第64話 クラスメイトとうろ覚えの名前。


 人の体は多くのモノで出来上がっている。こんなのは周知の事実だ。


 脂肪、筋肉、骨、水分、粘膜、神経、上げれば切りがないがこの程度の事なら小学校で習う程度の事だろう。これらを細分化し、細かく、細かくして、人の身体の異常を見る。それが検査。


 もちろん、それほど難しくない検査もあるけれど、それはそれ、ある程度のことしか解らず、そのある程度の事で解ること、出来ることは、極々僅か。


 星の数ほどある可能性という決めきれない現実の確信に、どこまで近づけるか、それが検査の結果、成失によって大きく左右される。未だ絶対のない医学という世界で、これはその絶対に近しい何かを得るための絶対のツール。確信の得られない検査には価値は然程ない。


 俺自身は、あまり病気とは縁遠く、学校を休んで病院に行くという経験もしたことがないせいか、検査と言われると学校の健康診断くらいしか思い浮かばないのだが、実のところ学校の健康診断では、身長・体重・視力・血液検査・内科検診位しかやらないので、大がかりな機械の必要なモノなどは今回初めて立ち会った。


 こんな経験をする高校生はあまり居ないのだろうけれど、いたとしても理解できる行程はほぼないと言える。俺にはさっぱりもわからなかった。








 九月も終わりに差し掛かる、第四週の水曜日。いつも通りに学校に来て、授業を受けている昼時。あまりにも強い睡魔に、導かれるままについていこうとしていると、隣の席から伸びてきた腕に袖をひかれてうつらうつらしていた意識が覚醒する。


「ん?」


 とそちらを見ると、隣の席の女子生徒がこちらを見て、


「山野君、呼ばれてるよ」


 そう教えてくれた。


 今は授業中だ、呼ぶとしたら壇上の教師だろうと思い、そちらを見る。しかし壇上には教師はおらず、見えるのは世界史の板書が施された黒板だけ。


「……あれ、今って数学の授業じゃなかったっけ?」


「数学はさっきの授業だよ? そんなことよりあっちあっち」


 俺の言葉に不思議そうな顔をする隣の人は、首をかしげる俺に指さしで何かを示してくる。仕方なく、示されたほうを見れば、どこかで見たことあるようなないような気がする中年の女性が扉の向こうから俺を見て手招きしている。


 なにごと?


 俺は女性と目を合わせながら自分に指を指して首をかしげると、女性は激しく首を縦に振る。ますます大きく首を曲げる俺をみて、クラスメイト達は混乱した瞳だった。


 席から立ち、女性の方まで行くと俺に「急いで」と言い、世界史の教師に「それじゃあお借りします」といって歩き出した。


 世界史の教師に首を傾げてみると、顎でさっさと行けと急かされ、教室へと入って行ってしまう。ついていけばいいのだろうか。そう思って女性の歩いて行ったほうに顔を向けると女性が「急いで!」と叫んだ。


「え、今日も?」








「兄さん、授業中の高校生を呼び出すなんていくらなんでも非常識だよ」


「非常識の詰め合わせみたいなやつに常識を説かれるとは、俺もヤキが回ったかな?」


「先生はヤキが回っているのではなく、常識がないのが通常運転なだけです」


「おい」


 俺、兄、斎藤さん。今事務室にいるのこの三人。


 というわけで、呼び出された理由は兄だった。


 今週に入り、検査の結果をこの時間に持ってくるのが日課になりつつあるようだった。


 昨日一昨日と来ていたから今日は来ないだろうと高をくくっていたのだが、結果の出ていない検査はあと十いくつはあるらしい。


 普通なら、事務室に荷物を置いていき、事務員の人が休み時間に呼び出して渡すというのがセオリーなのだが、俺がスマートフォンを持っていないことがこんなところでも災いしていた。


 何を隠そう、アパートにあった据え置きの電話が壊れたのだ。


 すると、兄との連絡を取る手段がなくなった。電話番号を覚えていないことと、この兄が嫌われすぎて由利亜先輩も先輩も、兄との通話にスマホを貸してくれないことが原因だった。


 そしてこの男、意外にも、忙しい身分であることから、短文メールで済むような連絡のやり取りをするために学校終わりの時間に予定を組むことを渋り、こうして資料を持ってくるついでに俺の見解を聞くために呼び出すようになったのだった。


