終幕後
三月、おれの隣に碧さんはいない
「……それで? 警察に逮捕されてからどうなったの」
三月。二十四節気でいうところの啓蟄。
土の中で冬の寒さを乗り越えた虫たちが春の陽気に誘われて顔を出す季節だ。
そんなことはお構いなしに風は冷たいけど、おれは無事卒業式を迎えることができた。
たいした感傷にも浸らずに三年間過ごした校舎を出たところで「話があるんだけど」と後ろから声をかけられたのだ。
場所はいつもの公園。いつものベンチ。檀上で恭しく受け取った卒業証書は筒ごとカバンの中に放り込んである。
おれの隣にいるのは不機嫌そうに腕組みした莉奈だ。碧さんはいない。
「なんで今ごろになってそんな前のことを訊くんだ?」
あの事件を起こしたのは高校二年の夏。すでに一年半の月日が経っている。
こっちを見ようとしない莉奈は一層明るく染めた髪を指先でいじっていた。
「だってほら、いろいろ聞きそびれていたからスッキリしたいのよ。来月には大学生。心も気持ちも新たにスタートしたいじゃん。もやもやするのは今日でおわり」
あぁそうか。と今更ながらに自分の至らなさに気づいた。
あの頃は警察からの呼び出しや気持ちの不安定さから学校も休みがちになって、莉奈にはきちんと説明していなかったのだ。
莉奈はずっと問いただしたかったんだと思うけど、辛抱強く今日まで待ってくれていたのだ。あの短気な莉奈が。
そうと分かると、ちゃんと説明しなくては思って喉が渇いてくる。
ごくりと唾を飲んだ。
「……うん、警察で事情聴取されてその日のうちに帰された。おれ自身は一生外に出られないって思いつめていたのに、あっさりと。もちろん両親にはこの世の終わりかと思うくらい怒られたけど、病院に運ばれたおじさんが手術で一命を取り留めたこと、碧さんが自分の顔の傷を証拠に正当防衛を主張したことを知った。結果的には示談して不起訴、前科はつかなかった」
「変なの、まるで罰されたかったみたいな言い方じゃん」
「そうかもしれない……。だから苦しいんだ」
おれの手のひらには、おじさんの頭を殴ったときと分かる傷痕はひとつもない。表面上からはきれいさっぱり消えているけど、そのかわりおれの中には言葉にできないわだかまりがこびりついている。
「謝罪を兼ねて見舞いに行ったときのおじさんの不満そうな顔を見て分かったんだ。碧さんが示談に応じるよう裏工作してくれたって。もし彼女にしていたことが警察に知られれば、関わった人間全員の立場がヤバいからな。それを取引材料にされたらいやでも応じるしかない。おれは碧さんを守ったつもりが逆に守られていたんだ」
「それ考え過ぎじゃないの? 原川さんがなにかしたんじゃなくて運が良かっただけかもよ? 晴臣が殴打した衝撃で相手が改心したのかもしれないし、より慎重になったのかも」
「そうかもしれないけど、おれのこと白い目で見てあることないこと噂していた同級生たちがすぐに鎮静化したのは明らかに誰かさんのお陰だよな? ん?」
「知ーらない」
莉奈はぷいと顔をそむけてスマホをいじりはじめる。
こいつは昔から照れ屋で、褒められると人の目を見られなくなってしまうのだ。
それと承知で、おれは言葉をつづけた。
「あの頃は示談のことや碧さんのことでテンパっていて、ちゃんと礼言えなかったよな。一年半遅れで悪いけど……あんがとな、莉奈」
「ししし知らないし、証拠もないくせに気安くお礼なんて言わなくていいし」
小奇麗にしている莉奈は外見を褒められると素直に「ありがと」と受け入れるのに、内面を褒められるとめちゃくちゃ照れるのだ。
「も、もうこの話題はいいから、次、次よ。平穏な生活を取り戻し、晴れて志望大学に合格したあんたはどうして原川さんに逢いに行かないの?」
