ウミガミ様の来る村
村の男達が、黙々とモリを研ぐ。村の女達は、夫のために、懸命に華やかな衣装を編む。子供たちは楽しそうに話しながら、海に、魚の身を練り合わせた餌を放り投げている。明日はこの村の伝統ある、お祭りの日である。
海に面したこの村は、年に一度、日頃の海への感謝と共に、大規模な漁を行う。それが村の祭り。普段はバラバラに、自由気ままに漁をする男達も、明日ばかりは皆一つになって魚を取るのだ。
「今年も、来て下さるといいのだが」
ある男が、モリを研ぎながら、木の壁に寂しく立てかけられた、二の腕程の無骨な石に向かって、ぽつりと呟いた。その石は、村の皆々が崇める神に、祈りを捧げるものである。
「ウミガミ様は、必ずおいでになる」
部屋の隅に座り込んでいる老人が、今にも消え入りそうなしゃがれ声で、男に返答した。この村で崇められている、その対象こそが、ウミガミ様である。
それは形の無い、皆の心の中だけにある神では無かった。ウミガミ様は年に一度、決まった日時に、必ずこの村に現れる。その日こそが、明日。祭りの日である。
ウミガミ様に会い、そしてウミガミ様と共に、海への感謝を込めて漁をするのが、この村の祭りなのだ。どんちゃん騒ぐのではなく、厳かに、厳かに。果たしてそれが祭りと呼べるのかどうか、儀式と呼んだ方が良いかもしれないが、電気も何も無いこの村には、これくらいしか行事が無い。その日を皆が待ち望んでいるという意味では、祭りと言っていいのかもしれない。
「明日は雨が降る」
老人は、背を折り曲げながら立ち上がり、空を見て言った。
「死人が出るかもしれんな」
この村に降る雨は強烈だ。必ずと言ってもいいくらいに、最大で家を吹き飛ばすほどの、強風を伴う。だから普段雨が降る日には、ロクに漁など出来ない。
しかしウミガミ様が来るとなれば、話は別だ。ウミガミ様がこの村に訪れるのは、年に一度。それを逃せば、チャンスは来年。しかしこの祭りというのは、海への感謝と、村の繁栄を願って行われるもの。来年など待っていては、村がどうなるか分からない。明日の漁の厳しさを予感しつつ、男は黙ってモリを見つめていた。
「ヤコープ、お前は次代の村長だ。おそらく苛酷極まる事になる、今年の祭りで、勇気を示さねばならん」
老人が、男に向かって語気を強めて言う。老人は、大きな声を出してしまったからか、その後何度か咳をした。ヤコープは、口をつぐんで頷いた。何度も聞かされている事だった。
去年、一昨年……これまで何度も祭りをこなしてきたが、雨の日に行う祭りは初めてだ。この村の歴史においても、まずありえない事である。そもそも雨が降ること自体珍しい。何度か経験した事のある、家を吹き飛ばすほどの雨風の激しさを想起しながら、ヤコープは覚悟を固めていた。
祭りと呼ぶに相応しいのは、もしかすれば、祭り前日の夜なのかもしれない。男達は盃を交わして酒に酔い、女達は楽器を弾き、子供達は、酒を飲み交わす男達に踊りを見せる。明日の祭りに向けて、英気を養う日である。
ヤコープが、誰ともつるまずに、一人でゆっくり酒を飲んでいると、一人の男が、歩み寄って側に座った。男はヤコープに向かって、不安げに、声を震わせながら言った。
「ヤコープ、明日は……」
「分かっている」
「分かってない。男が全員死んだら、この村はどうなる!?お終いだ、考え直せ。何人かを村に残そう」
「それでウミガミ様の怒りを買えばどうする」
「しかしな……」
「恐ろしくとも、行かねばならない。全員死ぬと村が滅びるとすれば、何としても生き残らねばならない。ウミガミ様が居るからこそ、この村はあるのだから。それで話は終わりだ」
「……分かったよ。俺も覚悟を決める。前日だってのに、惑わすような事言ってすまないな」
構わない、とヤコープが返事をすると、男はすぐに立ち去ってしまい、またヤコープは一人になった。嫌われている、という事では無く、次期村長という事に思い悩んでいるからか、ヤコープは前に比べ、随分気が立っているような態度を取っており、それに村の皆は戸惑っているだ。
(ヤコープ、お前は次代の村長だ。この村を背負うに足る、誰よりも立派な男にならねばならぬぞ)
ヤコープは、酒を飲みながら、幾度も村長より聞いた言葉を、何度も何度も、反芻していた。
朝になった。男達は飛び起き、自慢のモリと、獲物を入れる大きなカゴを担ぎ、女房がこさえてくれた衣装を着ると、木造の舟が停めてある、海岸に向かって走り出す。ヤコープは、誰よりも早く海岸に辿り着いていた。腹ごしらえの木の実をかじり、海と空を眺める。空と海は、同じだ。空が荒れれば海も荒れ、空が晴れれば海も晴れる。今の空は、太陽の光一つ見えない、どんよりとした曇り空だった。
少しして、悪い悪い、遅れた遅れた、と男達がヤコープの居る海岸へ走ってきた。ヤコープは、その男達には目もくれず、ただ何の変化もない曇天を見つめていた。村には時計が無い。あるとすれば、ただ太陽が時刻を示してくれる。今はその太陽が見えない。ウミガミ様はいつ来るのだろうか、という男達の僅かな不安を、ヤコープは背中で感じていた。
それから、どのくらい時間が経っただろうか。遠く彼方で、雷が光った。屈強な肉体をした男達も、これにはどよめく。しかしどんなに危険であろうと、死ぬかもしれなかろうと、この行事は遂行せねばならない。それが村にある、唯一と言ってもいい、しきたりである。
