第54話 目に見えるものが全てだと気づくのに、この歳までかかった。


 多くの人が、多分本当の意味では分かっていない事がこの世には数多くある。


 それについて考えることの出来る人は、それらを神秘と呼び、それらを解析しようとする人たちは、研究対象と呼ぶのだろう。


 俺には分からない事しかないこの世界で、俺は今まで何を見て生きてきたのだろう。


 絶対と言えるほどに何かを見て生きてきたと言える自信が、もはやなかった。


 中学の時、俺は人との関わりを辞めた。自分の周りに与える影響が、どれほどの物なのかを計りかねて、考えることを放棄したのだ。


 そんな俺に、何かを神秘と呼ぶことはもはや出来なかった。


 呼んではいけないのだと、感傷的になった時期もあったし、それ以上に自意識が過剰だったと恥ずかしがっていたのだ。


 俺の勘違い話など、ただのつまらない不幸自慢以外の何ものでもないのだけれど、それでもやはり、俺にとっては神秘とは、それはそれであるだけだったのだ。


 そして、そんなそれらについて俺はきっと、誰よりも恐怖している子供だった。誰もが当たり前と決めつけたそれらを恐怖している少年に、同調してくれる人間などいなかった。そのことが俺に何かしらの影響を与えたであろう事は確かだ。








 兄の運転する車には、俺と兄以外に先輩と兄の秘書の斉藤さんが乗っていた。


 運転する兄の隣で、斉藤さんは綺麗な姿勢を保ったまま、ルームミラー越しに俺たち高校生を見つめている。何をいうでもなく、ただ見ている。


 一度、バイトの時にあって以来だから、かれこれ三月くらい前になるか。


 何か喋ったような気がするのだが、良く思い出せない。


 思案する俺の左隣で、俺はもう慣れたので全く気にならないが、端から見ると不審者にしか見えないサングラスとマスク姿の先輩がイライラを隠さない態度で貧乏揺すりをしていた。


 こんな人でも礼儀正しい所のある人だ、いくら俺の兄があんまりな人でもここまで露骨なことをするのは珍しかった。


「先輩、トイレですか?」


 俺はつい聞いてしまった。


「違うけど…んん…」


 そう答えた先輩は、自分の小刻みに揺れる右足を同じ側の手で太ももを握りしめる。


 自分でも抑えが効いていない。そんな感じにも見えた。


 しかし、言いよどんだ以上俺には先輩に出来ることはない。この車の運転手であり、兄に向かって質問をぶつける。


「それで、今日は何が目的なんだよ」


 いつもの事ながら、アポもなしに訪問してきた血縁者に対して、俺はまだ若干いらだっているようで、無意識にけんか腰になってしまっていることに気付く。しかし、質問の内容は変わらないので言い直すことはしない。


「今日もお前に手伝ってもらいたいことがあるんだよ。そうでなきゃバイトとして弟を迎えになんて来るかよ」


「はっ? 俺なんもきいてないぞ?」


 突然の働け宣言に俺は流石に動揺した。今からバイトするのか? じゃあなんで先輩も連れてきたんだ?


 疑問はつきないが、質問を口にする前に兄が説明を始めた。最初からそうしてくれると有り難い。昨日のうちならもっと有り難い。


「それがな、その仕事の前にお前に見てもらいたい物、っていうか会って欲しい人がいるんだよ」


 両立しないはずのその二つの言い回しを、平然と言いこなす男に目を向けたまま一体何を企んでいるのかを考える。


 そもそもこの車がどこに向かっているのか、そこからだ。


 学校を出発して十五分は経っていない。兄を見たとたん用事があると言って逃げていった由利亜先輩と、それを追って消えた三好さんにはあとから先輩が連絡を取り、先に帰ることになっていた。


 兄からの依頼となれば断る事も出来たのだが、斉藤さんになにやら耳打ちされた先輩が「ついて行く」と言うので、俺だけ断るわけにも行かなくなってしまった。依頼を受けたのは俺のはずなのだが先輩が付いてきている理由、それを俺は知らないままにどうすることも出来ずに結局車に乗ってしまったのだ。






 どこに行くのか分からないままに車に揺られること三十分。


「着いたぞ」と降ろされたのは立体駐車場だった。当然、目的地ではない。


 その立体駐車場からほど近くにある総合病院。


 一度来たことのあるそこに。前回は見舞う側として、現在隣を歩く美人に会いに来たのが七月くらいだったか。


「俺に見せたい人って言うのはまさか病人じゃないだろうな」


 警戒心といらつきは別物だと分かっていても、さすがに病院で何かをしでかすのはまずい。人の命に関わるかもしれないと思うとなんとなく毒の強い言い方になってしまう。


「『会って欲しい人間がいる』そういわれて病院に連れてこられて、なんで医者でもない奴が患者に会うんだよ」


 からから笑う男の横で斉藤さんは怪訝そうな顔をする。


 この男、嘘をついているらしい。


 つまり、俺に会わせようとしている人間は患者。しかも病院ではどうしようもなくなるレベルの重病人だろう。何でも屋が出張る場面など、病院ではあり得ないだろう。配水管掃除でも給湯器の修理でも、なんでもやるから今日の所は早々に帰らせてもらいたい物だ。そして今後関わり合いになりたくない物だ。


「そんな顔するなよ。お前にだって無関係な相手じゃないんだからさ」


「患者じゃない人間となると、他には医者しかいないんだが、俺は医者に会いに行く用事はないんだけど?」


 正面玄関を迂回し、兄は関係者のみと書かれた扉の鍵を開ける。


「ちなみ、その医者とはどれくらいの付き合いなんだ?」


「大学時代を合わせると、かれこれ六年か七年だな。医師免許を採るように進めたのが俺なんだよ」


「その医者は何科の人間なんだ」


「元々は外科だったんだけど、どうも医療ミスで訴えられて研究職に就いたらしい」


「じゃあこの病院にはいないんじゃないのか?」


「そうだね、普段はね」


 静まりかえった廊下を歩いて行く。俺と兄の会話だけが音を出す道具であるかのように、声は床や壁に吸い込まれ、一言発しないだけで静寂に飲み込まれる。


 行き当たりにエレベーターがあり、ゴーとうなりながら昇降する。乗り込むと兄がなにやら特殊なボタンを押し、明らかに電光掲示板が狂っていた。


「なんかいに行く気なんだよ…」


 恐る恐る聞くと、


「一番上の少し下」


 と、楽しげな声が返ってくる。


 そこに何があるのか、病院の人間も把握していないのだと斉藤さんが見た目に反したキリリとした声音で説明してくれる。知っているのはここにいる人間と、院長、そして依頼主のみなのだと。いや、俺も何があるのかは知らないのだが。


 鈍い機械音で到着が知らされ、降りた階は白しかない空間だった。


 壁も、床も、扉も、全てが白で、真っ白で、現実感が、塵ほども見当たらなかった。


 白、白、白、振り返ると、エレベーターも、白だった。








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