 明らかに授業妨害だ。俺に対しての。


「それで、昨日持ってきたやつで何か気になるところ見つかった?」


 本題。どうやら今日も今日とて忙しいらしい。省ける部分はすべて省いてさっそく本題に入る。


 とは言え、聞かれても俺に言えることはこれ一つ。


「いや、とくにはなかったよ」


 昨夜一晩、もらった資料を眺め続けたが、カルテの見方がわかるようになってきただけで、先輩たちの体に異常がないということだけしかわからなかった。


 異常がない。あんなにも、衰弱しきった状態の人間の検査結果が、平常値を出している。これこそがもはや異常なのだろうけれど、数値には何の問題も見られなかった。


「そうか。じゃあこれ、今日も寝る時間はないぞ」


 いやらしく笑う兄に、斎藤さんはあきれている。


「兄さんは寝たほうがいいと思うよ」


「なんだ? 心配か? 心配してくれるのか?」


「いや、永遠に眠ったほうがいいよ」


 言って立ち上がり、斎藤さんが差し出してくれた大きめの茶封筒を受け取る。


「お願いします」


 ほんわかした表情で、キリットした声音の特徴的なギャップが今日も映える。


「気づいたことがあればすぐ電話します」


 そう返事をして事務室を出た。






 教室に戻ると通常通り授業が進行されていた。当たり前だが寝ている人間は見受けられない。


「おお、山野、戻ってきたなら早く席着いて教科書開け」


 言われるがままに席に着き、卓上を見ると、俺の机には数学の道具が並んでいた。


 中間期末と、テストでは全ての教科で一つの減点も貰うことなく乗り切った俺ではあるが、これまでならこんな状況なら一言の叱責があったものだが、二日前、山野一樹が、つまりあの兄がこの学校に訪れてからはそれもなくなった。


 俺のテストの結果に何か納得したように、教師達は俺への態度を変えた。


 教育界に身を置いていて、あの男の顔を知らないなんてことはないだろうから、初日はまあ職員室は騒然としたことだろう。


 「教育の破壊者」、と、学校、塾、その他教育と名の付く業界では忌避される存在だ。教える側の人間を常人ではあり得ない速度で追い抜き、逆に教える側になってしまう。そして教育者に挫折を与える。もっと分かり易く、もっと簡単に、もっと多くの人に伝わりやすい、そんな誰にも思いつかなかった教え方を見せつけられて。一所懸命だった教育者ほど、あの男に殺されて、業界を去って行く。


 余談だが、そんな風に忌み嫌われる男だが、実は教員免許は持っていない。時間がかかりすぎるからだとかなんとか。だから学校教育には手を出せないのだが(手を尽くせば出せないわけではないが)、学会発表での論文がやたらと記憶に響くのか、教師達はあの兄に怯えていた。いや、現在系で怯えている。


 その怯えが、弟の俺にも波及しているというのは、やはり弊害以外の何物でもない。


 嘆息し、数学の教科書類を片付けると、鞄にしまい、世界史の教科書を取り出す。


「あれ?」


 鞄の中に、あるはずの世界史の教科書がない。


 数学、国語、英語、日本史、化学、これで全て。


「世界史だけ、ない…」


 忘れ物だった。


 うわあ、はじめてやらかしたなあ…


 どうすれば良いんだろ、後四十分、俺はどう過ごせば良いんだ? 怒られないからって寝てるわけにはいかないだろう。そんなことしたら、存在してるだけでモンスターなあの兄を、モンスターブラザーに仕立てることになってしまう。それはまずい、何がまずいって、モンスターペアレンツとかモンスターなんとかってそもそも恥ずかしい。そんなのが肉親だったら縁を切るとまで考えていたのに、誤解されてしまう。それはまずい!!


 だから真面目に授業を受けようと決めたのに、教科書を忘れる? 真面目に受ける気なさ過ぎて笑えてきた……


「山野君、教科書、忘れたの?」


 天井を見上げ、教科書降ってきたりしないかなと考えていた俺に、さっきの女の子が声をかけてくる。


 さっきまで数学の教科書開いてた奴が、今度は教科書忘れてるとか知られたら、どんな笑いものになることか、ああ神よ! 我を救いたもう!!!


「…はい、世界史だけ、忘れたみたいで……」


「私の、一緒に見る?」


 神、隣の席にいたわ。


「い、良いんですか?」


「なんで敬語なの。良いよ、ほら机寄せて?」


 俺の言葉遣いがおかしいらしく、クスクス笑ってはいるが、どうやら本当に見せてくれるらしい。女神様かと思った。


「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて…」


 机を寄せると、「ありがとう」と言って、やはり名前は分からなかった。

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