核心を突かれて言葉を失った。
ずいぶんかかって、ようやく声をしぼりだす。
「理由なんて……うまく説明できねぇよ」
碧さんはこの街にいない。
事件後、一ヶ月くらいおれが学校を休んでいる間にひっそりと姿を消したのだ。
噂では、遠い親せき宅に引き取られていったとか。
別れの言葉を交わした記憶もない。連絡先も知らない。唯一のつながりである『恋人アプリ』は沈黙している。
「もしかして」
スマホから顔を上げた莉奈がおれをにらみつけてくる。
「もう好きじゃなくなった? 体だけじゃなく気持ちも離れちゃった? それとも他に好きな相手ができた?」
ちがう!と叫びそうになったのをこらえた。落ち着け落ち着け、と自分をなだめる。
十分に落ち着いたところで、できるだけゆっくり言葉を紡ぐ。
「ちがうよ、莉奈。おれはまだ碧さんのことが好きだし、会いたくてたまらないときもある。だけどあの頃とはちがうんだ、なにもかもが」
人を傷つけたおれを受け入れてくれた両親、同級生、先生たち、莉奈。
あのころは碧さんのことだけを考えていれば幸せだった。
だけどいまはみんなからの恩を裏切りたくない気持ちが強い。よくも悪くも視野が広くなったんだと思う。
「碧さんに会ったらさ、なんて言うかこう、頭に血がのぼってなにするか分からないって不安があるんだ。あっという間に理性がブチ切れそうで……怖いんだ」
最後に回したガチャのアクション。
「好きだと言う」
ただそれだけのことがいまは苦しくてつらい。
頭を抱えてしまうおれの傍で莉奈が嘆息したのが分かった。
「なんだかアレみたいね。ガチャの課金。欲しいレアが出るまで何千でも何万でもお金をつぎ込むんでしょう? あたしならそれだけのお金があれば、高くて手が出せない化粧品買ったり好きなところに旅行に出かけたりするけど、のめり込んでいる人たちは理性のリミッター外れるんでしょう?」
「そうさ、同じだよ。先の後悔なんかどうでもいい。今だけ、この一瞬だけなんだ。おじさんを殴ったとき、おれは、碧さんを守ることしか考えてなかった」
「ならさ」
ベンチを軋ませて立ち上がった莉奈は一枚の紙きれを差し出してきた。隅にキャラクターが書かれている小さなメモだ。莉奈とは違う字体で見知らぬ住所と電話番号が書かれている。
「コレ、原川さんの転居先」
莉奈はおれを誘うようにメモを揺らした。
「年賀はがき送るからって引っ越す前に無理やり書いてもらったんだけど送らずじまいだったからあげるわ。渋々って感じだったし、わざわざ紙に書くあたり紛失することを期待していたんじゃない? 残念だけど無くさなかったよあたし」
莉奈の部屋の汚さは知っている。
整理は苦手だからという理由でそこらへんに服やカバンを積み上げているのだ。
本人はどこになにがあるのか大体分かると言うのだが、ペンやノートなど貸したものが返ってくることはなかった。
そんな莉奈がこんな紙切れを一年半も大事にとっていたのは変だ。すごく変。
「なによその顔。原川さんの住所が書いてあることとは違う点で驚いてるでしょう」
「うん、まぁ。なんでカメラで撮っておかなかったのかと思って」
「なんて言うか……賭け? 部屋ぐちゃぐちゃなあたしが卒業までとっておけたのなら、原川さんから晴臣になんの連絡もなかったら、んで、晴臣にまだ未練があるんだったら。そんな奇跡みたいなことが三つも同時に起きたらそのときは――……って思ったの。起きちゃったけどね、奇跡。ハイあげる」
押し付けられたメモは手のひらにすっぽり収まるくらい小さい。
ところどころ皺が入っていたけど、角ばった字で丁寧に住所が綴られていた。
