第20話 優しさは偽善か、傲慢か。
~前書き~
手の震えが止まらない。
溢れ出しそうになる感情の濁流を、必死に抑え込んで、私は堪える。
奥歯を噛みしめ、手を強く握り、細かく呼吸し瞼をきつく閉じる。俯いて歩く私の背中には、服越しにも分かる暖かな彼の手が、力強く、でも優しく私を前へと押してくれる。
立ち止まるなと言われている。ここではまだ駄目なのだと。
非情の刃で人の心を切り刻む人間の、言葉の射程距離は、ここにも届くのだと。
私は足を進める。転ばないようにゆっくりと、彼の速度に合わせて進む。
まだ、涙は流さない。
~本文~
うつむく由利亜先輩の背中を、なるべく優しく押しながら、俺は心の中で兄のことを考えた。電車に乗り、駅から徒歩でアパートにつくまで、先輩は何も言わず、ただ見守っていた。
この人もこの人で謎が多い。出会って数日なのだから当然なのだが、この人に出会ってから俺の生活はめちゃくちゃだ。人知れず、淡々と生きることが目的でこの学校に来たのに、まさか部活選びで落とし穴にはまるとは思わなかった。
アパートの俺の部屋。出た時から何も変わらないその部屋について、ダイニングの椅子に座ると、由利亜先輩はダムの堰を切ったように涙を流し始めた。はじめは戸惑ったが、先輩はそれも見守って、俺に背中をさするように促した。
しばらく泣いた後、由利亜先輩は俺と先輩に話してくれた。過去の事、父の事、母の事。
「私が生まれた時はまだお父さんは仕事をしてたの。
お母さんは別の会社の社長の秘書をやっててね、会社間のパーティーで会ったんだって。
お母さんの一目惚れでね、強引なアタックに耐えかねたお父さんは婚約したんだって。
私が生まれたのはその二年後くらいかな、小学校の時はお父さんもお母さんも仲良くてさ、近所の人にうらやましいって言われて、私すごくうれしかった。でもうれしいことは長くは続かないじゃん。お父さんは会社の業績上げるのに必死でさ、本当に死ぬんじゃないかって思うくらい仕事してた。そんなお父さんにお母さん嫌気が差しちゃったらしくて、簡単に言うと、不倫したの。何歳か年下の人で、ヒモって言葉は中三の時に知ったけどまさにそんな感じの人だった。
お母さんはその人のことを私の前でべた褒めしてた。あなたも付き合うならこういう人にしなさいとか、働いてないような大人とは付き合わないよって笑って返したらすごい怒られたな」
うつむいて話していた顔を上げ、こちらをちらと見た由利亜先輩は、えへへとごまかすように笑う。俺も先輩も、その笑顔で気を緩めたりはしなかった。
「間男の存在は、お父さんもすぐに気づいてたらしいの。
でも仕事が忙しいからほっといたみたい。そのときお父さんは何をするのが正しかったのか、今も私にはわからないけど、その時点でお父さんはお母さんを見限ってたんだと思う。
ここに泊まる前にさ、太一くんにはお父さんが悪者のように話したけどね、だから実はあれはちょっとだけ嘘なの。
お父さんが暴力を振るうようになったのは会社の業績が、もうこれ以上はどう考えても伸びることはないって呼ばれ始めた頃。
すべてを終えたような顔をして帰って来たお父さんに、そんな晴れやかな顔をして帰って来たお父さんに私はお帰りって、それだけ言った。
その時はお母さんもいて、お母さんも物珍しい目でお父さんを見た後お帰りって言ってた。
それで、キッチンにいたお母さんをお父さんが笑顔で殴ったの。
何が起きてるのか理解できなかった。でもなんで殴られてるのかははっきりわかった。
仕事って枷で縛られていた理性が外れたんだろうね、それから仕事には行かなくなった。
それからお母さんに暴力を振るうようになった。お母さんは振るわれるとき、何も言わなかった。文句も、叫び声も、お母さんは発しなかった。
それから一週間くらいが経って、お母さんは消えたの。たぶん間男の家で暮らしてたんだと思う。今はわからないけど、お父さんなら知ってるかも、まだ離婚はしてないはずだし。
