より順風満帆な生活を送ってたと思うんだけど」


 なんでそこで俺を引き合いに出すのか。突っ込みたかったが話の腰を折るわけにもいかず自重せざるを得ない。


「中学二年の夏休みに、家族で旅行に行ったの。海外だったんだけど、変な名前の国で、もう覚えてないんだけど、そこから帰ってきて一月後ぐらいからかな、お父さんとお母さんがああなって、私がこうなったの」


 言葉を切ると、湯飲みに口を付け、一つ息をつく。


 あまり、話しやすい思い出ではないだろうから、ゆっくり、ゆっくりで良い。


 それにしても、海外旅行か。そこに行ったのかは知って置きたかった。あとで兄さんに確認しよう。多分、その辺も抜かりはないはずだ。


 コトリと湯飲みが置かれ、先輩は再び口を開く。


「いきなり倒れたとかじゃなくて、なんとなく元気がないなって、それから段々と朝起きれなくなって、立ち上がることも出来なくなって、最後は、起きなくなった。お父さん達が入院し始めた頃から、私も学校にいられなくなった。私を見た人が倒れるようになったの。私は何もしてないし、もちろんその子が病気だったわけでもなくて。


 でも、最初の頃はまだ良かったの。倒れる子も倒れた後にすぐに目を覚ましてたし、保健室に運ぶくらいだった。でも、三年生の夏になったくらいから、次の日まで起きない人が現れ始めて、今はもう、一週間とか、起きないって、ほんと、なんなんだろ、これ…」


 解らない。


 多分、それは本当の恐怖だ。


 先輩はその恐怖と、もう四年近く向き合っている。


「その海外旅行で、なにがあったか教えて貰っても良いですか?」


 俺は聞く。


 これが、一番重要なことだと確信していた。


 しかし、先輩は俺の質問に首を横に振った。


「なにも、なかったよ。普通に楽しんで、帰ってきただけ。ただ、それだけ」


 そんなわけないだろそう言いそうになって、すんでのところで思いとどまった。


 正直、依頼自体は早々に終えたいものなのだが、なんとなく、無理やり聞くのは違うと、俺の中で誰かが言った気がした。


「そうですか。わかりました」


 言いたくはない事なのだろう。


 だが、だからといって、みすみすヒントを逃すわけにはいかない。


 俺は席を立ち、鞄を持つ。


「ちょっと用事思い出したんで先帰ります」


 言って扉を開け、


「あ、そうそう、その時になったら話してくださいね。大事なことなんで」


 自分の言いたいことだけ言って、戸を閉めた。これで、相手の合意のないままに約束を取り付けることには成功した。目を見開いて驚いた顔の先輩は、少しおかしかった。








 某会社の某社長室。来るのは二度目だ。


 応接用のソファーに腰かけて、斎藤さんの淹れてくれたお茶に舌鼓を打ちつつ、コピー用紙の文字列に目を通す。


 変わらず英語だかフランス語だかドイツ語だかの部分はあいまいにしか読み解けないが、大体の内容を把握し、前回と同じ結論を口にする。


「問題は、なさそうだな…」


 資料ナンバー14。手にもったそれを天板の広い机に投げ、息を吐く。


「明後日最後の検査結果が来るけど、学校に持ってくんじゃなく太一がこっちに来る?」


「そうする。学校に持ってこられても中々見れないことは昨日今日で思いしった」


 仕事用のデスクから声をかけてくる兄は、パソコンに向かって何やら作業中のようだが、同時に四つ以上のことをこなす男なので俺と会話するくらいは大した苦にならないだろう。


 斎藤さんも何やら奔走しているらしく、俺にお茶の用意だけするとどこかへ行ってしまっている。


「ところでさ、今日先輩に話を聞いたんだけど、あの病気は後天的なものらしいな」


「何をいまさらそんなこと言ってんのさ?」


 やはり、知っていて言っていなかったようだ。


「なんで俺が知ってる前提で話が進んでいたのかのほうが疑問なんだけど…」


 今さらと自分で口にした兄は、本当に今さらになって俺にそれを話していなかったことを思い出したようで、


「そういえば、言ってなかったっけ?」


「ええ、言ってらっしゃいませんでした」


 自分の知っていることは誰でも知っているというような態度で、いつも重要なことを言わない男だったが、ここまでとは思っていなかった。


「ほかに、何を聞いた?」


 キーボードの打鍵音が止まり、兄は俺のほうを見て聞く。


「大したことは聞けなかったよ。突然こうなったんじゃなくて、海外旅行から帰ってきたあたりから段々とこうなったって、それくらい」


 話してくれた時の先輩の顔を思い出しながら答えた。


『ほんと、なんなんだろ、これ…』


 あの言葉。初めて聞いた、恐怖を纏った声音。俺にできることがあるとすれば、たぶん、この奇病を、この重病を治す手助けくらい。俺にできること? そんなことが、俺にできるのか?