ここに原川さんがいるのか。
(ったく、年賀はがきのくだりはなんだったんだよ)
早速スマホを使って所要時間と経路を検索する。
新幹線を使っても半日以上かかる遠い場所で、表示された交通費は手持ちの小遣いをはるかにしのぐ。
高速バスや在来線を乗り継げば小遣い内でなんとかなるけど、余裕で日付をまたぐ。
どうしよう。
「高速バス、あと一時間で最終便が出るよ」
自分のスマホでおれと同じルートを見ていた莉奈が声を上げた。
「べつに……いますぐ行くなんて」
「往生際が悪いッ」
怒鳴り声とともに莉奈の手がおれの頬を打った。
「じゃあいつ行くの!? 明日、明後日、来月、一年後、十年後? さっきの課金の話じゃないけど、覚悟決めて「なにか」を賭ける瞬間があってもいいんじゃないの? あたしはあんたのことよぉく知ってる。だから断言する。人生を賭けた課金をするのは今だって」
「…………莉奈」
ぶたれた頬が熱くなってきた。
心のスイッチがONになったみたいに。
「莉奈、おれ」
「さっさと行きな。じゃないと無理やりキスしてSNSに画像あげてやる」
「……それは困る」
おれはカバンを掴んで走り出す。
体中が熱くて、いまなら空だって飛べそうな気がした。
あっ、と思って振り返る。
仁王立ちの莉奈が「まだなにかあるのっ」と不機嫌そうに聞いてくる。
「莉奈、色々とありがとな」
「……お礼ならさっきも聞いた」
「今回は早めにと思って」
「あっそ」
「行ってくる」
「ん」
あっち行けとばかりに手の甲をひるがえす莉奈は、口を結んで怒ったような顔をしていた。
※ ※ ※
「あーぁ、行っちゃった」
ぽつりと呟いた莉奈は指先を弾くようにスマホの画面を切り替える。
「ほんとはメールアドレスも聞き出しているんだけど、ま、いいよね。これくらい意地悪したってさ。……もう姿見えないでやんの」
晴臣は昔から足が速かった。
運動会の駆けっこはいつも一等で、クラス対抗のリレーの選手にも選ばれていた。
四年生のとき、晴臣に負けたくなくて毎日毎日走り込んでその日を迎えた。結果は五人中四番。スタート直後につまずいて転んでしまったのだ。
だけどビリじゃなかった。ビリは晴臣。転んで大泣きした莉奈を心配して戻ってきてくれたのだ。
会場内からの割れんばかり拍手の中、手を引かれて歩いていた莉奈は最後の最後、ゴールテープの前で晴臣よりちょっと前に出た。だから四等なのだ。晴臣は呆れた顔をしたけど怒らなかった。それどころか「ビリなんて初めてだ」と喜んでいた。
(そのときからあたしは晴臣を……まぁ、いっか)
莉奈は思い出したようにベンチに腰を下ろす。
さきほどまで晴臣が座っていたその場所へ。
スマホを操作して原川碧あてに一言だけメッセージを送りつける。
送信完了のボタンが出たのを確認し、そのまま相手をブロックした。
これで相手からのメールは自動で拒否されるので、どうあってもふたりで解決しなければなくなる。
「あー、いいことすると疲れるわ、くっさいセリフも吐いちゃったしさ。熱い熱い」
手団扇で顔をあおぎながら吐き出した息は白く濁って拡がっていく。
音もなく空気に溶けていくのをぼんやりと眺めていた。公園内の木々は寒さに体を縮こませているが、よく見ると蕾が膨らんでいる。
もうすぐ春だ。
「はーぁ、いま帰ると晴臣と鉢合わせしそうだから暇つぶしに昨日入れたスマホゲームのガチャでもしよっかな。全然レア当たらないんだよねー……えいやっ!――――ん? え、ちょウソ、これって確定演出じゃない……!?」
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