いつかのプラネタリウム
ふたつ並んだ改札のうち片方は混雑時にでも開けられるのかいまは閉められたままで、同じ電車を降りた乗客たちはもう一方の改札へと吸い込まれていった。改札は駅員室に面しており、目深に帽子をかぶった老齢の駅員さんが切符を受け取ってくれる。おれと入れ違いに入場した学生の切符にはパンチのようなものでカチャカチャと孔を空けている。なんだか十数年前にでもタイムスリップした気分だ。
「さて、と」
駅舎を出ると見えてきたのはロータリー。
客待ちをするタクシーが何台か並んでいるものの人も車もまばらだ。
スマホによると碧さんの住所はここから徒歩で約四十分。
ナビシステムはそこまでのルートをはっきりと示してくれているのに、おれの心にはまだ迷いがあった。
行くのはいい。ここまで来るための十時間超の長旅を思えば四十分くらい大した距離じゃない。
でも……行って、会ってくれなかったらどうしよう。
会えたとしても、迷惑そうな顔をされたら。
恐怖と不安に支配されたおれは、見知らぬ世界を前に一歩も動けなかった。
(いまならまだ引き返せる)
(わざわざ傷つくこともなく、小旅行気分で帰れる)
(でもそれでいいのかな)
高速バスに揺られながら何度考えても結論が出なかった。
おれは「別れたいのか」それとも「別れたくない」のか。
気がつくとスマホは省エネモードに切り替わって画面が暗くなっていた。なにをするでもなく電源ボタンを入れて再び画面を浮かび上がらせる。
ふと『恋人アプリ』に目が留まった。
そうだ、直接会わなくても碧さんの答えを聞く方法があるじゃないか。
一年半ぶりに立ち上げたアプリはバージョンアップして見た目が若干変わっていたけど操作方法に大きな変化はないようだった。
『最寄り駅の古滝原にいます。いまから、会えませんか? 会いたいです。とても』
※
「お客さん、次の電車が上りの終電ですよ」
駅員さんに声をかけられるまで時間の経過なんかすっかり忘れていた。
時刻は午後九時をまわっている。まだ終電には早い時間帯だけど田舎なのでそういうものなのだろう。
薄暗く、静まり返った待合室の真ん中で薪ストーブが赤々と燃えてあたたかい。おれは椅子に座ってうたた寝していたらしい。
碧さんにメールを入れたのは四時ごろ。かれこれ五時間もここにいることになる。
高速バスのリクライニングシートは硬かったし脚も十分に伸ばせなかった。快適に眠れたとは言いがたい。その他もろもろの疲れが出て熟睡してしまったのだろう。
「終電が出ると待合室も閉めちゃいますからね、駅周辺には飲み屋しかないから泊まる先を見つけたほうがいいですよ。次の終電で四駅先に行けば周辺にビジネスホテルや漫画喫茶もありますけどね。ここへは観光に?」
声をかけてくれた駅員さんは箒を持って待合室内の掃除兼点検にいそしんでいる。
おれは邪魔なのだ。
「いいえ、友だちに会いに来たんですけど向こうは会いたくないみたいです」
『恋人アプリ』のメールは沈黙している。読んだのか読んでいないのかも分からない。
けれどそれこそが「答え」だと思えた。
傷つくことを恐れてメールに頼ったおれは戦わずして負けたのだ。
「ところで――お茶のほうが良かったですか?」
ふと気づくと目の前に缶コーヒーが差し出されていた。駅員さんだ。
「おごりですよ。夕飯も食べていないでしょう」
「……ありがとうございます。コーヒー好きです」
ありがたく頂戴したコーヒー缶のプルタブを開けると香ばしい匂いが鼻をくすぐった。思い出したように腹が鳴る。あっという間に飲み終えてしまった。
「邪魔してすみませんでした。次の終電は高速バスの乗車駅まで行きますか?」
荷物をまとめて立ち上がろうとすると駅員さんはゴミの分別をする手を止めずに言った。
「あぁ行きますよ、そこが終点。でもせっかく来たんだから、終電が来るまでの三十分ゆっくりしていくといい。ここはなんにもないけど夜空だけは自慢ですから」
待合室に荷物を置かせてもらって駅舎の外に出るとキンと冷えきった空気が服の隙間から入り込んできた。駅前に設置された温度計はマイナス三℃を示している。
見上げた群青の空には星々が散らばっていた。
いつだったか碧さんと見に行こうとしたプラネタリウムを思い出した。
星座について聞かれたときドヤ顔で説明しようと思って少し勉強したんだ。結局プラネタリウムを見ることは叶わないまま離れ離れになってしまったけど、こうしてリアルで見るほうがずっといい。
「あれがオリオン座、で、左上から冬の大三角形のペテルギウス、プロキオン、シリウス……」
ふと背後で足音がしたのでさっきの駅員さんだと思って興奮ぎみに声をかけた。
「ホントすごいですね、こんなにきれいに星が見えるなんて」
「……すごくきれいでしょう? この町の唯一の自慢なんだよ」
懐かしい声。
さらさらの黒髪に、華奢な肩、青白くほっそりした顔立ち。
そして。
「おひさしぶり、鴇田くん」
反射的に「大好きだ」と叫びたくなる眩しい笑顔。
そう、碧さんだ――。
※
「まだ待ってくれているとは思わなかった」
待合室に戻ったおれの隣にちょこんと座った碧さんはそう切り出した。
「突然来てごめんな」
「ううん、わたしこそごめんなさい。わたしはズルいから、敢えて待ちぼうけさせて諦めてもらおうと思っていたの。鴇田くんが傷つくのが分かっていたのに、自分が傷つきたくなくて逃げたの。ひどいよね」
「いいや、おれも同じ理由でメールにしたんだよ。莉奈から住所は聞いていたのに家に行かなかったのは面と向かって拒絶されるのが怖かったからだ。いまだって終電まで待って碧さんが来なければ帰ろうと思っていた。土産のひとつでもあれば単なる観光だったって周りも自分も誤魔化せるから」
話を聞いていた碧さんがこらえきれないように笑った。
「まったく、ふたりしてなにしてるんだろうね」
「ホントにな」
気温が下がって寒さが増していく待合室内ではパチパチを爆ぜるストーブの音だけがする。おれたちはしばらく黙りこんで炎を見つめていた。
先に口を開いたのは碧さんだ。
「いつか……ちゃんと言わなくちゃいけないと思っていたの。お別れを」
どきん、と胸が震えた。
「鴇田くんと過ごした数ヶ月は人生の中で一番楽しかったしいまでも忘れられない。だからこそ『ありがとう、さようなら』ってちゃんと言わなくちゃいけないと思っていたの」
こらえきれなくなったおれは碧さんににじり寄った。
「おれは小遣い使いきってまで別れの言葉を聞きに来たんじゃない。碧さんとの未来をもう一回この手で掴まえたくて来たんだ。きれいな別れ方をしたいんじゃない、醜くてもいいから繋がっていたかったんだ。それだけで」
「婚約しているの」
はっきりと告げられた言葉が、冷気と一緒におれの体温を奪っていく。
「いまお世話になっているお家、祖父の遠縁の果樹農家さんでね。涼介さんっていう大学生の息子さんがいるの。わたしと年も近いし、いろいろ面倒見てもらって。ここへも涼介さんの車で送ってもらって、いまもそこで待ってもらっているの」
振り向くと窓越しに駅前ロータリーが見えた。一台の車がハザードランプを点滅させて停まっている。遠目には人の姿は確認できないけど碧さんと婚約までした相手だ。おれみたいな無鉄砲じゃなくてしっかりした人だろう。
(なんだ、そうか)
急に肩の力が抜けた。
と同時に、なにもかもがどうでも良くなってきた。
『――間もなく電車が参ります。お乗りのお客様は……』
タイミングよく終電のアナウンスが入る。おれは荷物をかき集めてそそくさと立ち上がった。碧さんも慌てて腰を浮かす。
「いいよいいよ。突然来てごめん――ごめんな、最後まで」
券売機で買った切符のおつりを財布に入れるのももどかしく、乱暴にポケットに押し込んでから改札に向かった。
碧さんはまだ何か言いたそうにおれのあとをついてくるけど青ざめた唇が動くことはない。
差し出した切符にカシャン、とパンチ穴が入れられる。
おれは一度だけ碧さんを振り返った。
「じゃあ元気で。お幸せに」
「鴇田く……」
「さよなら」
まともに顔を見ることが出来なくて、ちょうどよくホームに滑り込んできた電車に文字通り駆け込んだ。
早く発車しろ、早く早く。祈るように呟いていると発車ベルが鳴った。空気圧で扉が閉まる。
改札の向こう側にいた碧さんの髪が風でふわりと舞ったのが視界に入った。
――「ぎゅってして。背骨が折れそうなくらい強く」
思い出す。プラネタリウムを見損ねたデートの最後で、碧さんを抱きしめた。おれが課金したいと言ったからだ。特急列車にさらわれないようきつく抱いてキスをした。
電車が動き出す。あっという間に見えなくなった碧さんの姿とは対照的に、いつまでも窓に映る自分の顔はひどく情けない。
人のいない車内を少しだけ歩き回って、前後が向かいあわせになっているボックス席に腰を下ろした。とてつもない徒労感に苛まれる。涙を流す気力もなかった。
消えてしまいたかった。
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