 思考の溝。負の経路をたどってどん底に落ちていきそうになる。慣れないことはするもんじゃない、なんてよく言うけれど、俺の場合はできないことだ。慣れないことよりずっと性質が悪い。


「そう、か。でもまあ、それ以上は自分の口からは言えないか」


 机の木目でも数えるかのようにうつむきながらつぶやかれたそれは、今の俺には看過できなかった。


「まだなにか、俺の知らないことがあるって言い方だな」


 兄は何も言わず、静寂が訪れる。


 高層ビルの最上階に位置する場所であることから、外界の音は遠い。鈍い風音を聞きながら、言葉を待つ。


 誰も、何も発しない環境で、一つ嘆息しソファから立ち上がる。もう時間がない。


「じゃ、俺行くから」


 今日は夕飯に遅れられない。絶対にだ。


 足取りを強く、扉の取手に手をかける。


「太一は、神とか悪魔とか、どう思う」


 すると、後ろから、そんな頓珍漢な質問が飛んできた。


 神? 悪魔? さっきの話からいったいどうしたらそんな存在の話が出てくるんだと疑問に思ったが、俺はただ質問に答えた。


「いない確証はないからいないとは思ってないけど、いてもいなくても俺にはあんまりかかわりはなさそうかなって思ってるけど?」


 扉をあけ、「それじゃ」と言って部屋を出た。


 兄はそれはもう高らかに大笑いだった。本当に頓珍漢な人物なのだ。










~後書き~


「綾音も山野君好きになったの?」


「……え…なんで…?」


 偶然昇降口であった里奈ちゃんとの帰り道。突然そんなことを聞かれた。


「今日珍しく人と話してたから。人見知りの綾音が自分から話しかけてたみたいだし?」


 三時間目の世界史の授業、隣の席で困っていた山野君に教科書を見せたのを見られていたらしい。


「私は別に、困ってるみたいだったから、その…」


 里奈ちゃんの言う山野君は私の隣の席で、彼女の片恋相手なのだ。


 好意を向けられている本人は気づいていないみたいだけど、クラスメイトのほとんどは気づいていた。そして、実は里奈ちゃんを好きな人はすごい人数いるのだけど、里奈ちゃんはそれに気づいていなかったりして、かなり複雑な状況になっている。


「そうならそうと早く言ってよ!! いってくれれば一緒に頑張れるじゃん!」


「え?」


 私は、自分の好きな人のことを好きになったように見えた私のことを、嫌いになるのかと思っていたのだけれど、里奈ちゃんはなぜか笑顔だ。


「え、なに?」


「里奈ちゃんの、好きな人なんだよね?」


「そうだよ? それで綾音の好きな人でもあるんでしょ? だったら仲間じゃん!!」


「ちょ、ちょっと待って……! まず、私は別に山野君を好きなわけじゃないよ…!!」


 そこははっきりさせておかないと、大変なことになる、そう思いはっきりとそういった。


「違うの?」


「違うの」


 きっぱりと言い切った。私にしては上出来だったと思う。


 すると、里奈ちゃんは私の目の前に回り込んできて、両肩をつかむと、


「私のこと、気にしてるならやめてね?」


 私はその真剣なまなざしにあてられて、


「う、うん」


 とたじろぐ。


「好きなの?」


「…………そう、かも…」


 ああ、違う。違うのです。こんな時、自分のコミュニケーションの苦手さを本当に恨めしく思います。


「じゃあ同士だ!」


「うん… ていうかその同士って何…?」


 こうして、どんどんドツボにはまっていって、


「あの憎たらしいくらい可愛い先輩二人と戦う同士!」


 これはいったい、どうしたらいいのでしょうか……?

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