男達のどよめき収まらぬ中、突如海底から、それほど広くない、弧状の海岸を埋め尽くすような、大きく黒い影が、ぬっと浮かび上がってきた。
「ウミガミ様だ!」
そんな誰かの叫びを口火に、男達は雄叫びを上げ、モリを天に向けて二度三度かざした。迷いをかき消し、気合いを入れるためだ。
そんな男達の咆哮に呼応するかのように、ウミガミ様はその姿を、海中から現した。それは、鯨のようであった。幾つもの傷を持ち、しかしその瞳には、どこか穏やかさがある。
年に一度見る事が出来る、その神聖さに、男達の胸の鼓動も高鳴る。ウミガミ様が、その首を折り曲げ、口を地面につけると、男達は競ってその背中に向かって、素手で、素足で、駆け登っていく。
今回の漁は、舟など使わない。ウミガミ様に乗って行うのである。ウミガミ様の、少しザラついた、乾いた皮膚に、痛みを堪えながら足をひっかけ、背中に辿り着いたヤコープは、呼吸を整え、モリを構えた。
海岸に居た者が、一人も居なくなったのを確認したのか、ウミガミ様は器用に反転し、ゆっくり、ゆっくりと、沖に向かっていく。それは同時に、強烈な雨風が迫ってくる事でもあった。
しかし、今はそれを気にしていても仕方ない。海面付近を泳ぐウミガミ様に乗った男達は、誘蛾灯のようにウミガミ様に向かって来る、海面付近に集まった魚達を、慣れたようにモリで突く。
波は激しいが、ウミガミ様を前にすると、小さく穏やかになるので、ウミガミ様に乗っている男達にとって、海の荒れ具合はそこまで気にならない。
しかし、空は違う。雨を、風を、運ぶ空。嵐のように、荒れ狂う空。流石にウミガミ様といえど、空の脅威からは守ってくれない。
程なくして、脅威が来た。閉じた眼球をえぐるような、強い雨。少しでも気を抜けば、彼方に飛ばされるかと思うくらいに、強い風。男達は、とても漁どころではない。ただ生きる事しか頭になかった。
(死ぬかもしれん)
ヤコープは、目を閉じたまま、唇を噛み締めた。皆黙って耐えている。口を開けば、そこに矢のような雨が飛来し、喉をえぐるのでは、という気すらしていた。
すると、突如ウミガミ様が、ヒレを大きく、大きく、海面に叩きつけるように、しかし水飛沫一つ上げずに、動かした。
瞬間、ウミガミ様は空へ飛んだ。全身が海から離れる、凄まじい跳躍であった。その衝撃に、男達は振り落とされ、海に投げ出された。しかし、ヤコープだけは、ザラザラとした、一部のトゲのような皮膚を握りしめ、手に血を滲ませながら、歯を食いしばり、しがみついて放さなかった。
そのままウミガミ様は、空に昇った。殴りつけるような風と雨にも、ヤコープは耐える。ウミガミ様は、みるみる天空に近づき、黒ずんだ空が間近に迫ると、ぐるんと回転し、尾ひれで雲を薙ぎ払うような所作をした。
すると、瞬く間に曇り空は散り消え、暴風は止み、大雨は姿を消した。眩い太陽の光が差し込む。雨上がりの日差しは、きらきらと世界を照らす。太陽の位置は、丁度正午の時刻を示していた。
ヤコープの身体は、ぼろぼろであったが、しかし心は、充足していた。空を、太陽を、こんなに間近で見れたのである。次に、下の海を見た。終わりが見えない。ウミガミ様を見た。馬鹿馬鹿しい、と彼は思った。自然を前にして、自分の小さな悩みが、溶けて消えていくのを感じた。
「……ありがとう……」
心の底からの言葉だった。こんなに有りのままの言葉を発した事など、子供の頃以来だ。ウミガミ様は何も答えない。それでいい、とヤコープは思った。
ウミガミ様は、そのまま落下し、海に着水した。水飛沫など上がらず、辺りに波さえ発生しなかった。すぐさまヤコープは海へ飛び降り、村の男達を救出していった。大雨と暴風の中、大丈夫だっただろうかと心配したが、そこは海の男。ヤコープが救出せずとも、何とかウミガミ様の元まで泳いだ者もいた。
結局、全員、誰一人として欠ける事なく、生還出来た。その事を、何よりだ、と皆で喜びあっていたその時、誰かが言った。
「カゴもモリも無い!」
皆、自分と、他の男を見た。誰もが、手には何も持っておらず、衣装はぼろぼろ。はっきり言えば……
「今回の漁は、成果ゼロだな!」
そう口にしたのは、ヤコープであった。大声で笑いながら、実に可笑しそうに、そう言った。それを聞いて、村の男達も、一斉に笑い出した。こりゃ参ったな、女房にどやされる、と口にはしながらも、顔には喜色が溢れていた。
「皆が無事ならそれでいい」
ヤコープは空と、海を見ていた。黄金色の太陽が、海をきらきらと照らしている。澄んだ海は、海面の下の景色を、くっきりと見せてくれる。大物もいる、漁が出来れば仕留めてたかもな、と男達は笑った。
ウミガミ様は、向きを変え、ゆっくり、ゆっくりと、村に向かって泳ぎ始めた。男達の感謝の言葉に、ウミガミ様は何の反応も示さない。
ヤコープと男達は、来年のこの日が楽しみだ、と楽しそうに話を交わす。ヤコープの頭の中にはもう、次の村長はお前だ、というしゃがれた声は、響かなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます