古今東西短編集

醜いサキュバス

サキュバス、という存在をご存知でしょうか。案外よく創作に登場しているサキュバスですが、本来は醜悪……なんて言われたりします。しかし、我々が思い浮かべるサキュバスというのは、随分と美人で魅力的かもしれません。そうでなければ、淫らな気持ちになれない、という人もいるでしょうから、少なくともサキュバスの獲物には、彼女はとても美しく見えるのでしょう。


しかし、今日、この晩、とっ散らかった、一人暮らしの冴えない男性の部屋に現れたサキュバスは、ちっとも美しくありませんでした。醜い、と断言しても良い外見でした。目はひどく離れていて、鼻は顔の殆どを占拠しており、口はまるで裂けているかのように大きかったのです。


サキュバスの獲物になった、人生の中で一度も女性と愛し合った事が無く、かといって風俗に足を踏み入れる事も出来なかった男性は、唖然としました。もちろん、いきなり部屋に現れた、おかしな侵入者に対する驚きもありましたが、何より仰天したのは、醜い彼女が、自分はサキュバスだと言い張った事でした。


「君がサキュバスだって?冗談だろ、そんな腐った魚みたいな顔をして。一体どこの誰が、淫らな気持ちになれるというんだい」


「酷い!顔が何だと言うのです。自慢じゃありませんが、私の身体は極上なんです。貴方のような殿方なんて、あっという間に満足させられますから」


「本当かい?」


「本当ですとも!ただし、行為後は魂を頂きますけれど。最高の気分で死ねるんです、幸せな事じゃありませんか?」


「うーん……まあ、一度もそういう経験が無いまま生きてきたんだ。正直憧れはあるし、毎日どうもパッとしない。そういう体験をさせてもらえて、死ねるなら、やぶさかじゃないな。でもさあ、もう少しその顔、何とかならないのかな。ほら、サキュバスの技術みたいな物でさ、僕に幻覚を見せるなりして、美人になってくれないかな」


「私、落ちこぼれなんです。そんな事、とても……」


男は、このサキュバス、やる気が無いのか、と呆れました。それほどに、彼女の顔は良く見えず、まるで昆虫みたいな顔の彼女に、男はどうしても魅力を感じませんでした。


しかし、ちょっとして男は、服の上から分かる胸の膨らみを見て、顔さえ見なければ大丈夫なのでは、と考え直しました。だって、これは絶好の機会なのです。前々から、そういった事をしてから死にたい、なんて漠然と夢に見ていました。それが今日、叶うかもしれないのです。顔なんて夢に比べれば、些細な物さ。目を閉じればそれで良いんだ、と男は、まあこんな物かな、といささか妥協の心持ちで、サキュバスを受け入れる事にしました。


それから、まあ、細かい描写は省略しますが、とにかくそういった事の直前まで来ました。そこまで来て、男は急に不安になったのです。


「ねえ、この後僕は死ぬんだよね」

男は、なるべくサキュバスの顔を見ないようにしていました。


「ええ、魂を頂きますから。そういう契約です」

「これが僕の、最初で最後の思い出になるんだね」

「そうなりますね」

「その相手が、君なんだね」

「仰る通りです」


男は、まるで悩む自分の思考を整理するかのように、当たり前の事を口に出していきました。それから男は、まるでダビデ像のような、いや、あれほど美しいものじゃありませんが、とにかくそんな裸の石像のように、動かずに押し黙ってしまいました。サキュバスは、そんな男を黙って見つめていました。


やがて男は、何か決心したのか、目に光を宿して飛び上がりました。男は手早く服を着て、財布を持って、サキュバスにこう言いました。


「僕にとっては、これが最初なんだ。だから、妥協したくない。それで死ぬなら、尚更だ。正直に言うよ、君の顔は受け入れられない。そんな君と、そんな事をしたくない。だから、君には悪いんだけれど、今回は遠慮させてくれ」


男は早口でまくし立てると、家の扉を勢いよく開いて、鍵もかけずに夜の街へ飛び出していきました。男の背中からは、今日を生きる活力がありました。サキュバスは、そんな男を黙って見送ると、やがて深いため息をつきました。


「これで、二十人目……」


そう呟くと、サキュバスの背中に生えた、いかにも邪悪そうな黒い翼は、みるみるうちに、白く、美しい翼へと変わっていきました。


そう、彼女はサキュバスではありませんでした。あの男のような、ぐうたらと自信や度胸の無い連中が、自発的にやる気を出して、生きる気力に満ち溢れた状態になる手助けをするために派遣された、天使だったのです。天使は、白い翼を広げ、新たな獲物を探しに、また夜の街に繰り出しました。


ちなみに、天使の顔は、自前です。つまり、元からあのような醜い顔だったのです。ですから、次の仕事に向かう天使の顔は、非常に浮かないものでした。これまで、たとえ仕事だとしても、ことごとく誘いを断られてきましたから、流石に憂鬱になってきます。サキュバスでもインキュバスでも良いから、私の元へ来てくれないかな、と誰より望んでいたのは、きっとこの天使でしょう。

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