でね、お母さんが出て行って、お父さんの暴力の対象が私に向いたの。意外と常識的なとこがあってね、性的なことはしてこなかったんだけど、女の子の、しかも自分の娘の顔を全力のグーで殴るんだよ、その頃生えてた乳歯が全部抜けちゃった」
おどける由利亜先輩の目は、笑っていない。
「私にも、お母さんにも、暴力をふるうのは決まって夜だった。起きてたらもちろん、寝てても布団をはいで。
博打で勝っても負けても暴力はあった。
昼は優しいお父さんだった。
学校に行く前、お弁当を作ってくれて、行ってらっしゃいって言ってくれる。そんな優しいお父さん。でもね、夜になるとだめなの、夜の闇が、お父さんの心の闇も連れてくるの。
ひどいときは朝まで暴れっぱなしで、お酒を飲むと衝動が抑えられるみたいで、すごい勢いでお酒を飲んだりして。
だからね、夜は一人で震えるの。布団にもぐって、今日はお父さんが来ませんようにって。
私の夜は痛い物なの、心が寂しくて、壊れそうになる」
目に溜めた雫が、幼げな彼女の顔の頬を伝う。
俺は何も言えない。
たぶん、まともな家庭に育ったのだろう。
兄は異常だったが、一人っ子のこの人に兄弟の関係性は特にない。つまりは親とのつながりの話。俺を育ててくれた親は、たぶん世間一般と同じだ。何気ない会話、何気ない食事、いってらっしゃいとただいまと、お帰りなさい。そんな普通が繰り広げられていた普通の家庭。
そんな、たぶん幸せな家庭で育った俺には、隣で話すこの人の言葉に対する、同情も同意も薄っぺらく感じられるだろう。だから俺には何も言えない。言葉もない。
親に殴られたことなどない。親の不倫話を嬉嬉として語られたことなどない。親の暴力に震えて眠ったことなどない。恐怖から逃げ出し、人に頼ったことなど、ないのだから。
「中学を卒業して、高校に入学する頃にはおばあちゃんの家に行くことが増えて、自分の暴力を制御できないお父さんも、そうしてくれると嬉しいって。でもおばあちゃんの意向で一週間はあの家にいなきゃいけなくて、一年間友達の家を転々としたりして、時には男の子の家に行ったりもしたけど…でも男の子は、そういうことを求めてくる人がほとんどだった。たまに特殊な子がいて、そういう時はいやすかったけど、その子の親にばれたくないっていうのと、私の方も申し訳なくて二日以上は同じ人の家は連続では泊まれなかった。
どうしても家に帰りたくなかった。お父さんのことは好きだけど、夜は怖かった。
だからとにかく泊めてくれる人を探して、おばあちゃん家に泊まる以外の一週間をそのいろいろな友達の家で過ごした。一年間そうやって過ごして、凌いだ」
まるっと、由利亜先輩の抱える問題のすべてを聞き終えた。いや、これがすべてでないのは確かだろう。でも、言いたいことはこれだけのようだ。
「ふーんそっか」
先輩の感想はそれだけだった。
俺は由利亜先輩の軽く頭を撫でて、立ち上がり、お茶を入れた。
目の前に出したお茶を、由利亜先輩が普段通りの笑顔で飲んでくれたのは、素直にうれしかった。
『相変わらずなんだね、太一』
瞬間、兄さんの言葉が頭をよぎる。
俺のことを誰より知る人の、俺より俺を知っている人からの、これはきっと助言なのだ。
『これ以上首を突っ込めば、痛い目を見るのだぞ』と。
きっと、兄は言っている。
今回も兄が正しい。いつも俺は間違っていて、その時々で俺はいつだって間違える。間違えて、兄はそれをみて、いつもこういう。
『お前はいつも、優しいな』
何故、こんなにもその言葉が嫌いなんだろう。
時計は十一時を指していた。話はそんなに長くなかったように感じていたが、勘違いだったようだ。由利亜先輩はすでに船をこいでいる。
今日は、腕枕かな。
お茶を飲み干し、立ち上がる。
~後書き~
そして二年の春。入学式。
たくさんの新入生の中にいた君。
その時、心に決めたのだ、私はこの人以外を愛さないと。
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